第10話 氷の王弟殿下、月夜の晩餐会を後援する
それは、月夜の晩餐会をその日の夜に控えた、午後のことだった。
「お嬢様、申し訳ございません。本日届くはずだった新鮮な肉と野菜の納入が、突然取り消されてしまいまして……」
厨房に降りた私に、料理長がひどく困惑した顔で報告してきた。
理由を問いただすと、長年フォンドール伯爵家に出入りしていた商会が、「これ以上お宅と取引を続けると、我が商会が社交界から締め出されてしまう」と泣きついてきたのだという。
「……商会への圧力。それに加えて、この手紙ですね」
私は手元にある数通の手紙を見つめ、静かに息を吐いた。
アイリス様やカミラ様、そして晩餐会への参加を希望してくれていた令嬢たちから、立て続けに届いた欠席の詫び状。
そのどれもが、震えるような文字で書かれていた。聞けば、彼女たちの実家にも「フォンドール家の令嬢と関われば、一族の不利益になる」という露骨な脅しが届いたのだという。
(……ヴィクトリア夫人。ついに、直接的に動かれたのね)
エドガー様とヴィクトリア夫人は、私が自分の足で立ち、居場所を作り始めていることが許せないのだ。
私一人が嘲笑われるだけなら、いくらでも耐えられる。しかし、私に関わったというだけで、商会や令嬢たちの家族にまで累が及ぶとなれば話は別だ。
彼らは私の最も弱い部分を、正確に突いてきた。
「お嬢様、本日の晩餐会は中止になさいますか……?」
「……いいえ」
私は顔を上げ、心配そうに見つめる厨房の者たちに微笑みかけた。
「早くから手伝いに来てくださっているマリアベル様が、温室でお待ちです。貯蔵庫にある干し肉と根菜、それに少しの小麦粉があれば、温かいシチューとパンは作れますよね。……あるものだけで、予定通り開催しましょう」
ここで私が屈して晩餐会を閉ざしてしまえば、彼女たちが自分を削らずに息ができる「安全な場所」は、完全にこの世界から消え去ってしまう。
それだけは、絶対に阻止しなければならなかった。
夜になり、私はマリアベル様と二人きりで、薄暗い温室のテーブルに向かい合って座っていた。
いつもなら、緊張を解いた令嬢たちの穏やかな笑い声が響く場所。今日は、風に揺れる葉の音だけがひどく寂しく聞こえる。
「リリアン様。……本当に、ごめんなさい。私の力が足りないばかりに」
「謝らないでください、マリアベル様。あなたが来てくださっただけで、私は十分嬉しいのですよ」
質素なシチューを掬う彼女の顔は暗い。
自分が誰かを巻き込んでしまっているという罪悪感が、私の胸を冷たく締め付けていた。
――その時、温室の扉が静かに開いた。
「ずいぶんと、静かな晩餐会だな」
そこに立っていたのは、漆黒の軍服を纏ったクラウス殿下と、その後ろに控える大柄な騎士団長、レオン様だった。
クラウス殿下は、空席だらけのテーブルと、並べられた質素な料理を鋭い青い瞳で見渡し、やがて真っ直ぐに私へと視線を向けた。
「殿下、レオン様。……申し訳ありません。本日は都合により、少しばかり寂しい食卓となっておりまして……」
私が平静を装って立ち上がると、クラウス殿下は小さく、しかし重い溜め息をついた。
「君は、本当に自分を誤魔化すのが下手だな」
「え……?」
「王都の商人たちの間で、ラザフォード侯爵家が圧力をかけているという噂が回っている。招待客への脅迫状の件も、すでにレオンが裏付けを取った」
背後のレオン様が、無言のまま深く頷く。
すべて、見透かされていた。私が自分一人で悪意を抱え込み、晩餐会を守ろうとしていたことも。
「……申し訳ありません。私の不徳のせいで、殿下や皆様にまでご迷惑をおかけするわけにはいかないと……」
私が頭を下げようとした瞬間。
クラウス殿下は大きな歩幅で距離を詰め、私の目の前に立った。
「迷惑だと? 君はまだ、自分がどれほど価値のある場を作ったのか理解していないようだな」
彼の声には、私を責める響きは微塵もなかった。
代わりにそこにあったのは、力を持たぬ者を理不尽に踏みにじろうとする者たちへの、氷のように冷たく、激しい怒りだった。
「傷ついた者たちが、ようやく見つけた息継ぎの場所だ。それを、己のちっぽけな体裁を守るためだけに潰そうとする卑劣な真似を、私が見過ごすとでも思ったか」
クラウス殿下は振り返り、レオン様に向かって短く命じた。
「レオン。持ってきているな」
「はっ」
レオン様が恭しく懐から取り出したのは、重厚な銀で作られた、一つの美しい金属板だった。
月明かりを反射して煌めくそれは――王家の一員である氷の王弟を示す、正式な紋章だった。
「で、殿下……? それは……」
「今日この瞬間をもって、この『月夜の晩餐会』を、私、クラウス・レオンハルトの正式な後援事業とする」
クラウス殿下の力強い宣言が、静まり返った温室に響き渡った。
「この晩餐会を笑う者は、私の客人を笑う者と見なす。……君の客人への脅しは、王家への侮辱として私が対処しよう」
それは、社交界における完全な「庇護」の証明だった。
王弟殿下の後援がつけば、いかにラザフォード侯爵家であろうと、これ以上の手出しは不可能になる。商会も、令嬢たちの家族も、もう怯える必要はなくなるのだ。
「殿下……」
自分一人で耐えようと張り詰めていた糸が、ふつりと解けるのを感じた。
視界が滲む私を、クラウス殿下は不器用な手つきで、しかし確かな優しさを持って見つめ返してくれた。
その夜。
温室の入り口には、いかなる悪意をも退ける絶対的な盾として、王弟殿下の紋章が静かに、そして誇り高く掲げられたのだった。




