第116話 豊後水道の適法臨検と「乾殺し」の網
天正五年(一五七七年)冬、日向・細島港。
日向灘に突き出た天然の良港は、寒風が吹き荒れる季節にもかかわらず、異様な活気に満ち溢れていた。
入江を埋め尽くしているのは、大隅の高須で建造された細身の快速関船と、頑丈な平底輸送船の群れである。
船首には、耳川で鹵獲した青銅砲が鈍い光を放ち、帆桁には「丸に十文字」の旗とともに、朝廷から下賜された菊花の紋章を染め抜いた公儀の吹き流しが冷たい海風を孕んでいた。
港の番所の一室で、崇清は火鉢の炭に手をかざしながら、手元の算盤を弾いていた。
机の上に広げられているのは、大友領・豊後の詳細な物価表と、豊後水道を出入りする船団の荷目録であった。
「……若君、今日の取り調べ帳面です」
入ってきたのは、船頭の能野甚五郎であった。
潮焼けした厳つい顔に、獰猛な笑みを貼り付かせている。
「佐賀関の沖で、堺から府内へ向かっていた大型廻船二隻を停めました。積み荷は塩が四百石、美濃の鍛冶屋が打った鉄材が五十駄、それに播磨の干鰯です」
「船頭は何と言っていた」
「へっ、最初は『天下の大友様へ納める荷じゃぞ! 海賊ごときが手を出してただで済むと思うな!』と息巻いてやがりましたよ。……だが、こっちが安土の上様(織田信長)から賜った『毛利・本願寺への海上補給遮断令(海賊改め)』の墨付と、朝廷の伝奏奉書を突きつけて大砲を向けたら、あっという間に小便を漏らして平伏しやがった」
甚五郎は太い指で鼻の頭を擦った。
「手筈通り、積み荷はすべて『島津の公定値』で買い取りました。堺の相場より一割色をつけて銭を払ってやったんで、船頭の爺さんも『奪われたわけじゃない、適正に商いをしただけだ』と納得して、細島の蔵へ荷を下ろしていきやしたぜ」
「上出来だ、甚五郎」
崇清は満足げに頷き、帳面に筆を走らせた。
「絶対に略奪はするな。一文たりとも買い叩かず、金銀は即座に現物で支払え。商人たちに『島津の臨検に遭っても損はしない、むしろ大友の危ない手形を掴まされるより余程確実だ』と思わせることが肝要だ」
これこそが、崇清の張り巡らせた「適法臨検」の罠であった。
大友宗麟を力づくで攻め滅ぼそうとすれば、豊後の民は結束し、毛利や他国の介入を招く。
だが、織田信長が発令した対本願寺・毛利の海上封鎖令を大義名分とし、「豊後水道を通る不審船を公儀の命で改めている」という体裁を取れば、誰一人として島津を「海賊」とも「侵略者」とも呼ぶことはできない。
日向の細島を前進基地とし、豊後水道の狭隘部に快速関船を網の目のように配置する。
南から豊後府内へ向かう南蛮船や堺の商船をすべて合法的に捕捉し、塩、鉄、米、火薬といった戦略物資を、島津の莫大な銀によってその場で丸ごと買い取ってしまうのだ。
商人に損はさせない。
ただ――目的地である豊後府内には、物資が一粒も届かなくなる。
「血を一滴も流さず、相手の喉元から空気だけを抜き取る。……大友の蔵は、そろそろ底を突いた頃合いだな」
崇清の冷徹な呟き通り、豊後水道を隔てた対岸――大友の根拠地・府内館は、いまや地獄のような経済的窒息に喘いでいた。
*
同刻、豊後・府内館、勘定所。
「……ない。どこを探しても、塩一俵すらありはせぬ……!」
埃の舞う冷え切った蔵の中で、大友家の重臣・田原親賢(近江守)は、膝を突いて床板を拳で叩きつけた。
耳川の惨敗から逃げ延び、崩壊寸前の大友家の台所を一人で支え続けてきた実務官僚の顔は、骨と皮ばかりに痩せこけ、目の下には濃い隈が張り付いていた。
蔵の棚はがらんどうだった。
かつては南蛮貿易の富が溢れ、絹や薬種、硝石が山積みになっていた府内の御用蔵は、いまや冷たい隙間風が吹き抜けるだけの虚無の空間と化している。
「近江守様……! 城下の塩問屋が、また店を畳みました!」
血相を変えた小役人が、息を切らして駆け込んできた。
「もはや城下の塩相場は、耳川の前の十倍に跳ね上がっております! 南蛮船も堺の廻船も、ことごとく日向の細島で島津に荷を買い上げられてしまい、一隻たりとも府内の湊に入ってまいりませぬ! 民は塩が買えず、味噌も漬けられず、暴動寸前でございますぞ!」
「黙れ……! そんなことは百も承知だッ!」
親賢は頭を抱えて呻いた。
塩がない。鉄がない。米がない。
人間が生きていくための根源的な物資が、城下から完全に消え去っていた。
手元にあるのは、南蛮の教会へ寄進するために鋳造させた、純度の低い悪銭ばかり。そんな名ばかりの銭で、誰が命の糧を売るというのか。
「島津め……! 戦も仕掛けず、陸へ兵も出さず、海の上から大友の血を抜き取っておるのだ……!」
親賢の唇から、血のにじむような悔恨が漏れた。
兵で負けたのではない。武勇で劣っていたわけでもない。
港の機能、物資の流れ、そして商人の損得勘定を完璧に掌握した島津という怪物が、大友の領国を内側から干からびさせているのだ。
そこへ、静かな足音が近づいてきた。
現れたのは、黒い布をまとったポルトガル人の伴天連(神父)であった。
「近江守殿。ドン・フランシスコ(宗麟)様がお呼びです」
「……御屋形様が?」
親賢はよろめきながら立ち上がった。
いま、宗麟がいるのは府内館ではない。南の丹生島城(臼杵城)の礼拝堂に引き籠もり、現実の政務を一切放棄して、祈祷に没頭しているのだ。
「神父様。南蛮船からの硝石と鉛の補給は、どうなっておりますのか。デウスの神の加護と仰るならば、なぜ異国の船は府内を避けて島津の湊へ入るのです!」
親賢の悲痛な叫びに対し、神父は冷ややかに目を伏せた。
「船乗りたちも生活がございます。安全に荷を買い取ってくれる港へ向かうのは、人の世の理。……ドン・フランシスコ様は仰せです。『地上の富が失われたのは、領内に邪神(仏や神)の偶像が残っているからだ。日向の復讐を遂げるため、府内領内の寺社をすべて焼き払い、その金銀を天主に捧げよ』と」
「な……ッ!?」
親賢の喉から、声にならない悲鳴が漏れた。
この極限の飢餓と物価高騰の中で、さらに領内の寺社を破却し、民の信仰を奪えというのか。
そんなことをすれば、領民の心は完全に離反し、大友は名実ともに灰燼に帰してしまう。
「祈れと仰るのか……! 民が塩を求めて飢え、兵が鉄砲の弾すら持てぬこの時に、神仏を焼いて祈れと申されるのかッ!!」
親賢の絶叫は、冷たい蔵の梁に虚しく木霊し、消えていった。
海を塞がれ、塩を絶たれ、主君は自らの手で国を焼き始める。
島津崇清が仕掛けた「乾殺し」の網は、大友家という四百年の巨木を、音もなく、しかし確実に根腐れへと追い詰めていた。
お読みいただきありがとうございます!
今回は、島津高須水軍による豊後水道の海上封鎖――信長公儀の「海賊改め」を名目にした「適法臨検」と、府内の経済的窒息をお届けしました。
兵を上陸させて城を力づくで攻めれば、泥沼の消耗戦になり莫大なコストがかかります。
しかし、「海上の狭隘部で船を止め、塩や鉄を適正価格で即金買い上げする」という合法的な商いを行うだけで、相手の首根っこから空気だけを綺麗に抜き取ることができます。
塩が消え、米が消え、実務家の田原親賢が悲鳴を上げる中、宗麟が下したのは「神仏を焼き、祈れ」という狂乱の指示。
いよいよ大友家という大樹が、根元から自壊へと向かっていきます。
次回は、この狂気に追われた宇佐神宮の社家集団が島津へ逃げ込んでくる【第117話:臼杵の祈祷と神仏の亀裂】。
大友無血解体への王手をお届けします。どうぞお楽しみに!




