第8話 不眠症の魔導師様、私の声を危険物扱いする
月夜の晩餐会が令嬢たちの間で静かな広がりを見せ始めた、ある日の午後。
フォンドール伯爵家に、王宮からの使者が前触れもなくやってきた。
「君がリリアン・フォンドールか。なるほど、噂に聞く通り、規格外の令嬢だな」
客間のソファにふんぞり返るように座っていたのは、宮廷魔導師の証である深い紫のローブを羽織った青年だった。
二十代半ばほどの若さでありながら、王宮魔導院の頂点に立つ天才と名高いユリウス・ノクターン様。
しかし、その整った顔立ちはひどく不健康に青白く、目の下にはくっきりと濃い隈が刻まれている。まるで、何日も太陽の光を浴びていない亡霊のような姿だった。
「初めまして、ユリウス様。本日はどのようなご用件でしょうか」
「決まっている。君のその『声』の調査だ」
ユリウス様は手元の書類から顔を上げ、冷ややかな、それでいて神経質な眼差しで私を上から下まで値踏みした。
「人の感情に作用し、本音を引き出す声。それが事実ならば、君は社交界における歩く毒薬だ。いや、国家の治安を脅かす危険物と言ってもいい」
「……危険物、ですか」
「そうだ。魔力を介さずに人の精神に干渉する力など、未曾有の事態だ。私が直々にその波長を解析し、危険性が高いと判断すれば、君の声は王室の権限をもって永久に封印させてもらう」
あまりにも一方的で、冷酷な宣告だった。
私自身が体型を笑われることには、もう慣れている。
しかし、傷ついた令嬢たちを慰め、厨房で泣いていたマリーに安らぎを与えてきた私の歌声を「毒薬」「危険物」と断じられたことに、胸の奥でかつてないほどの静かな怒りが込み上げてきた。
「私の声は、人を操るための魔法ではありません。誰かを傷つけるような使い方は、決して……」
「犯罪者は皆、そう言うんだよ」
ユリウス様は私の言葉を冷たく遮り、苛立たしげに自身のこめかみを指でトントンと叩いた。
「いいから、さっさと歌え。君の個人的な感情や言い分に興味はない。私は事実と測定結果だけを求めているんだ。ほら、私の目を見て、一番得意な歌とやらを披露してみろ」
彼は懐から、魔力測定用の小さな水晶を取り出してテーブルに置いた。
完全に、私を実験動物か何かとしか思っていない態度だ。
私はきつく唇を噛み締め、彼を睨み返した。
……けれど。
(……この方、限界だわ)
怒りを感じる一方で、私の目は、彼の隠しきれない異変を確かに捉えていた。
傲慢な態度とは裏腹に、こめかみを叩く指先は微かに震えている。瞳の奥には、焦燥感と、何かに対する強い恐怖が渦巻いていた。
何より、彼の身体からは、極限まで張り詰めた神経と、絶望的なまでの「睡眠への渇望」が伝わってくるのだ。
彼は眠りたくても眠れない、深刻な不眠症に陥っている。
「……何を呆けている。早く歌えと言っているだろう」
「お断りします」
「なんだと?」
「私の歌は、誰かを慰めたい、救いたいと願った時にしか意味を持ちません。実験の記録を取るために歌うつもりは、一切ありません」
私がはっきりと告げると、ユリウス様は不快げに眉をひそめ、立ち上がろうとした。
「ならば、王命に背く危険分子として、今すぐ連行するまで……」
「その前に」
私は彼を制止し、客間の隅にある呼び鈴を鳴らした。
「ずいぶんと疲労が溜まっておいでに見えます。連行されるにしても、せめて一杯の香草茶を召し上がってからになさってはいかがですか?」
「……は?」
彼は完全に虚を突かれた顔をした。
ほどなくしてメイドが運んできたのは、カモミールと少量のラベンダーをブレンドした、精神を深く鎮める効果のある温かい香草茶だ。
「毒など入っていませんよ。ただのハーブティーです。神経を落ち着かせる効果がありますから、どうか一口だけでも」
私がカップを差し出すと、ユリウス様は訝しげに私を睨みつけながらも、渋々といった様子でそれを受け取った。
彼自身の限界が、温かい飲み物を欲していたのだろう。
彼が香草茶に口をつけ、ふう、と小さく息を吐いたのを見計らい。
私は、静かに目を伏せ、唇を開いた。
紡ぎ出したのは、先日厨房でマリーを寝かしつけた時に歌った、小さく優しい子守唄。
「な……貴様、今になって……ッ」
突然歌い始めた私に、ユリウス様は抗議の声を上げようとした。
しかし、私の『天響の声』が空気を震わせた瞬間、彼の手から力が抜け、カタリとティーカップがソーサーの上に置かれた。
私の声は、魔力で無理やり意識を刈り取るようなものではない。
ただ、彼が心の奥底に押し殺していた、ずっと欲していた「安らぎ」を思い出させるだけ。
ユリウス様の青白い顔から、次第に険しい怒りが消えていく。
彼は必死に目を開けて私の声を解析しようとあらがっていたが、やがてその限界を迎えた身体は、抗うことのできない深い眠りへと引きずり込まれていった。
コトリ、と音がして、ユリウス様の頭がソファの背もたれに倒れ込む。
静かな寝息が、客間に響き始めた。
「……おやすみなさいませ、魔導師様」
私は彼が風邪を引かないよう、傍らにあった薄手のブランケットをそっと掛けた。
――それから、ほんの数十分ほどが過ぎた頃。
「……ッ!!」
ユリウス様は、弾かれたように身を起こした。
彼は信じられないというように周囲を見回し、自分の胸に手を当て、それから私を凝視した。
短い時間。しかし、それは何ヶ月ぶりとも知れない、深い眠りだったのだろう。
彼の目からは、先ほどの殺気立ったような焦燥感は消え失せていた。
だが、彼は天才魔導師だ。
自分が無防備に眠りに落ちてしまった事実を瞬時に理解すると、バツが悪そうに唇を噛み、乱れたローブをバサリと整えて立ち上がった。
「……ユリウス様? もう少しお休みになられては……」
「不要だ」
彼は冷たく言い放ち、テーブルの上の水晶を乱暴に懐にねじ込んだ。
そして、客間から出ていく直前、肩越しに私を鋭く睨みつけ、忌々しげに吐き捨てた。
「危険だ。だからこそ管理が必要だ」




