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俗物水滸伝  作者: 孔明
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第59話  楊志、駆け付ける

 人の口に戸は立てられぬという諺の通り、どれだけ隠蔽をしようと隠し切れないことというのはある。

 西門慶がかなり強引なやり方で新しく女を手籠めにしたという話は、すぐに街中へと伝わった。

 今日ものんびりダラダラと仕事を務めていた楊志は、その噂を軽く流す。

 天下の義人扱いされている楊志は、本質的にはただの俗物な駄目人間である。よっぽどのことがなければ赤の他人の不幸に義憤することはない。

 そして金持ちが人の妻を妾として奪うなんて悪行は、この時代には幾らでもあることだ。もっと酷いことなんて、それこそ毎日のように行われている。

 楊志の感覚では今回の一件はよっぽどのことではなかったのである。

 だがその手籠めにされた女というのが、あの潘金蓮というらしいと聞くや否や、楊志は仕事を放り出した。

 他人の不幸にはよっぽどのことがなければ義憤しない楊志も、他人ではない親しい人間の不幸は別である。

 楊志は真っすぐ武松の兄の家へと走った。


「御免でござる。……これはどういうことでござるか?」


 楊志が行くと武松の兄である武大は寝かされていた。

 寝かされた武大には明らかに複数人による暴行の跡がある。

 噂話というのは根も葉もないものも多いが、今回は事実であったのだと楊志は確信した。


「あ、あんた……は……?」


「怯えずともいいでござる。拙者は楊志、お主の弟の友でござるよ」


「そ、そうか……じゃあアンタがあの青面獣……」


 痣だらけで膨れ上がった武大の口元が妙な形をする。分かりにくかったが薄く笑ったのだと遅れて気づいた。

 生辰綱の名を借りた賄賂に堂々と諫言してみせ、続いて景陽岡の人食い虎を武松と共に退治したことで、楊志の名声は本人の実態を置き去りにして膨らんでいる。

 この街に限れば普段の仕事ぶりで武松のほうがやや勝るが、全国規模なら名将・楊無敵の末裔という看板もある楊志が勝るだろう。

 西門慶という力に肉体を痛めつけられ妻を奪われた武大にとって、楊志というのは救い主に見えたに違いない。


「頼む楊志様……天下の義人として知られるアンタを見込んで……一生の頼みときいてくれ……! 金蓮を助けて、くれ」


「案ずるなでござるよ。まずはなにがあったのか聞かせて欲しいでござる」


 武大は西門慶の手下らしい男達にリンチされて、離縁状を書くことを強要されたことや、殺される寸前で金蓮が庇ってくれたことなどを話す。


「そうか……」


 武大から経緯を聞いた楊志の行動は早かった。

 まずは連れてきていた部下の毛英に出張へ行った武松を追いかけ、このことを伝えるように命じる。最近は潘金蓮から逃げるために仕事人間と化していた武松だが、その本質は変わっておらず仕事より人情を大事にする男である。このことを聞けば役目など放り出して直ぐに戻ってくるだろう。

 そして楊志自身な知事のところへ向かった。

 西門慶は陽穀県で一番の有力者である。

 一介の都頭がおいそれと屋敷に踏み込める相手ではない。事を上手く運ぶには知事を味方につける必要があった。

 知事は普通なら単なる都頭が会いたいといって直ぐに会える相手ではないが、幸い楊志には前述の通り天下に轟く名声がある。

 名声というものはこういう時に役に立つ。楊志ほどの名声があれば知事どころか、貴族にだってアポなしで会うことも出来るだろう。

 楊志が来たと伝えると、すぐに知事の部屋へ通された。


「よくきたな、楊志。なにやら急ぎの要件とのことだが、なにかあったのか?」


「これから西門慶の屋敷に踏み入るので、許可と手勢を貸して欲しいでござる」


「な、なんだと!?」


 驚きの余り知事は椅子からずり落ちた。


「西門慶がどういう人物かはお前も知っておるだろう? 何故いきなりそのようなことを言い出す? 西門慶が何をしたというのだ?」


「何もしてないのに、手勢を貸せなどとは言わないでござる。奴は自分の手下を使い、武松の兄・武大を暴行し妻との離縁を強要。その後、妻の潘金蓮を拉致したでござるよ。これは完全に宋国の法秩序に背く行為。踏み入る理由には十分すぎるでござろう。即刻、これを捕縛して罪を明らかにしたいと思う所存」


「そ、その子分とやらが本当に西門慶の手のものだという証拠はあるのか」


「武大の証言がござる」


「そんなもの武大が勝手に言っただけかもしれんし、子分のほうが騙ったのかもしれん。証拠としては弱いな」


 知事は考えた言い訳を捲し立てる。西門慶相手に揉め事を起こすのは嫌だと、額に滲んだ汗が語っていた。


「証拠など、踏み込めば出てこよう。潘金蓮という生きた証拠が、奴の屋敷にいるでござる」


「いなかったらどうする! 相手は西門慶だ、ごめんではすまんのだぞ!」


「西門慶がなんでござるか。たかが金を持っているだけの平民ではござらんか」


「そ、その金が問題なのだ!」


「確かに金は力でござる。しかし金に勝るものが、世の中にはある」


 楊志は鞘から吹毛剣を抜く。楊志が楊一族の正当なる後継者であることを示す家宝であった。

 知事や周囲の警護の兵が警戒するが、別に彼らを斬り殺すために抜いたのではない。

 楊志は知事によく見えるよう吹毛剣を掲げてみせた。

 嘗て楊業が振るったとされる伝説の剣に、知事はごくりと唾を飲む。

 かつて楊業の手で振るわれ、多くの宋帝国の敵兵を屠った刃。されどその刀身には錆一つなかった。


「な、なんのつもりだ楊志……?」


「大宋帝国中書令。楊無敵より数えて七代目の子孫たる青面獣・楊志が、先祖の名誉に賭けて頼むでござる。これでも不足でござるか?」


 楊志の先祖の楊業、或いは渾名から楊無敵。

 宋国に生まれた者ならば、知らぬものなき名将中の名将である。

 ただの成金の西門慶とは、言葉の重みが違った。

 その名誉を賭けられたことで、知事は反射的に頷いてしまいそうになる。


「だ、駄目だ!」


 しかし知事は本質的に凡庸な小市民で事なかれ主義者。命をかけて巨悪に対する覚悟などありはしなかった。


「西門慶は私にも良くしてくれているし、中央にも顔がきく。下手に手を出したら、私の首が飛びかねないのだ。

 数か月もしたら西門慶も飽きるだろう。それから私が西門慶にそれとなく言って、奪った妻とやらは返させる。これで納得してくれ」


「……そうでござるか」


 楊志は中央の人間なので、知事が西門慶からかなりの賄賂を貰っていることと、これ以上はどれだけ言っても動かないことを察した。


(こうなれば証拠を抑えてから、知事の許しを貰わずに、踏み込むしかないでござるな。証拠を揃えた上でさっさと殺してしまえば、知事も許さざるを得ないでござろう)


 自分の再就職活動のため、高官に賄賂を送り付けたこともある楊志である。腐敗した中で我を通すやり方も知っていた。

 知事に形だけの礼をすると、楊志は足早に去っていく。

 知事は楊志にただならぬ気配をかぎ取ったが、止めようとはしなかった。事なかれ主義者はどちらにも過度に肩入れはしないものだ。


(潘金蓮を西門慶が攫ったのは、まず間違いなく自分の妾とするため。二、三日でどうこうということにはならんでござろう。しかし秘めた感情とはいえ、相手は武松の思い人。一刻も早く助け出さないとならんでござるな)


 西門慶に対して、それは余りにも甘い判断であったと、この時の楊志は知る由もなかった。


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