師匠
植物以外何もないところだな、とケイは窓の外を見てそう思った。かれこれ公共機関に揺れに揺られて三時間が経とうとしている。その三時間前には一日ほど便の到着に待ち詫びていた気がするのだ。
「遠いな」
呟くケイに「仕方ないよね」と隣に座っていたヴィンは笑った。
「私の故郷は相当遠いんだから」
なんて言いながら写真を撮ってきた。眩しいフラッシュが叩かれる。これにうんざりとした様子のケイは「止めろ」と言い放つ。
「本当、フラッシュだけは止めろ。目がやられるから」
「はっはっ。いやいや、ついつい、いい男がいたものでね」
「それよりも、本当にザイツの村から黒の皇国の方に行けるのか?」
自分たちは独自のルートで黒の皇国に行くと宣言していたのだが、実際のところはそのルートを知っているのはヴィンだけである。彼曰く、自身の師匠であるヨイチ・ヤマトのもとへ行く際に使ったルートだそう。
ヨイチのもとへと行くには理由がある。まず同時侵攻防衛戦などでうやむやになっていたキリの記憶の改ざんの手がかりになるであろう、カムラ教典のコピーの資料を探すのである。自分の家を探してからヨイチの家へと向かう。彼は黒の皇国に住んでいるため、このルートは二人にとって最適であった。
「本当さ。私はそうして昔、不法入国したからね」
「当時の人たちからすると、とんでもない犯罪だからな?」
「いいじゃないの。半年前も皇国や民国の人たちはこちらに不法入国していたんだから」
それは否定しないが、本当の不法入国と戦争は訳が違う。そこは履き違えてはならないぞ。
「うーん。でも、私としてはルートを行くよりも――」
そう言うヴィンは窓の外を眺めるのだった。
◆
ターミナルより降り立ったケイは無人状態に驚きながらも、案内をしてくれるヴィンの後を着いていく。王都のターミナルや他の町のターミナルとは違って施設自体が古びている。掃除をしていないのか、床は砂埃だらけで風の影響で中に入ってきたのか落葉があった。
「ここは係員がいないのか?」
「今日は休みじゃないの? もしくは外に行っているとか」
「外? 外へ何しに行くんだ?」
施設の外へと出てもケイは更に驚いた。周りには緑色の植物以外はほとんどなにもない場所だったから。かろうじて、舗装されていない道があるだけ。
「何って、畑仕事とかでしょ。もしくはあっちの労働者の町に行くか。この村って、特産や名産がないようなものだもん」
なんてヴィンは得意がった様子で言う。それでいいのか、と思案しつつもケイは彼が案内する村へと立ち入った。
そこに広がる光景は山間の畑。すべて畑。所々に人の姿が見えるだけ。遠くより農業機械音が聞こえてくる。なんて辺鄙な場所なんだろうかと逆に珍しそうに眺めていた。
「ははっ、どうだい団長殿。普段の都会暮らしの人にとってはびっくりするだろう? ここに普通に人が住んでいるんだぜ?」
「言うのは失礼かもしれないが、同じ国とは思えないな」
「まあ、私だって初めて王都に来たときは同じ国だとは思わなかったもんね」
対抗心のつもりで言っているのか。ケイの答えにそう言うと、彼に自身の家へと案内した。
ヴィンは一本道から逸れるようにして、山際の方へと歩いて行く。これにケイは眉根をしかめた。どうして彼は普通の道を歩かないんだろうか、と。
「ザイツ。ここ、普通に道じゃないだろう?」
伸びきった草がケイの脛に当たった。だが、何かが通ったような跡はある。道には見えないのではあるが。
「道さ。誰もが通る近道さ。大丈夫、大丈夫。たまに溝に足を突っ込む――」
ケイは眉間にしわを寄せて、ヴィンの肩を掴んだ。そして、今の自分の状況を見せびらかす。言うのが遅すぎたようで、すでに溝に足を突っ込んでいた。
「でも、今の時期は農業用水路として使わないから、よかったね!」
「あれか? 時期がずれていたら、俺は水浸しだったのか? えぇ?」
「まあまあ。落ち着いてよ、団長。ここで口論していても仕方ないだろう? 早く私の家に行こうよ」
話を上手い具合に切り替えられて、ケイは腑に落ちないままヴィンの実家へと向かうしかなかった。
◆
この村に来てわかったこと。家の建物は石煉瓦で造られているのではなく、材木を利用して作られていることだった。ヴィンの家や他の家を見てそう思う。やはり、周りに木々が多いとそうなるのだろうか。
――ともかく、無事に着いてよかったな。
どれくらいの期間で家に滞在するのだろうかと考えていたのだが――ヴィンは自分の家なのに、こそこそと玄関の鍵を開け始めた。傍から見れば泥棒である。これから不法侵入をせんという雰囲気がかもし出されていた。
音をなるべく立てないようにそっと開け、玄関のドアを少しばかり開けて様子を窺う。
「…………」
「よしっ」
何に確信得たのかは定かではないが、ヴィンはケイの方を向いてこっちに来るように手招きをした。音を立てずに、自分の後を着いてこいとジェスチャーする。
――ここ、ザイツの家なんだよな?
あまりにも不審過ぎて疑いをかけてしまう。自分の家なのだから、堂々とすればいいのに。家の中に入れてもらってもなお、物音を立てずにゆっくりと鍵を閉めた。家の中を見渡しながらヴィン自身の部屋へと案内していく。
ところで、ケイにとっては初の庶民の家庭訪問となる。それだから、貴族としての自分の家になかった物や、はたまたこの場にはない物が目に映ったりして新鮮に思えていた。思わず「へぇ」と声を漏らしていると――。
「しっ!」
感嘆の声に剣幕を立てる勢いで、静かにするように指示を出してきた。たかが、感嘆。それも、そこまで大きな声ではなかったから、ご近所迷惑でもないだろうに。というか、隣に家は見当たらない。その代わり、ある程度離れたところに別の民家があるんだけれども。
「団長、声出しちゃダメ。もしかしたら、誰か家にいるのかもしれないんだから」
「お前の家なのに?」
なんだか、意味がわからずともヴィンの言葉の言いつけ通りに差し足抜き足忍び足で彼の部屋へとやって来た。その部屋はこざっぱりしていて、物もごちゃごちゃとしていなかった。机にベッドと本棚。そして、大きな箱の山が壁際の一ヵ所に押し寄せられていた。
「とりあえず、私は机の中の引き出しを探るから。団長はそっちの箱の中を探してくれないかい?」
「わかった」
「ああ、それと持ってきた荷物は持っておいてくれよ? いざと言うときはこの窓から脱出するから」
「いや、なんで泥棒紛いなことをしなくちゃならないんだよ」
渋々と大きな箱を一段下ろして開けてみた。中には写真の束がいくつもあった。見たところ、風景や知らない人の被写体が映った写真ばかりである。これは学校外で撮った写真だろうか。
「そう言えばさ、ザイツはどうして戦場カメラマンの人のところに弟子入りでもしたんだ?」
「うーん。元々、写真を撮るのが好きだったんだよ。箱の中にも村の人の写真がたくさん入っているね」
だとするならば、この写真の束の中にキリの写真も入っているだろうな、と思いながらもケイはカムラ教典の内容をコピーした資料を探し出すのだった。
◆
二時間ほどして二人はその場に足を投げ出した。ヴィンの部屋を探し回っていたのであるが、なかなかどうして見つからないのだ。どうも、実家には置いていないのか。
「ないなぁ。本当、どこへやったんだっけかな」
「ザイツって、部屋が綺麗なのにな」
「いや、これは家の誰かに片付けられたんだと思う」
ふと、ケイは周りを見た。先ほどまで綺麗に片付けられていた部屋の床には箱の中身が出されている状態でぐちゃぐちゃとしているではないか。開けられた引き出しでさえも、綺麗に閉められていない。この原因は間違いない。ヴィンである。
「後で片付けるのならばいいけど。お前本当に泥棒みたいなことしているぞ」
この現状、傍から見ても空き巣のようである。
「まあまあ。私の部屋だし」
なんて言っていると、突然部屋のドアが開かれた。これに肩を強張らせる二人はそちらの方を見る。ドアを開けたのは――。
「ヴィン……? か、帰っていたの?」
ヴィンのことを知っており、両手にはほうきを手にした女性がいた。
「あっ、ね、姉さん?」
どうやら、女性はヴィンの姉らしい。彼の顔を見せて安心したのか、手に持っていたほうきを下ろした。
「びっくりさせないでよ。帰ってくるなら、帰ってくるで連絡入れたらいいのに」
「ごめん、ごめん。すぐに家を出るつもりだったから」
「なら、部屋は片付けてよ。そっちは……友達?」
じっと物珍しそうにヴィンの姉は見てくる。ケイは小さく頭を下げた。何か軽い自己紹介でもした方がいいのかと思い、口を開こうとするるのだが、それはヴィンに遮られてしまった。
「そう、こちらは友達の『フレッド君』さ! フレッド君、この人は『俺』の姉さんだよ」
なぜか嘘の名前で紹介された。そして、ヴィンの普段の一人称が『私』なのに対して『俺』とな。隠したいことでもあるのか。
「は、初めまして。フレッドです」
それが何の意図であるかはわからないが、ケイは言う通りに自分を『フレッド』という人物としてあいさつした。その紹介を一切疑う様子もなく、ヴィンの姉は「こちらこそ」と小さく頭を下げてくる。
「ヴィンの姉のナオミです。ゆっくりしていってね」
「は、はあ」
「いやいや、姉さん。俺たちそろそろ行かなきゃ! これからすぐにでも行くところがあるんでね!」
「歩きでどこに? 公共機関は夕方まで便はないでしょ」
指摘されて言い訳する余地もないのか「夕方までいます」と威勢のなく言いきった。ケイとしては一向に構わないのだが、ヴィンはあまりこの村に留まりたくない様子である。
「待っていて、お茶を持ってくるから」
ナオミはそう言うと、台所の方へと行ってしまった。彼女がいなくなり、ヴィンは大きく項垂れる。
「見つかった……」
「いや、見つかったって、何も悪いことじゃないだろ。ていうか、なんで俺の名前を嘘ついた? 別に言ってもよかったのに」
「団長の場合は貴族だってバレるからでしょ。バレて、面倒事になりたくないでしょ? 特に今の私たちは」
膝を立てて、そう言うヴィンは正論ではあるとは思った。だとしても、もう一つ不思議なのは――。
「それじゃあ、一人称が『俺』である理由は? 初めて聞いたぞ」
「……家族が急に俺から私に代わったとなったら、びっくりするじゃない?」
どうやら、ヴィンの昔の一人称は『俺』だったらしい。ヨイチのもとに弟子入りしてから強制的に代えさせられたのか。
「別にどうってことないと思うけどな。逆に俺の方がびっくりした」
「いやいや、団長は急展開な出来事に慣れているでしょ」
「そういう問題?」
怪訝そうにヴィンの方を見ていると、ナオミがお茶をお盆の上に乗せて持ってきてくれた。改めて彼女を見ると、彼にそっくりだなと思う。いや、姉弟だから当然なのだが。
「ふふっ、ヴィンが帰ってきたこと、おばあちゃんに伝えたからね」
「はっ!? なんで勝手に!?」
「どうせ、夕方までいるんだからお昼ご飯が必要でしょ? フレッド君も食べていってね」
「は、はい」
「はい、じゃないでしょ。だん――フレッド君! わたっ――俺たちにはやらなきゃならないことが山ほどあるんだぞ!」
「それはこの部屋の散らかり具合のことか? これ、全部お前じゃねぇか」
自分がしたことは自分で片付けろと言わんばかりに、ナオミが持ってきてくれたお茶を飲んだ。だが、ヴィンが手伝ってと泣きついてくるせいで、お茶を服の上にこぼしてしまう。
「熱ぅっ!?」
「あら?」
「あら、じゃねぇよ! 人がコップ持っているときはそんなことしてくんなよっ!」
ああ、もう。ケイは服の上にかけられたお茶をハンカチで拭き取る。慌てて、ナオミもハンカチを出して「弟がごめんね」と拭いてくれた。
「このままじゃ風邪引くし、ヴィンの服あったかな?」
「あっ、俺自分の替え持っているので」
「そう? じゃあ、私は一度部屋を出るから着替えてくれる? 洗濯するから」
「ありがとうございます」
そう言うと、ナオミは部屋から出ていく。それに伴い、ケイは着替えた。同時侵攻防衛戦時での銃弾の傷痕が生々しく残っているのをヴィンは見逃さなかった。着替えが終わり、彼女は濡れた服を手に部屋から出ていった。
「しかし、お前とお姉さんって真逆のタイプだな。お姉さんの方は結構しっかりしているぞ」
「そうかい? これでも私もしっかりしているんだけどな」
――ある意味ではな。
「でも、姉さんって、たまに見落としがあったりすると思う方だけど」
「そうか?」
「だって、ほら。私の服を渡そうとしていたでしょ? 私の服って言っても、絶対団長には入らないから」
「身長差もあるからな」
「それだけじゃなくて、家にある服は私が十四歳のときまでの物しかないはずだから、それこそつんつるてんになるよ」
二人の身長差は十五センチ以上もある。その上、今のヴィンの身長よりも低めのサイズの服を着ていては果てしなくおかしい状況になるだろう。いや、まず頭が入ったとしても肩が入るかどうかだ。
「想像してごらん?」
「できた。ザイツがばかにして写真を撮る姿が」
「はっはっはっ。嬉しいなぁ」
「褒めてはいないからな? それよりも早く片付けろ。俺も手伝ってやるから」
そう促すケイは散らかった写真を集め出す。ヴィンもまた写真を拾い始めた。
「それはどうも。ていうか、団長って変わったよね? 初めて会ったとき、めちゃくちゃツンケンしていたし」
「そうか?」
自覚はないのか、ケイは不思議そうな顔をしていた。
「えっ、覚えてない? 私が三銃士軍団のシルヴェスター団への所属が決まったときに言ったこと」
「なんて言ったっけか?」
すると、ヴィンは勢いよく立ち上がって眼鏡を外すと、ケイの物真似をし出した。
「『言っておくが、貴様自身が買われてはいない。貴様の能力自身だけが買われているのだ。自惚れるな』って」
「……そうだっけか?」
妙にその物真似が似ていることに腹立たしいなと思いつつも話を流そうとした。だが、ヴィンは「本当だよ」と言ってくる。
「ほぉんと、変わった。変わった。丸くなったよね。何があったのか、知らないけど」
「別に何もないけどな」
「あるけどねぇ。もしかして、あれかな? 団長もデベッガ君に人格とか書き変えられていないかい?」
「恐ろしいことを言うなよ」
なんて鼻白むも、ケイは何かに引っかかった。だが、流石にそれはないだろうと片付けを再開する。キリがヴィンの記憶を書き変えたのは、彼にとって都合の悪いことを知られていたからというだけの可能性だから。
「あっ、これ懐かしいっ! 小さいとき、よくこれで遊んでいたなぁ!」
小さい頃に遊んでいだおもちゃを見て、ヴィンは片付けを放棄し出すと遊び出した。これにケイは考えていたことをすっかり忘れてこめかみに青筋を立てる。
「片付けろ、ばかっ!!」
◆
昼食ができたと言われ、二人はダイニングの方へと赴いた。ちなみにヴィンの部屋の片付けはまだ終わっていない。
そちらの方へと赴くと、見るからに美味しそうな野菜たっぷりのスープやサラダに肉のステーキが食卓に並べられていた。今まで自分たちが食べていた物とは違うような、いい意味でのにおいが周りに立ち込めている。
「いらっしゃい」
台所の奥から白髪交じりの老婆がやって来た。ヴィンの祖母だろう。ケイは「どうも」と頭を下げる。彼女はエレノアとは違う雰囲気の人物である。だから、新鮮な感じがした。
「田舎料理だから、お口に合うかわからないけど」
「いえ、そのようなことは――」
早速席に着いて一口食べた。これは美味しいと頬を緩ませる。
「美味しいです」
「そう、よかったわぁ」
最近まではこうした温かな食事をしていなかったからとても嬉しい物である。それに自分が好きな物もある。ケイは美味しそうにそれらに口へと運ぶ。そんな彼の様子が嬉しかったのだろう。ヴィンの祖母は――。
「貴族の方がいらっしゃるから、どんなのが喜ばれるかわからなかったから」
ヴィンの祖母のその発言に二人は吹き出した。一緒に食卓を囲んでいるナオミも瞠目した様子でケイを見ているではないか。
「なっ、えっ!? 気付いていたんですか!?」
「ちょ、えっ? ヴィン、どういうこと!? フレッド君って本当に貴族なの!?」
ああ、これはもう隠しきれない、とヴィンの方を見た。助けを求めるのだが、彼は肩を竦めるだけ。腹立つ仕草だ。
「バレたら、もう仕方ないよね」
あっさり言うではないか。叩いてやろうかと思ったのだが、ケイにとってはちょうどいいと思っていた。嘘をつくのはあまり気持ちのいいものじゃなかったから。彼はひとまず彼女たちに頭を下げた。
「騙して申し訳ありませんでした。それと俺はフレッドではなく、シルヴェスターと申します」
「シルヴェスター!? シルヴェスターって、あの海軍のです、よね?」
「は、はい。父です」
なんだかぎくしゃくした感覚でナオミと会話をする。ヴィンは開き直った様子で「どうしてわかったの?」と祖母に訊ねていた。
「なんでって、佇まいと品かしらねぇ。庶民とは思えない感じだったから、おばあちゃんてっきり……」
「あぁ、だってさ」
「お前、結構他人事だよな? 俺の身分を隠そうとしていたくせによ」
「いいじゃない。だって貴族ですって言えば、姉さんとは絶対にぎくしゃくすると思っていたし。しているね、姉さん。そんなに畏まらなくてもいいんだぜ? 俺とシルヴェスター君はフレンドリー!」
ケイの肩に手を回してきた。彼はそれに少しばかりうんざりしているが、ヴィンは全くのお構いなしである。これぞ、無礼講。
「ちょっと、ヴィン! それは失礼じゃない!」
「大丈夫、大丈夫。今の俺たちは対等関係だから。ね、シルヴェスター君」
「……そうだな。対等関係じゃなければ、俺はザイツを無礼者として扱っていただろうよ」
「本当、弟が申し訳ありませんでした!!」
ナオミや彼女たちの祖母がいるから下手に怒れないケイはため息をつく以外何もできなかった。
◆
重々しい空気の中の食事を終えて、二人は再びヴィンの部屋の方へと戻っていた。まだ片付けの半分しかできていない。この調子では日が落ちた頃に黒の皇国へ入国する形になるだろう。
「ザイツ、早く片付けろよ」
吐息を漏らしながらのケイの言葉にヴィンは写真を眺めていた。床に散らかっていた写真ではない。箱の中にあった物を引っ張り出してきているのだ。
「うん」
生返事をするだけで、実行はしようとしない。何をそんなに真剣になって写真を見ているのか、と覗いてみると――。
「これ、ザイツの家族写真か?」
そこには五人の人物が写っていた。その内の二人がナオミとその祖母に似ているからそうだと思った。母親らしき人物の手には赤ちゃんが抱かれている。
「そう。私の家族写真。全く覚えていないけどね」
「赤子にそんな記憶なんてないだろう」
「でしょうね。赤ちゃんだったから、何も覚えていない」
空笑いを見せながらヴィンは写真を仕舞った。そして、片付けを再開する。ふと、ケイは気になった。ナオミと祖母は昼食中に見たのだが、父親と母親がいないのだ。畑仕事とやらにでも行っているのだろうか。そのことについて訊ねてみた。
「……団長は聞いたことあるよね? 侵攻戦」
「知ってる。この村にも被害があったのを」
「そう。ここの村って中年の男性はほとんど住んでいないんだよ。それのせいで」
「ザイツとデベッガの父親もか?」
「デベッガ君の記憶が欠落しているから、断言はできないけど。多分そう」
ケイは何も言えなかった。ただ、黙ってヴィンの話を聞くだけ。
「ほら、この村って何にもない村だからさ、お金を得るためには畑で耕すくらいなんだ。それでも、土地がない人たちは山を越えた労働者の町まで行って、稼ぐしかない。私の母親もそうだ。そこで銃砲の部品組み立ての仕事をしている」
「…………」
「覚えているかい? 動物園での出来事を。貴族たちの税金の無駄遣いを言っていたおばさんたちのこと。聞いていただろう? それでも、何も言わずしておばさんたちのことを無視していただろう?」
記憶の書き変えとはどこまでも予想がつかないところまで改変しているらしい。記憶の辻褄が合わない。あのときは自分たちが出てきて追い払っていたが、ヴィンの記憶の中ではその会話を聞かなかったことにしていたらしい。
「あれはまだ、王都周辺に住んでいる人だからの話さ。実際、お金に苦しんでいる者たちはそれどころじゃない。あんな、公共の場に来てまで愚痴を言うほどヒマじゃない。言うなら、仕事中に心の中で言うさ。家に帰ってきても愚痴を言うほどの体力は残っていないからね」
「そうだとしても、俺は動くことはできんぞ」
「いや、私はそういう意味で言ったわけじゃないさ。ただ、知って欲しかっただけ。貴族が大変な役職だってことも知っているよ。ただ、貴族も庶民もどちらの大変さも互いに知らないだけなんだよ」
ヴィンはケイの方を見た。
「人は自分以外の人物のことを実は知らない。それはたとえ、友人であっても、恋人同士であっても、夫婦であっても、家族であってもだ」
二人の目がぶつかり合う。
「だから、人を知るべきであると私は写真を撮るんだ。見るだけじゃない。見ただけじゃ人の記憶にはずっと留まらないから。証拠を残すんだ」
「……それが、お前が写真を撮り続ける理由か」
「そういうことかなっ! あーあ、前にデベッガ君の写真を捨てちゃったからな。それだけは本当に自分の行動を恨んでいるよ」
改めてヴィンは片付けを再開する。身に覚えのない写真を持っておくのが怖かった。だから捨てたのだが、本当は捨てるべきではなかったのかもしれない。今、ヴィンの手元にキリの写真及び、そのデータはない状態であるから。
「あいつの写真がなくても、おばさんの写真とかは残っているだろ? 村人の写真を撮ったならば。デベッガの記憶だけがないならば」
「……いや、それはハルマチさんの記憶がないと同じように、デベッガ君に何かしら関連性のある人のことを忘れるのは必然的じゃないかな。おそらく、動物園の税金愚痴おばさんたちのことも改変されているんじゃないの?」
「なるほどな」
「うん、それに……おっ、これまた懐かしいおもちゃが出てきた!」
話が逸れていき、見つけた懐かしきおもちゃで遊び出す。同時にヴィンの片付けが下手くそな理由がわかった。何でも興味を持つことが原因だからだ。片付けの最中に見つけたおもちゃだろうが、自分に関連性のある人物に写真を撮りまくろうと。
ケイは長いため息をつくしかなかった。
◆
どうにか日の高い内に片付けを済ませ、ケイとヴィンは実家を後にした。そこから黒の皇国の国境付近にある山の方へと目指すらしい。
山の入り口にてヴィンはカメラを突然構え出した。
「何してんだ?」
「ふふっ、実はこの山にそれはそれは可愛い野生の小動物たちが生息しているんだ。中には人懐っこいやつもいたりして、捕まえたこともあるんだぞ!」
「へぇ。でも、すぐに逃がしてあげただろうな?」
「逃げたければ、逃げればいいさ、という感じ。勝手に逃げなければ、その日の夕食になるし」
「…………」
聞きたくないことを聞いてしまったな、と山の中へと視線を逸らした。ヴィンが小動物たちのことについて話そうとする度にケイは黙らせた。同じ国の人間だろうが、先ほどの一言で印象が大きく変わってしまっているからだ。
「えぇ、ていうか、団長が昼食べたあの肉だって――」
「わからなくもないが、それ以上言うな。気分悪くなる」
それ以前に小動物のことよりも、とケイは歩く山道が気になった。村へ入ってすぐに草ぼうぼうの道に入ったのと同じで整備されていない山道だからである。というか、これは獣道ではないのか。人が、車が通れるような場所ではない気がするようだが。
「ザイツ、ここは?」
「黒の皇国へ不法入国するルートだよ。本物の山道からだと、出入国管理棟に辿り着いちゃうからね」
「そうか。ならば、あっちの小屋は?」
山の少し登ったところにある小さな小屋。建物につる性の植物が絡みついていて、使われていない存在感があった。
「あそこは……私もよく知らないな。多分、物置とかじゃないの?」
「ふーん」
「という隙に、小動物の親子発見!」
カシャッという音を立てて小動物の親子を撮影した。ストレスを与えないように、流石にフラッシュは叩かない。
「……あれは来週のカワダさん宅の夕ご飯かな」
「だから、そういう不吉なことを言うなって」
早く行くぞとヴィンを促す。二人はこの山の向こう側を目指した。彼らがいなくなると、その小動物の親子はたわむれながら小屋の方へと行ってしまうのだった。
◆
山を越えて黒の皇国へ不法入国し、ヨイチの家へと辿り着いた頃には真夜中になっていた。国境を越えた先の町までは公共機関がないため、徒歩を要した。
「足が……」
おまけにこちらの国の見回り軍及び、向こうの国の軍にも見つからないように行動を起こしているため、疲労は倍に膨れ上がっているのだ。
「いやいや、何はともあれ師匠の家に着いたんだ」
呼び鈴を鳴らすヴィン。だが、こんな真夜中に来てもいいものだろうかと思った。今頃の時間帯は眠っているのではないだろうか。しかし、そんなケイの不安とは裏腹にヨイチは寝ぼけ眼といった様子でもなく、すぐに出てきてくれた。そして、彼らを家の中へと案内してくれる。
「しばらくぶりだな、ヴィン。どうだ、学校生活は」
ヨイチと言う人物はケイも噂で聞いたことがあった。
ヨイチ・ヤマト、世界をまたにかける戦場カメラマン。高年齢ながらも、衰えない撮影技術。軍人よりも前も前に出て写真を撮ろうとする心意気。その証拠に部屋の中には防護服や拳銃、散弾銃と言ったおおよそ一般家庭には備わっていない代物があった。
「ははっ、残念ながら除籍です! ね、団長」
「そうかい。ああ、きみがヴィンの。話は聞いているよ、シルヴェスター君」
「初めまして。俺もヤマトさんの噂はかねがね聞いています」
ケイは頭を下げる。なんだか、すべてを見透かしていそうな人物だとも思った。もしかして、ヴィンがよく確信をつくような物言いをするのは彼の影響だからなのだろうか。
「まあ、ちょっと遅いが、乾杯でもしようか」
そう言うと、ヨイチは台所からお酒の入った瓶とグラスを三つ持ってきた。
「きみにとっては安酒かもやしれんがな」
「いえ、そんな悪いです」
ちなみにではあるが、ケイとヴィンは同い年であり、お酒が飲める年齢でもある。グラス片手に一杯の酒をいただいた。
「はぁ、こういうときこそ学徒隊じゃなくてよかったって思うね」
「校内は飲酒禁止だからな」
「それでも持ってきては怒られる人たちもいたようだけど」
誰だかは知らないけど、と言うヴィンにヨイチは「ところで」と話を変えてきた。
「先ほど、聞き捨てならない言葉が聞こえたんだが? 『除籍』だと?」
「そうですが? 何か?」
グラスに入れられ、薄い青色をした酒を一口飲む。それに対してヨイチは怪訝そうに見てきた。
「お前、私が何のために学徒隊に入れと言ったのか忘れたのか?」
どうもこの人物、ヴィンに学徒隊へ入隊しろと言ったらしい。いや、そもそも敵国になるやもしれない人物を弟子にし、あまつさえ学徒隊へと入れようとするのはいかがなものか。
「ちゃんと、覚えていますよ。でも、辞めたくて辞めたんじゃないんです。ちゃんと理由があって、除籍になったんですよ」
ヨイチは小さく頷きながらヴィンを見た。気まずい沈黙がその場を漂う。ケイは黙って酒をちびちびと飲む。
「……ヴィン。それと、シルヴェスター君。悪いが、向こうの物置部屋にこれくらいの緑色をした箱があるから取りに行ってきてくれないか?」
ヨイチは自身の胸幅ぐらいの大きさのある緑色の箱を持ってこいと二人に促した。それに伴い、彼らはヴィンが案内する物置部屋へとやって来た。
「いきなり、あの人は何を言うんだ?」
埃塗れの大きな荷物を掻き分けながら探していく。
「わかんないねぇ。でも、師匠ってキレたらめちゃくちゃ怖いからね。素直に従うしかないね」
「お前が余計なことを言わなければよかっただけの話じゃねぇの?」
「いいや、師匠は嘘を見抜くのに長けているからね。よくキャリー姉さんと怒られていたよ」
なんて笑っていると、ヨイチの言っていた箱を見つけた。彼の胸幅くらいで、細長い緑色の箱。きっと、これだ。
「何だろう、この中身」
気になるのか、ヴィンは試しに箱ごと振ってみた。箱の内面に当たる音が聞こえる。何かが入っているのは確かではあるが――。
「それ、そんなことしてもいいのか? 壊れても知らんぞ」
「ええ、それは早く言って欲しかったなぁ」
いかにも自分は関わりがありませんよ、とでも言うかのようにしてケイにその箱を押しつけた。責任転嫁とでも言うべきか。
「俺に押しつけんなよ」
不服そうな顔を見せるケイは箱をまじまじと見た。壊れていないことを信じたい。
「とりあえず、中身を確認してみるか」
「……おくれ……」
「あ? 何か言ったか?」
ヴィンの方を見た。それに彼は片眉を上げて怪訝そうにこちらを見返してくる。
「私は何も言っていないが?」
――空耳か?
なんて首を傾げながら箱を開けてみた。中に入っていたのは白くて美しい横笛だった。それを手に取って、壊れたところがないかの確認をする。とても重量のある楽器のようであった。
「笛?」
「ヤマトさん、ザイツに弾けって言っているんじゃないの?」
「ええ、無理だよ。楽器なんて、楽器の『が』の字すらも触れたことがないのに」
「……許して……」
何かが聞こえてきた、と二人は硬直した。心なしか、白い横笛からのようだ。
おお、我が子どもたちよ、
泣かないでおくれ。泣かないでおくれ。
あなたたちには罪はないの。
母親である私に罪があるから、
共にいることができないのを
許しておくれ。許しておくれ。
もうすぐ、日が沈む。
さあ、さあ、お眠りなさい。ぐっすりと。
夜明けに私はいなくなるけれども
泣かないでおくれ。泣かないでおくれ。
笛の歌を聞いて二人は一気に顔色なしへとなっていく。はっきりとその耳に聞こえる女性の――それこそ歌に出てきた母親のような不気味な歌声に青ざめたケイはそっと箱の中へと仕舞い込んで――。
「これは俺の出る幕ではないっ!」
ヴィンにすべてを押しつけた。こんな物、絶対に関わりたくないからね。
箱を受け取ったヴィンは変な声を上げながら爪先立ちになった。
「冗談じゃないよ! そこは中身を開けた団長の責任にあるだろ!?」
ケイに押しつける。
「何をっ! それを言うならば、先に見つけたザイツじゃねぇか! お前が責任を持て!」
ヴィンに押しつけて、ケイはヨイチのもとへと逃走を図った。
「ひどくない!? ひどくない!? こんなオバケ笛なんて!」
逃がすまい、と後を追いかけてきて、ケイの服のポケットへと捻じ込んだ。
「オバケを怖がってどうするんだよ! エントランスの銅像の噂話を信じていたくせに!」
何をするんだ、とヴィンのベレー帽の中へと突っ込む。
「ばっか! それは興味があるからだよ!」
やいのやいのと喚きながら、緑色の箱を押しつけ合っていく。仕舞いにはヨイチがいる部屋の入り口で押しつけ合っていた箱が開いてしまい――勢いのある反動で白い横笛が一直線に彼の額へと命中してしまった。
スコーンッと痛々しい音がその場に響く。そのせいでヨイチは倒れてしまった。
「師匠ぉお!?」
「ヤマトさん!?」
慌てて駆け寄る二人。彼らはただ、ひたすら平謝りをするだけ。ヨイチは少しばかり根に持っているのか、その笛を手にして彼らの前に持ってきて歌を聞かせた。
そうして、そこら一帯に男子二名の悲鳴が響くのだった。
◆
「落ち着いたか?」
うるさいと言われて、拳骨を二発食らったヴィンは恨めしそうにケイを横目で見た。
「はい、申し訳ありませんでした」
「わかればよろしい」
「私は納得しない、ていうか、師匠! なんですか、その危険な香りのする笛は! それ以前に師匠って楽器弾かないでしょうがっ!」
言いたいことを囃し立てまくる。詰め寄ってくるヴィンにもう一度、ヨイチは彼に拳骨を食らわせた。涙目になって、一人悶絶する。
「訳があるからだよ」
「訳? 理由ですか?」
ケイの発問に「そうだ」とヨイチは答えた。
「ヴィンの言い訳と一緒さ。理由があるから私はこれを持っている。理由があるからヴィンは学徒隊を辞めた。理由があるからここへ来た。違うか? 理由がある以上、お前たちがここに来るならば、私は拒むことはない。それもまた理由があるからだ」
そう言うと、ヨイチはその場に座りながら歌う笛を黙らせるように箱に仕舞った。
「訊こうか、二人は何が知りたい?」
その言葉に二人は顔を見合わせると、ヴィンが話を切り出す。
「二つあります。まず、過去の歯車について教えて欲しいんです」
僅かながらヨイチの片眉が上がった。
「私はとある人物から過去の歯車で記憶の改変をされました。それはそのとある人の記憶なんですが、どうしてでしょうか?」
「スタンリー家か?」
「違います。確かにその家は持っていますが、過去の歯車は二つあるんです」
ケイの言葉にヨイチは目を皿にした。まるでそのような事実はないとでも言うかのようである。
「過去の歯車が二つあるなど、ありえない話だぞ」
「でも、私たちは見ています。その人物が剣として使用しているところも、同じようにしてスタンリー家の者が持っているところも」
「…………」
「師匠からの話も覚えています。過去の歯車は所有権を持つと不死者となり、事実を書き変えることができる、と。事実そうです。彼は不死者となり、私の彼に対する記憶の事実を書き変えています。もしかしたら、私はその人物についてとんでもない秘密を知ったのかもしれないんです」
「訊いたら、また何されるかわからないから訊けない、と?」
「はい。だから、師匠が知っている過去の歯車について知りたいんです」
答えが欲しい、とヨイチに期待するかのような眼差しで見つめた。それはケイも同様である。だが、その質問に彼は答えず首を横に振った。
「それ以上のことを私は知らない。過去の歯車の特性を知っていたとしても、所有権を持つ人物が事実を変える事情は知らないんだ」
「そんな……」
「本来、過去の歯車の所有者には決まりなんてない。私だろうが、ヴィンだろうが、シルヴェスター君だろうが、その所有権を持っている人だろうが、誰でもなれるのだから」
「誰でも?」
「ああ。誰でも。だが、スタンリー家の者であるならば、所有権を持とうとはしないはずだ。その力がどのようなものであるかを知っているから」
言われてみれば、である。過去の歯車という代物は不死者に成り得て、なおかつ事実を書き変えたり、なかったことにすることができる。革命家たちや世界を手に入れたい者たちにとっては憧れの的とも言えよう。絶大なる力。誰もがそれを手にした王者に跪くに決まっている。
「所有者に成り得る者。普通に考えて人間だ。人間は感情を持った生き物、喜怒哀楽という単調な感情だけではない繊細で扱いの難しい存在なんだよ。だから、その彼が何を思って、どんな事情があってヴィンの記憶の書き変えをした心情なんて私にはわからない」
わからないと言われ、顔を見合わせる二人。こればかりは仕方ないのだろうか。そう思っていると――。
「質問はもう一つあるだろう?」
忘れるところだった。ヴィンは顔を上げた。
「前、キャリー姉さんのところに行ったんだけど、いなくて。それに連絡もつながらないから。師匠はご存知ですか?」
ヴィンのその質問にヨイチは深く眉間にしわを刻ませた。何かを渋るような表情で部屋にある棚から見覚えのある少しだけ古びたコンパスを取り出してくる。これはキャリーが持っていた未来のコンパスではないか。
「そ、それ、なんで……?」
「知っているのか?」
「どうも、シルヴェスター君は知らないようだな」
そう言いながら、改めてヴィンの方を見た。
「キャリーは、もうこの世にはいない」
「待ってください!? どういうことですか!?」
ヴィンは取り乱した様子で目を泳がせていた。それをケイは落ち着かせようとした。だが、実際のところは彼も動揺は隠せない。知りたい事実も知ることができないのだから。あの絵の意味を知ることができないから。
「あの子は何かしらを視たんだと思う。半年ほど前に、私のところに手紙とこれが来たんだ」
ヴィン宛てにもあるぞと手紙を渡してくる。急いでヴィンはそれを読み始めた。
『ヴィンへ。
この手紙を読んでいるということは、私はこの世にはいません。未来が視えました。視えてはいけない未来が。誰がどう足掻いても、何をしても変えられない未来が。視たくないのに視えてしまう。所有者になるべきではありませんでした。過激派から逃れるために命を絶とうと思います。だから、未来のコンパスをヴィンが持っていてください。ただ、所有権を得てはいけないからね。ヴィンと過ごした日々は忘れません。今までありがとう。
最後に一つ。隣で見ているシルヴェスター君を、友達を大切にね。
キャリー』
「ヴィン。キャリーの遺言だ。持っていきなさい」
ヨイチから未来のコンパスを受け取った。手が震えている。悲しいという感情よりも、恐ろしい感情がヴィンの内に溜まりいく。不安だ。これから、何があるのかわからないのに――。
「二人とも、今日はもう遅い。泊まっていきなさい。部屋はヴィンが使っていた部屋を使いなさい」
「はい。ザイツ、どうした?」
珍しく愁眉を見せるヴィンに声をかけた。彼はなんでもないと言うと、自室へと案内する。そんな彼らの後ろ姿をヨイチは黙って見つめていた。
◆
翌朝、カムラ教典の一部をコピーした物が見つからなかったヴィンの自室でケイは目を覚ました。彼が眠っているところはソファである。ベッドで眠っていたはずのヴィンはいない。ヨイチのもとへと向かったのだろうか。
早速ケイが彼らのもとへと向かうと、二人はいなかった。心配だ。昨日のヴィンの様子は明らかにおかしかったから。
――まさか、あの未来のコンパスとやらに怯えているとでも?
なんて思案しながら外へと出てみると――。
「ほらほらほら、スピードが落ちているぞ! ラスト五十回!」
玄関先でヴィンはヨイチに腕立て伏せを命じられて、それを実行していた。呆気に捉われるケイは茫然とその場を立ち尽くす。
「ま、待って、師匠。た、体力的に……!」
「何を!? 半年前とは言え、学徒隊だったんだろっ!? 腕立て伏せ二百回以上できないでどうするっ!?」
「ちょ、ちょ。休憩したい……」
「ああ!? まさか、学校で体力作りの訓練ないわけじゃないだろうがっ! あれか? サボっていたのか!?」
「ひぃいいいい!?」
ようやく腕立て伏せ二百五十回を終えたヴィンは燃え尽きた様子でその場に座り込む。それにケイはようやく声をかけた。
「ザイツ?」
「参ったよ、まさか今朝にこんなことするとは」
「あれか? お前が学徒隊に入ったのって――」
「うん。体力皆無だったから、入れって。別にこちらの学校でもよかったんだけど。ほら、不法入国だし。戸籍ないし。だから、王国の方にね」
今のヴィンを見る限り、心配をしなくてもいいのではないかと思ってしまうケイがいた。
◆
荷物をまとめ、ヨイチの家を去るときが来た。ヴィンは嬉しそうに「それじゃあ!」と言う。余程訓練が嫌なのだろう。
「私たちはこれで失礼します」
「ヤマトさん、お世話になりました」
その二人の言葉にヨイチは名残惜しそうに、また来なさいと言った。
「いいかい? 過去はただの事実ではない。未来のために存在することを忘れないでくれ」
「はいっ!」
元気よく返事をする二人にヨイチは「だから」と話を続けつつ、あの白い横笛の入った緑色の箱を見せた。
「これをお前たちに餞別として渡す。お前たちならば、この過去から断ち切れず、未来を見ようとしない笛を――って、こらっ! 逃げるなっ!」
二人はそんないわくつきを受け取りたくないがためにその場を駆け出した。その後をヨイチは必死になって追いかけるのだった。




