事実
夢らしき夢なんて見ていない。長らくにおいて独り真っ暗闇にいた。出口探して歩く気にもなれない。ただ、その場にいるだけでも安心感はあった。なぜなら、誰の気配もないから。誰も追いかけてくることはない。ようやく自由になれたのだと思っていた。
そう思っていたのに――。
「起きてくださいよ、クラッシャー先輩」
間の伸びたような自身にとって腹の立つ声。真っ暗闇から突如として光が差し込む。視界の端よりこちらの方へ覗き込む見覚えのある者――名なしがいた。
頭の中に流れ込む場景。否が応でもこの場から逃げ出したかった。急いで起き上がろうとするも、頭痛がした。頭を押さえたくても手が動かない。いや、それどころか首以外、体が動かなかった。何がどうなっているのか全くわからない状況。ガタガタと音が鳴る。何の音なのか。
「……くっ!」
思わず声が漏れる。その自分の声に固まってしまった。どこかで聞き覚えのあるこの声――。
「無駄です、逃げるなんて。体を縛りつけているんですから」
名なしが言う。もう一度、体を動かそうと試みた。動かない。その理由は固定されていたからなのか。ここまでして、己を殺したいか。ここまでやって、自分だけ自由になるつもりか。自身の歯を強く噛んだ。
「冗談じゃねぇっ! かいほっ……!?」
自分の声に再度固まる。間違いない、これは自分の声じゃない。男であるはずの声が女の声になっているではないか。今の自分の体はどうなっているのか。夢ではないのはわかるし、意識もはっきりとしている。視界の先にある物ははっきりと見えていた。憎たらしい名なしがそこにいるから。
「な、何が一体、どうなっているんだ……?」
固定されている右手の方を見た。その手は自分が知っている真っ黒な手ではない。女性のような細い手である。今の自分の状況が視界でわかるのはそれだけ。
すると、名なしはこちらに鏡を向けてきた。そこに映る己を見て驚愕する。伸びきった黒い髪にくせ毛。自分に似た女性の顔があった。頭には痛々しく包帯が巻かれている。
「なっ、に……!?」
なぜ、自分がこの姿なのか。
「…………」
名なしは何も言わずして、鏡を向けるだけ。その表情は何も言えない様子だった。
「なんで、俺がハイネの姿になっているんだよっ!」
「クラッシャー先輩の脳とハイネ先輩の脳を入れ替えたんです」
「はあ!?」
意味がわからなかった。いや、言っている言葉はわかる。それが本当だとするならば、自分の体は? ハイネの脳は? 何がどうなって、自分たち兄妹にこんな仕打ちが訪れるのか。
「本当は別にクラッシャー先輩の体でもよかったんですがね。損傷がひどくて使い物にならなくなっていたので」
「だったら、ハイネはどうなるっ!?」
「ハイネ先輩は――」
手に持っていた鏡を下ろした。
「死にました」
目を大きく見開く。ハイネが死んだ?
「鬼哭の村で殺されたそうです」
記憶の引き出しから引きずり出されてくるハイネの後ろ姿。彼女と自分を怯えたような目で見てくるキリの姿。ああ、そうか。妹を殺したのは――。
「だったら、なんでだ?」
「何がでしょう?」
「なんで、俺を殺さなかった? なんで、ハイネの体を使った?」
眼前にいる名なしに苛立つ。
「お前は俺を殺したかったんだろ!? デベッガを使って! なあ!?」
そう怒鳴り散らす。完全に敵意むき出しのこの状況でもなお、名なしは表情一つも変えやしない。じっとこちらを見てくるだけの無表情。何かを吐き捨てるように、興味のなさそうにしているその目。気に食わない。その目が。腹が立つ。眼前にいる彼女の存在が。
歯を立てているハイチに「らしいですね」と吐き捨てた。そんな過去、どうでもいいとでも言うような発言。まさに他人事。まさに傍観者の戯言。冗談じゃない。今の今まで「死ね」や「あんたが悪い」などと言ってきていたのに。知らない記憶にも同じようなことを言われていて、それが自身の前世らしきものだったことに対しても、ムカっ腹が立っているのに。
「……あれか? 名なし様は自分が優勢に立っているからそんな腐った発言ができるんだろ?」
それだからこそ、皮肉った言葉しか思い浮かばない。
自分はもうこの世にいても意味がないと思っていた。肉体が滅びて、脳だけ生きていた。その器として自身の妹であるハイネの肉体を利用して生き返らせられた。最悪だ。こんな状況にもなってまで逃げたいとは思わない。むしろ、死を欲する。逃げる、逃げないの問題ではないのだから。
このようなことなんて――。
「そうですね。でも、あたしたちが死者を冒涜していることは十分に理解していますよ」
「じゃあ、殺せ。早く、デベッガ連れてきて、殺せよ」
わかっているくせにして。おもちゃのようにしているのは許しがたい。もう自棄にでもなっているのか、そう言い放った。
「名なし様もさぞかし、死を待ち侘びているんでしょ? おら、早くあのクソ野郎を連れてきやがれ」
「無理ですよ」
即座の解答に睨むようにして名なしを見た。じろりと外見はハイネなのに、似つかわしくない眼光を向けている。
「あたしの名なしとやらの存在の記憶は欠落している。これは言わば、殺すことはできないんです」
「何の戯言を言っているんだ? きちんとした言葉で話せよ」
「人の言葉を理解できないおツムですか? あたしより年上のくせにして、本当に残念な人です」
「お前に言われたかねぇよ、ばぁか」
挑発でもしているのだろう。そう茶化すが、名なしは無反応である。全く気にしていないどころか、ハイネ――否、ハイチ自身に興味などないとでもいうような面持ち。自分を殺すと言っていた覇気ある気配も失せていた。
「とにかく、今からクラッシャー先輩はハイネ先輩です。女性なんですから、今までのような装いには気をつけてくださいよ」
それだけ言うと、こちらの方に持ってきていた仕事の資料類を片付けて部屋を去って行ってしまった。この場にはハイチだけが残る。
「……殺す気がねぇなら、これ解けっての」
身動き一つできないこの状況にハイチはどうしようもなかった。それどころか、今日はいつなのだろうか。ハイネは普段はショートカットなのに。先ほどの鏡を見たとき、伸びきっていたことから相当な時間が経っているとわかった。それだからこそ、固定された体を自由にしようと、もがけばもがくほどに力が抜けていく感覚に陥る。ほら、もう疲れた。
「ああ、クソっ」
舌打ちをしていると――「力を抜け」そう、男性の声が聞こえてきた。声がする方を見ると、いつの間にかラトウィッジがこの部屋にいたのだ。いつからいたのだろうか。
「解いてやるから力を抜けと言うのだ」
「なんだよ、エロジジイ。外は美人だけれども中身は男だぞ」
「失敬な。解いて欲しくないのか。それともこの状態で過ごしたいか?」
ラトウィッジの言葉に黙った。束縛は勘弁だからである。固定されていた物を解いてもらいながら、ハイチは口を開く。
「名なしとはあんまり会話にならねぇ。おい、教えてくれ。なんで俺は生かされた?」
「オリジン計画という物を知っているか?」
元コインストの一員であるハイチならば、何か知っているかもしれない。そう思っていた。
「言えば、俺は自由かね?」
「ちょっとした自由はある。本当の自由を手に入れるためには我々に協力してもらわなければ、叶わないだろう」
「はぁーん、交換条件か。ってことは、あのときの事情聴取の続き?」
「包み隠さず話してくれると言うのであれば、あのような真似はせずして、普通に質疑を応答してもらう」
「……乗った」
こうして、ハイチは自由へと一歩近付いた感覚になった。それだけでも喜ばしいと思える半面、なんとも言えない現状が待ち構えていることをまだ知らないのである。
◆
以前に比べて待遇はよくなっていた。まず、絶対に千切れないロープ君か何かで縛られず、普通に椅子に座れているのだ。楽な姿勢も取れる。白湯も出てきた。本当はジュースとかお茶の方がよかったが、一年も眠りについているならば、仕方あるまい。
ハイチはだらしない座り方で「何でもこいよ」と受け入れ状態は常時構わないと言う。
しかし、待て。向かいの席に座るラトウィッジにとってはその着座は好ましくなかった。いや、ハイチ自身が男の姿であるならば、多少の目は瞑る。だが、今は女性の体なのだ。足をそんなに広げられても――。
「もっとおしとやかに座れないか。ハルマチも言っていただろう?」
「やだぁ、おじさんエッチぃ。本物のエロジジイなんじゃねぇの?」
「キンバーはそんなに私を変態扱いにしたいのか? 調子に乗るんじゃない」
余程、自由に手足が動かせるのが嬉しいのだろう。妙にテンションが高い。だが、あまりこういうことで時間を潰したくはなかった。
「さて、先ほどの質問に答えてくれるか? キンバーはオリジン計画を知っているか」
「オリジン計画ねぇ。あぁ……知らないな。俺自身、勝手に腕を改造されて意識がない内にバトルされていたんだから。ほら、なんて言うの? 金賭けてするやつ」
「商業の町の地下博奕闘技場のことか?」
それならば、意識がなく戦うというのはどういう意味か。果たして、そのようなことが可能なのか。
「意識がないのはどういうときだ?」
「うーん、主にあやしい仮面を被っているときだったかな? でも、そのときに一度だけ誰かに助けを求めた気がするような……」
ハイチ曰く、そのときは夢を見ているような感覚で意識があるようでなかったと言う。
「何て言えばいいのかな? 金縛りっていう感じ? それで自分の意思とはほど遠い行動を取りそうな感じたったからメールだったっけ? それを送った気がしなくもない」
そのメールは誰に送ったのかすらは曖昧らしい。送信履歴を確認しようにも、ハイチの連絡通信端末機はない。どこへやったのかすらも見目回答つかないとか。
「うん、でもその仮面が俺の意識を乗っ取りをしていたで間違いないよ。あの雪山で――」
ターネラからメールが届いた。話があるという内容だった。彼女がハイネやセロではないから、何だろうと思って電話をした。
【すみません、急なお電話……】
そうだ、あのときはウンベルトと共にいた。移動をしなければならないと言われたから。だから、それに従うようにして彼の自家用車に乗せられた。ターネラが話そうとしたときに邪魔をするようにして連絡通信端末機を盗ってきたんだった。
【何やっているか知らないけど、そんなの要らないよ】
【あんたが、人の物とか取らないでくれるか?】
そんなの要らないはずではない。端末機を持っていて、何がおかしいというのだろうか。そう言い返そうとしたとき、ウンベルトは仮面を自身の顔に着けてきた。
【きみは断ち切ったのだろう? 人というものを】
その返答に拒否権は一切なかった。いや、それが当たり前であると体が勝手に反応したのだ。
「信じてくれるか知らないけれども、俺は意識なく操られていた」
「そうか」
ハイチの説明にラトウィッジは納得してくれた。これに彼はほんの少しばかり驚く。
「ならば、改造した者はウンベルト・バグスターという男で間違いないだろうか」
「おう。って、なんだよ。知っているじゃん。この前のは訊くまでもなかったんじゃないの?」
微苦笑を浮かべながら白湯を飲む。うむ、言うほど美味しくない。
「あのときはまだ情報がなかったからな。ちなみになぜ、改造されたかわかるか?」
「……事故だよ。俺、出稼ぎで労働者の町に来ていたんだけれども、工場内で誤って両腕切断してさぁ。運ばれた病院の担当医があの白髪ジジイだったんだよ。そんで、俺はハイネや先生たちに迷惑かけたくなかったから、義手でも何でもいいからつけてくれって頼んだんだよ」
「それが異形生命体の腕だったと?」
「ぽいな。あれ、元々俺の腕だけれども。何でも最近の医療技術はすごいんだぞ、って言われて……なんて言っていたかなぁ? 何たら剤っていうのを壊死した腕に入れて、血管も別につないで、って。まあ、なんでか火傷痕の腕になっちまったけれども」
「…………」
「定期的に検診に来なければ、その腕がどうなるかわからないって言っていたから、何度もあのじいさんのところに行っていたんだよ。……その建前上の裏がああとは思いもよらなかったがな」
経緯を話してくれているハイチには感謝しているが、内容がなんとも言いようがなかった。ウンベルトは最初から彼が皮膚硬強化剤に耐えうる遺伝子を持っていたから。ハイチは自分のことを知っていると思っていたのだが――。
「でも、あのジジイは俺が義手をつけてくれって言うのわかっていたのかね? 腕はすぐにつけられるよって」
「……それは違うと思う。きみは騙されていたんだ」
「あ?」
若干の怒りの色が見えてきた。
「おそらくバグスターがキンバーを半異形生命体として完成したから利用したんじゃない。最初からだよ。すでに壊死した腕には皮膚片強化剤を投入されていたんだ」
「はあ?」
「もしも、あのときにそれが腕に耐えきれていなければ、彼らは義手なんてつけると嘯いて、失敗型の異形生命体にされていただろうに」
「…………」
「そして、もっとも重要ながら、キンバーは『半』異形生命体であったこと。それをやつらは隠した。また、脳内に埋め込まれていた脳情報遠隔操作装置で地下博奕闘技場における記憶を隠蔽していたはずだ」
ヤグラからの報告ではハイチの記憶には所々ロックが存在していたと説明していた。だが、その中身がツギハギの記憶と言われると、何のことかさっぱりだろう。きっと彼もそれを聞かされてもわからないと答えるかもしれない。だが、訊いてみないことにはわからないはずだ。
何も言葉を発しないハイチをよそに、ラトウィッジは次の質問へと移った。
「キンバーには所々知らない記憶があるんじゃないのか」
「……ああ。それもあのジジイたちが仕組んだのか?」
「可能性としては高い。ルーデンドルフ氏曰く、きみの記憶とは完全に別物のようである、と言っていた」
「さあ? その記憶、俺の前世っぽい? いつも名なしに殺される間際の記憶ばっかり」
ハイチは怪訝そうに頭を掻きながら「でも」と言葉を続けた。
「俺は『神様の日記』にいたずらなんてしちゃいない」
◆
『神様の日記』。アイリが持っていたピンク色の分厚い本であり、本人もそう言っていた。ラトウィッジは本部の部屋の方に戻ると、ため息をつく。現在、この場に彼女はいない。ここにいるのはエドワードのみ。
あの本は自分たちが読めないし、考古学者たちを持ってしてでも解読不明な文字が書かれている。それにそのページには所々破れており、勝手に文字の修正をされたりしている訳のわからない手記なのである。
【俺は『神様の日記』にいたずらなんてしちゃいない】
先ほどのハイチの言葉を思い出す。もしも、その本自体が『神様』――キイ神の日記であるとするならば? いや、その線は低いか。だったら、『カムラ』の日記か? アイリは『神様』としか言っていないからどちらを示すのかわからなかった。いや、そのどちらかでなくとも、人々が崇拝する神様は多々ある。
「…………」
頭を悩ませていると、それを気にかけてかエドワードが「何かありましたか?」と訊いてきた。
「手が空いておりますから、何かできることがあれば――」
「いや、ありがとう。――が、そう言えば、ハイチ・キンバーは学徒隊員の時はどんな人物でしたか?」
いくら学校時代は次席だと聞いていても、軍基地で会ったとしてもハイチの中身はあまり知らなかった。取り調べのときは横柄な態度を取っていたということもあったから。だからこそ、よく知っているはずのエドワードにそう訊ねた。
「キンバー君ですか? 彼はそうですね。結構お騒がせしている子ですね。良く言えば、元気があり余り過ぎ。悪く言えば、トラブルメーカー」
どちらも悪い意味とでしか捉えられないのは気のせいだろうか。
「でも、当時も今も昔も妹のことを大切に思っている子どもだと思いますよ」
「彼は成人しているんじゃなかったか? 子どもって……」
「すみません。初めて会ったときからちょっと……。総長がそのようなことを仰るのは、キンバー君は目を覚ましたんですか?」
「ええ。私たちに比較的協力的ですよ。最初は戸惑っていたみたいですけれども」
「でしょうね。だけれども、彼は不安定なときもあるでしょう? そこがどう対応するかですよ」
まさかキリみたいにしてパニックになることはあるわけないし。なんて鑑みるも、その可能性は低きにもあらず。ハイチは自身の肉親が殺されているところを見ていたはずだ。あのときだけの記憶がないはずはない。
ということは――。
「ちょっと、キンバーの部屋に行ってきます!」
「えっ? あ、はい……」
ラトウィッジは部屋を飛び出して、ハイチのいる部屋へと急いだ。案内はしたものの、エドワードのあの発言を聞く限り、大人しい人物ではないと嫌にわかる。彼が記憶なし状態のキリと会ったら? アイリはそのことについて何の説明もしなかった。ハイチはキリがこの病院にいることを知らないのだ。出会ってしまったら? 絶対に一触即発につながりかねないことになってしまう。
「キンバー!」
勢いよく開けた部屋。そこにハイチはおらず、花畑と化したがらんどうな部屋が佇んでいた。
どこへ行った!? この部屋でなるべく大人しくしていろと言ったはずなのに! まだ病み上がりなのに、体力も落ちているはずなのにどこへ消えた!?
部屋にいないハイチを捜すためにラトウィッジは病棟内を奔走する。
◆
病人がなんだ。そんなものハイチにとっては関係のない話。ハイネの肉体を持つ彼はこっそり、こそこそと病院の施設内からの脱走を試みていた。
別にこの場所で飼われているのは嫌ではないのだが、暇なのである。それに大量の花に囲まれて大人しくしていろと言われるのがハイチにとって嫌いなこと。部屋に入った瞬間に漂ってくる甘ったるいにおい。いや、普通に花が嫌いではない。学校の花壇に咲いていた花やいくつかの花瓶に活けられた花はまだ我慢できる。だが、あんな大量に――。それもそこで花屋ができるんではないだろうか。とんでも量の花に囲まれたあかつきには逃亡もしたくなる、なる。
「あのおっさん、俺を見張っているわけでもなかったしな」
だからこそ、今は病棟の外に出ることができていた。周りにはちらほらと別の入院患者たちも存在しているようで、彼らに紛れ込んでいれば安全だろう。
「……ふははっ、ガキのときに幾度となく脱走に成功した俺を舐めんなよ」
幼少時の脱走の原因はほとんどがお手伝いである。あるときは施設内のトイレ掃除当番をサボるためにトイレから脱出したり、庭掃除をサボるには周りの目を盗んで塀からの脱出。門から出ない。出れば見つかるのは当然であるから。
さて、せっかく脱走したのだ。せっかくだし、この施設内を見て回るかな。そう考えていると――。
「ハイネ?」
後ろから呼びかけられた。ああ、そうだ。今の自分はハイネであるからそう演じないと。
とっさの反射で「はい?」と後ろを振り向いた。そこにいたのは驚きながらも愁眉を見せるセロとワイアットである。
――げっ。
思わず顔を引きつらせる。一番ここで合うべきではない者たち。幼少時のセロであるならば、自身の脱走に関して大いに賛成してくれるだろうが、今の彼はそうはいくまい。大人しくしていろと言われるがオチだ。そして、それ以上に厄介なのがワイアットである。彼の場合は超しつこい。それに限る。
「お前、目が覚めたのか?」
「お――う、うん。そうだよ」
自身の妹であるのに、話し方はそれでよかったのか混乱するハイチ。これでよかったっけと安堵している当たり、あやしい目で見られているのには気付いていない元残念系イケメン。
「いいんですか? まだ頭痛々しそうですけれども」
「だ、大丈夫だよ。外の空気も吸わないとね」
「でも病み上がりだろ? どう考えても」
なんだか二人はハイチを病室へと戻しにいこうとしている。じりじりとこちらへにじり寄ってきている気がしてたまらない。
おうっ、やめておくれ。外の空気を吸いたいだけなんだ。あんな甘ったるい部屋にいる気も起きないし、誰かとコミュニケーションを取る場所にいても気まずいだけなんだよ。
「戻りましょう? お怪我に触りますよ」
「いっ!? ちょっ!?」
ワイアットが手を引いて連れていこうとする。それが嫌。いや、彼自身が嫌ではなく、ハイチ自身も男であるのであって――。
――あーあ、こいつの性別が女だったらまだよかったのかもしれん。
なんて訳のわからないことを心の中で愚痴る。これはもう逃げられないかと諦めかけたときだった。
「こらぁっ!!」
前方より現れた鬼神が如き男の登場。ラトウィッジだ。これは諦めるより逃げるがいい。本能がそう告げる。慌ててワイアットの手を振り解いた。
「うわっ、ヤベぇ!」
なんて言い残して走り去って行ってしまった。二人の横をラトウィッジが通る。追いかけ合いを始めた彼らを見てセロは眉間にしわを寄せた。
【うわっ、ヤベぇ!】
「ハイネさん、病み上がりなのに元気ですね」
ハイネの言行に違和感があるのは気のせいなのだろうか。
◆
脳が知っているから、覚えているから反射神経的に駆け出してしまった。ラトウィッジのあの怒りように見覚えがある。ヒノがそうだった。年が結構いっている割には元気良く走っていたのだから。
そう、ヒノ――。
【捜していたんだぞ】
【大きくなったなぁ、ハイチ】
【帰ろう?】
――あっ。俺……。
今ある記憶だからよみがえってくる。血の場所、血塗られたヒノとキイ教教典。
あんなことをしてしまった自分は? これをハイネやセロが聞いたら? 嘘で塗り固めて生きてきた自分は許されるか。いや、許されるはずはない。
「…………」
後戻りできないことを今更ながら悔やむ。ハイチが病棟の裏の方へと歩み寄っていると――。
「おいで、おいで」
裏の雑木林で木の上に止まっている小鳥を呼び寄せる、見慣れた後ろ姿の少年がいた。
――ハイネを殺したやつ。
突然に頭の方に血が上るも、ふらついてしまった。頭がクラクラとする。ああ、そうだった。頭に手術痕があるから危ない。
壁に寄りかかり、少年――キリの様子を見た。キリは小鳥を呼び寄せている。それは小首を傾げつつも指に止まる。まあ、なんとも能天気だこと。今のこいつがハイネを殺してのうのうとしている時点でムカっ腹は再び湧き上がってくる。腹の底が煮えたくっていたが、妙な気配がして足がガクガクと震えてくるのはなぜだろうか。このようなことがなければ、殴りかかっていただろうに。
己の妹を殺したのに、なぜにこいつはここにいる。なぜにここで小動物と呑気に戯れているのだ。
そうハイチが歯軋りをした途端――。
キリは罪悪感もなんとも思わない表情を浮かべながら地面に落ちていた枝で小鳥の首目掛けて突き刺した。
そこだけ静寂が訪れる。ややあって、聞こえ始めてきたのは骨が軋む音。肉が千切れる音。微かながら小鳥の声が聞こえるだけ。ハイチはただ唖然とするだけ。頭が上手く回らない。
――虐殺!? ストレス解消!? あいつ何してんの!?
膝を震わせていたのは体力切れではない。ただの恐ろしさに震え上がっていただけの話。それに気付くのが遅れてしまっただけ。
その恐ろしさはもっと肥大化して振りかかってきた。キリは引き裂いた小鳥の体を生のまま食し始めたのである。滴る血。口元にこびりつく血肉。もはや、ハイチは立っていることすらもままならない。
何がどうなって――。ああ、恐ろしや。これは幻か。確かめたくても確かめられない。体が動かないのだから。もし、このまま立っていられなかったら? 標的を自分にされてしまったら? 自分自身はいい。だが、この体はハイネの物である。
ハイネが殺される前に、キリがこちらに気付く前に。
立ち上がるに立ち上がれない。その臆病な自分に苛立っていると、横をアイリが通り過ぎた。彼女はそのまま一直線に死肉を貪り食うキリのもとへと向かう。
「キリ君」
アイリに気付いたのか、手に持っていた死体を隠した。今度はキリが怯える番である。
「隠した物見せて」
キリは首を横に振って否定する。
「隠しきれていると思ったら大間違い。話は聞いているんだから」
――話?
「…………」
「総長と約束、したんだよねぇ? そんなことはしないって」
キリは黙ったままである。
「それさぁ、よくないよ。あたしはまだいいけど、メアリーがそれ見たら絶対きみから離れるよ。嫌われるよ」
「……うん」
どういうことなんだ、と思考回路が上手く回らないハイチのもとに「見つけた」とラトウィッジがやって来る。そして、この状況を瞬時に把握した。
「立てるか?」
「い、いや、腰が抜けて」
恐れ知らずとでも言うようなハイチであってもこの惨状は危険だったようだ。あまりにも非情であり、非常識なその現状は受け入れがたい。
アイリはキリを連れてその場を後にする。誰もいなくなったその場所でラトウィッジは鼻でため息をついた。
「キンバーが彼の姿を見たのがあれでよかったのか、それとも悪かったのか」
「心臓に悪いに決まってんだろ。あいつの頭はイカレたのかよ」
「いや、今のデベッガの記憶は数年前の記憶しかない状態だ。幼少の頃から育ての親に出会うまで、ああして生きてきたらしい」
「何の冗談だよ」
「冗談は一切ない。あれがデベッガにとって当たり前の日常だったんだから」
「…………」
今まで見てきたキリは嘘で塗り固められた存在であったこと。ありのままの彼は生きるためならば、血肉を啜ってでもいたこと。ハイチが作った嘘の城とは全く別の次元の物だった。あんな物、どう足掻いても築き上げられない。
「名なしが俺を殺せないって言っていたのは……」
「そういうことだ。デベッガは現段階で過去の歯車は使えないし、ハルマチもそのことに関する記憶がない。故に、きみを生かすことに同意した。いや、彼女が自ら選んだと言っても過言ではない」
「は?」
「彼女がキンバーを生かしたのは、名なしが失くした記憶を聞くためだ」
◆
キリの奇行は浮き彫りになるようにして目立ってき始めているらしい。それを最初に目撃したのはラトウィッジ。そして、マックス。体力作りの休憩中の事だったそうだ。休憩も終わって再開をしようとしても彼がいなかったため、二人で手分けをして捜していると――それは悲惨な光景だった。
まだ人目につかない場所だったからよかったのかもしれない。キリは雑木林にいた小動物を生で食していた。すぐに止めさせるようにした。
【なんで、ダメなの?】
曇りなき眼でそう言ってきたそうだ。そのことについてはアイリも二人から聞いていた。だから、先ほど初めて見てハイチのように腰を抜かしそうになった。本当は声をかけたくないと思った。だが、あそこで止めていないと、歯止めは利かないと思ったから。誰かが言わないと、キリは一生ああしていただろう。
予想以上の悪癖。
「…………」
アイリはインフォメーションのカウンターの奥で書類を眺めては険しそうな表情を浮かべる。なんとかキリのあの悪癖を治せないだろうか。注意されてからの行動。メアリーやエレノア――他の病院患者には絶対見せられないだろう。かと言って、監禁状態はもうできそうにない。どうしたものか。
「おい」
声がする方を見ると、そこにはハイチが立っていた。指でこっちに来いとジェスチャーをする。カウンターには他の看護師がいたため、その場を任せて彼のもとへと赴く。
「お前が知りたいことを教えてやる」
「えっ?」
「記憶、失くしているんだろ? だったら、俺がお前に『本当』の真実を教えてやるよ」
ハイチは嘘をついているようには見えなかった。記憶が戻るならば。彼は何かを知っている素振りであった。
◆
その場で話すことはできないためハイチの部屋へとやって来た。色とりどりの大量の花があり、彼は煩わしそうにしている。
「悪いが、窓は開けるぞ」
「いいですよ」
窓を開けると、外の空気のにおいを嗅いで安心した顔を見せた。部屋の中は花のにおいでいっぱいだったが、すぐに掻き消えてしまった。アイリは少しだけ残念そうにする。
「それで、クラッシャー先輩。あたしに何を教えてくれるんですか? 名なしとしてのあたしのこと?」
「そうだな」
ハイチは外からこちらの方を向いて、こう言い放った。
「名なしはどうして俺を殺したがっているのかすらも忘れているか?」
「えぇ、そうですねぇ」
「つまりは、そのときの憎悪すらも記憶の彼方に飛んでいっちまっているということか」
「そうですねぇ」
なんだかじれったいな、と思う。
「もしも、ではあるが……お前が記憶を取り戻したとしても、俺から聞いたことを信じるか? それとも自分の記憶を頼りに俺を殺そうとするか?」
「……なんだか、あたしは今まで勘違いしていたみたいな言い方ですけど」
「それ以外にどう捉えるつもりだったんだ?」
花が風によって揺れる小さな音が静寂な部屋に鳴る。
「お前は自分の発言と記憶すべてが正しいとでも思っていたのか?」
「違うんですか?」
「……記憶がある状態のお前の頭の中を見てみたいわ」
空笑いしつつ、一時の間を置くと――。
「とにかく、名なしは殺そうとする相手を間違えている」
「…………」
「要は、俺は世界改変者じゃないってこと」
アイリは何も言えなかった。自分が行動を起こそうとしていたことはラトウィッジから聞いていた。キリを使ってハイチを殺さなければならない、と。そして、その殺そうとしていた相手は以前の彼女が盛大な勘違いをしていたと言うではないか。
「名なし、お前は自分と俺、どちらを信じる?」
またも静寂な時間が訪れた。風の音が聞こえてくる。
「別にお前が俺の言うことを信じたくなければ、結構。名なし、お前の使命は確かに世界改変者を殺すことだ。そうすれば、その柵から解放される。自分の信念を貫きたければ、貫けばいい。俺は死んでも、もう文句は言えない」
「じゃあ、あたしが殺さなければならない相手はどこにいるんですか?」
「そんなの俺に訊くなよ。俺が知っているわけじゃない」
記憶がないのに更に困惑させるようなことを言われた。もし、そうであるならば、絶対記憶を取り戻さなければならないだろう。
「ならば、なんで今までそう言わなかったんですか?」
「普通にお前が人の話を聞かないからだろ」
「クラッシャー先輩があたしにちゃんと教えてくれないのが悪くありません?」
「お前がいきなり死ねと言ってきて襲いかかってくるのが悪い」
「いや、先輩が――あれぇ? 悪くなかった?」
あれ? なんだか自分の勘違いで話は進んでいたのか? 何も覚えていないにしろ、ハイチに対して罪悪感を持ち始めるアイリは申し訳なさそうにした。
「先輩って、嘘ついていなかったんだ」
アイリのその言葉にハイチは小さく反応を見せる。今度は彼が何も言えなくなる番だった。だから、話題を変える。
「……ところで、デベッガの記憶って元に戻るのか?」
「いえ、どうなるかわからないから。先輩と似たようなやり方で戻す予定です」
「俺と?」
ハイチは片眉を上げる。
【クラッシャー先輩の脳とハイネ先輩の脳を入れ替えたんです】
目を覚ましたときに言われた言葉を思い出した。同じようなやり方と言うのは体と脳のトレードでもするつもりなのか。なんて考えていると、アイリは「想像しているのとは違いますよ」と頭の中でも見たのか。そのようなことを言ってくる。
「クラッシャー先輩の場合は言いたくありませんが、本当に異形生命体のような形で生き返らせているんです。脳情報遠隔操作装置で生きている状態です」
「俺の脳がハイネの体の中に入ったから、生き返ったんじゃねぇの?」
「いいえ。取り除いて新たに入れたとしても、それで生き返る確率はかなり低いです。ていうか、無理です。故に、チップで無理やり脳と体を起こしているんです」
アイリは「言ったはずです」と言葉をつなげた。
「私たちは死者を冒涜していることを十分に理解している、と」
「…………」
「キリ君の記憶の戻し方は脳情報のデータを脳情報遠隔操作装置を応用した物に組み込んで物理的に記憶媒体を詰め込むんですよ」
「その脳情報のデータとやらはどこから持ってくるんだ?」
「一年ほど前にキリ君とあたしはコンピュータの世界に行っているらしいんで、そこのマシンに保存されているデータを使うんです。それが一番新しい記憶データですし」
なるほどなと小さく頷きつつ視線を花の方に向けて、再びアイリの方へと顔を向けた。
「それって、あいつがハイネを殺した記憶はないに決まっているよな?」
「……キリ君がハイネ先輩を殺したのは知りませんが、きっとそうなのかもしれない」
途端――ハイチは一人笑い始めた。
――ふざけんなよ。
「はあ……」
そのまま仰け反って、逆さまの空を見た。上の視界に敷地内を歩く病院関係者たちが見える。いや、今はそんなことはどうでもいいか。
――またか。
「名なし。いや、ハルマチ。あいつの記憶を戻すときって、付け加えることはできるか?」
「記憶のですか?」
「まあ、できないならできないでいい。そんときは俺が直接口で言ってやる」
その発言に対して、アイリは何も言わない。
「何も覚えていないのは許さないから」
「それはキンバー君にも言えるんじゃないのかな?」
二人ではない声が聞こえてきた。彼らはびっくりしたようにして入口の方を見る。そこにいたのはエドワードである。彼はじっとハイチの方を見ていた。
◆
「ハイネさん、どこへ行ったんですかね?」
ワイアットは手土産に持ってきていた花束を新しい花瓶に活けてセロと共に廊下を歩いていた。先ほどから病室で待っているのに、ラトウィッジはまだ捕まえていないのだろうか。
「さあな」
そのようなことよりも、セロはハイネの発言が気にかかっていた。
【うわっ、ヤベぇ!】
珍しくもハイネはそう言っていた。まるでハイチのようにして。覚えている。幼き日の頃を。自分もそうであったように、誰か大人に怒られると、『しまった』とでも言うような面持ちで町の中へと逃げていた。大人に負けないように坂道をダッシュしていた。
「でも、叔父さんに追いかけられるほど元気があるのはいいことですよね」
ワイアットのその言葉にセロはあまりいい顔をしなかった。それにどこか挙動不審さのある雰囲気。絶対に目を覚ましたならば「ハイチはどこ」と捜すだろうに。自分たちに「知らないか」と訊くだろうに。
二人がハイネの病室の方へとやって来ると、中から人の会話が聞こえてきた。そこで立ち止まる彼らは部屋の中へと入ることを足が拒んでくる。
「どういう意味だ?」
ハイネの声音は低い。口調からして彼女らしさの欠片は一つもない。
「そのまんまの意味だよ。今のきみの発言は自分に返ってきているんだよ?」
この声はどこかで――とセロは頭をフル回転させた。聞き覚えがある男性の声に声を顔がなかなか一致しない。ややあって、ワイアットが「トルーマン隊長?」と呟いた。ああ、それで思い出した。軍人育成学校で幾度もお世話になったエドワードを。
しかし、なぜにここにいるのだろうか。二人は新たな疑問を思い浮かべる。答えは全く思いつかないどころか、彼らの会話が気になる。ハイネは何を言ったのか。
「返ってきているだって? 意味わからねぇよ。あいつが『ハイネ』を殺したことが『俺』に返ってくるだって?」
もはや、思考は止まってしまう。本当に白紙状態で頭で考えるというのはどういうことなんだろう、わからないとでも言っているようだった。
「俺はハイネを殺しちゃいない」
悲痛なる叫びとでも言うべきか。事実を否定されたくないのか。怒りが表し始める。外に出ていてもわかるほどのピリピリとした空気。中へと誰にも入らせないつもりなのか、扉が巨大な壁に見えて仕方がない。ワイアットは花瓶を握る手を震わせていた。
「俺はあいつが記憶を失ったこと。その事実を覚えていないのが許せない。ほら、これのどこが俺に返ってきているんだ?」
「だから、返ってきているじゃないか。『事実を覚えていない』ということを」
【あの子たちはね、可哀想な子たちなのよ】
【嫌なことを思い出させないためよ】
不意に自分の母親の言葉を思い出した。
「はあ?」
不機嫌そうにハイネは返す。どこがブーメランなのか。「事実を覚えていない」、どこが自分に返ってきているのかわかっていない様子。
「覚えていないかもしれないが、あのときは私も『キンバーさん』と共にいた」
しんと静まり返るその部屋に四人は押し黙る。更なる静寂な時間がその場を襲った。
「今でもはっきりと覚えている。ここまで豪勢に花はなかったけれども、このような場所で仲のいい兄妹を」
「…………」
「それでも一番わからないことがある。それが、きみに対しても言える『事実を覚えていない』ということだ」
【わぁ、雪がつもっているぞ!】
エドワードのその言葉にセロは幼きある日のことを思い出す。
◇
この日は珍しく町に雪が降っていた。滅多に雪なんて降る事がないこの町で子どもたちは大はしゃぎしている。大人たちが寒いから、風邪を引くからと身軽に動けないようにばっちりとした防寒対策をして託児所の庭で雪遊びをし始めた。
「ゆきだぁ! しろぉい!」
いつもより声が大きくて楽しむ子どもたち。それはもちろんセロだって、ハイネだってわくわくしていた。
「なにしてあそぶ!?」
「こんだけあれば、遊びつくせるぞぉ!!」
子どもたちはそうしているのだが、一人だけ様子は違っていた。ハイチだった。彼はみんなと同様にして騒ぐのは騒ぐのだが、時折雪がチラついている重たい色の空を眺めていたのである。幼くでもわかる、異質な表情。それが何であるかをセロはわからなかった。そんな顔を見るよりも遊ぶことに夢中になるため、させるために雪玉を投げつける。単純にハイチがそうしているのがつまらないと思ったから。
「えいっ」
可愛らしくも軽い音を立てながら、ハイチの頭に吸い込まれた。帽子を被っていたのだが、冷たい雪はそれをも貫く代物。
「ひゃっ!?」
我に戻ったようにして、身を震え上がらせた。雪玉が飛んできた方を見る。そこには雪玉を持ってにやにやと笑っているセロたちがいた。それを見たハイチも同様ににやりと笑う。
三人とも急いで雪玉を作り上げ、簡単な雪濠を作って小さな体を縮込ませ、その隙間から顔を覗かせた。冷たい頬に突き刺さるような風が吹いた直後――。
「ふははっ! 二人なかよく雪にまみれてなぁ!」
「はっはぁ! なにを言うかっ! おまえこそ、雪まみれにしてやるぅ!」
「してやるぅ!」
雪合戦勃発。寒さなんてはしゃいで吹き飛ばせとでも言うように、雪塗れになっていく子どもたち。
やがて、その可愛らしい戦いもすぐに終わりを告げることとなる。がっちりとした防寒対策に加えてたくさん動く上、子どもの体温は高いから――。単純に疲れてしまったようで、彼らは雪の上でバテていた。白い息が上空へと立ち込めていく。
「たのしぃねぇ!」
頬を赤く染めたハイネがそう言った。もちろん、セロだって楽しいと思っているから「そうだな」と笑う。けれどもここまで体力を消耗するくらいならば、別の遊びをしたい。そう思ったセロが上で寝そべっているハイチの方へと向かった。
「ハイチぃ」
「……おかあさん……」
泣いていた。綺麗な空とは言えない黒い雲を見上げて、そう呟きながら。何も言えなかった。言葉をかけるにしても、何の言葉がいいのかすらわからない。
そうしてセロが戸惑っていると、後からやって来たハイネが「ハイチぃ」と呼ぶ。
「ほかのあそびしよぉ」
寝転んでいるハイチにそう言った。そこでハイネも気付く。彼が泣いていることに。
「どうしたの? いたいの?」
「……ううん。ちょっと、おれ寒いから中にいる」
子どもながら、嘘だと思っていた。親のことを言わないなんて。本当は寂しかったんだ。悲しかったんだ。そうだとしても、なぜにそれを表に出さなかったんだろうか。
「ハイチ、だいじょーぶかなぁ?」
「……たぶん」
◇
基本的にハイチはあの日を境に雪で遊ぼうとはしなかった。いいと言って、ずっと部屋にこもっていた。単純に寒いのが苦手なだけだろうか、と今の今まで強引に納得して思っていたのだが――。
そうではない。
「だから教えてくれないか、ハイチ君」
【ハイチ!】
【――――】
「きみの本当の名前を」




