73話「才女の推理、凡人の証明」
静まり返った校舎に、アリーシアスの声が響く。
その声は一人の生徒の名を告げていた。
「赤い目の正体は、ダリオさんです」
彼女はきっぱりと言い放つ。
そこには仮定も推察も存在しない、自信を持った声だった。
廊下にはアリーシアスの声だけが通り、あとは無音。
誰の反応も返事もない。
レイディルとアルコイリスも、意外な名に、反応が遅れていた。
「……えっと……赤い目はダリオくんの仕業なのか? 彼は被害生徒だよな?」
アリーシアスは黙って頷いた。
しかし、その頷きが「仕業なのか」への肯定なのか、それとも「被害生徒だった」という事実への肯定なのか、レイディルには判断できなかった。
しばし、沈黙が廊下へと落ちる。
「反応は返ってきませんね」
アリーシアスは廊下の先の一点から視線を逸らさず呟いていた。
まるで、その名を告げれば何らかの反応が返ってくると期待していたかのようだった。
「まぁ、何か罪を犯したワケでもないですし、黙ってやり過ごす可能性も十二分にありましたが……」
そう言いながらも、彼女の視線は前を見据え逸らさない。
「……それで、赤い目のトリックって何なんだ?」
レイディルは半信半疑のまま、疑問を口にした。
すると、アリーシアスはおもむろに口を開いた。
「ああ、それですか」
アリーシアスは強調するように声のトーンを上げた。
「考えてみれば──実に簡単、シンプル、単純明快な仕掛けです」
彼女は、芝居がかったように手を広げ、レイディルに告げた。
それはまるで他の誰かに対する言葉のようでもあった。
「あれは眼鏡の反射です」
「眼鏡の?」
レイディルとアルコイリス。
二人から「へ?」という声が聞こえて来そうなほど、単純な答えだった。
「反射するものならなんでもいいんですが、多方赤いフィルムを貼った物か、サングラスと言ったところでしょうか」
アリーシアスはこともなげに答えた。
「そうですね……光が届くかどうかというところがミソですね。
おそらく赤い目はしっかりと計算した上で、出現位置に立っていたのでしょう。
……トリックのための的確な位置計算……さぞ、大変だったでしょう」
アリーシアスは感心したように告げた。
「いえ……でも、そんなことで……そう見せられるんですの……?」
アルコイリスは口を抑え、戸惑っている。
そんな彼女の反応に、アリーシアスは重ねるように言う。
「そこで犯人が利用したものがあります。
それが幽霊……言わば恐怖心、ですね」
アリーシアスは人差し指を立て、静かに続けた。
「僅かでも、恐怖を感じる心は、容易に事実を見過ごします」
その言葉は講義をする教師のように淡々としていた。
「でもオレはそんなに怖がってないと思うけどなぁ」
レイディルは自分では納得がいかないといった様子で口を挟む。
「確かにレイディルはあんまり怖がっていませんでしたね。
しかしですよ? あの時、わたしの悲鳴──じゃなかった……床板の甲高い音を聞いて駆けつけたあなたは、果たして完全に冷静だったと言えるでしょうか?」
アリーシアスはレイディルをチラリと見ると、静かに問い掛けた。
「一瞬でも良いんです。心に僅かな隙さえあれば」
静かな口調だったが、その言葉には妙な説得力があった。
「そう言われれば、返す言葉がないな……」
レイディルは頭を掻きながら苦笑した。
「ウェリティアと博士に感謝、ですね」
その言葉にレイディルは一瞬首をかしげたが、昼間、博士の眼鏡がキラリと光った光景が脳裏に蘇った。
「あぁ、あれか……」
レイディルは小さく呟き、納得した。
「赤い目の仕掛けが眼鏡だと仮定しよう。でも、なんでそれが『ダリオくん』だって特定できるんだ? 誰でも可能だろ?」
レイディルの当然の疑問に、アリーシアスは僅かに眉を顰め、声を殺した。
「ええ、なのでここからは暴論です」
そうひっそり告げると、次に声を戻し続ける。
「まずは二人とも、先日のお昼に医術院で彼と話した時のことを思い出してください」
アリーシアスの言葉に、レイディルとアルコイリスは黙って医術院でのやり取りを思い出す。
「わたしはダリオさんの言動に、僅かながら引っかかりを覚えました」
「なにか不自然なところありましたかしら……」
記憶を辿るアルコイリスに、アリーシアスはピンッと人差し指を立ててみせる。
「まず一つ目。
彼は『あれは人じゃなかったと思う』と言いました。他の生徒たちは、正体不明の怪異に怯えて曖昧な証言しかしていなかったのに、彼だけは『人ではない』と唯一、断定をしたんです。
それはつまり、わたしたちに『これは幽霊の仕業だ』と強く思わせたい、という誘導ではないでしょうか?」
「あ……言われてみれば、そうだな……」
レイディルの反応を見て、アリーシアスは続けた。
「さらに二つ目。彼は『オレはもう夜のあの場所には近づきたくない』と言いました」
その言葉にアルコイリスは眉を寄せる。
「それは、怖い思いをしたんですもの。
普通ではありませんこと?」
彼女の言葉にアリーシアスはひとつ頷く。
「そうですね。しかし、それならば普通、本当に幽霊が怖いなら『夜の学院全体』に近づきたくないと言うはずです。なのに、彼は『あの場所』だけを限定して口にした。
暗にそこには誰も近づいて欲しくないと言うように、です」
アリーシアスのよどみない指摘に、レイディルは思わず息を呑む。
「……三つ目は、イリスの月煌章に気づいた時の、あの仕草です。彼は目を伏せ、目元を軽く揉んでいました」
「あぁ、疲れてるのかなって思ったけど……」
レイディルは医術院での光景を思い返しながら答えた。
「わたしは少し違う印象を受けました」
アリーシアスは静かに首を横へ振る。
「昼間、ウェリティアがイリスを見る時に目を細めていましたよね? 普段は眼鏡を掛けていないからでしょう。無意識に出る仕草だと思います」
昼間の廊下で見たウェリティアの姿が脳裏をよぎる。
「どちらも見えづらい者には、よくある動きです。もちろん、疲れていただけかもしれません」
一度言葉を切り、アリーシアスは静かに続けた。
「ですが、もしダリオさんが昼間は眼鏡を掛けないようにしていたのだとしたら──あの仕草にも説明がつきます」
そこまで聞いてレイディルとアルコイリスは腕を組み、唸っている。
決定的な証拠があるわけでもない。
アリーシアス自身が言うようにこじつけに近い暴論だ。
「あとは、そうですね……『幸い、先生たちも夜の学院は立ち入り禁止にしたみたいだし』と言ったこと、ですかね。
彼を犯人と仮定するとその意味は真逆に反転します」
「反転……? どういうことですの?」
「夜の学院に誰も来なくなれば、もうこれ以上、“赤い目”をする必要がなくなります。
つまり彼にとっての“幸い”とは、最終目的地としての“誰も夜の学院に来ない”ではないかと言うことです」
そこまで一気にまくし立てると、アリーシアスはふっと声を落とし、自分の目元に指先を当てた。
静かだが力強いアリーシアスの声が、誰もいない暗い廊下に冷たく響き渡った。
「さて、ここまでで異論、反論はありますか?」
闇しかない廊下へと向かい、アリーシアスはキッパリと告げた。
反応はない。
「別に犯人が出てくる必要はありません。わたしは、この幽霊騒動について、ありのままを先生方へ報告するだけです」
そこでアリーシアスは一拍置き、静かな声で続ける。
「もちろん、赤い目の件も報告します。あれは幽霊とは無関係の、別の人物による細工だった、と」
何かを言おうとしたレイディルが一歩身を乗り出す。
しかし、アリーシアスは視線を前へ向けたまま、片手を軽く上げてそれを制した。
「優秀な最上級生が、これほどの暴論を黙って受け入れるとは思えませんが……」
静寂だけが廊下を満たす。
「……それでも、まだ沈黙を貫きますか?」
風が窓を揺らす。
カタカタと揺れる窓枠の音だけが、やけに大きく耳に届く。
沈黙。
依然として、暗闇の奥からは何の気配も返ってこない。
「……諦めて、とっとと逃げた後だったってオチじゃないだろうな」
レイディルは半信半疑のまま、暗がりを見つめた。
だが、アリーシアスは微動だにしない。確信に満ちた眼差しで、静まり返った闇の先を射抜き続けている。
そして──
「……ははっ」
唐突に、乾いた笑い声が廊下の奥から落ちてきた。
足音がコツリと鳴る。
暗闇に赤い双眸が浮かぶ。
闇と光が分かつ境界線。
月光が差し込む場所へと、暗闇の中からゆったりとした足取りで一人の人物が姿を現す。
床板がギシッと軋る。
「参ったな」
そこにいたのは、昼間の医術院で見せた親しみやすい笑みを消し去り、冷ややかな視線を向けるダリオだった。
彼は昼間の制服姿ではなく、黒い衣服に上下を包み込んでいた。
「なるほど……その格好でしたら、より騙しやすい」
アリーシアスは感心したように言う。
「やれやれ……感心か……」
彼女の態度にダリオは小さく肩を竦めた。
「しかし……まさかあんな些細な会話から、そこまで深読みされるなんて思ってもみなかった」
ダリオは苦笑しながら、かけていた眼鏡のフチに手をやる。
指先で軽く触れると、カチャリと小さな金属音が響き、通常のレンズの上に追加されていた『赤い可動式レンズ』が持ち上がった。
「暴論だなんて謙遜することはない、アリーシアス。……見事な推理だと思うよ」
「……」
アルコイリスが無言で息を呑み、半歩身を引く。
ダリオはそんな彼女に意を介さず、跳ね上げた赤いレンズを指で軽く弾いた。
「ちょっといいか? 一つだけ気になることがあるんだが……」
レイディルの問い掛けに、ダリオは視線だけを向けた。
レイディルがダリオへ向けて、続けて口を開く。
「フィンくんの証言なんだが……彼は『扉が開く音は聞いていない』って言っていた。
ここの廊下の扉は古いから、開け閉めすれば音がするって。
キミはどんなトリックを使ったんだ?」
ダリオは小さく口角を上げた。
「──」
答えようとした、その時だった。
「……角度、ですわね」
静かに呟いたのはアルコイリスだった。
その場の視線が一斉に彼女へ集まる。
彼女はまず一呼吸をする。
そして口を開いた。
「まず……えぇっと……フィンさんから見えない位置の講義室へ、最初から身を潜めていたのでしょう。
そして次に……扉も最初から一人が通れるくらい、開けたままにしておけば、音はしないはず……ですわ」
アルコイリスは廊下の先へ視線を向けながら続ける。
「最後に……暗がりでは、開いた扉も壁の影と見分けがつきませんわ……なので、えー、フィンさんは扉が開いていることにも気づかなかった……そういうことではありませんの?」
数秒の沈黙。
やがてダリオは肩を揺らし、小さく笑った。
「……正解だ」
そして少し感心したように続ける。
「やっぱりお前も優等生だよ……」
ダリオはうつむき加減に、クククと笑う。
その笑いには、素直な賞賛は含まれていないように見えた。
しかし、アリーシアスはそのやり取りには触れず、真っ直ぐダリオを見据えた。
「では聞きますが──あなたの目的は何ですか?」
ダリオは笑みを消し、しばらく黙り込む。
そして、小さく息を吐いた。
「……まぁ、多方分かってるんだろう?」
彼の言葉にアリーシアスは黙って頷き、アルコイリスは、廊下の右手。件の“誰も使っていない部屋”を一瞥した。
ダリオは肩を竦め、やれやれと大きくため息を付いた。
「そう、オレはあの部屋に人を近づけたくなかった」
ダリオは淡々と続ける。
「始まりは三週間と少し前……アリーシアス、お前が卒業した後のことだ」
ダリオは遠くを見るように目を細め、静かに語り始めた。
誰も使われていない部屋で、卒業生が残した大量の研究資料を偶然見つけた。
その資料には、今まで彼が見たこともない理論が書かれていた。
ダリオは、その内容に強く惹かれた。
しかし、それはあまりにも量が多く、寮へ持ち帰れば人目につく。
昼間も誰かに見られる可能性があった。
そのため彼は、人のいなくなる夜の学院へ通い、密かに研究を続けていた。
そして、ある夜──そこで、あの幽霊を目撃した。
「初めはオレも本物かと思った……だけどな、何度か見ていると、その人影には条件があるんじゃないかと思い始めた」
「最初の遭遇者はキミってわけか」
レイディルがぽつりと呟いた。
「ああ、そうみたいだな。
だからオレは思ったさ……『これは利用できる』ってな」
ダリオは乾いた笑いをこぼした。
「つまり誰もあの部屋に近づけないため、便乗した、というわけですか……」
「……誰も彼も……面白いように引っかかってくれたぜ……」
「そんな遠回りなことをせずとも、許可を得れば良かったのではありませんこと?」
アルコイリスの疑問に、ダリオは答えない。
廊下に数秒の沈黙が流れた。
やがて彼は俯いたまま、小さく笑う。
「……嫌だねっ……! これが明るみに出れば、必ず横槍が入る! これはオレだけの物だ! オレ一人で研究を完成させなきゃ意味がないんだ!」
出てきたダリオの言葉は、先程までと打って変わって、感情が顕になっていた。
「そうすれば、星煌章にだって──」
そこまで言いかけると、ダリオは懐から分厚い紙の束を取り出し、高々と掲げた。
その手には、食い込むほど力がこもっていた。
「これだ。あと少しで完成する。そうすれば誰にも文句は言わせない」
何枚もの紙には、細かな魔術式や書き込みがびっしりと並んでいる。
「卒業生が残した研究だ……オレはこれを完成させる。それだけだ……」
しかし、アリーシアスは彼から視線は逸らさず、静かに俯くだけだった。
「……なるほど。だから、一人で研究を完成させたかったのですね」
ダリオは自嘲するように鼻で笑う。
「……お前はいいよな」
ぽつりと漏れたその一言には、諦めとも羨望ともつかない色が滲んでいた。
「オレが三週間かけてようやく辿り着いた幽霊の正体を、お前はたった三日で見抜いてみせた……さすが天才だよ」
アリーシアスは静かに首を横へ振る。
「違います。わたしには多くの手助けをしてくださった人がいます」
彼女は傍らに立つレイディルとアルコイリスを、それぞれ見やった。
「それが、そのまま日数の差になったに過ぎません」
一拍置き、彼女は穏やかな口調で続ける。
「それに、わたしは才女ではありますが──天才ではありません」
ダリオは肩を震わせ、小さく笑った。
「……ははっ。謙遜もそこまで行くと……嫌味だな」
しかし、アリーシアスはその言葉を気に留めることなく、真っ直ぐダリオを見つめ返す。
「……逆に、わたしはあなたの方が凄いと思います」
「……な……に?」
「たった一人で、誰の助けも借りずに幽霊の出現条件へ辿り着いた。そのことは、素直に尊敬します」
アリーシアスの飾り気のない賞賛。
ダリオは何も答えない。
俯いたまま、肩一つ動かさず沈黙していた。
数秒の静寂が流れる。
やがて──
「……尊敬、だと?」
低く漏れたその声は、小さく震えていた。
「バカに……してんのか……」
その言葉に、三人は息を呑んだ。
ダリオは俯いたまま、続ける。
その表情は影に隠れ、読み取れない。
「月も……星も……陽煌章すら持ってるお前がぁッ……!!」
ダリオは歯を食いしばり、喉の奥から絞り出すように叫んだ。
「お前はいいよな!? 才能も力も全部持ってんだからッ!」
押し殺していた感情が、一気に決壊する。
「あまつさえ、光魔術の再興だと!? ふざけやがって!」
光魔術の件は、まだ学院内でも一部の者しか知らない話だ。
ダリオもまた、どこかでその情報を耳にしていたのだろう。
「何が『尊敬』だ! お前みたいな天才に、オレの何がわかるってんだ!!」
ダリオは顔を跳ね上げ、血走った目でアリーシアスを睨みつけた。
そこにあるのは、ただ一人の泥臭い凡人の執念だった。
「オレがどれだけ血の滲むような思いでここまできたと思ってんだ!! 毎晩毎晩、寝る間も惜しんで魔導書を読み漁って、何度も何度も失敗して……! 才能がないなら努力で補うしかないから、爪を剥ぐような思いで必死に食らいついてきたんだよ!!」
ダリオは胸を力任せに殴りつけるように叩いた。
「お前たちが要領よく成果を出していく横で、オレがどれだけの時間をドブに捨てて、どれだけの夜を絶望の中で明かしてきたか……!
なのに……たかが星章にすら届かないオレの気持ちがわかるかよ!」
絶叫に近い声が、夜の校舎の天井を揺らす。
「そのオレの三週間を……お前たちはたった三日で、笑い話みたいにあっさり暴いて……!
その上で『尊敬する』だと……!? 嘲笑ってんじゃねえッ!!」
ダリオの叫びには、怒りだけではない。
報われなかった自分の時間への悔しさと、埋めようのない才能の差に対する悲痛な叫びが籠もっていた。
彼の言葉にアルコイリスが、一歩前に出る。
「ふざけるんじゃありませんわ! 私達が……彼女が楽をして来たとでも!?」
アルコイリスは手を強く握りしめ、その顔には怒りの色が滲む。
「彼女の努力も知らないくせに!!」
誰よりも傍で、誰よりも近くでアリーシアスの努力を見てきたアルコイリスだからこそ、ダリオのその言葉だけは聞き流せなかった。
「知るかよ……お前らのことなんか……!」
ダリオは吐き捨てるように言う。
「ははっ……結果を出した奴はいいよな……成功した後なら、いくらでも『努力してきました』って言えるんだからよ……!」
ダリオの乾いた笑いと、自嘲の言葉が夜の廊下に響く。
怒りに震えていたアルコイリスは、その言葉を聞き、その表情を少しずつ曇らせていく。
目の前の少年は、アリーシアスを見ているようで、何一つ見ていなかった。
彼の目には、成功者という結果しか映っていなかった。
「……果たして、そうでしょうか……?」
アルコイリスは憐憫の眼差しを向けた。
その瞳には、もう怒りはなかった。
ただ静かな哀れみだけが宿っている。
「……ッ、クソ!! クソがァ!!」
アルコイリスのその眼差しが、ダリオの最後の一線を越えさせた。
彼は叫びながら、なりふり構わず前へと駆け出した。
古い床板が軋みを上げる。
アルコイリスが構えを取るより早く、一つの影が間に立ち塞がった。
二人の間に割って入ったレイディルは、すかさずダリオの横へ滑り込むと、その軸足を払った。
ダリオの身体が大きく傾いた。
握られていた資料が、宙を舞う。
ダリオはその勢いのままに倒れ込み、壁に背中を打ち付けた。
「あ、あの動きは……」
レイディルの動きを見たアルコイリスが目を丸くする。
「あー、イリスの動きですね……」
アリーシアスが思い出しながら告げる。
「ふぅ……」
二人の反応を他所に、レイディルは額を伝う汗を拭った。
「何とか成功したな……」
いつか役立つだろうと、密かに練習をしていた足払いは、レイディルが思ったよりも早く、その出番が回って来たようだった。
「ぐっ……」
背中を打ち付けたダリオが呻く。
「な、なんなんだよ……アンタは……」
床に横たわったまま、ダリオは信じられないといった様子でレイディルを見上げ、喘ぐように問いかけた。
二人の傍らに静かに立っていただけの男。自分とは何の接点もなく、名前すら知らないはずの人物に、手も足も出ず一瞬で崩されたのだ。
「オレか?」
レイディルは息を整えながら、アルコイリスたちとダリオの間に立つように位置を変える。
そして倒れたダリオを見下ろし、しゃがみこんで続けた。
「教会の方から来たものだ」
「ブッ……!」
その言葉を聞いた瞬間、レイディルの背後でアリーシアスが堪えきれずに吹き出す声が聞こえた。
「……は?」
ダリオの思考がピタリと止まる。
自分の心からの叫びも、執念も、目の前の男が放った意味不明な一言の前に一瞬で梯子を外された感覚だった。
(教会? なんなんだコイツは? なぜこの状況でそんな軽口を……?)
疑問が頭の中を駆け巡り、激昂していた頭の血が、急速に冷めていく。
「ってのは冗談だけどな。とりあえず、落ち着いたか?」
レイディルはしゃがんだまま、ダリオへ手を差し出した。
その手には、一枚のハンカチが握られている。
「あっ……」
ダリオはそこで初めて、自分の頬を伝う涙に気づいた。
なぜレイディルが、自分とあの二人の間に立っているのか。
その理由を、ダリオはようやく理解した。
レイディルの背中が、アリーシアスとアルコイリスの視線を静かに遮っていた。
「まぁ……女の子には見られたくないよな」
レイディルは苦笑しながら、小さな声でダリオだけに聞こえるように囁く。
背中越しには、未だ笑いを殺しているアリーシアスが感じられた。
ダリオは差し出されたハンカチを凝視したまま、固まっていた。
「別に誰も笑ってなんてないさ」
レイディルはハンカチをダリオの手元に押し付けると、ゆっくり振り返る。
レイディルは周囲に散らばった紙へ視線を落とした。
そこに書かれているのは、ただの文字の羅列ではない。
何度も書き直された魔術式。
消しては考え、また書き直した跡。 余白すら埋め尽くすほどの試行錯誤。
それだけで、彼がこの三週間をどれほど必死に過ごしてきたのかは伝わってきた。
「三週間、夜の校舎に一人で通い詰めて、何度も書き直して、ここまで積み上げてきたんだ……キミがどれだけ必死だったか、この一枚一枚を見ればわかる」
ダリオは何も言わない。
「方法はどうあれ……キミが必死だったことは変わらないだろ」
レイディルは一度、アリーシアスたちへ視線を向けた。
そして、再びダリオを見る。
「アリーシアスたちの努力だって、成功する前から、それは努力だったはずだろ」
その言葉に、ダリオの表情が僅かに揺れる。
「だから、そこは否定するもんじゃないとオレは思う」
「一番は……そうだな……」
レイディルは目を伏せ、数拍置いた。
やがて瞳を開く。
「なによりも、自身の努力を自分で否定しちゃいけないって思う」
そう告げると、レイディルは手を差し出した。
目の前の男の言葉には、否定も哀れみもなかった。
ただ、当たり前のことを告げているだけだった。
ダリオはしばらく動けずにいたが、やがて震える手を伸ばす。
そして、ゆっくりとその手を握り返した。
レイディルが力を込め、ダリオを起こした。
「オレ……」
立ち上がったダリオは、何かを言おうとして口を開く。
しかし、言葉はすぐには出てこなかった。
俯いたまま、震える声を絞り出す。
「……わからない」
それだけを呟く。
自分が何を言いたいのか。 何を感じているのか。
ダリオ自身にも、まだ整理できていなかった。
その時だった。
レイディルの背後で、アルコイリスが散らばった研究記録を拾い上げる。
「『魔力の空間滞在安定性に関する理論研究』……」
紙に視線を落としたアルコイリスは、静かに呟いた。
「あら……」
アルコイリスは眉を寄せ、難しい顔をして記録を見つめた。
「これは……これでは、上手くいきませんわ……」
「この場で説明をするには私には難しいですけれど」
と、彼女は自嘲気味に付け加えた。
横からアリーシアスが覗き見る。
「……確かに……理論としては興味深いですね……しかし、このままでは、求める結果には辿り着けません」
「う、うそだ……!」
彼女らの声にダリオは狼狽を隠せない。
「残念ですが、本当ですわ……だからこそ卒業生も残していったのかもしれませんわね」
「……」
ダリオは黙って俯いていた。
「ざっと読んだだけですけれど、これは──」
ズルッ……
アルコイリスが何かを言いかけたその時。
何かを引きずる音が静かな廊下に、微かに響いた。
四人は音のした方へと顔を向ける。
「なんの音……ですの?」
幽霊騒動は解決したと思っていたアルコイリスの顔に、戸惑いの色が浮かぶ。
「これはフィン君が言っていた音か」
何かを引きずるような音。
確かにその現象は未だ説明されていなかった。
「わたしが感じていた、学院から何かが無くなっていたという違和感……」
そう呟くとアリーシアスは、ダリオへと視線を向ける。
「……ダリオさん。あなたは夜の学院から何かを持ち出したりしませんでしたか?」
急に話を振られ、困惑した表情を見せるダリオ。
「待て、オレは……何もしていない。これは本当だ……資料だって持ち出してないんだぞ!?」
その言葉を受け、アリーシアスは確信を持った顔をした。
「やはり……引きずる音は、人影や赤い目とは別の事象だったようですね」
「やはり? アリシアは分かっていたのか」
「大まかに、ですが」
アリーシアスはダリオを見る。
ダリオは少し黙った後、静かに頷いた。
「この音については、オレも把握していた。だが……何なのかまでは知らん」
ダリオは視線を落とす。
「最初は焼き付け現象の一部かとも思ったが……」
「人影が現れる条件とは一致しなかった」
アリーシアスがダリオの言葉を継ぐ。
「この音が聞こえれば学院の奴らは勝手に怖がる。オレにとって都合が悪いものじゃなかったから、放っておいたけど……」
何かを引きずる音は、昨夜アルコイリスとレイディルがいた講義室の方から聞こえてくる。
徐々に近づいてくるところだ。
「難しく考える必要はなかったのかもしれません。学院から何かが無くなっている。そして、それを運ぶような引きずる音……」
アリーシアスは一度言葉を切った。
彼女の言葉を肯定するかのように、暗闇の奥から再び音が響く。
「この二つを合わせれば、答えはひとつです」
アリーシアスが廊下の先の暗闇を見つめる。
「つまり……泥棒!」
そう告げたアリーシアスの顔に、月の光が落ちる。




