第121話 佐嘉の暴れ熊と軋む長蛇
天正六年(一五七八年)夏、肥前・佐嘉城。
照りつける真夏の陽光の下、堀の蓮の葉が青々と繁る佐嘉城の大広間には、耳を聾するような怒号と、酒宴の哄笑が入り混じっていた。
「がっはっはっは! 見よ、この首級の数々を! 大友の腰抜けどもが、耳川で逃げ散った後は、どこの城も木戸を開けて平伏するばかりよ!」
上座で床几を軋ませながら、豪快に朱塗りの盃を干したのは、肥前の熊――龍造寺山城守隆信であった。
巨躯を錦の陣羽織で包み、顎髭を酒で濡らしたその面構えは、まさに獲物を貪り食う猛獣そのものである。
肥前を統一し、大友の壊滅に乗じて筑後十五城を瞬く間に呑み下した龍造寺家は、いまや九州北部を席巻し、世に「五州二島の太守」と恐れられていた。
「山城守様、筑前からも秋月殿、筑紫殿が呼応し、宝満山麓の出先砦を幾つも打ち破ったと注進が届いております!」
「もはや大友など恐るるに足らず! 立花山城と岩屋城を踏み潰せば、筑前も、そして博多の莫大な黄金もすべて我が物でござる!」
取り巻きの国衆や側近たちが、我先にと阿諛追従の声を張り上げる。
勝ち戦に酔い痴れる広間の中、ただ一人、下座の隅で帳簿の山を前に青ざめ、胃の腑を押さえている男がいた。
龍造寺家の軍師にして家老――鍋島孫四郎信生(後の直茂)である。
「……山城守様」
直茂は静かに立ち上がり、酒に上気する隆信の前に進み出た。
「耳川の余波に乗じた筑前への出兵、そろそろ潮時かと存じます。……秋月殿へ命じ、兵を一度引かせ、筑後・肥前の仕置を固めるべきでございます」
広間の騒ぎが、ピシリと止まった。
隆信の座った目が、ギロリと直茂を射抜く。
「……何だと、孫四郎? いま、何と申した?」
「前線が、伸びすぎております」
直茂は手元の出納帳を広げ、声を落として言った。
「秋月殿や筑紫殿は確かに勝ち戦を重ねておりますが、立花道雪・高橋紹運の両将は、決して壊走してはおりませぬ。砦を一つ落とすたびに、我が方の先陣は地雷の罠や伏兵で十日、二十日と足止めを食らい、じわじわと兵を削られております。……佐嘉から筑前の山奥まで、兵糧と弾薬を運ぶ輜重隊の列は、すでに何十里にも伸び切っておりますぞ」
「補給など、現地の百姓から奪い取れば済む話じゃ!」
隆信は杯を床板に叩きつけた。
「筑後の蒲池や田尻どもに命じろ! 蔵にある米をすべて吐き出させ、兵糧として前線へ担ぎ上げさせよ! 供出を渋る国衆がおれば、人質を城門に吊るして首を刎ねてしまえ!」
「山城守様ッ!」
直茂の額に、冷たい汗が噴き出した。
「そのような真似をすれば、降ったばかりの筑後国衆の心が完全に離れます! 現に、柳川の蒲池鎮並殿は、度重なる無茶な兵糧徴発に家中が動揺し、不穏な動きを見せております。……我が龍造寺は、ここ一年あまりで領地を急激に広げすぎました。肥前から筑前まで、細長く伸び切ったこの陣立ては、まるで巨木が根を張る前に枝葉ばかりを茂らせているようなもの。横合いから突かれれば、一撃でへし折れます!」
「黙れッ!!」
ドガァッ、と隆信が床几を蹴り倒して立ち上がった。
血走った眼窩の奥に、狂暴な獣の焔が燃え盛っている。
「儂を誰だと思うておる! 五州二島を従えた九州の覇者ぞ! 大友宗麟の腑抜けは臼杵の城で神仏を拝んで震えておる! 立花と高橋の首を獲り、博多の湊を奪い取れば、誰が儂の前に立ち塞がれるというのじゃ!」
隆信の巨躯が、直茂の鼻先へ覆いかぶさるように迫る。
「孫四郎。そなたは昔から臆病がすぎるぞ。……兵糧が足りぬなら、力ずくで奪え。弾薬が尽きれば、刀を抜いて突撃せよ。龍造寺の武名に楯突く者は、神仏であろうと叩き潰すまでじゃ!」
「…………」
直茂はこれ以上、言葉を継ぐことができなかった。
目の前にいる主君は、かつて今山で寡兵をもって大友の大軍を打ち破った、あの鋭利で決断力に富んでいた猛将ではない。
肥前を制し、筑後を呑み下し、周囲の阿諛追従に囲まれるうちに、自らの力を見誤った「傲慢の怪物」になり果てていた。
「者ども、出陣じゃ! 秋月に続け! 立花山と岩屋の首を上げよッ!」
隆信の号令とともに、武者たちが喚声を上げて広間から雪崩れ出ていく。
一人、薄暗い広間に取り残された直茂は、膝の上に広げられた九州の絵図を見つめ、深く、絶望的な溜息を吐き出した。
(見えておらぬのだ……。山城守様には、足元の数字も、周囲の敵も、何一つ見えておらぬ……)
直茂の指先が、絵図の南――肥後の南半分、そして日向・薩摩の境界へと滑った。
大友が耳川で四万の兵を失った時、島津は動かなかった。
相良を無血で呑み下し、阿蘇と結び、肥後の八代までを整然と平らげた島津の軍勢は、そこでピタリと足を止めている。
南肥後を預かる新納忠元の老獪な軍勢は、微動だにせず、ただ国境の城砦を固めてこちらの出方を覗っていた。
そして、海だ。
博多は島津の快速関船によって中立を保たれ、豊後水道は完全に封鎖されて大友府内は塩一粒すら届かぬ地獄と化している。
島津は、一兵も北へ繰り出していない。
ただ、自らの経済圏と兵站を完璧に整え、大友が自滅するのを、そして龍造寺が過伸展によって自ら首を絞めるのを、冷徹な算盤を弾きながら待ち構えているのだ。
(蛇が前線を伸ばせば伸ばすほど、その腹は薄くなり、背後はガラ空きになる……)
直茂の背筋に、氷を押し当てられたような悪寒が走った。
いま、龍造寺軍の主力が筑前の山奥で立花・高橋の遅滞戦に足を取られている最中に、もし南から島津の精鋭が雪崩れ込んできたらどうなるか。
従属を強いられて恨みを募らせている筑後国衆は、一瞬にして寝返り、肥前への退路は遮断され、龍造寺の大軍は文字通り袋の鼠となって全滅する。
「……勝てば勝つほど、死地へ歩んでおる」
直茂の絞り出すような呟きは、誰の耳にも届くことなく、夏の熱気に溶けて消えた。
狂乱の快進撃を続ける「肥前の熊」の足元で、自壊への破滅の歯車が、ギシリと重い音を立てて噛み合い始めていた。
お読みいただきありがとうございます!
今回は、大友の崩壊に乗じて北部九州を席巻する「肥前の熊」龍造寺隆信と、その背後で兵站の破綻と過伸展に戦慄する鍋島直茂の胃痛をお届けしました。
前話で立花道雪・高橋紹運が「城を一つ捨て、十日を稼ぐ」という芸術的遅滞戦を繰り広げている一方、龍造寺側は勝っているつもりで前線を伸ばしすぎ、補給線が長蛇のように伸び切っています。
さらに、新領地の国衆(蒲池ら)から力づくで兵糧を奪い、人質を脅すという恐怖政治に走る隆信。
数字と兵站が見えている直茂からすれば、「勝てば勝つほど自滅へ近づいている」という悪夢そのものの状況です。
【第122話:豊後崩壊と義統の血涙】
豊後水道の海上封鎖による極限の飢餓、宇佐神宮を焼いた祟りを恐れる領民の連鎖一揆、そして実務官僚・田原親賢の降伏打診をお届けします。どうぞお楽しみに!




