第25話 大姶良勢力との外交劇
おはようございます。本日は3本投稿予定です。
永禄十一年(一五六八年)十月中旬。
大隅半島を包む山野が黄金色に染まる頃、獅子目と大姶良の境界を流れる姶良川の浅瀬には、冷え始めた秋風が吹き抜けていた。
対岸の竹藪の合間から、鋭い殺気を放つ十数本の槍先が覗いている。
大姶良城の城代・橋口家の手勢だ。第一次防衛戦で嫡男と三百の手勢が谷底ですり潰されて以来、「天狗の怪異」を恐れて引き籠もっていたはずの敵が、高須港からの舟運や製塩の煙に危機感を募らせ、ついに境界での小競り合いを仕掛けてきたのだ。
「若君、来やがりましたぜ」
川沿いの草むらに低く身を潜めながら、弥三郎(二十歳)が十文字槍を握り直し、苦い息を吐き出した。
首筋の古傷をさすりつつ、川向こうの物音を値踏みするように目を細める。
「大姶良の小頭どもです。手勢は五十ばかり。俺たちが川沿いに敷いた木炭の運搬路を焼き払い、高須への船を止めようって腹積もりでしょう。僕ぁね、せっかく貴久公から四割上納で火薬の公認をもぎ取ってきたってのに、ここで足元の小競り合いで運搬路を潰されたら、また胃に穴が開きますよォッ!」
「喚くな弥三郎。敵の動きは道純の行者衆が三日前から筒抜けにしている」
俺――十歳の楠千代丸(島津本家での通称:又八)は、川岸の土手に身を伏せ、手元の薄板に引いた配置図を指先で叩いた。
十歳の身体はまだ小柄だが、前世の事業再生屋としての頭脳は、目の前の「境界紛争」を最短コストで収拾するための力学を完全に組み立てていた。
「甚兵衛」
「ははっ! ここにおわしますぞ、若君!」
背後の雑木林から、白髪混じりの髭を逆立てた甚兵衛(六十歳)が、身を乗り出してきた。
その背後には、二年前の再編で鍛え上げられた「精密射撃伏兵班」の精鋭三十名が、強弓と投石器を構えて息を潜めている。
「敵が浅瀬の真ん中――川底の泥に足を取られた瞬間を見計らい、崖上から一斉射撃を浴びせろ。ただし、絶対に殺し尽くすな。先頭の五、六人を射倒して足を止め、怯え上がらせるだけでよい」
「なッ! 攻め寄せてきた敵を皆殺しにせぬのでございますか!?」
甚兵衛が目を丸くして髭を引っ張る。
「皆殺しにすれば、大姶良城の橋口本隊が意地になって全軍で押し寄せてくる。今の我らの目的は、敵を全滅させることではない。『これ以上手を出せば全滅する』という圧倒的な武力差を骨の髄まで叩き込み、交渉の席へ引きずり出すことだ」
「こ、こうしょう……?」
甚兵衛が眉を八の字にして唸る。
その横で、弥三郎が口元を歪めてニヤリと笑った。
「なるほどな。叩きのめして怯えさせた直後に、美味い餌を鼻先にぶら下げて手打ちにするって寸法ですね。相変わらず、やってることが十歳児の知恵じゃねえや」
「手筈通りにやれ。甚兵衛、射て!」
「応ッ!!」
バシュッ、バシュッ、ビュンッ!!
静寂を破り、崖の上から放たれた数十本の矢と鋭利な拳大の石が、浅瀬を渡りかけていた大姶良の兵たちへ正確無比に降り注いだ。
「ぎゃあっ!?」
「伏兵だ! 崖の上におるぞッ!」
先頭の騎馬武者と槍兵が泥水の中へ転倒し、浅瀬は一瞬で阿鼻叫喚の混乱に包まれた。
退路を塞ぐように、背後の草むらから弥三郎率いる工兵班が十文字槍の穂先を一斉に突き出し、退路を断つ。
わずか半刻にも満たぬ電撃戦。
死傷者数名を出しただけで、大姶良の手勢五十名は完全に包囲され、川底に膝をついて震え上がっていた。
泥水をかぶり、刀を取り落とした敵の部隊長が、恐怖で顔を引きつらせて見上げる。
その崖の上から、十歳の楠千代丸がゆっくりと姿を現した。
「大姶良の者たちよ、命までは取らん。その代わり、貴様らの城代・橋口殿にこの書状を届けろ」
俺は手元の木板を投げ下ろした。
「明朝、姶良川の境にてサシの談判を行う。島津本隊の軍船が高須から大姶良の背後を焼き払うか、それとも我が蒲生と手を組んで共に富を分かつか――選ぶのは貴様らだ」
――翌朝、夜明け前の薄靄が立ち込める姶良川の中州。
両岸から互いに弓矢の届かぬ距離に護衛を控えさせ、粗末な竹の床几を挟んで、二人の男が対峙していた。
片や、大姶良城代・橋口但馬守。
五十絡みの頑躯に歴戦の具足をまとい、その浅黒い顔には、二年前に嫡男と手勢三百を谷底ですり潰された怨恨と、昨日の小競り合いで先鋒五十名を瞬殺された消せぬ恐怖が刻み込まれている。
対するは、十歳の楠千代丸。
小柄な童の身躯に、汚れのない麻の直垂。護衛として背後に立つ弥三郎が、胃のあたりを片手でさすりながら冷汗を垂らしているのとは対照的に、千代丸の表情は静水のように凪いでいた。
「島津の五男坊、いや、蒲生の若君か」
橋口但馬守が、絞り出すような低い声で口火を切った。
その太い手は、無意識のうちに腰の太刀の柄を固く握りしめている。
「昨日の小競り合い、見事な伏兵であった。だが、我が大姶良は肝付の旗頭よ。島津の捨て石風情に脅されて、降伏しろとでも言う気か? 戯言を抜かすなら、ここで刺し違えてでも貴様の首を肝付の殿へ届けてやるぞ」
張り詰めた殺気。
だが、千代丸は眉一つ動かさず、むしろ呆れたように小さく息を吐き出した。
「橋口殿。降伏など、誰が一言でも口にいたしましたか?」
橋口の眉間に深い溝が刻まれる。
太刀の柄を握りしめたまま、十歳の童の顔を値踏みするように睨み据え、喉の奥で押し殺した息を詰まらせた。
降伏の勧告でも、島津への恭順の強要でもない。では一体何のために、手勢五十を瞬時に包囲しながら刃を収め、このような場所へ呼び出したのか。
戦の常識が通用しない不気味さに、歴戦の武将の奥歯がギリリと鳴る。
「何じゃと? 降伏を迫るのでないなら、何の真似じゃ。大姶良を愚弄しに参ったか」
「私は、貴方に島津へ寝返れと言っているわけでも、肝付へ反逆しろと言っているわけでもありません。ただ、『無駄死にと無駄金を削る商談』をしに来たのです」
千代丸は手元の薄板を指先でトントンと叩いた。
「大姶良と獅子目が争えば、双方の兵が死にます。しかし、肝付本家が真に望んでいるのは大姶良の山林ではなく、島津本隊を大隅から押し返すことのはず。ならば、貴殿と我らがこの川を挟んで血を流し合い、兵糧と手勢をすり減らすことに、一体何の得があるのですか?」
「得じゃと……? 戦に得も損もあるか! 貴様らは我が大姶良の裏山を奪った仇敵ぞ!」
「では、その仇敵を討つために、貴殿は再び全軍を率いて獅子目の谷へ突っ込みますか?」
千代丸の冷徹な一言に、橋口の息が喉で詰まった。
二年前の冬、奇襲をかけた三百の精鋭が、泥濘と崩落のキルゾーンで手も足も出ずに壊滅した悪夢が、城代の脳裏を灼く。
「昨日の五十名のように、川を渡れば再び伏兵に討たれる。仮に大姶良の兵すべてを注ぎ込んで獅子目を攻め落としたとしても、貴殿の手元には傷だらけのわずかな生き残りと、木を伐り尽くされた丸裸の荒野しか残りません。その時、兵を失った大姶良城を、肝付本家や周辺の土豪がどう扱うか……賢明な貴殿ならお分かりでしょう」
「ぐ……っ」
橋口の唇が苦渋に歪む。
戦国期の弱肉強食の掟。兵力をすり減らした国人は、敵に討たれる前に味方に呑まれる。
「そこで、提案でございます」
千代丸は懐から、上等の蒲生和紙に記された条目を差し出した。
「第一に、互いの領民と商人の往来を妨げず、姶良川の舟運の通行を保証すること」
「第二に、大姶良と獅子目の間で水利を共同整備し、田畑への引水を互いに干渉せぬこと」
「第三に、高須で焼いた極上の純白塩と、獅子目の木炭を、大姶良城下へ相場の八割で優先的に卸すこと」
墨で書かれた条目を追う橋口の瞳が、驚愕に見開かれた。
水利の共同整備という喉から手が出る利権に加え、貴重な純白塩と木炭の格安供給。
敵対勢力へ突きつける条件としてはあまりに破格であり、利が大きすぎる。
「な……! 敵である我らに、塩と木炭を安く卸すじゃと……!? 何の罠じゃ! 貴様、大姶良の腹を肥やして飼い殺す気か!」
「罠ではありません。商売と共存です。……そして第四に、互いに兵を出さず、境界を侵さぬ『不可侵』を保つこと」
千代丸は言葉を切り、中州の風を静かに吸い込んだ。
不可侵。その重い言葉が二人の間に落ちる。
橋口は疑念の塊となって身を固くした。
「不可侵じゃと……? 戯言を申すな! 肝付と島津が鎬を削るこの大隅で、境を接する我らだけが勝手に矛を収めるなど、本家が許すはずがなかろうが!」
「ええ、許すはずがありません。ですから、最も重要な条件がもう一つございます」
千代丸は前傾姿勢になり、橋口の瞳を射抜いた。
「この約定は、島津本家にも、そして肝付本家にも――一切知らせぬ『極秘の密約』といたします」
「な……! 双方の本家に隠す……密約じゃと!?」
橋口が息を呑み、言葉を失った。
「貴殿が肝付殿へ『蒲生と密約を結んだ』と報告すれば、即座に内通を疑われて城代を解任されましょう。我らもまた、島津本家に知られれば勝手な講和として咎めを受けます。ゆえに、この川向こうで起きたことは、互いに『最初から何もなかったこと』にいたしましょう。表向きは睨み合いを続けつつ、裏では血を流さずに富を分かち合うのです」
静まり返る中州。
吹き抜ける朝風が、和紙の端をかすかに揺らす。
橋口但馬守は、目の前に座る十歳の童を、底知れぬ化け物を見るような目で見つめていた。
武力で「勝てぬ」と悟らせ、経済で「組んだ方が得だ」と示し、不可侵の提示から秘密協定への二段構えで「肝付に知られぬ逃げ道」を完璧に用意する。
拒絶する理由が、大姶良の側には一つとして存在しなかった。
「相分かった。この密約、受け入れよう」
橋口が重々しく頷き、和紙に指印を押した。
互いに床几を立ち、両岸へと引き揚げていく。
自陣の土手へ戻った瞬間、張り詰めていた空気が抜け、弥三郎が十文字槍を放り出して頭を抱えた。
「若君。僕ぁね、もう呆れて言葉も出ませんよ」
弥三郎は首筋の古傷をボリボリと掻きむしり、引きつった笑いを浮かべた。
「敵の城代を言いくるめて、裏口同士で握手させただけじゃないですか! 外交だか何だか知りませんけどね、十歳児が敵の武将相手に『なかったことにしましょう』なんて裏取引持ちかけるなんて、腹の中が真っ黒にも程がありますよォッ!!」
「弥三郎、これが『戦争の外注費削減』だ」
千代丸は手元の密約書を懐に収め、澄ました顔で返した。
「大姶良を無力化し、川筋の安全を確保した。これで背後の憂いは完全に消えたぞ」
だが、千代丸の視線はすでに、さらにその先――大隅東部の山並みへと向けられていた。
大姶良を手打ちにしたことで、小競り合いの火種は消えた。
しかし、それは同時に、次に来る敵が「大姶良の小勢」などではなく、大隅の覇権を懸けて進軍してくる「肝付本隊の総力」になることを意味していた。
(四割上納で手に入れた火薬と、大姶良の不可侵。防衛のピースはすべて揃った)
大隅の空に、いよいよ決戦の暗雲が立ち込めようとしていた。
次は本日12時予定です




