前へ目次 次へ PR 74/95 14-3 京の六条を中心とした広大な敷地を持ち、そこに大庭園と塩釜(しおがま)を造り、はるばる尼崎(あまがさき)より毎月大量の海水を運ばせて塩を焼いて製造していたと伝えられます。 塩は貴重品ですので売れば金になり、贈れば喜ばれたことでしょう。 なのでその経済力や影響力はすごかったのではないかと思います。 そのお屋敷の名前が河原院(かわらのいん)と呼ばれていたので源融(みなもとのとおる)は「河原左大臣(かわらのさだいじん)」と呼ばれているのです。