第6話 月夜の晩餐会へようこそ
フォンドール伯爵家の敷地の奥に、古いガラス張りの温室がある。
かつて祖父が南国の植物を育てるために建てたものだが、今は私が手入れをし、季節の花々とハーブが静かに息づく場所になっていた。
夜の帳が下りる頃、私は温室の中に小さなテーブルをいくつか配置し、晩餐会の準備を整えていた。
王宮の夜会のように、目を刺すような眩いシャンデリアはない。
代わりに、蜜蝋のキャンドルと、月明かりを淡く反射する磨かれたガラスのランタンを要所に置き、柔らかな陰影を作った。
「リリアン様」
温室の入り口に、マリアベル様が立っていた。
数日前の青白さは抜け、ふんわりとした桜色のドレスが、少しだけ健康を取り戻した彼女の頬によく似合っている。
そして彼女の後ろには、不安げに視線を彷徨わせる二人の令嬢の姿があった。
マリアベル様が「どうしても連れてきたい友人たちがいる」と事前に知らせてくれていた招待客だ。
「ようこそ、月夜の晩餐会へ。お待ちしておりましたわ」
私が微笑みかけると、マリアベル様は安堵したように息を吐き、後ろの二人を振り返った。
一人は、アイリス・ローウェル様。
夜の私的な集まりであるにも関わらず、素顔を完全に覆い隠すほどの不自然に分厚い化粧をしている。白粉の下から、ごく僅かにそばかすが透けて見えた。彼女は人の視線を極端に恐れるように、扇で顔の下半分を隠してうつむいている。
もう一人は、カミラ・ブランシェ様。
女性としては背が高く、しっかりとした肩幅を持っている。しかし、彼女はその立派な体格を「女らしくない」と恥じているのか、背中を丸め、なるべく自分の身体を小さく見せようと窮屈そうに腕を縮こまらせていた。
二人からは、社交界という選別の場で、自分の容姿を否定され続けてきた痛いほどの緊張と自己否定が伝わってくる。
「……あの、私のような者が、このような美しい場所に伺ってよかったのでしょうか……」
アイリス様が、消え入るような声で呟く。
私はゆっくりと首を振った。
「もちろんです。ここでは、誰もあなたを評価しませんから」
私はまず、アイリス様を温室の奥にある、背の高い観葉植物に守られた端の席へ案内した。
キャンドルの灯りが直接当たらない、少し薄暗いその席なら、彼女が自分の厚化粧を気にして緊張する必要はない。席に着いた途端、彼女の強張っていた肩が少しだけ下がるのが分かった。
次に、カミラ様には、周囲に障害物のない、ゆったりとしたソファ席を用意した。
隣の人と肩がぶつかることを気にせず、長い脚を持て余すこともない広い席。私がクッションの位置を整えて座るように促すと、彼女は驚いたように目を瞬かせ、やがておずおずと、けれど深くソファに腰を下ろした。
席の配置を終えると、私は温かな料理を運ばせた。
社交界の晩餐会のような、一口で食べ終えなければならない窮屈な前菜や、コルセットを締め上げたお腹では到底受け付けない脂っこい肉料理ではない。
鶏肉と根菜を柔らかく煮込んだポトフ、焼きたてのふかふかしたパン、そして甘酸っぱい果実のコンポート。
「ここでは、食べる量を気にして笑う人はいません。残しても構いませんし、おかわりも自由です。……無理に会話をする必要もありません。話したくない時は、ただ月の見える窓辺の椅子に座っていてください」
私の言葉に、令嬢たちは信じられないものを見るような顔をした。
体型で席を分けられないこと。たくさん食べてもいいこと。感情を隠して愛想笑いを浮かべる必要がないこと。
それは、彼女たちがずっと欲していた「許し」だった。
初めは戸惑っていた彼女たちも、マリアベル様が美味しそうにパンをスープに浸して食べる姿を見て、少しずつ料理に手を伸ばし始めた。
温室の中には、スープをすする微かな音と、時折交わされる穏やかな声、そして夜風に揺れる葉の音だけが満ちている。
アイリス様は途中で少しだけ扇を下げ、カミラ様は丸めていた背筋を伸ばして、ゆっくりと食事を味わっていた。
やがて、皆が食後のハーブティーを飲み終え、完全に心が解けた頃合いを見計らい、私は静かに立ち上がった。
「最後に、一曲だけ歌わせてください」
私は温室の中央へと歩み出た。
「もし、歌を聞きたくない、あるいは一人で静かに帰りたいという方がいらっしゃれば、遠慮なくこのまま退席していただいて構いません。それも、この晩餐会の決まりですから」
誰も立ち上がる者はいなかった。
皆、月明かりの下に立つ私を、静かな瞳で見つめている。
私はそっと目を閉じ、彼女たちの中にある痛みが、少しでも癒えるようにと祈りを込めて唇を開いた。
――世界で一番美しいとされる、天響の声。
私の歌声が夜気を震わせ、ガラスの壁を反響して温室全体を優しく包み込む。
聞いた者を洗脳するわけでも、恋愛感情を抱かせるわけでもない。ただ、心の奥底に押し込めていた「本当の気持ち」の扉を、静かに叩くだけの歌。
歌い始めてしばらくすると、静寂の中で微かな啜り泣きが聞こえ始めた。
目を開けると、アイリス様が両手で顔を覆い、ポロポロと涙を流していた。化粧が崩れることすら忘れて、声を上げて泣いている。
カミラ様も、大きな両手で顔を覆い、肩を震わせていた。マリアベル様は、祈るように両手を組み、静かに涙を流している。
素顔を見せたかった。堂々と背筋を伸ばして歩きたかった。
誰かに選ばれるためではなく、ただ、自分自身を認めてほしかった。
歌い終えた私に、彼女たちは泣き顔のまま、立ち上がって懸命に拍手を送ってくれた。
その拍手は、私への賞賛であると同時に、彼女たち自身が自分を取り戻した証でもあった。
この夜の出来事は、参加した令嬢たちの間で「誰も自分を削らなくていい場所」として、ひそやかな、しかし熱狂的な噂となって広がっていく。
そして数日後には、マリアベル様たちを通じて、新たな参加を希望する令嬢たちの切実な手紙が、私の元へと次々に届き始めるのだった。




