第5話:王の恐怖と聖女の種
「私たちがすべきことは、ただ飢えた人々にパンを配ることではありません」夕暮れ時のパテーの陣営。
ジャネットは、膝を突くジル・ド・レに向けて語りかけていた。
「パンは食べればなくなります。そうすれば、人々はまた生きるために、隣人から奪い合うでしょう。私がしたいのは、彼らが自分の手で畑を耕し、自分の家を建て、自分の足で自立できるまでの手助けです。そこに、私たちの全力を尽くします」
その言葉を聞いたジルは、深く頭を垂れた。
「……御意に。このジル・ド・レ、かつて戦を勝たせるために使ったこの命と、全財産を、今度は民の『生』を繋ぐために捧げましょう」
ジルの行動は迅速だった。莫大な金貨を、大量のクワ、鋤、そして飢えに強い良質な麦の種へと変えていった。
さらに、ジルの密やかな呼びかけは、フランス中に潜む「かつての同志たち」を動かした。王宮のドロドロした政治闘争に愛想を尽かしていた良識ある貴族たち――アランソン公ジャンやデュノワ伯らが、水面下で激しく共鳴した。
ジャネットが泥にまみれて人々と共に汗を流す場所には、次々と、飢えのない「自立した村々」が誕生していった。
*
フランス王宮――シノン城。
フランス国王シャルル7世は、届けられた密書を握りしめ、恐怖で全身を震わせていた。
「……何だと? 各地の農民どもが、王たる私ではなく、どこの馬の骨とも知れぬ小娘を称えているだと……!?」
「その娘は『ジャネット・パテー』と名乗り、その背後には大富豪ジル・ド・レと、地方貴族たちの影がございます。
いまやその勢力は、我が国の常備軍を凌駕するほどの結束力を誇っております」シャルルの脳裏に、かつて自分を見捨ててイギリスに焼き殺させた、あの「ジャンヌ・ダルク」の姿が過った。
「ば、馬鹿な! あの女は灰になったはずだ! 偽物だ! 悪魔の化け物に違いない!」
シャルル7世は、激しい恐怖に狂いそうになっていた。せっかく手に入れた絶対的な王の権力。
それなのに、自分の預かり知らぬところで、民衆の絶大な支持を集める「もう一つの国」が作られている。
「我が王位を脅かす最凶の反逆者め……! 我が直属の暗殺部隊をすべて動かせ。あの『ジャネット』とかいう小娘を、歴史の闇に、跡形もなく葬り去れ……!」影が揺らめき、冷酷なる王宮の密偵たちが闇へと消えていった。
ジルの密かな呼びかけ、そして「聖女は生きている」という風の噂を追い、王室の目を盗んで、知将アランソン公ジャン、そして名将デュノワ伯がジャネットの元へ合流した。
大局を見通す政治力に優れたアランソン公が全体の「軍師」となり、ジル・ド・レが「前線の防衛」を担う。
最強の首脳陣が、武器を捨てたジャネットの背後に整ったのだ。
しかし、陣幕の中で開かれた軍議で、軍師アランソン公の口から、冷徹な警告が発せられた。
「ジャネット。私たちの耳にあなたの噂が入るくらいだ。それはつまり、シノン城のシャルル王の元にも、すでにあなたの存在が届いているということだ。王は必ず、国軍ではなく『姿なき暗殺部隊(刺客)』を放ってくる」
「フン、来れば返り討ちにするまでだ。ジャネット様の害になる羽虫どもめ、一瞬で肉塊に変えてみせよう」
ジルが剣の柄に手をかけたが、ジャネットの澄んだ声がそれを遮った。
「いいえ、ジル。それは絶対に駄目です」ジャネットの瞳には、ぽろぽろとこぼれ落ちる悲しみの涙が潤んでいた。
「王の刺客であっても、彼らはフランスの兵士です。彼らをここで殺してしまえば、シャルル様は次にもっと大きな軍隊を送ってくるでしょう。それは、あのドロドロした『内戦』の再来です。また殺し合う地獄に戻ってしまう……!」
「ジャネット、しかし相手はプロの暗殺者だぞ」アランソン公が諭すが、ジャネットの瞳の決意は揺るがなかった。
「たとえ刺客であっても、私はまず、前に出て話し合いを選びます。戦わずに済む道が、彼らと分かり合える光が、必ずあるはずです……!」
自分の命を盾にしてでも内戦を防ごうとする、あまりにも尊い聖女の覚悟。男たちは、その高潔すぎる彼女の背中を、言葉を失って見つめるしかなかった。




