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世界は運命を変えるほど俺たちを嫌う  作者: 池田ヒロ
最終章 過去から現在へ、現在から未来へ
77/96

本名

 薬品臭。見知らぬベッドで目を覚ました一人の男の子は起き上がった。なぜに自分はここにいるのだろうか。あの場所で母親に待っていなさいと言われたのに。


【どこいくの?】


【戻ってくるまで一緒にいてね】


【わかったよ】


 言いつけを破ってしまったのだ。怒られてしまう。


「あれ?」


 一緒にいたはずの妹がいなかった。あのときまでは一緒にいたはずなのに。何も知らない、訳のわからないこの場所が怖かった。孤独が不安になる。男の子は慌ててベッドから下りて、カーテンの向こう側を覗き込む。誰もいない。いや、ベビーベッドの上で寝返りを打っておもちゃで遊ぶ見知った赤ちゃんがいた。自分の妹だ。


 男の子はもう一度誰もいないことを確認すると、赤ちゃんの方へと駆け寄った。彼女は彼に気付くと嬉しそうな表情を見せる。


「にー」


「おいで。ころされるまえにいこ」


 妹を抱き抱え、入り口の方へと駆ける。片手で開けようとするができず、妹を床に座らせた。入り口のドアを開けて、再び抱っこをして、行こうとするが――。


「あれ? 目、覚めた?」


 知らない壮年男性がお盆を手にしてやって来た。彼を見て怯えた様子を見せる男の子。


「ちょうどよかったよ。お粥ができたからきみも食べる――」


 お盆を部屋にあるテーブルの上に置き、二人の方を見ると――入り口付近に彼らの姿はなかった。廊下の方からペタペタと裸足の音が聞こえるも、こけるような音がして赤ちゃんの泣き声が響き渡った。男性は慌てて廊下の方を出ると、床に力なく倒れている男の子と泣き喚く女の子の赤ちゃんがいた。


「だ、大丈夫かい?」


 二人を抱き抱え、部屋の方へと戻る。


「きみたち栄養失調なんだから。急に運動すると危ないよ」


「…………」


 椅子に座らせて、男性は男の子の分の取り皿に粥を入れて差し出した。どうぞと言っても、食べようとするどころか警戒心むき出しのようである。


「毒なんて入っちゃいないよ」


 苦笑いしながら、男性は女の子の赤ちゃんに粥を食べさせる。こちらの方はお腹が空いているのか、もっと寄越せと言わんばかりの催促をしていた。


 空腹と食べられる物だとわかったのか、男の子はようやくスプーンを手にして食べ始めた。一口食べては入り口の方を見ては食べを繰り返す。外が気になるのか。


「ここは病院だよ」


 スプーンを齧るようにしながら男性をじっと見てくる。不安そうなその灰色の目は何を物語ってくれるのだろうか。なぜにこの子たちだけで雪山の小屋の中で衰弱していたのだろうか。


――親は? 保護者は? どこへ行った?


「お母さんは?」


「……まってなさいって……」


――あの寒い場所で? 防寒は対策されてはいたようだが、下手すれば体力消耗や凍死してしまうところだったんだぞ!?


「お、お父さんは?」


「……しらない」


「きみたちは迷子かい?」


 男の子は「ねぇ」と訊いてくる。


「おかあさん、もどってくるまでまってなさいって」


「どれくらい待った?」


「わかんない」


「安心して、私がきみのお母さんを捜してあげるから」


 あの小屋にいれば、会えるのにな。そう思う男の子は何も言わず、黙って頷いた。


     ◆


 数十分経った頃に、青色の服を着た者が一人やって来て男性を呼び出す。彼らは廊下の方へと出ていってしまった。彼らが気になる男の子はこっそりとドアから顔を覗かせて様子を窺う。


「調査をするにあたってですけど、同じ日に誰昔山道で身元不明の女性の遺体が見つかっているんですよ」


「それ、あの子たちの母親だという可能性はあるんですか?」


「検査して見ないとわかりませんね。それで、あの子は母親に『待っていなさい』と? どう考えても捨てたとしか……」


「そうかもしれませんね。相当日が経っていると思いますよ」


「……ところで、子どもたちの名前は訊かれました?」


「まだですね。ちょっと訊いてみます」


「私も同席します」


 男性二人が部屋にやって来るのに気付いて、男の子はドア元から離れると、赤ちゃんをあやし始める。ドアがノックされ、彼らが入室してきた。彼はじっと二人を見つめる。


「きみ、ちょっとお話いいかな?」


「…………」


 何も反応見せない。そのだんまりは是認したと見なしてもいいのだろうか。青色の服を着た男性は椅子に座るように促した。言われるがままに座る男の子は妹が気になるのかベビーベッドの方を見ている。見かねた壮年男性が抱きかかえて隣に座ってくれた。


「あー、うー?」


 ペチペチと触ってくる女の子。それに男の子は優しく頭をなでた。


「まずは、私はエドワード・ウィル・トルーマンと言います。よろしくね」


「私はヒノ・キンバーです。きみの名前は?」


 壮年男性――ヒノのその質問に男の子は答えようとしない。先ほどのあの会話が幼い彼であろうとも多少の理解はできていた。二人のあの話には何もいい話とも思えないことも十分にわかっていた。


【女性の遺体が見つかっているんですよ】


【どう考えたとしても捨てたとしか……】


 母親は自分たちを置いて死んだのだ。なんだか、それが自分たちの存在を否定しているみたいで――。


 捨てられた? 嫌われた? 自分たちのことが嫌い?


「…………」


【ごめんね、ごめんね……】


 あの謝りはそういう意味なのか。


「きみ? 自分の名前だよ?」


【ねえ、どこいくの?】


【ちょっと出てくるから、戻ってくるまで一緒にいてね】


【わかったよ】


 最後に自分と妹の頭をなでられたことは覚えている。あのときに謝られた。そして、ドアが閉まる直前に――。


【嘘ついて、ごめんね……】


 最初から戻るつもりはなかった。あの場所に二人を置いて。ずっと、待っていたのに。あの場所で動かずに、妹と共に待っていたのに。嘘つかれた。好きなのに。あの大好きな人が嘘をついた。あの人が嘘をつくならば――。


「……おぼえてない」


 自分も嘘をつこう。あの人が自分たちを捨てたならば、自分も捨てたかった。


 男の子はどこか声を震わせながら答えた。


【――――】


【あなたの名前はね、好きな人を守るような強い人になりますようにってつけたのよ】


 母親がつけてくれた名前――捨てられたならば、要らない。そんなの、自分じゃない。だからこそ、是が非でも言おうとはしなかった。


「い、いや、自分の名前だよ?」


 困惑したようにしてエドワードがヒノの方を見た。彼も困ったような顔を見せる。


「お母さん、戻ってくるまで待っていてって言っていたことは覚えているんでしょ? 他に何か覚えていない?」


「しらない。なにもおぼえてないもん」


 男の子のその発言に二人は顔を見合わせる。彼が嘘をついているのは見抜いていた。何かを知っている素振りがあるから。視線を合わせようとしないから。


「本当のことを言って? じゃないと、お母さんに会えないよ?」


 ヒノが男の子の肩に手を置いたとき、彼は豹変した。触るなと言わんばかりに、手に噛みついてきたのだ。慌てて手を引っ込めると、赤ちゃんをベビーベッドへと避難させる。


 幼子だというのに荒んだような目。興奮しているのか、テーブルに置かれている空になった鍋をひっくり返す。スプーンを、お盆を二人に投げつけてくる。二人は男の子を止めようと羽交い絞めをした。


「わ、私たちはきみたちに危害を加えるわけじゃないんだよ!? 落ち着きなさい!」


「やぁだぁ! はなせぇ!!」


 相手が成人男性だろうとお構いなしに叩いてくる。足で蹴ってくる。これがまだ小さな子どもの力だからいいのだ。もう少し成長した子どもであるならば、ひどいことになっていよう。


「き、キンバーさん」


「今日は無理ですかね?」


 これ以上は体に障ると判断をした二人は、男の子を抱えるようにして暴れる彼の両手両足を縛った。彼が落ち着いたのは疲れ果てて、眠ってしまったのは真夜中であった。


     ◆


 それから数日経とうが、いくら時間を空けようが男の子が自分の名前を割ることはなかった。彼の名前と他に覚えていることを訊こうにも噛みついてきたり、物を投げつけてきたりするのだ。


 これにヒノと事件担当のエドワードは困り果てていた。どうすれば、あの子は落ち着きを取り戻せるか。どうすれば、調査が進められるか。すべては彼が話してくれたならば、解決する話なのだが――。


「どうすればいいんですかね?」


 子どもたち二人がいない場所で腕を組んで思案を練ろうとするヒノにエドワードは「実は」と重々しそうに言ってくる。


「あの誰昔山道で発見された遺体と子どもたちの血液検査をしたところ……同じ結果が出たんですよ」


「じゃあ、二人の母親は――」


「死んでいると言っても過言ではないでしょうね。ただ、念のため、各国に行方不明者の問い合わせを確認したところ、同じようにして親子が失踪している事件が何件かあってましてね」


 二人はどこの国の出身者であるか不明であるということだった。


「可能性として、黒の皇国に住んでいたのかもしれませんね」


 ニュースでしか知らないが、現在の黒の皇国は食糧不足だと聞いている。経済的にも不安定で、そう考えるとしか思えなかった。


「心中ではないにしろ、誰かに拾ってもらおうと置いてきたとか?」


 それにしては、明らかに誰も来なさそうな山の中のコテージだった。それも数年前に捨てられた旧灰の帝国に。偶然にヒノに拾われたからよかったのかもしれないが。


「最初は心中でもするつもりだったのかもしれませんね」


「…………」


「間際になって、子どもたちを殺せなくなった。でも、もう引き戻せないところまで切羽詰まって……」


「これから、あの子たちはどうなるんですかね?」


 ヒノが不安そうに訊ねてくる。


「そのまま、孤児院の方に引き取られると思いますよ。もしくは黒の皇国に引き渡されるか、と。以前の記憶を訊く以外は普通の子のようなので」


 エドワードは調査表を眺めながらヒノを見た。


「それよりも、他人であるあなたがここまであの子たちのためにしていられるようですが……まさか、知り合いでも?」


「いいえ、私はたまたま里帰りしていただけの元灰の帝国人ですよ」


 故郷を追われ、辿り着いた場所が青の王国だった。そこへ王国のならず者たちや労働者たち、外国人も受け入れてもらえるような町――工業の町住み着いた。


 あの子らも自分と同じ流れ者であるならば、救ってあげよう。守ってあげよう。彼らの痛みは自分が受け止めてあげないと、あの男の子は思っているよりも重い負荷を抱えていることに気付いていないから。その内、押し潰されてしまうのではないかと心配に思っているから。


「トルーマンさん。調査が終わり次第、あの子たちを私が引き取ってもよろしいでしょうか?」


「……わかりました。手続きの方の準備をしておきますので」


「ありがとうございます」


     ◆


 部屋の方へと戻ってきたヒノは二人を見ていた。男の子は自身の妹を可愛がるようにして、遊び相手をしている。女の子の方も楽しそうに、嬉しそうに笑みを浮かべていた。


「……きみは妹が好きかい?」


 その設問に男の子はこちらを見ながら小さく頷いた。


「可愛いもんね。この子の名前は?」


 そう言えば、と思い返す。ずっと男の子の方の名前を訊くことに必死になり過ぎて、女の子の方を訊いていなかった、と。答えてくれるだろうか。内心、また噛みついたり、物を投げてこないだろうかと不安にもなったが――。


「ハイネ!」


 初めてちゃんと答えてくれた。若干驚きながらも「そうかい」と相槌を打つ。


「この子はハイネって言うのかい?」


「うん、おれのいもうと!」


 今日はすこぶる機嫌がいいようだ。ハイネと呼んだ赤ちゃんと同じようにして――ああ、初めて年相応の可愛らしい笑顔を見せてくれた。


 問題は自分のもとに二人を引き取ることが決まったのだが、男の子の方の名前だ。おそらく、名前を訊いても答えてはくれまい。それならば、不本意ではあるが――。


「きみの妹がハイネならば、そうだね。……じゃあ、きみの名前はハイチだ。そう呼んでもいいかい?」


 ヒノがそう言うと、男の子は呆然と彼を見た。すると――。


「うん! いいよ」


 この日から男の子の名前はハイチとなった。


     ◇


 ハイチの本当の名前? ハイチはハイチでなかったのか。ワイアットは手に持っていた花瓶を落としそうになった。このことをハイネは? セロは知っていたのだろうか。思わず、隣に立っていた彼を見上げる。


「…………」


 眉根を寄せて、渋面を作っていた。その思いは何を示し表すのか。


「いくら誤魔化しても『ハイチ』という名前は母親がつけてくれた名前ではないはずだろう?」


 会話が途切れた。ハイチもセロ同様に何を思って、何を考えるのだろうか。今まで知っていた彼の名が嘘であると知られたとき、何を口に出すのか。しかし、ハイチの答えは予想を遥かに覆す物だった。


「あの人は俺とハイネを捨てたことには変わりねぇ。今更、本当の名前を言う気になんてなれないし、呼ばれたくもない」


 拒否をした。全くの感情なしの答え。なんとも思っていないようだった。


「それがたとえ、本名を言ってあの人が帰ってきたとしても。俺はそれを拒むし、受け入れる気にはなれない。何も知らないハイネの幸せを望むならば、言うべきじゃないから」


「……キンバー君」


「って、死人が生き返るわけないな。俺は何を言っているんだ」


 だが、ハイチの笑い声は悲しくも虚しい。本当はどちらなのだろうかと思ってしまう。


「とにかく、俺は何がどうなろうと、ハイチ・キンバーとして死に逝くさ。ハイネの姿をしていてもな」


 ハイチがそう言った瞬間、部屋の外から物音がした。そちらの方に三人が顔を向けると、扉が勢いよく開かれる。開けたのはセロだった。


「…………」


 鋭い双眸でハイチの姿を捉えている。その雰囲気から察するにエドワードたちの話を聞いていたなと瞬時に理解した。いや、もう別にばれたっていい。『ハイチ』という名前が嘘の名前であることを工業の町の大人たちならば知っているのだから。


 セロは部屋の中へと押し入り、ハイチの胸倉を掴んだ。空いた手で拳を握るが、眼前にいる相手は病み上がりである。すぐに拳を解く。


「……お前、嘘ついてんじゃねぇよ」


 何をどう言ったならばいいのだろうか、とセロは迷った。それでようやく口に出せたのはその言葉。雪の日に見た幼いハイチの悲しそうな表情と涙。あれがどう見ても嘘とは思えなかった。あれが彼の本音だと思った。


【あの子たちはね、可哀想な子たちなのよ】


【嫌なことを思い出させないためよ】


 子どもは親の言う通りにする。それは嫌われないために。あのとき訊けなかった。なぜに空を見て「おかあさん」と言って泣いていたのか。子どもながら、訊くべきではないと怖くて訊けなかった。


 たまに自分の家に招いて遊ぶとき。自分の母親と話しているときのハイチの表情も知っている。だが、母親の言葉が引っかかって何も言えなかった。


「ヴェフェハルさん……」


 思わず、ワイアットも出てきて不安げにこちらを見てきていた。


「本当は母親に会いたいくせに」


「冗談止せよ、死人にどうやって会いに行けって言うんだ」


「他人の母親見て羨ましそうに見ていたくせにっ……!」


「…………」


【俺は子どもじゃねぇよ】


「俺は子供じゃない、だ? どの口がそう言った? 本当は『おかあさん』って甘えたいだけのマザコン野郎じゃねぇかっ!」


「じゃあ、お前は好きな人から捨てられたやつの気持ちを理解できるのかよっ!!」


 一発触発とでも言うべきか。二人の間はピリピリと肌に伝わるほどの空気になる。


【あなたの名前はね、好きな人を守るような強い人になりますようにってつけたのよ】


【そぉなの? だったら、おかあさんとハイネをおれはまもるよ。すきだもん】


【まあ。きっと、『――――』なら守ってくれるって信じているわ】


「お前は……好きな人から……」


 おかしいなと思った。ハイネの肉体は強引に動かされているのに。目がにじんでくる。


【腕なしさん】


 絶対おかしい。自分の母親とレナータが重なって見えてくるから。長い黒い髪が――。


「本当の……本当の名前を呼んでくれる人がもういないやつの気持ちを、理解できるか……?」


 仕舞いにはセロの服の裾を握る。ゆっくりと彼が手を離してきた。


【――――】


「いないんだよ、もうこの世に……。だったら、それなら、隠して死ぬべきなんだよ……俺というやつは……。本当は誰からも存在する価値ないって思われているんだよ……」


「お義兄さん……」


 ハイチはワイアットの方を見ると、手を離して目を擦った。そして、その姿を見せまいとして外の方へと体を向ける。


「出てくれないか? 独りになりたい」


 これ以上、ハイチを刺激するべきではないと判断したのか、四人は部屋から出ていった。その場に残った彼はテーブルなどに置かれた花を見て煩わしそうにするのだった。


     ◆


 体力作りをするためには体を慣らすこと、温めることが重要である、とマックスは言う。ここは病棟の一階にあるトレーニングルーム。キリはそこで眠って削られてしまった体力を回復するためとして筋トレをしていた。


 そんな二人をよそに、この場所の端ではハイチとアイリが手慣らしにストレッチをしていた。双方ともに無言状態ではある。特にアイリは彼に声をかけづらいと思っていた。先日の件があるからだ。あの話、自分が聞いてもいい話とは到底思えなかったから。


 何を言ったらいいのか。そう思っていると――。


「ハルマチ」


 比較的軽い声でハイチから声をかけられた。


「なっ、なんですか?」


 思わず声が上ずってしまう。


「あのおっさん、最近見掛けないけれどもクビになったのか?」


「おっさん?」


 一瞬誰のことだと思った。最近見掛けないでいる一人の人物へと辿り着く。


「あぁ、総長さんなら古跡の村に行ったみたいですよ」


「まさか、観光?」


「違いますよ。そこで世界を見る目の山々を監視している二人のところに行ったんです」


「二人?」


「はい」


     ◆


 同時刻、ラトウィッジは古跡の村の村長であるマトヴェイに案内されていた。世界を見る目の山道入り口で黒の王国の民族衣装を身にまとった赤色の髪をした青年と金色の髪をした女性のもとへとやって来る。


「状況は?」


「うっス、全くと言っていいほどに見ません」


 赤髪の青年――ガズトロキルスがそう言った。


「ただ、本来いるべきではないライオンの姿が時折見掛けます」


 話をつなげるようにして金髪の女性――マティルダが補足した。現状であやしい動きは見られないらしい。


「二人ともすまないな。こうして、国の方に迎えることもできずに……」


 ラトウィッジは申し訳なさそうに二人った言う。マティルダの父親が一度だけ王国へ戻るチャンスをと懇願してきたのだ。何か理由があるに違いない、と彼は早速申請書を提出したが――受け入られることができなかった。だが、彼らはそのことに関して今は何も思っていないようであった。言いたかった事情を話せた上、王国軍の命で動けていることに感謝しているようであるからだ。


「仕方ないですよ。元はと言えば、俺が国を裏切らなければの話ですし」


「私はガズ様がいるならば、どこへだって構いません」


「しかし、マティルダの場合は父上が小うるさいだろう? よく反対しなかったものだ」


「お父様の場合は反対ではなく、いかにして賛成への誘導をするかによって大きく変わると思うんですの」


 どうやらマティルダは是が非でも反対意見を聞こうとは思っていないようだった。なんとまあ、逞しいものだな、と微笑ましく思っていると――「総長さん」そう、ガズトロキルスが声をかけてくる。


「キリの容体はどうですか?」


 二人はキリが長い間眠りについていることをここの見張りのときに知った。送ったメールの返信が来ないと不安になっていたが、その事実を知って友人であるキリが余計に気になるのである。ガズトロキルスの質問にラトウィッジは話すべきか迷ったが――すべてにおいて話した。黙っていても仕方がないから。


 記憶喪失、隠されていた記憶。その話を聞いてガズトロキルスはどのような反応を見せるのかと不安に思っていると――。


「でも、キリは元気なんですよね?」


「あ、ああ」


「じゃあ、後は記憶を戻すだけですね。よかったっス」


 どうやらガズトロキルスは他の者とは違って、キリを恐れることはなかった。普通に心配する友人の姿を見せる。それは嘘ではない。本当に愁眉を見せていたのだ。


「きみが彼の友人でよかったのかもしれないな」


 これにラトウィッジも安心した表情を浮かべていた。


     ◆


「とまぁ、出張ですねぇ。現状を確かめるために、って」


「はぁーん、なるほどね。じゃあ、もしかしたら本物の世界改変者もそこを行き来しているんじゃね?」


 なんとも軽い発言。その言葉にアイリは苦笑を浮かべた。


「簡単に言いますねぇ」


「いや、簡単つーか、俺は可能性があるとして言ったまでよ」


「けれども、それが本当であるならば、世界改変者は黒の王国を再建しようとする意味がわからないですねぇ。世界統一? 世界滅亡? を夢見て何をするのやら」


「さあ? 何も思いつかねぇな」


「何も思いつかないならば、走り込みをするぞ」


 いつの間にか二人の話でも聞いていたのか、マックスがそう言ってきた。彼は走らせる気満々のようで、にっこりと外へ行くぞというジェスチャーをしてくるのだ。


「ストレッチに口の筋肉を解すことはないんだからな」


 がしっとハイチたちは首根っこを掴まされた。これは逃げられそうにない。だって、マックスの握力どんだけあると思ってる? 自分たちも知らない。きっと、硬貨ぐらいなら、頑張ったら指だけで曲がるんじゃない? 知らないけど。


「えっ、ちょっ!? 教官!? 俺はまだ激しい運動なんて……!」


「あたしは体力系じゃないんですがっ!? 今は一研究員スよ!?」


「誰もダッシュ千本なんて言わん。病棟の周りを二時間自分のペースで走るだけだ」


「わぁ、それ楽そう……なわけないでしょ! 地味につらいやつ!!」


 長時間のマラソンはアイリにとって嫌な物以外何物でもない。長距離走――持久走が苦手な彼女は絶対に参加するものかとして逃げ出したいけれども、マックスからは逃げられなかった。だってしっかりと掴まされているんだもの。


「はっはっ。ハルマチ、お前もそろそろ運動したらどうだ? 前より――」


 すかさずマックスの口を塞いだ。彼が思っていることは瞬時に理解できる。それ故に、その場で茫然としているキリやハイチたちに聞かれたくなかったのだ。


「教官っ! デリカシー! デリカシー考えてっ!」


「デリカシー?」


 当然知識としての記憶もないキリは小首を捻った。デリカシーについて知りたそうにハイチの方を見てくる。それに彼はなぜか答えてあげようとしていた。


「ああ。デリカシーというのは心配りがないとか、そういうことだよ。つまりハルマチは自分のた――」


「いくら外見がハイネ先輩でも、それ以上のことを言うのであれば、叩きますよ」


 首根っこを掴まされた状態でアイリはハイチに向かって拳を振り上げた。すると、そこでキリが「ダメ」と言う。


「アイリ、殴っちゃダメだよ」


 自分がされて痛いことを知っているからこそ、アイリを止めたようだ。両手で彼女の手を掴むと真っ直ぐな目で見てくる。その純粋さに反論ができないのが悔しい。


「ははっ、いいぞ。こういうときだけお前は頼りになるなぁ」


 こういうときだけキリの方を持つハイチ。なんとも都合のいい人物である。あれだけ記憶がないことに文句垂れていたくせして。彼にそう言われて、嬉しそうに照れる。照れるな、照れるな。好いように言われているが、実際はただの利用されているだけなのだぞ。


「ご託はいい。さっさと外に行くぞ」


 そうマックスが三人に扇動をしていると、トレーニングルームの入り口の方よりメアリーが顔を覗かせに来た。それに一同は気付く。


「姫様? どうされたのですか?」


「あっ、えっと――」


「あっ、そうだった。ごめんメアリー」


 キリは何かを思い出したように、メアリーに頭を下げた。「ごめん」と言っているのは何か約束でもしていたのだろうか。


「えっと、マックスさん。メアリーと午後に町に行く約束をしていて……」


「教官、ダメでしょうか?」


 二人のどうしてもという視線攻撃開始。これにマックスは勝てるか。否、勝てなかった。まずは今のキリにとってお得意の純粋無垢な視線に加え、メアリーという王族からのお願いによる特権。根負けした彼は「仕方あるまい」と肩を落とす。


「約束をしたのであれば、そちらを優先にしないとな」


「あっ、あたし、午後から職員会議があったんだ!」


「お――私も、私も!」


 キリの用事を利用してマラソンから逃れようとする二名。だが、それを許すほどにマックスは甘くない。というよりも――。


「ハルマチは正式に病院の職員じゃないだろうが」


 マックスにそう耳打ちされ、逃げることができないアイリは落胆するしかなかった。厳密に言うと、彼女はオリジン計画対策本部側の者。表向きで職員としての多少の扱いはあるものの、担当はキリとハイチだけであるし、他の患者に対する情報は一切の受け答えができないのだ。それになんと言っても医師助手の免許はディースの物である。要は無免許に等しいのだった。


「それに、キンバーもハルマチもデベッガに比べて体力が少な過ぎる! みっちりと指導してやるから覚悟しろ」


「嘘っ」


 ハイチに至ってもアイリと同様に落ち込みを見せた。そんな彼らを見てメアリーは「いいんですか?」と表情を引きつらせる。


「私たち……」


「構いませんよ。その代わり、デベッガ。明日はちょっと多めにするからな」


「わかりました」


 マックスの許しが出ると、二人は手をつないで楽しそうにトレーニングルームを後にした。それを眺めてハイチは「お似合いだねぇ」と軽い口を叩く。


 発言にマックスは叱咤する。


「ばかげたことを言うな。姫様はデベッガを思って、ああやって付き合っているんだからな。俺としてはあの悪癖が出ないか心配だよ」


「どうなんでしょうねぇ。最近は我慢も覚えている頃じゃないスか?」


 自分が見ている限りは、とアイリは言う。裏の雑木林を通るときに小鳥を見つけてしまうときがあるようだが、いつもはそちらの方を見ないようにして視線を逸らし、右手を押さえているそうだ。彼女が見ていないときはわからないのだが。


「だとしても、姫様と一緒だからなぁ」


 メアリーはキリに対して甘い。それは同意見である。


「うーん、一応念押しでメアリーに嫌われるよとは言っているから問題ないはず。ということで、解散。お疲れ様でした!」


「お疲れ様でした!」


 その場解散を上手いこと利用して逃げようとするアイリとハイチではあるが、それをマックスは見逃さなかった。二人ごとそのまま外へと連れていく。なんという強引さであろうか。連行される彼らは悲しそうな顔をしながらも運ばれるのだった。


     ◆


 本部のとある一室にて。ここは隠れカムラ教徒を探し出すケイたち元三銃士軍団員に加えてターネラの作業場でもある。彼らは青の王国だけならず、他国の地図を引っ張り出しては可能性ある場所にチェックを入れてはハズレにバツ印をつけていた。


 これがどれだけ続くだろうか、とケイは地図を眺めていた。彼の目の前にあるデスクの上には膨大な資料が存在している。整理する気力をそぐわれるほどの量だ。一年弱だ。それくらいの期間をもってしても隠れカムラ教徒を探し出せていない。ヤグラやガンにも多少は協力もしてもらっている。それでもなのだ。


 追放の洞のある南地域の保護区を重点的に周辺の町や村で調べ回った。そうやっても見つからないのである。


「シルヴェスターさん、ここ……黄の民国にあるこの村とか可能性がありそうです。キイ教にもその周辺についてのお話もあるようですし」


 ターネラとソフィアが資料を手にして、地図上にある黄の民国の村に丸印をつけた。


「そこか、うん。ヴィンたちが戻ってきたら確認しに行ってみよう」


「それでは、私たちは黄の民国へすぐにでも行けるように手配をしてきます」


「頼んだ」


 ターネラたちに任せると、ケイは椅子の背もたれに寄りかかった。現在、ヴィンとフェリシアが旧灰の帝国の方に行っている。そこで何の情報も得られなければ、今度はターネラたちが見つけてきた場所にすがってみるしかないのだ。


【『隠れ』カムラ教でしょう?】


 マトヴェイは、可能性はあるはずだと言っていた。しかし、その情報と言うのはあまりにも小さくて気の遠くなるようなもの。ケイがその金色の頭を掻きむしりながらため息をついていると、連絡通信端末機に着信が入った。相手はヴィンからである。


 またもハズレかとペンと端末機を手にして地図の前に立つと、電話に出た。


「どうだった?」


《アタリだった》


 ヴィンのその言葉にケイは目を大きく見開きながら、彼らが探しに行っていた旧灰の帝国の地図を見た。


「本当か!?」


《ごめん、アタリというのはその場所じゃない。人のアタリだよ》


「は?」


 片眉を上げた。一方で部屋にて黄の民国へ入国するための手配の手続きをしていたターネラたちも二人の電話が気になるようで視線を向けている。


《旧灰の帝国に元隠れカムラ教徒がいたんだ》


「……いや、それでも大きな進歩だ。何か話は聞けたか?」


《うん。その人の出身地を教えてもらった。詳しいことは村はずれに住む集落の自治区長の人が知っているだろうって》


「その集落の名前は?」


弥終(いやはて)集落だ》


「弥終……」


《あそこ、保護区の南部にある南果(なんか)の村から離れたところにあるんだ。多分、一度は行ったことがあるはずだよ。保護区から一番近いみたいだしね》


 保護区から一番近いと聞いてケイが地図を確かめてみると、確かに近い。集落の隣が保護区になっているではないか。


「……みたい、だな」


 それから少しだけヴィンとのやり取りをしてケイは通話を切ると、二人に指示を出す。それを基に動き出す彼女たちは準備のために部屋を後にした。彼もまた部屋を後にするのであった。


     ◆


 この世から長距離走やマラソンという物はなくなってしまえばいいのに。そう嘆くはアイリ。彼女はハイチの部屋でへばっていた。先ほど、ようやくマックスのトレーニングは終わったのである。


「俺のところでだらしねぇなぁ」


「先輩はいいですよねぇ。病室でのんびりとできて。こっちはまだ終わっていない仕事あるのにぃ」


 早く終わらせないと、と盛大なため息をつくアイリは部屋を出た。その場に残ったのはハイチだけ。正直な話、彼女の言うことはわからなくもない。今は何もせずしてだらけて過ごしたいのだ。それだけ体力が落ちていたから。以前だと自分の体だったから多少の無茶は利くものの、病み上がりの更に慣れない女性の体に数日経った今でも戸惑いを隠せないのである。


――つーか……。


 このようなことを発言はしたくもないが、ついつい走っていたときから思ってしまう。というか、走っていても嫌に気付いてしまう。そうでなくとも、日常生活をしていても違和感がある。誰かに相談したくても『変態』というレッテルを張られたくもない。『シスコン』は別であるが。


 思わずそれを触りそうになってしまうが、頭を振って考え直そうとする。


――ハイネの胸ってこんなに大きかったのか!?


 足下が見えづらい。走る度に胸が痛い。いや、肺ではなく物理的に。隣でヘロヘロになって走っていたアイリよりも普通に大きい。


 本意的に見るはずはなかったが、シャワールームの鏡で見てしまった自身の姿を思い出して思わず眉間を摘む。やはり、ハイネの体を使ってまでして自分を復活させるべきではなかったのに。アイリは何を考えてこうしたのか。嫌がらせとは思う気にはなれないが――。


「……他の野郎の体とかダメだったのか?」


 流石にちょっと待て。それはそれでシャワールームの鏡を見たらば、気分悪くなりそうだ。だからと言って、ハイネの体は――。


「って、何を考えているんだ、俺は」


 なんて一人で呟いていると、ノック音が鳴った。返事をすると、中に入ってきたのはワイアットだった。あれ以来だ。自分の正体が彼とセロにバレてしまった翌日から二人は来てくれなくなったのだ。いいや、彼らの気持ちは痛いほどにわかる。目を覚ました幼馴染が別の幼馴染だったということに。好きな女性の中身がその兄貴だということに。


「こんにちは。あっ、包帯が取れたんですね」


「お、おう」


 誰かが来てくれることは嫌ではないが、ワイアットの場合はさして仲がいいとは思えない。何よりハイネと結婚すると公言していた人物だ。ぎくしゃくはする。


「これ、お花です」


 減りゆく花だったのに増えた。ハイチは怪訝そうな顔をしながらも「どうも」と一応はお礼を言う。


「今度来るときはもっと別のにしてくれよ。俺は言うほど花は好きじゃないから」


「すみません」


「いや、いいさ。ところで、セロは? 流石に来れないか」


 その部屋に乾いた笑い声が無駄に響いた。ハイチの質問に対して「いいえ」と答える。


「ヴェフェハルさん、お手洗いに行ってくるそうです」


「ああ、そうか……」


「…………」


「…………」


 何を話したらいいのかわからない。気の合いそうにないワイアットとどんな話題にしたらいいのかわからない。ハイチは気まずい様子で目を泳がせていた。


「ハイネさん」


 言葉を探していたハイチにワイアットはそう言った。それに伴って顔を上げると、彼は言葉を続ける。


「ハイネさん、ずっとお義兄さんを思っていたみたいです。僕がどんなにアピールをしていても、彼女はあなたばかりを考えていました」


「…………」


「答えたくないならいいです。お義兄さんはハイネさんを実際はどう思っていましたか?」


「そりゃ……」


――もちろん……。


 ハイチが答えようとしたときだった。ふわっと廊下側から花のような香りがした。ここにある花の物ではない。優しく小さな甘い香り。思わず、入り口の方を見た。それはワイアットもつられて。そこにいた人物を見て驚愕する。いや、硬直が大きい。いるはずのない人物がそこにいるのだから。


「……なんで?」


 ワイアットが口を開く。その言葉を言いたいのはこちらも同じである。『なぜ』という疑問ばかりが頭の中を支配していた。


【腕なしさん】


【ダメっ!!】


【あなたを、忘れません】


 自分の腕の中で死に絶えた人。家族やセロ以外にも大切だと思っている人。自分が殺した人――レナータ。


「レナータさん……」


「奇遇ですね」


 小さく肩で笑うその人物は紛れもないレナータである。長い黒髪に青色の目。ああ、これは幻なのか。いや、ワイアットも見えている。ということは幻覚でもなければ――。


「まあ、ここは綺麗なお花ばかりですね」


 レナータはよく学校にある花壇の花の水やりをしていた。そういうのがとても似合う女性だった。


「こういうの、見ていると私――


























誰かを殺したくなっちゃいますね」


 唖然としていて動けないハイチの目の前に顔を寄せてくる。その直後に強烈な悪臭が漂い始めた。気付いたときはもう遅かった。部屋の天井と床から音が鳴る。それほどまでに大きな体躯のバケモノの口がレナータの体を丸飲みにした。


 どうしてその光景を目に焼きつけているのだろうか、と素直に疑問を持つ。助けてあげなければならないのに。好きな人を助けてあげなければ――。


「お義兄さん!!」


 ワイアットの言葉にハイチは眼前に迫りくる巨腕を避けた。その攻撃の風圧により、ベッドの下に転げ落ちてしまう。腕を薙ぎ払ってきたせいで、花が活けてあるバスケットや花瓶が倒れる。壁に衝撃が走って壊れる。隣の部屋に誰もいなくて幸いである。だが、この大きな音は彼らがいるこのフロアであるならば、誰かは気付くはず。そう、遅れてくると言っていたセロも――。


「おいっ!?」


 異形生命体。こんにちは。新しいお客さん。


「お客さんは全部で何人でしょうか?」


 レナータを飲み込んだバケモノは女性の声でそう言った。だが、彼女の声ではない。


「一、二、三……ああ、カップは足りるでしょうか?」


 手始めにとでも言うようにして、床に転がって体力もあまりなさそうなハイチに目をつけたられ。先ほどは避けられたが、今度は避けられそうにない。


 あっ、終わったな。なんて迫りくる巨大な手を見上げる。


「危ないっ!!」


 誰かに押される。それが誰であるか瞬時に理解できた。押し避けられて目に映った光景は――。


 叩き音が響く。床にひびが入り、揺れ始めた。直感的に落ちるなと思う暇もなく、異形生命体以外の三人は一階下のフロアへと落ちてしまった。いや、彼らだけではなく、ハイチ自身の部屋ごと落ちたのだ。


「ぐっ!」


「いっ!?」


 幸いにもハイチは共に落ちたベッドの上へと落ちる。慌ててバケモノの方を見た。それはこちらの方を見ていたが、何かに気付いたようにして廊下の方へと出てしまった。遠くから避難警告の放送や軍人たちの軍靴の音が鳴り響く。


「せ、セロ……」


「俺はなんとか」


 二人は負傷こそしているものの、大きな怪我はなかったが――。


 ハイチはベッドから下りると、そのすぐそばで血塗れになって力なく仰向けになって倒れているワイアットを見た。


「ふぉ、フォスレター?」


 ワイアットは自分を庇ってくれていたのを知っている。この目で見たから。床に叩きつけられていた姿を間近で、瞬きせずに見ていたから。


「……い……さん」


 僅かながらに開かれた目はぼやけている。普段は青色の目をしているのに、赤色が混じっていた。意識があることに希望を抱きながら、二人は駆け寄った。


「おいっ! 大丈夫か!? 分かるか!? 俺たちが!」


 ハイチのその呼びかけに答えようとしない。いや、何か様子がおかしい。


 このとき、ワイアットの聴力及び、視力と言った感覚はすべて失われていた。何も見えない、何も聞こえない。あの二人は無事なのだろうか。自分の心配もあるが、彼らをも心配する。あの二人の間柄は不安定だったから。ハイネのこともあるから。キリのこともあるから。


 自分の声は届かなくたっていい。この命ある限りならば、自分の想いのありったけを言わないと。どうせ死ぬならば、言いたかったことを言って死に逝きたい。


「……おに……さ、ん……」


「フォスレター!?」


「わら、……て……くだ、い……」


「笑えるかよ、バカヤロー‼」


 ここで救護班が来る。ハイチとセロは退けられてしまった。


「……はい、ね……さ……わ、ら……てました……」


 ハイネはハイチのために笑っていた。だからこそ今の彼には笑って欲しいと切実に願う。キリが記憶を失くしたことは許せなかった。それを誰もが憤りなんて感じていなかった。きっとハイチはそのことも教えられているから、怒っているだろう。そうであるはず。でも周りがそうでないから怒るに怒れないんだと思う。


【ワイアット君】


 真っ暗な視界に映るのはすてきな笑顔のハイネ。彼女が羨ましかった。憧れのような強い人だった。だからこそ、自分が強くなって守ってあげたいと思えるような人だった。もしも、あのときに大人しく工場見学をしていたならば? もしも、あのときにハイネと出会わなければ?



「泣くんじゃねぇよっ!!」



 何も聞こえなかった聴力は一瞬だけ回復した。ハイチの口調のハイネの声。ああ、きっと自分が泣いているから怒っているんだ。


【男の子でしょ! 我慢しなさい!】


 ふと、幼いハイネの声がよみがえってくる。泣いてばかりいたあの頃。彼女がいなければ、きっと自分は泣き虫だっただろう。男の子だから――。


――我慢しなくちゃ。強くならなくちゃ……。


「……は、ね――さん……あな、た……あぇ……て……」


     ◆


 事故現場に慌てて駆けつけてのはエドワードである。そこでは救護班に加え、ハイチとセロが瓦礫の上の横たわるワイアットを見て項垂れていた。


「は、き、キンバーさ、ん……」


「……隊長」


 救護班の一人が近付いてきて「お気の毒ですが」と小さく消え入るような声で言った。


 間に合わなかった。気付かなかった。病院内に異形生命体が侵入していようとは。エドワードは渋面を見せて俯いた。これはラトウィッジがいない間の自分の責任になる。悔やんでも、悔やみきれない気持ちでいっぱいになっていると――。


「まだやつは?」


 ハイチがそう訊ねてきた。


「今、屋上で応戦中だ。正直言うと、苦戦している」


 そう答えると、ハイチは立ち上がってその場を後にしようとする。それをエドワードは止めた。もちろん、セロだって。何をしようとするかなんてわかる。絶対に行く気だ、と。


「行くのかい?」


「止めないでくれ」


「無茶を言うな! きみはわかっているのか!? 己の現状の力量を! 戦えるのか、その体で!」


 わかっていた。今のハイチはハイネの体を利用して生きているに過ぎない。だからである。きっと脳での行動処理と体が追いつかないに決まっている。つい最近になって運動をし始めたその体で何ができるのだ。しかし、彼は止まろうとしない。あまつさえ「頼まれたんだよ」と言う。


「フォスレターに笑ってくれって言われたんだよ。でも、今のままじゃ笑えるわけねぇ。だから、行く」


 いくら好意を持たない人物であろうとも、死者の想いを蔑ろにするほどの思考をハイチは持ち合わせていない。自分やセロがいない間にずっとハイネの傍にいて見続けてきたワイアットだからこそ、最後の最後くらいは――。


 エドワードの手を振り払い、ハイチは屋上の方へと行ってしまった。残されたセロは眉根を寄せて、ワイアットの死を弔う。


     ◆


 自分の中で何が動かされているかはわからなかった。だが、足は止まらない。屋上へと向かう足は止めたくなかった。現場へと続く階段を上ろうとしたとき――。


「先輩」


 呼び止められた。アイリが何か手にしてこちらを見ている。そちらの方に体を向けると、彼女は手に持っていた物を投げ渡してきた。受け取ったそれは布に包まれた棒状の物。硬いし重たい。何かと開けてみると、そこには黒い刀があった。刀身がすべて真っ黒でハイネの顔が映っている。根元には紫色の花の絵が彫られていた。


「これは?」


「大体察しがつくでしょう。それは元々誰かさんの体にあったMAD細胞の塊を刀に仕立て上げた試作品『LILAS(リラ)』です。それならば、異形生命体の体を引き裂くことだってできるはず」


「…………」


「さぁ、早く行くならば、行ってください。それ、こっそりくすねてきたんですから」


 バレたら大変とでも言うようにして、アイリはハイチを急かす。刀と彼女を見ると「借りは返す」そう、階段を駆け上がって行くのだった。


     ◆


 一気に駆け上がり、ハイチは屋上へと出てきた。そこでは戦闘機に交えて銃撃を巨大なバケモノに与えていた。人が撃ち放つ弾は軽々しく弾かれる。流石は強靭的な身体であろうか。これぞ皮膚硬強化剤と人の細胞が融合して生まれたMAD細胞の塊。


「キンバー! 下がっていろっ!」


 ハイチがやって来たことに気付いたマックスはそう言う。だが、今の彼にとってはそんなことは関係ない。静止の言葉を無視して銃弾を気に留めることなく、異形生命体の方に向かう。手にはLILASがあるから。


「向こうのお店でお茶を致しましょう。あちらのケーキの方が美味しいんですよ」


 それはケタケタと誘うようにして笑う。ハイチは黒い刀身を構えた。不思議と銃声が止んだ。いや、彼を止めようとする声が聞こえてくる。


「私白い、白いクリームよりも果実のソースが大好きなんです」


「そうかい。悪いが、俺は……ケーキの上に乗っている果実のトッピング派なんだよ!」


 押し寄せられる巨腕。それを刀で防ぐ。力が強く、ハイネの体では今にも吹き飛んでしまいそうなくらい。そうだとしても、この場でやられるわけにはいかなかった。


 踏ん張りを利かせようと、地に着けている足をしっかりと固定した。全身の筋肉が軋んでいる。病み上がりのくせにして必死に喰らいつこうとする。


「トッピングは最後に食べるのが美味しいですよね」


 一つの腕に防御する力を注ぎ過ぎた。横から別の腕が迫りくる。これを捌いて間に合うか。否、不可である。ハイチがそうする前にマックスが防いでくれた。銃身が折れることを覚悟してまでも守ってくれた。


「キンバー! それ持っているなら、俺たちはお前を援護する! 行けっ!」


 ハイチが使用しているLILASの存在に気付いたようだ。ちまちまと異形生命体の体力を削っていては時間の問題だったから。絶対に千切れないロープ君を使ったとしても、こんな巨大な体を持った怪物を止めることは厳しいから。


 マックスの呼びかけに応じ、手を止めていた王国軍人たちは援護射撃に回る。それにハイチは隙をついてバケモノ本体の方へと駆けた。狙いは胴体。レナータはそこに閉じ込められている。腕は何本もある。それに気をつけなければ。


「焼き菓子を果実のソースにドリップして食べるのも美味しいですね」


 相手にされない腕が向かってあいさつしてくる。虫を殺す感覚で潰しにかかってきた。かろうじて避け続けるハイチ。なかなか斬り込むタイミングを合わせられない。体が脳に追いついてこない。


 であるが、眼前の敵の攻撃を安易に避けることなかれ。すべてを見極めるべし。


 大きいから動きが鈍いわけではない。素早過ぎるのだ。前から横から後ろから上から下から。腕以外にもそれの口から生えてきている触手が鞭のように撓りくる。これがただの鞭だとすれば、大間違いだ。いとも簡単に長くて丈夫な剣のようにして人を貫くのだから。


「おらっ!」


 ハイチはそうならないとして、刀でそれを切った。手応えはある。一気にたたみかけようとして右足を踏み込むが――。


 何かに足下を取られる。その方を見れば、右足には斬ったはずの触手が絡みついていた。


「クソがっ!」


 急いでそれを斬った。タイムロス。またもやタイミングを逃してしまった。


「…………」


 考えろ。打開策はあるはずだ。


――どうしたら倒せる?


 二年ほど前にやった倒し方は――あれは自分の体であるから強引であってもできた。だが、ハイネの体ではできそうにもない。


 周りが援護に入っている。自分のために道を広げようとしてくれている。急いで通らなきゃ。急いで通らないと――。


「午後のお茶の時間ですよ」


 LILASは巨腕を受け止める。それ以外の腕や触手が邪魔をする。


――ああ、クソったれ!


 こうなってしまえば、埒が明かない。ハイネには悪いが、少しばかり無茶をさせてもらおうではないか。ハイチはレナータを助けたい一心で踏み込んだ。病み上がりのその体に鞭を打ち、目の前に迫りくる攻撃を叩き斬っていく。ほんの少しばかり復活した軍人育成学校の次席――コインストの商品腕なしの力。鬼神がごときその様は戦の破壊者(クラッシャー)。誰もの目にはそう映っているはずだ。


――これで頭をっ!


 不意打ち。最後の一本の腕とハイネの体力配分を見落とす。反射的に防ぐが、屋上の端に追いやられてしまった。


「キンバー!!」


 マックスに応答はできそうにない。今の攻撃は全身が痺れるほどの威力だったから。自分のことで精いっぱいだから。異形生命体は手足を動かしてハイチの方へと近付いてくる。


「……くっ!」


 今にも建物から落ちそうなくらいまで追い詰められている。他の者が応援に入ろうとしても腕が邪魔をしてくる。迂闊に近付けなかった。


 ハイチのもとにやって来たそれは口を大きく開けてレナータの姿を見せてくる。彼女の目は完全に操られている者として虚ろだった。


「今日は天気がいいですし、お外で食べましょう」


 にんまりとあやしい笑みを浮かべた途端、ハイチを連れてその場から飛び降り逝く。もちろん、下敷きとして彼がいる。それでもバケモノのおしゃべりは止まらない。


「テーブルと椅子を持ってきて、お皿にお菓子を並べて、三回目のお茶っ葉にお湯を注いで、サクサクのお菓子しっとり系のお菓子、あまぁいソース入りのお菓子、熱々の薄くなったお茶……」


――あのときのお茶は美味しかったなぁ……。


 ちょっとだけしかお話をしていないけれども、それだけでも至福のときだと思えた。家族と過ごした日々に思いを更けるのと同じように温かい時間だった。とても大好きだった。


 それでも本当は――。


「もう少しだけお話したかった」


――えっ?


 改めてハイチはレナータの方を見た。彼女はいつものような優しい、柔らかな表情を見せている。いや、それよりも自分に気付いている? どうして――。


「あなたと……腕なしさんとくだらなくともいい。他愛なお話をもっとしたかったです」


 口の中から手を出してきて、LILASを持つハイチの手を握った。指先だけは冷たかったが、それに抗うかのようにして手の平だけは温かい。


「欲を言えば、あなたとずっと一緒におしゃべりをしたかった」


 の一言を言い残すと、自身の喉へと向けて刀を突き立てた。ハイチの手に伝わる感触。人の体の中、そして、何かしらの金属を弾く感覚。レナータの涙と共に上に舞う。それが脳情報遠隔操作装置だと気付いたのは――。


 レナータは自身が下向きになるようにして、そのまま地面に叩きつけられた。


 幸運なことにハイチはレナータのクッションとなって地面に転がった。手が離れてしまい、急いで彼女のもとへと向かう。依然として刀は喉に突き刺さったまま。


「れ、レナータさんっ!」


 待ってくれ、と悲痛の叫び。レナータはうっすらと目を開けて静かに息絶えるのを待ち侘びていた。ハイチは彼女の手を握りしめる。


「待ってくれっ! ……違うんだっ!」


 不思議と目の奥が熱く感じる。


「俺は、まだレナータさんに『名前』を言っていないんだ! 本当は腕なしなんて名前じゃない!」


 徐々に閉じられていくレナータの目。握る彼女の手に水滴が落ちた。


「俺の『本当の名前』は――」


【ハイチ!】


【――――】


 言葉が詰まる。どっちを言えば、どちらを呼んでもらえたならば――。


「……『俺の名前』は……」


 レナータの手の力がなくなる。ハイチの手から滑り落ちてしまった。彼女の目は完全に閉じてしまっている。この状況に頭が真っ白になった。


「れ、レナータさん……?」


 どんなに呼びかけても応答してくれない。


――言えなかった。


 己を悔やむ。己の人生を悔やむ。こういうときだけの口下手さに。いや、そうではない。いつだって自分は最良な選択を選んだことがないのだから。


 後悔の念が背中に押し寄せてくる。笑ってくださいとワイアットに言われたのに。笑えるものか。


【ハイネさん! 今度のお休みにどこか遊びに行きませんか?】


 本当はワイアットがハイネに近付くことを許さないというわけじゃない。自分の妹を好きなのは大いに結構なことである。それだけ自慢の妹が誰かに好かれているのだから。とても誇らしく思う。


 なのに――。


 何を邪魔していたんだろうか。何を邪険にしていたんだろうか。シスターコンプレックスが何だと言うのだ。そのことも十分に承知していたはずなのに。素直じゃない自分が邪魔をする。嫉妬する自分が邪険にしていた。


 もしも、ワイアットが頑張ってハイネに猛アタックして――一緒になっていたならば、どうなっていたんだろうか。きっと、彼女のことを思う気持ちが自分と同じくらいの彼はどんな逆境になろうとも幸せにするだろう。いいや、しようとする以外の選択肢は持ち合わせていないはず。


「俺ってやつは最悪だよ……」


 ハイチの嘆きはその場に小さく消え失せるのだった。


     ◆


 異形生命体によって部屋が使い物にならなくなってしまったため、ハイチは別の部屋にいた。その場に活けられた花はない。甘ったるいにおいがしなくなって清々するが――やはり、物足りないなと感じていた。


「…………」


 ぼんやりベッドに座り込んで外を眺めていると、セロがやって来た。手には何か箱がある。彼は何も言わずにそれを渡してきた。


「なんだ?」


 どこかで見覚えはある気がするが、何も思い出せない。訳がわからずにハイチは箱を開け、中身を確認する。その中にはいつもハイネがしていた緑色の石のブレスレットと金色の鍵に、一枚のボロボロになった便箋が綺麗に折りたたまれている手紙があった。


 便箋――手紙にはお世辞にも綺麗とは言えない拙い自分の字がハイネに宛てたことが書かれていた。ああ、思い出した。初めて町から出て、もらった給料で彼女の誕生日に贈ったんだった。


「それ、ずっとハイネは大切にしていた」


「そうみたい、だな……」


「ハイネ、お前がいないときはずっと泣いていた。ほら、チビのときにハイチが帰ってこなくて一週間経った話があっただろ?」


 そう言われて、しばらく思い返す。


「――ああ、あったな。トラックの荷台に忍び込んで昼寝していたら知らないところに行っていたっていう」


「あいつ、そのときも泣いていたよ。それだけ、ハイネはハイチを思っていたんだ」


【家に帰ってやれよ!!】


「……今思えば、全く以て間に合わない話だな」


 ハイチの乾いた笑い声がその場に響く。


「ところで、これって家の金庫だよな?」


「そうみたいだな。一応ハイネが確認をしていたみたいだけれども」


 ということは、家にヒノが貯めたお金があるということ。そうだとしても、受け取れないと思った。いくら自分たちに宛てた物だとしても、使えそうにない。いや、使用する人物として相応しくはない。あの中に入っているお金は――。


 ハイチは金色に光る鍵をセロに渡した。


「お前にやる。今はセロが先生の代わりに園をやってんだろ?」


「俺が受け取れるわけないだろ。先生はハイネとお前に託しているんだから」


「だとしてもだよ」


 返品不可とでも言うように、セロに押しつけた。今の自分には必要はない。あのお金は託児所で働いている彼が使うに相応しい。子どもたちの世話もあるのだから。


「先生もレナータさんも殺してしまったし。この世にハイネも存在しない。フォスレターも俺が殺したようなもの。もう残っているのはただの世間からの嫌われ役だ。どんなに最善を尽くしたとしても、最良の選択肢はない。崖っぷちを走って、落ちるだけ」


 飛び火がかからない内に自分から離れた方がいいぞ、とハイチはそう言った。しかし、それをセロは拒む。首を横に振って「いいや」と語る。


「俺はお前の『ヒマ潰し役』だ。犯罪者なんて。俺も前はそうだ。なんせ、俺らはガキの頃からの悪童だったからなぁ?」


「お前……」


「ここに工業の町きっての悪ガキ二人がいるんだ。何を今更崖っぷちを恐れるものか。最良の選択? ンなモンあるわけねぇだろ。悪ガキならば。怒られるという選択肢しかあるまい」


 その言葉に笑った。久しぶりに見たその笑顔はハイネの笑顔ではあるが、ハイチにも見えていた。


「ありがとう」


「うん。お前の気分が落ち着いたところで早速町の方に遊びに行こうぜ。今日は休園なんだ」


 怒られても構うものかとハイチを誘った。すると、彼は――。


「どうせなら、俺は女の看護師さんのスカートの中を覗きたいけど? ほら、あっちの病棟の三階担当の綺麗な人」


「ああ……って、ばっか。お前は女の姿だからギリギリセーフだけれども、俺はアウトだぞ」


「そんじゃあ、普通に脱走して遊びに行くかぁ」


 ハイチは笑いながら箱に入れてあった緑色のブレスレットを着けた。セロは金庫の鍵をありがたく受け取ってポケットの中へと仕舞い込む。


 忘れることはないだろう。あの至福だと思えた過去の記憶は消えさせない。ワイアットの思いも失くすわけにはいかない。ずっと大切にしまっておきたい。確かな温かさは本物だったのだから。


     ◆


 なぜに突然異形生命体が現れたんだ、とアイリは頭を悩ませていた。あれの元はレナータであり、彼女はすでに死んでいるはずだ。以前にテレビのニュースがやっていた『墓荒らし』はコインスト及び、反政府軍団たちの仕業なのだろうか。わざわざ人の死体を掘り起こしてまでもやるべきことだったのか。


 いや、それをするだけの兵士がいることだろうか。


「厄介だなぁ」


 本部の部屋の方に戻り、自分のデスクの方に向かっている途中に違和感があった。その違和感は何か。不審に思って周りを見渡す。


 うむ、特に問題は――あった。


 この部屋には二つの金庫がある。それはアイリが持っていたとされる過去の歯車と未来のコンパスに神様の日記だ。過去の歯車だけ、いずれキリが使うために別途で保管していたのだが――その分の金庫が強引に開けられていたのである。


 中は空。何もないそこをしばらくの間茫然と眺め――。


「嘘でしょお!?」


 アイリの声が誰もいない部屋中に響き渡るのだった。


 キリが所有している過去の歯車を盗まれてしまったのである。


     ◆


 病院近くの町中にて、キリは一緒にいたメアリーに何かを言った。その言葉に彼女は嬉しそうな顔を見せるも、本当にこれでいいのかと引っかかってしまってしょうがない様子でいた。


 何だろうか、この気持ちは。


 全くわからずに混乱しているメアリーへとキリは優しく抱きしめてきた。彼女の金色の髪に映えるように存在する青色の花の髪飾りがキラリと光る。


「――――」

●LILAS (リラ)⇒ライラック (紫)

 和名――紫丁香花 (ムラサキハシドイ)

 花言葉――恋の芽生え、初恋


 ハイチが利用したMAD細胞の塊の刀『LILAS(リラ)』はライラックという花をモチーフにしておりまして、呼び名の由来はフランス語を使用いたしました。

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