第60話 武松、決意する
楊志にとっての嬉しい誤算は、武松が徐寧との会話で嫌な予感を感じて、急いで陽穀県への帰路についていたことだろう。お蔭で部下の毛英は予想より早く武松と接触し、事の次第を伝えることができた。
話を聞いた武松は昼夜を問わず全速力で走り続け、そして驚くべき速さで陽穀県に帰還を果たした。
陽穀県に戻ってきたならば、そのことを知事に報告しに行くものである。だが今の武松はそんな些末事の構っている時間はなかったので、真っすぐに兄の家へ向かう。
どうか毛英の性質の悪い悪戯か、ちょっと大袈裟に話過ぎただけであって欲しい。そんな武松の淡い期待は、重症で倒れていた武大を目の当たりにして砕け散った。
「あ、兄貴……」
武大の酷い暴行を受けた跡を目にして、武松は絶句する。
肝心な時に開封府にいて、兄を守れなかった不甲斐なさから、鬱血するほど手を握りしめながら、武松は兄に駆け寄った。
「兄貴! 兄貴は大丈夫なのか!?」
「街一番と評判の医者に診せた。幸い完治には時間がかかるが、命に別状はないそうでござる」
楊志の説明に一先ず安心する。
潘金蓮のことで苛立ちすら覚えた兄であったが、こうして傷ついた姿を目の当たりにすると、そんな感情は雲散霧消してしまう。
兄が死ななくて良かったと武松は心より安堵する。
「……俺のことなんて、どうでもいいんだ」
沈み切った声で、武大は悔し涙を滲ませる。
「金蓮を……金蓮を、西門慶の奴に奪われっちまった……情けねえよ、俺ぁ……」
「西門慶っていうとあの金持ちか。――――分かった、兄貴はここで待っててくれ」
武大への親愛と潘金蓮への慕情とでぐちゃぐちゃになっていた心。
皮肉にもそれが武大が無事だったことで感じた安堵によって、一つの形(答え)になりつつあった。
「どこへ行く気でござる?」
「金蓮を取り戻す」
楊志に迷いなく返答する。
「俺のことを助けようとしてくれているのは嬉しいが、やめてくれ武松! 西門慶はこの街で一番の有力者だ! 屋敷には護衛だって沢山いるって話だ! いくら虎殺しの英雄だって、手を出したらただじゃすまない!」
「……なら兄貴は泣き寝入りするのか?」
「俺は金蓮を失った。弟のお前まで失ったら、もう生きていけないんだ。分かってくれ」
兄が純粋に自分のことを心配して言っていることが、武松には痛いほどに伝わってきた。
父母と兄とずっと四人で暮らしてきたが、中でも最も長い時間を共有したのは兄である。喜ぶのも悲しむのも、常に一緒だった。
だからきっと同じ人に恋をしてしまい、愛してしまったのだろう。
その兄をこれから裏切る。最初で最後に一度だけ裏切るのだ。
武松は決心して、これまで兄にだけは知られてはならぬと隠していた本音を告げる。
「兄貴。俺は兄貴が思うほど立派な弟じゃねぇんだ。金蓮を助けに行くのは兄貴のためなんかじゃねえ。俺のためなんだよ。俺があの女を救いたいから、そうするんだ」
「武松……もしかしてお前?」
兄弟である。それだけ言えば思いは通じ合った。
「すまねぇな兄貴。これが終われば俺はこの街を立ち去る。もう二度とここに来ることはねぇ。だから最後に……あいつを助けるこの時だけ、俺を金蓮の男にさせてくれ」
ずっと悩み、苦しみながら、辿り着いた答えはそれだった。
一度決めて口にしてしまうと、心にかかっていた靄が晴れていった。
男は有言実行であるべきだ。
口に出したなら、もう実行するだけである。
武大の家から出る直前、武松は一度だけ振り返る。
「楊志、お前は止めねぇのか? これから俺がやるのは、たぶん法に反することだぜ」
「怒ったお主を止めるならば、拙者も殺す気で戦うしかないでござるな。だが拙者は皇帝の勅命だろうとお主を斬るのはまっぴらでござるよ」
皇帝の勅命は法を超越する絶対だ。法が死刑と決めても、皇帝が無罪であると勅命で宣言すれば判決は引っ繰り返る。勅命一つで栄達したり没落したりする一族なんて、史上にいくらでも例がある。
名門楊家の末裔たる楊志が、勅命の重みを知らないはずがない。
なのに敢えて楊志は皇帝の勅命を持ち出して断言したのだ。その心意気を理解できぬ武松ではなかった。
「行け、武松」
「恩に着る。俺にもしものことがあったら……兄貴を頼んだ」
「断るでござる。自分の兄のことくらい、自分でなんとかするでござる。拙者は絶対に面倒なんて見ないでござるよ。だから決して死ぬではないぞ。そう誓わねばやっぱここ通すのやめるでござる」
「……誓おう。必ず死なねえ」
「では行くがいい」
心の中で頭を下げ、武松は西門慶の屋敷へ向かった。
西門慶に落とし前をつけて、なにより潘金蓮を救い出すために。
「さて。武松が動いたなら拙者も急がねばならんでござるな」
武松を見送った楊志もまた覚悟を決めた。
証拠集めの為に動かしていた部下の一人が、武大の家に駆けこんでくると、楊志に耳打ちする。
「首尾は?」
「幾つか気になる噂を耳にしましたが、証拠という程のものは何一つ。申し訳ありません」
「では西門慶と一番親しく付き合っている役人は誰か分かるか?」
「それなら王都頭です。西門慶は役人に気前よく賄賂をばら撒いてますが、特に王都頭の面倒をよく見ています。王都頭も西門慶とはべったりで、殆ど子分のようなものだと街中では評判ですよ」
「その王とかいう都頭は、今どこにいる?」
「この時間でしたら恐らくは巡回中かと」
武松に続き楊志も武大の家を飛び出した。
急がなければならなかった。




