第10話 境界のある日常へ
第一幕 2015年秋――職業になった後
公的買取窓口の朝は入口管理施設の開門より少し早い。
宮原理恵は端末を立ち上げ、前日から引き継がれた容器番号を確認した。保管庫へ移されたものが十一件。追加検査に回ったものが三件。申告内容と重量が一致せず確認待ちになっているものが一件。
窓口の向こうでは登録探索者たちが装備を整えていた。
金属製の留め具を確かめる者、回収容器の封印番号を読み上げる者、仲間の探索者証と入場予定区画を照合する者。
テレビで繰り返し映されるのはモンスターを倒した瞬間や、能力を得たとされる探索者の姿だった。だが施設で一日の大半を占めるのはこうした地味な確認だった。
午前九時を過ぎた頃三人組の探索者が戻ってきた。
先頭の男は泥のついた回収箱を台車に載せていた。誰も負傷していない。装備にも目立った損傷はなかった。
宮原は探索者証を受け取り入場記録と照合した。
「回収地点は第二許可区画、東側の採取線で間違いありませんか」
「はい。標識の十七番から十八番の間です」
「容器は三点。現地で封印し、その後は開封していませんね」
「していません」
三人のうち最も若い女が少し緊張した声で答えた。登録から二か月。窓口の記録にはそう表示されている。
宮原は容器番号を一つずつ読み上げた。探索者側の記録と一致する。外表面の検査を終えた箱は専用の受け渡し口から管理区域へ送られた。
回収品は申告と危険性・採取条件の確認を終えて初めて探索者の所有物として扱われる。公的買取を選べばその後の保管や販売先を探す必要はなく、受取額には所定の分離課税が適用される。
「今回も公的買取で」
男が言った。
「民間へ持ち込んだ方が高いって話もありますけどね」
若い女が冗談めかして続ける。
「高く売れるかもしれない、だろ。検査も輸送も契約も、自分でやるならな」
三人目の男が笑った。
制度が始まって半年あまり。民間の分析会社や素材企業は登録探索者との直接契約を模索していた。固定報酬で雇用する会社もあれば回収物ごとに買い取る会社もある。探索者側も安定を選ぶ者と価格の上振れを求める者に分かれ始めていた。
だが契約書のひな型さえ定まっていない会社も多い。
負傷した日の報酬はどうするのか。
回収物が危険物に指定された場合検査費用を誰が負担するのか。
委託された仕事と探索者自身の判断で行った活動をどこで分けるのか。
新しい職業が生まれれば新しい揉め事も生まれる。
宮原は三人へ受付票を返した。
「検査結果は早くても明日です。追加確認が必要な場合は登録された連絡先へお知らせします」
「分かりました」
彼らは疲れていた。けれど落胆しているようには見えなかった。
今日、討伐した小型モンスターは二体。回収できたのは石に似た塊が三つ。能力を得た者はいない。
報道にはならない。
それでも入場し、記録し、決められた範囲を調べ、持ち帰ってきた。
そうした日が積み重ならなければ職業にはならない。
昼前窓口へ一人の男が来た。探索者本人ではなく、企業の人事担当者だった。登録探索者を雇用する場合の手続や契約上の注意について相談したいという。
「能力を持っている人を優先して紹介してもらうことはできますか」
男は周囲を気にしながら尋ねた。
「窓口から特定の方を紹介することはできません。能力取得状況も本人の同意なしにお伝えできる情報ではありません」
「そうですか。世間では探索者なら何かしら持っていると思われていまして」
宮原は待合室にいる探索者たちへ目を向けた。
能力を持つ者はいる。
だが大多数は持っていない。持っていたとしても仕事のたびに役立つとは限らない。
必要なのは帰還時刻を守り、記録を残し、危険を感じたときには成果を捨ててでも戻ることだった。
「本人の同意を得たうえで登録者の経歴や講習記録を確認できる制度はあります。まずどのような業務を任せるのかを決めてください」
男は少し考え資料を受け取った。
「雇用契約にすれば会社の指示でどこへでも入ってもらえるわけではないんですね」
「入場できるのは本人の登録区分と施設側の許可範囲です。会社との契約だけで広げることはできません」
「回収したものは会社の所有になりますか」
「契約だけでは決まりません。まず帰還時の申告と検査が必要です。所有権が確定した後誰へ帰属させるかを契約で定めてください」
男は持参した契約書へ目を落とした。
探索者という言葉だけが先に広まり、会社側の理解が追いついていない。危険な場所へ入る社員なのか。資格を持つ請負人なのか。回収物を売る個人事業者なのか。
答えは一つではなかった。
宮原は雇用と請負の違いを説明した資料を追加した。
「御社が指示する業務と本人が資格者として行う活動を分けてください。曖昧なままですと、事故や回収物を巡って責任の所在が分からなくなります」
「まず社内で仕事の範囲を決めます」
男は今度こそ資料を鞄へしまった。
午後朝の三人組の一人が窓口へ戻ってきた。置き忘れた手袋を探しに来たらしい。
英雄には似合わない忘れ物だった。
宮原は保管箱から名前の書かれた手袋を取り出し本人確認をして返した。
世界が変わってからまもなく四年。
境界を越える者には証明書が与えられた。
その仕事を受け入れる側はようやく書類の書き方を覚え始めていた。
第二幕 2016年――危険が境界を越える
映像は途中で何度も止まった。
建物の陰から撮影されたらしい。画面の中央には黒い門とその周囲を取り囲む低い壁が見えた。
次の瞬間映像が激しく揺れた。
壁の向こうから白く濁った空気をかき分けるように獣のようなものが飛び出した。警備要員が後退し、人々が走る。地面近くには薄い霧のようなものが流れ、撮影者の咳き込む音が入っていた。
そこで映像は途切れた。
「これが本物だと」
大庭重信は説明に来た職員へ尋ねた。
「映像だけで判断しているわけではありません」
国の担当者は慎重に答えた。
「発生国は情報を制限しています。ただ周辺国が観測した情報、避難した人たちの証言、国外へ出た複数の映像がおおむね一致しています。IDMOを通じて共有された内容でも、モンスターと瘴気が入口の外へ流出した可能性が高いとされています」
「可能性が高い」
「被害そのものは確認されています」
ダンジョン内のモンスターが群れとなって入口外へあふれ出す現象。
公的に認められた最初の大規模スタンピードだった。
その言葉は会議室に置かれた資料の表紙にだけ書かれていた。
国名は伏せられている。死傷者数にも幅があった。何が起きてどう収束したのか発生国から十分な説明はない。
それでも入口の内側にいたはずのものが外へ出た。
その一点だけでこれまでの前提は崩れた。
大庭の土地に黒い門が現れたのは五年前だった。
父から引き継いだ小さな倉庫とその周囲の土地。駅からは遠いが資材置場として貸せば毎月の収入になった。息子へ残せる、数少ない財産でもあった。
発生直後国は土地の使用を制限した。
警備柵が設置され、倉庫へ続く道の半分が管理区域になった。補償の話は出たが評価の基準も使用期間も将来の扱いも曖昧だった。
大庭は売却を断った。
国に安く取り上げられるのではないか。
内部から価値のある資源が見つかったとき土地を手放した者だけが何も得られないのではないか。
そう考えたのは彼だけではなかった。
資源の利益を独占したかったわけではない。家族の生活を守れるだけの正当な補償が欲しかった。将来価値の分からない土地を言われた額で手放すことが正しいとも思えなかった。
五年が過ぎた。
倉庫は使えない。
新しい借り手は見つからない。
土地を担保にした融資は断られた。入口があることを知った買い手は価格を聞く前に帰った。
内部で回収された資源の権利は入口の土地所有権には付随しない。それは制度として決まっていた。大庭が所有者であるというだけでスタンピードの被害へ無制限の責任を負うわけでもない。
それでも周囲の目は変わった。
近隣住民からは防壁を高くできないのかと聞かれた。
自治体からは避難経路のために残りの土地も使わせてほしいと言われた。
保険会社は倉庫部分の契約条件を見直した。
住民説明会ではもっと直接的な言葉が飛んだ。
「あの入口からも、外へ出てくるんですか」
「現時点でその兆候は確認されていません」
「確認されてから避難路を作るんですか」
「いいえ。その前に整備します」
国の担当者は海外の事例と国内施設の違いを説明した。入口の規模、周辺設備、内部の活動状況。分かっている点と分かっていない点を分けた。
不安は消えなかった。
完全な安全を約束できる者はいない。
だからこそ警報が出た場合の集合場所と車を使わない避難経路が決められた。学校の体育館には測定器と防護用品が置かれ、年に一度だった訓練は回数を増やすことになった。
説明会の後近所の女性が大庭へ声をかけた。
「大庭さんが悪いわけじゃないのは分かってるんです」
謝るような言い方だった。
「でも孫がいるから」
「分かっています」
大庭はそれしか答えられなかった。
所有者であることと危険を生み出したことは同じではない。
それでも土地の上に入口があるという事実は彼の生活から切り離せなかった。
「国は入口周辺を長期的に管理する方針です」
担当者が新しい買収案を机の上へ置いた。
土地だけではない。営業上の損失、移転に必要な費用、残された設備の扱いも以前より細かく分けて記載されていた。
「所有者の方にすべての負担を負わせるつもりはありません。ただ防壁、退避路、警備設備を一体として整備するには長期使用か取得が必要です」
大庭は書類をめくった。
五年前ならもっと高く買えと言ったかもしれない。
今も提示された条件に不満がないわけではない。土地には金額だけでは測れない時間が積み重なっている。
「あの頃は国に土地を取られると思っていた」
大庭は映像の止まった画面を見た。
「今は国に持ってもらわなければ困る」
担当者は何も言わず頭を下げた。
その年各国で入口防衛の基準が見直された。
壁の高さ、警備要員の配置、周辺住民の避難経路、瘴気を想定した測定設備、土地の取得と長期使用。
入口を封鎖し人を近づけなければ危険は向こう側に留まる。
人類はその前提を捨てた。
第三幕 2017年~2018年――資源と消滅事例
佐伯美冬が最初に白環石を見たとき、それは価値のない欠片に見えた。
灰白色の鉱石。
掌に収まるほどの大きさで表面には淡い金色の線が輪のように走っている。
探索者が触れた際に認識した名称は白環石。
研究所でも、そのまま「はくかんせき」と呼ばれるようになった。
「名称だけ分かって、使い方は分からない」
分析室で誰かが言った。
「いつものことね」
佐伯は答えた。
ダンジョンから持ち帰られる物質は名前が分かっても性質までは教えてくれない。
白環石も同じだった。
原石のまま調べてもすぐに用途へ結びつく性質は見つからなかった。最初の評価表には用途不明と記載された。
それでも表面を走る金色の環は調査を打ち切るには目立ちすぎる特徴だった。
佐伯たちは試料を細かく分けた。
採取地点、環状模様の密度、色、硬さ、不純物の割合。
同じ白環石でも、性質は一定ではなかった。産出するダンジョンは限られ、同じ内部でも採取地点によって品質が違う。入荷する量は少なく、次の試料がいつ届くかも探索の結果に左右された。
失敗すれば同じ条件をすぐには再現できない。
「三番をもう一度使いたい」
共同研究先の技術者が言った。
「残りは二十七グラムです」
「足ります」
「次の入荷は未定です」
「それでも確かめる価値がある」
試したのは医薬品原料を作る工程で使われる反応だった。
従来は高い温度と圧力を必要とする。高価な補助原料を使い、反応後には多くの廃棄物が出る。白環石そのものが薬になるわけではない。だが精製した成分を触媒材料へ組み込むと、反応は従来より低い温度と圧力で進んだ。
最初の結果を佐伯は信じなかった。
測定器の校正を確認し、試薬の取り違えを疑い、条件と担当者を変えて別の装置でも試した。
結果は完全には一致しなかった。品質の低い白環石では効果が落ちた。精製の順序を一つ変えるだけで触媒として働かなくなることもあった。
万能ではなく、すべての反応に使えるわけでもない。
それでも条件が合えば、製造に必要なエネルギーを減らし、高価な原料の使用量と廃棄物を抑え、工程時間を短縮できる。
研究所の一室で始まった試験は企業の小規模製造設備へ移った。
小規模設備で得られた結果は量産を想定した試験へ進んだ。
安全性と品質の確認を重ね、最初の製造工程へ導入された。
導入初日の製造室では誰も成功を前提にしていなかった。
白環石を含む触媒は識別番号だけが付いた密閉容器で運び込まれた。投入量は研究設備より大きい。それでも通常の生産と比べれば小さな試験だった。
「温度、上昇停止」
「圧力、規定内です」
「反応速度を確認。急がないで」
佐伯は画面の数値を追った。
研究室で成立した反応が製造設備でも同じように進むとは限らない。装置の材質、攪拌のむら、原料のわずかな差が結果を変える。
最初の試験では目標の収率に届かなかった。
白環石の品質を疑う声が出た。
佐伯は原料の投入時刻と温度記録を並べた。研究設備より温度が均一になるまでに時間がかかっている。
「触媒ではなく、投入の順序かもしれません」
工程を変えた二度目の試験で廃棄物は減った。
三度目で必要な品質に届いた。
成功という言葉が使われたのは同じ結果を別の日にも再現できてからだった。
翌年佐伯は薬局の棚に並ぶ箱を見た。
箱の表には白環石の文字はない。
その製造に必要なエネルギーと原料が以前より減っていることを知る人もほとんどいない。
それでよかった。
資源が社会へ届くとは珍しい鉱石が展示されることではない。知らない誰かが必要とするものを以前より少ない資源とエネルギーで作れることだった。
ただし供給は安定しなかった。
必要な品質の白環石が一度に集まらず製造計画が止まることもある。精製工程の再現は難しく、扱える施設も限られていた。
ダンジョン資源は石油や鉄鉱石のように埋蔵量を調べ、長期計画を立てれば済む資源ではない。
入口の向こうへ人が入り、帰ってくることで初めて供給される。
その不安定さまで含めて、新しい産業だった。
2018年、研究所の会議室で佐伯は別の映像を見た。
海外の管理施設で撮影されたものだった。
警報音の中、ダンジョンから探索者たちが次々と排出される。走って出てきたのではない。内部にいた者が装備や携行品ごと、門の前へ突然押し出されたように現れていた。
映像の後半で黒い門の輪郭が薄れた。
石でも金属でもない門状構造物は崩れることも倒れることもなく、空間から抜け落ちるように消えた。
境界だけが閉じたのではない。
入口が塞がったのでもない。
門そのものがなくなった。
後に共有された記録では異変は内部の奥側から始まった可能性が指摘された。
内部空間は奥から順に失われたとみられ、消滅領域に追いつかれた人間は装備と携行品ごと、残っている入口側の領域へ移されていた。消滅がさらに進むと、もう一度、入口側へ押し出されたという。
最後には内部に残っていた全員が外へ排出された。
置き去りにされた採取物や固定設備、大型機材は戻らなかった。
排出された探索者の証言はひどく断片的だった。
後方で空気が抜けるような感覚がしたという者。
振り返る前に入口近くへ移されていたという者。
同じ班の仲間が一度は別の位置へ移され、最後に揃って外へ出たと話す者。
移動した距離も、感じ方も一致しない。
ただ、重大な身体損傷を負った者は確認されなかった。人間だけではなく、身につけていた防具、背負っていた荷物、手に持っていた回収容器も一緒に出てきた。
床に固定していた観測装置は戻らなかった。
その違いが偶然なのか、明確な法則なのか。検証できる同じ現象はまだ一度しかない。
門が消える前に外へ持ち出されていた資源や試料はそのまま残った。
ボス撃破後の一時的な活動停止とは違う。
ダンジョンの門は消え、その後も再び現れていない。
何が消滅を引き起こしたのかは分からなかった。
当時内部には多数の探索者がいた。入退場記録から関係者の範囲は絞られたが奥で何が起きたのかを示す映像も、決定的な目撃証言もない。
消滅に関与したと確認された者はおらず候補者の誰からも決定的な証言は得られなかった。
佐伯たち研究者が最初に考えたのは成果ではなく、失われた試料だった。
「内部に残していた基準試料は」
「全部、消えました」
「予備は」
「外部保管分があります」
佐伯は息を吐いた。
回収済みのものは残る。
その事実は門の消滅後も研究を続けるための、唯一の足場になった。
原因不明の消滅事例は世界へ新しい事実を突きつけた。
同時に何を先に外へ持ち出しておくべきかという、新しい問いも残した。
第四幕 2019年~2021年――資源を巡る利益と対立
西尾慎一の机には同じ白環石について書かれた三種類の資料が並んでいた。
一つは精製企業の技術資料。
一つは輸入国の安全審査機関から届いた照会。
もう一つは国際規格化に反対する意見書だった。
使われている言葉は違う。
問われていることは同じだった。
誰がこの資源と技術を支配するのか。
「安全性への懸念を否定するだけでは審査は通りません」
西尾は会議で言った。
「分かっています。しかし要求されているデータには精製条件そのものが含まれている」
企業の技術責任者が答える。
「全部を出せば、特許を守っても工程は再現されます」
白環石を産出する国は少ない。
安定した品質で精製できる国と企業はさらに少ない。
資源を持つ国は原石の価値を主張した。
加工技術を持つ国は安全性と品質を保証する技術の価値を主張した。
どちらも持たない国は医薬品原料の供給を他国へ依存する危険を訴えた。
それぞれに理由がある。
資源国にとって、未加工のまま安く買われることは受け入れ難い。
加工国にとって、長年の研究成果を無償で開示することはできない。
輸入国にとって、供給国だけが安全性を保証する仕組みは不十分だった。
既存の触媒を製造する企業にも、雇用と設備投資がある。白環石へ切り替えれば社会全体の効率が上がるとしても昨日までの工場と人員が今日から不要になるわけではない。
国際会議では測定項目と記録方式の統一が議題になった。
白環石の純度、環状模様の密度、触媒へ加工した後の性能、有害な副生成物、製造履歴、産地をどこまで表示するか。
比較できる数字がなければ市場は成立しない。
だが測り方を決めることは価値の決め方を握ることでもあった。
ある国はより厳しい安全基準を求めた。
別の国はその基準が参入を妨げる壁になると反発した。
資源保有国は未加工資源の輸出枠拡大と、現地での技術移転を求めた。
加工企業は品質を保証できない原石が正規品として流通することを警戒した。
会議の外でも、競争は続いた。
精製特許の無効を求める訴訟、研究者への高額な移籍提案、出所の分からない原石の摘発、安全性への疑問を強調する報道、そして精製企業の研究網を狙った不正アクセス。
攻撃元を特定の国へ結びつける証拠はなかった。
民間の競合企業か、仲介業者か、国家の支援を受けた組織かもしれない。
分からないままでも、守る必要があった。
「非公開にする範囲と、比較のために共有する範囲を分けましょう」
西尾は提案した。
「精製条件は出さない。製品の性能と安全性を共通手順で検証できるようにする。原石については産地ごとの品質差を隠さない」
「資源国が受け入れますか」
「加工国だけで決めれば受け入れません。試験機関を複数国に置く必要があります」
「技術流出の危険は残る」
「残ります。供給を一国へ依存する危険も、資源国を市場から締め出す危険も残る。全部を消せる案はありません」
誰も満足する解決ではなかった。
それでも合意できる測定項目から決めた。
国際規格は技術を巡る争いを終わらせなかった。
争いを比較と交渉の形へ押し込めただけだった。
合意の発表を終えた夜、西尾は企業側の責任者とホテルの廊下で顔を合わせた。
「これで輸出は再開できますか」
「審査が終われば。ただ、供給量は要求の半分にも届きません」
「資源国からは加工拠点を現地へ移せと言われています」
「一部は必要でしょう」
「技術を渡すことになります」
「渡さなければ原石を出さないと言われるかもしれない」
責任者は疲れた顔で笑った。
「技術を守れ。供給も止めるな。価格も上げるな。安全性は証明しろ。簡単な仕事です」
「全部を同時に満たせないから交渉があるんです」
西尾も同じように笑った。
明日から別の国との協議が始まる。
今日の合意は終点ではなく、次の交渉で使う共通の物差しにすぎなかった。
白環石以外の資源でも、同じことが起きていた。
ダンジョン内部は法的にはどの国の領土でもない。
だがそこから持ち帰られた資源には国境も、関税も、特許も、国家の思惑もついて回った。
第五幕 2022年~2023年――探索者のいる日常
水島亮が槍を修理に出した日、代わりに借りた武器は握りが少し太かった。
「同じ型なんですけどね」
装備店の店員が申し訳なさそうに言う。
「前の持ち主が巻き直したみたいで」
水島は何度か握り、壁際の確認場所で軽く構えた。
「これで大丈夫です。明日は浅層だけなので」
店の棚には探索者向けの防具、回収容器、記録装置、応急処置用品が並んでいる。奥には貸出用の槍と盾が番号順に掛けられ、入口管理施設までの配送時刻が掲示されていた。
ダンジョンが現れる以前なら武器を持った人間が駅前を歩けば騒ぎになった。
今は武器を外から使えない状態で収め、定められた手続に従えば持ち運べる。もちろん、どこでも自由に取り出せるわけではない。貸与、運搬、保管、返却の記録は残る。
駅のホームで探索者を見ても振り返る者は少なかった。
泥のついた靴を見て距離を取る者はいる。
装備袋が邪魔だと顔をしかめる者もいる。
それも含めて、珍しい存在ではなくなっていた。
駅の売店では探索者事故を伝えるニュースが流れていた。
浅層で隊列を崩した班が二人の負傷者を出したという。画面の下には施設名と活動停止区画、再開見込みが表示されている。
足を止める者はいた。
だが駅全体が騒ぎになることはない。
鉄道事故や工場火災と同じように起きてほしくはないが社会が対応手順を持つ事故の一つになっていた。
水島は施設名を確認した。知人の活動場所ではない。
安堵した直後、自分も誰かに同じ確認をさせる仕事をしているのだと気づいた。
水島が登録したのは二年前だった。
最初の半年は講習と訓練、浅い区画での補助作業が中心だった。回収容器を運び、標識の状態を確認し、先輩の記録を写す。モンスターと遭遇しても前へ出ることより決められた隊形を崩さないことを求められた。
能力は得ていない。
班のほかの五人も、誰も持っていない。
それでも仕事はある。
浅層資源の回収、研究機関の採取補助、企業から依頼された区画の記録、標識や保管設備の点検、開放区画でのモンスター討伐。
2023年には一定の経験と条件を満たす登録探索者なら公的調査員の常時同行なしに自分たちで探索計画を立てられるようになっていた。
好きな場所へ入れるわけではない。
開放されたダンジョンと許可区画に限られる。
入退場記録、回収物の申告、危険物の管理、取引記録、税務は残る。立入禁止区画へ入れば処分を受ける。スタンピードなどの緊急時には退避や活動停止の命令にも従う。
自由になったのではない。
制度の中で自分たちの判断を任される範囲が広がった。
店を出ると、班の仲間から連絡が入っていた。
明日の集合時刻、目的区画、帰還予定時刻、予備の回収容器を一つ増やすこと。
水島は借りた槍の番号を返信し、駅近くの食堂へ入った。
隣の席では若い男女が求人情報を見ていた。
「初心者でも年収五百万って、本当かな」
「平均だろ。登録しただけでもらえるわけじゃない」
「でも、前の仕事より高い」
「命懸けで装備も自腹だぞ」
水島は注文した定食を待ちながら聞こえないふりをした。
ここでいう初心者は登録後一年から三年ほど。一年を通して活動し、安定した班で浅層回収や調査補助、企業依頼、公的買取を組み合わせる探索者の年間手取りは平均およそ五百万円だった。
この金額は公的買取、企業依頼、給与などを合算したものだ。収入区分と税の計算は活動形態によって異なる。
ただしそこから武器、防具、修理費、消耗品、医療品、記録機器、回収容器、交通費、訓練費、保管費を負担する。
公的買取分は班内分配後の受取額に対して課税され、装備費を必要経費として差し引くことはできない。五百万円のすべてを生活費へ回せるわけではなかった。
水島の昨年の数字は平均より少し下だった。
班員の一人が負傷し、二か月ほど活動を減らしたからだ。
今年は修理が重なっている。
班では毎月、収入と共通費用を一覧にしていた。
誰が多く戦ったかだけで分配を決めれば記録役や回収役を引き受ける者がいなくなる。戦闘に使う消耗品と、班全体で使う測定器の修理費も分けなければならない。
水島が担当するのは帰還後の記録整理だった。
派手な役目ではない。
だが企業依頼を受けるときには過去の記録がその班の信用になる。
能力を持たない班が継続して仕事を得られるのは毎回の成果より予定どおり戻り、同じ形式で報告を残してきたからだった。
それでも以前の仕事へ戻りたいとは思わなかった。
年齢や前職より記録と実績を見てもらえる。
経験を積めば、生活を成り立たせられる可能性がある。
その一方で負傷すれば収入は止まり、装備を失えば買い直す。誰にでも勧められる仕事ではない。
隣の二人はまだ求人画面を見ていた。
「やるなら説明会だけ行ってみるか」
「説明会の前に装備費を調べよう」
水島は心の中でその順番がいいと思った。
翌朝、入口管理施設の前では周辺住民を含む避難訓練が行われていた。
探索者の列の横を子どもたちが誘導員に従って歩いていく。モンスター対策の防壁には点検日が表示され、駅前の案内板には入口施設行きのバスと一般車両の進入禁止区画が示されていた。
その脇を水島たちはいつものように通った。
探索者証を提示する。
装備の数を申告する。
計画書と帰還予定時刻を確認する。
黒い境界は出現した頃と同じように光を返さない。
安全になったわけではない。
人間の側がそこへ向かう朝の手順を覚えただけだった。




