大公の一人娘
「初拝謁、ですか……」
フロラント大公国の公女・ルチアは目をしばたたかせて、両親の顔を見上げた。
「そうですよ。まさか、忘れていたとは言わせませんよ、ルチア」
ルチアの母……大公妃ダリルが、かすかに眉をひそめながら言った。
透き通るようだった緑色の瞳が、暗く翳る。
ルチアは自分の、日光に晒されて褪せたような紅色の髪とは違う、ダリルの鮮やかな緋色の髪を、眩しそうに見た。
「もちろん、覚えていますとも……」
「当然です」
ルチアは日焼けした指で、淡い黄色のサテン地に包まれた二の腕をさすった。
いつもは木綿の野良着を着ているから、こうした繊細な作りのドレスは、着慣れない感じがする。
小さな子供のころは毎日着ていたというのに、最近着ていないだけで、ドレスの窮屈さは身体にそぐわない、と思ってしまう。
だからこそ、こうして母と父は、田舎のラベンダー畑から大公城に呼び戻されて、着替えさせられたのだろうけれど。
ルチアは普段生活している南部の修道院から、生家の大公城──通称マルセル城に戻ってきたばかりだ。
海沿いの農園と内陸の城では、空気が違う。
話すのにも、身動き一つ取るのにも、かすかな違和感がある。
「身のこなしは、一昼夜では戻らないからな」
まるで心の中を読んだかのような父の言葉に、ルチアはギクリと肩をそびやかした。
一人娘を見る大公アンドレアの黒鳶色の瞳は、穏やかな光をたたえ、細まっている。
「農民に混じって畑仕事をしていれば、それにふさわしい身のこなし、仕事に最適化された動きが身につく。
それと同じように、宮殿にふさわしい身のこなしというものがあって、今のおまえは、おそらく、それを忘れてしまっている。
もう何年も修道院で暮らしているから当然のことなのだが、いかんせん、そのままヘルミオンの皇帝に拝謁つかまつるわけにはいかない。
だから最低でも二ヶ月は、城で過ごしてもらうぞ、ルチア」
優しい、しかし有無を言わせない調子の言葉。
この国において最高の権力者である父の言葉に、ルチアは苦笑いを浮かべるしかない。
「承知いたしました……」
「うむ」
フロラント大公国は、ベルミオン帝国の海辺に位置する小国家である。
フロラントの貴族がベルミオンの式典に参加することはよくあることで、もはや慣習の一部といっても過言ではない。
現フロラント大公アンドレアの代でもそれは例外ではなく、こうして公女ルチア・イル・フロラントにも、ベルミオンの帝室から招待状が来たるに至ったわけである。
諦めた様子のルチアに、ダリルは、すかさず、はげますような言葉をかける。
「行儀作法もダンスも、一度はちゃんと身につけたものでしょう? おさらいするだけだから、大丈夫よ」
「うーん……」
「慣れればなんてことないわ。
それに、初拝謁のあとの舞踏会! あなたはなにもかも初めてだからとまどうでしょうけれど、ダンスほど楽しいことはありませんよ、ルチア。
うるわしい殿方に、貴婦人がたに囲まれて、朝まで踊るのは最高よ」
「う゛ーん……」
気乗りしない様子のルチアに対して、ダリルの方はすでに舞踏会で楽しく舞いおどるルチアを思い浮かべ、目を輝かせている。
ダリルもアンドレアも、一人娘のルチアがかわいくてしかたがない。
ルチアはふだん城を離れて修道院で生活しており、もうひとりの子である一人息子も国を離れて修行中の身とあれば、当然のことかもしれない。
その一人息子のギルバートも、ルチアの舞踏会で付き添い役をするために、わざわざ帰省してくれるという。
久しぶりに家族が揃う予定ができて、大公夫妻はご喜悦だ。
「とにかく、まずは拝謁の練習だな」
「ダンスもおさらいしなくてはね」
楽しそうな両親を尻目に、ルチアはひとり天を仰いだ。
豊かな髪が肩を滑り落ちる。
墨色の瞳が不安に揺れ、空虚におぼろな視線が注がれる。
「舞踏会かあ……」
***
二ヶ月後。
冬。
新年の祝いの月。
「つ、つかれた……」
馬車の中で一息ついたばかりのルチアを、ギルバートはすかさず非難した。
「だらしない」
「む……」
「それでも田舎暮らしか? 農民と一緒に農作業に従事してるんじゃないのか?」
「…………」
「それとも、手伝いってのは口だけか」
「違います!」
ルチアは目の前の座席の兄・ギルバートから顔をそむけた。
ギルバートは軍人らしく軍礼装を着込んでいる。
サーベルを杖のように立てて両膝の間に置き、柄の上に手を重ねて、その向こうからルチアを見下ろす。
赤銅色の髪は前から後ろに撫でつけられ、形の良い額の下で、青みがかった色の瞳が、妹の晴れ姿を無感動に眺めている。
ギルバートのルチアに対する態度には、誰が見ても厳しいものがある。
ルチアもルチアで反抗心があるので、ギルバートに萎縮することもなく、言い返せるだけ言い返してしまう。
不思議なことに仲が悪いというわけではないので、ギルバートはこうして妹の舞踏会の付き添い役を買って出るし、ルチアは兄の先導で晴れの舞台に出ることを拒まない。
車内でそっぽを向くと、自然、窓の外に視線がいく。
外は、自分たちと同じように、宮殿から出て馬車で舞踏会の会場まで移動しようとする人々で、ごった返していた。
大量の蹄と車輪に叩きつけられた石畳の地面が、かすかに震えているようにさえ感じられる。
(こんなにたくさんの馬車、初めて見た……)
ルチアは修道院とその周囲の農家で見た光景を思い返した。
収穫期に作物をまとめて運搬するときも、物産を都まで運搬するときも、こんなに馬車はいらなかった。
この大量の馬車の一つ一つに、自分と同い年の若者がいるのだと思うと、途方もない気持ちがする。
「田舎者まるだしだな」
「うるさい。私が田舎者なら、お兄さまだって田舎者なんですからね」
「良いドレス着てるな」
「うるさ……え?」
「母上か」
「そ、そうです」
実際、良いドレスを着ている。
ルチアの肌の色によく映える、真珠のように白い絹のドレス。
白い長手袋は母・ダリルが自身の初拝謁のときにフロラントで仕立てたもので、今でも通用するデザインの、高価な作品である。
ルチア自身、むき出しの肩や背中のすうすうする感じには辟易するものの、それ以外のデザインと着心地には、大いに満足していた。
ダリルは、ルチアのために、国一番の仕立て屋とベルミオンから呼び寄せたデザイナーを用意したのだ。
初拝謁の儀があるこの時期に多忙を極めるベルミオンのデザイナーを呼びつけるのは骨が折れただろうが、そこはベルミオン出身の母、コネを使ってなんとか準備を終えた。
……この兄が妹のことを褒めるなんて。
ルチアはギルバートを疑いの眼差しで見つめた。
「お兄さま、なにか変なものでも食べました?」
「はっ倒すぞ」
「道に落ちてるもの食べちゃダメですよ」
「俺は犬か?」
唐突に、馬車が進み出した。
ようやく動けるだけのスペースが空いたらしい。
石畳の上をひづめと車輪が駆けていく。
小刻みに車内で、ルチアは夕陽の鮮やかな光を眺めた。
世界が暗くなる。
舞踏会が始まる。




