兵の魔女15
幼き末娘の手を握ったアラメインは、落ちた短剣をもう片方の手で拾い上げた。
その刃を互いに握り合う手と手の隙間に差し入れると、赤子のような力と共に、ゆっくりと、引き抜く。
二人の手のひらに生じた切れ込みは血を吐き出したが、それは同時に相手の血を吸いもした。
母娘の血が直接交わり、それが互いの体へと吸収されていく。
痛みに手を引くこともなく、二人は互いの目を見つめ合っていた。
血のみならず、その精神、魂までをも交わし合うかのように。
母、アラメインの目は鋭くも冷徹で、愛どころか痛みすら感じていないかのようだった。
娘、アイランの目は動揺し、潤み、震えていた。だが、手は震えていなかった。
母は血を送り、眼差しを贈り、魂を御繰る。
娘はそれを戸惑いながらも受け取り続けた。
やがて、アラメインは手をそっと離した。
そして止血すらせず、再び体をぐたりと横たえる。
「これで、私が死んだ時、自動的にお前に"兵の魔女"が継承される。何世代もそうしてきた、お前にもできるはずだ」
声は疲れこそ感じられたものの、いつもの、確かで力強い、師の声だった。
「継承……」
自分の傷を静かにさすりながら、不安げに呟く。
彼女は、"兵の魔女"のことなど何も知らないに等しい。
だが、これがアイランの姉の誰かであったとしても、この儀式の意味などは思いもよらなかっただろう。
「いずれ、わかる。訓練を絶やさぬように」
それきり、母は語ることをやめた。
死にゆくための床で、ただ静かに呼吸を繰り返すだけの存在となった。
アイランも、これ以上は訊ねなかった。
理解したわけではない。むしろ事態はその真逆であったが、死にゆく母の断固とした雰囲気が、軽々しい質問を許さない気迫をまとっていたのである。
そして、娘は母を問いただすこともできず、遊びに行くような気分にもなれず、ただ、訓練を重ねた。
体を鍛え、技を磨き、精神を練る。今まで軽んじてきた行為だったが、これだけがたとえ一時であっても不安をわずかに和らげてくれたのだ。
アラメインは自ら食を断ち、白湯すら口にせず、ただ全てを己の命そのものと死にゆだねていた。
そのまま、8日が経ち、アラメインは結局あの後一言も発さぬまま、静寂を守って死んだ。
苦悶の表情一つ浮かべず、苦痛の呻き一つ漏らさず、樹木が朽ちるようにいつの間にか死んだ。
アイランはその死体を拭き清め、亜麻布で覆い、火葬に附した。"兵の魔女"の死体は火葬する、それが習わしだったのだ。
昨日まで、母であり師であった命。たとえ本人がそう思っていなかったとしても、事実に変わりはない。
それが燃え尽きてゆく様を、アイランは魂が抜けたようにぼうっと見ていた。
姉たちが死に、母が死に、自分だけが残った。"兵の魔女"だけが。
そのことだけを、ただ、呆然と理解していた。
絶望しているわけでも途方に暮れているわけでもない。ただ、他人事のように「ああ、一人になったんだな」と実感したのである。
その時、炎の奥から、炎と同じ色のものが飛び出した。
光を放ちながら真っ直ぐに突っ込んでくる。
とっさに身構えようとはしたが、不意を突かれた上に、それこそ光のような速さだった。
アイランが「あっ」と言う頃には、何かはその口をこじ開けて彼女の体内に飛び込んだ。
炎を凝り固めたようなそれは、彼女の小さな口と喉に収まり切らぬほど大きく、太く、長かった。
そんなものが、口と喉をごりごりと押し広げながら奥まで入り込んで来る。
「ぁ、ぅぐっ」
苦しさに喘ぎ、刺激に涙をほとばしらせ、痛みに膝から力が抜ける。
ひざまずいて首に両手を当て、えづきながらもなるべく苦しさを和らげようと背筋を伸ばす。
それでも尚挿入はやまず、それは彼女の奥深くまで浸透していった。
その時間が一体どれほど続いたのか。十数秒だったのか、数分だったのか、ともあれ、それは彼女の体内に完全に収まった。
苦しさから解放されたアイランだったが、荒く息をつくばかりで、立ち上がることはできない。
それどころか、間もなく新たな痛みが胸と腹の奥より生じた。
どんよりとした重い痛み、そして熱いスープを飲んだような熱さ。
「魂が燃えている」。アイランはそう感じ、更なる痛みに胸を押さえてうずくまる。
痛みはやがて全身に広がり、骨と筋肉の軋みが体そのものを通じて脳に響いた。
痛い、苦しい、熱い。熱い。あつい!
魂が泡立ち、沸騰した肉体はたまらず両拳を地面に叩きつける。
投石器のような衝撃音と共に土が舞い上がり、めくれ上がる。
震える手足は熱のあまり赤く変色し、吐息は蒸気となって空気に白いもやを残した。
獣のような、自分の喉から放たれたとは思えないような咆哮が轟けば、あの圧に負けたかのように歯がぼろぼろと抜け落ちた。
そして、その代わりにとばかりに、めきめきと音を立てて牙が生え伸びる。
喉は獲物を飲まんとする蛇のごとく開き、咆哮に押し広げられた口はサメのように耳元まで裂け上がった。
厚い木板を無理やり引き裂くような音と共に目玉が波打ち、瞳の色が淡い青から漆黒へと染まる。
それらの変化が全て終わると、痛みと熱は嘘かはたまた夢のように消え失せた。
開いた喉も、裂け上がった口も元に戻り、表面上は何の変哲も無い少女の顔がそこにあった。
だが、口に指を入れると、サメのように尖り、犬のように太い牙を感じた。
それに、何よりも、心の奥底から湧き上がる衝動。
くすぶる炎を抱えたかのような感覚。その炎に巻かれはしないが、常に熱は感じ続けているような。
衝動そのものにならずとも、その衝動が常に五体の隅々に流れ込んで体を動かそうとしているかのような。
燃え上がる理性が急速に芽吹きつつあるのを感じる。体が驚くほど軽い。
──これが、"兵の魔女"
実感によって、アイランは確かに悟った。
歴代の"兵の魔女"は、母は、常にこうだったのだ。
肉体の奥底で叫び、悶え、のたうつ幾万もの魂の残りカスども。
それはもはや知性とは呼べず、刺激に暴れまわる虫とさほど変わらない。
だがその熱量と本能が訴えかける。虫が暴れるのは、救済を願うからだ。危機に置かれているからだ。
解放を訴えている。外に溢れ出ようとしている。救いを求めている。だからこそ強い力になる。
そうして証明し続けているのだ。死んだ魂の欠片の寄せ集めであることを。
そして、奇妙な確信があった。
自分はそれら全てを踏みにじって、この魂どもを完璧に操れるのだ、と。
あたかも犬に首輪と縄をかけて操るように、その犬を戯れに屠り喰らうように。
確信していた。死者たちの魂の叫びの一切が、自分には無意味であることを。
少女はゆっくりと立ち上がりながら、その事実を知った。
そうして、初めて、捕食者のように
笑った。
剣筋の閃きで、クロスは縛めから解放された。
すぐに立ち上がろうとするが、縄で縛られ手足が痺れている上に、薬の影響が体に残っているせいで、そのまま倒れかかってしまう。
それを、アイランがしっかりと抱きとめた。
「大丈夫? 怪我は無い? ひどいことされなかったぁ?」
耳元で囁きながら、頭をなでる。
子供をいたわるような優しい手つきだったが、今のクロスはそれどころではなかった。
「クランツ、です、アイランさん、敵の黒幕の名前、クランツ・フェルマー・ルネイ」
貧血に近い状態でなんとか言葉を形にする。
頭をなでる手がぴたりと止まり、肩を掴んで少し引き離す。
そうして、鼻と鼻が触れ合いそうなほどの距離で互いに向き合った。
「やっぱり、知り合いなんですね」
アイランの顔にはかすかな驚きがあったが、不快感や動揺は無かったのだ。
信じたくはなかったが、やはり、彼女はクランツを見逃していたのだ。
「どうして、なんですか? どうして殺さなかったんですか?」
自分の顔は自分では見られない。
だが、アイランの顔が愛らしいものを愛でる時のそれに変わった時、自分が情けない表情をしていることに気付くのだ。
彼女は再びクロスを抱き締める。今度は、さっきよりも少し強めに。
「それはね、あなたと出会う前だったからよぅ」
つくづく、自分が情けなくなる。
こんな単純な言葉で、心底ホッとしてしまうなんて。
魂の奥から、安堵と愛情が溢れてしまうなんて。
痺れた腕で、クロスはそっと彼女の背を抱き返した。
流れる血の鼓動と肌が、暖かかった。
『アーリー・マードックを殺したァ!?』
紙とインク越しに、怒声が響いて聞こえてきそうだった。
あれから、二人はひとまず魔女の包丁にあるアイランの家に戻った。
クロスをベッドに寝かせ、体を検め、解毒薬を打ち、汗を丁寧に拭き取った。
そして、体を温めながら塩分と水分を補給するための粥を食べさせているところで、"屍の魔女"アッサルートから相互紙での連絡が入ったのだ。
その時、ついでに報告したのである。「アーリー・マードックを殺した」と。
『かなりマズいわよそれ、どういう状況だったの?』
『学会取次役殿が敵方のゴーレムと私が交戦している隙に拉致され、急行した折に8名の"流木団"団員とアーリー・マードック本人に迎撃されました。当時はマードックが黒幕だと思われましたので、取次役殿の救出も兼ねて任務に従い執行いたしました』
『クロスは無事?』
『昏倒薬と、何らかの鎮静剤を投与された模様ですが、既に回復傾向にあります。"汗ばみ薬"と"勇者の餞別"を処方し、今は安静にして粥を食べさせております』
アイランは粥の椀を膝に置き、右手で匙を、左手でペンを操っていた。
視線は主にクロスへと注がれ、相互紙はたまにちらりと見やられる程度である。
『そう、それで黒幕は他にいるのね?』
『クランツ・フェルマー・ルネイ。恐らく私が逃した"フェルマーの子供たち"の生き残りと思われます』
相互紙の向こうで、アッサルートはため息をついた。
シリネディーク城の執務室で、いくつもの伝書鳥のカゴに囲まれながら。
"兵の魔女"には、昔から頭を痛めつけられてばかりだった。
反魔女の土地に対するおさえとしては優秀だったが、常にやり口がおぞましすぎる。
ただの暗殺や脅迫、調査であっても周囲に恐怖を振りまき、凄惨な手口で痕跡を残す。
男漁りも注意するだけ無駄というほどの乱れぶりであったが、歴代に比べて避妊意識は高いようで、面倒ごとはまだマシと言えた。
それでも、今は戦乱の世ではなく、統王が君臨する太平の世。風紀や関係の乱れもつれはたやすく揉めごとの引き金となった。
実際、彼女が原因となった不義密通の訴えが過去7件もあり、いくつかは協会が慰謝料を支払うはめに陥っている。
"屍の魔女"に従うという話だったのに、蓋を開けてみれば命令には従いながらも、結局は本能のままに暴れたい放題でまるで制御などできない。
今回、ついでに"兵の魔女"の秘密を解こうとしたのも、そのあり方に変化を加えたいと願ってのことだった。
あまりにも凶暴に過ぎる"兵の魔女"の性質を解き明かし、緩和する方法を探りたかったのだ。
その矢先に、この報せである。
頭を抱えて深呼吸を重ねるぐらいの落胆は、あって然るべきと言えよう。
『つまり、虚偽の報告をして、今までそれをずっと隠してたのよね? 一体どうしてそんなことをしたの?』
『フェルマー博士は興味深い実験成果を残していました。子供たちの中に特別な一人がいて、博士自らが常にはべりつつ見守っていました。その個体に対する純然たる学術的興味に加え、その個体との間に子を設けたいとの"兵の魔女"としての欲求が生じたためです』
『特別、というのは、具体的には?』
『フェルマー博士の研究目的から考えるに、異常に発達した知能かと』
アッサルートは、自ら抱えながらもその頭脳を回転させた。
そしていくつかの結論を導き出すと、相互紙を置いて他の紙にメッセージを素早く書き込み、伝書鳥の一羽に結びつけて飛び立たせた。
その紙に書かれたメッセージは単純かつ重要なもの。
『ヘインネスク一族を保護しろ』
それだけだった。
『今、あなたの責任を問う時間は無いわ。ここからの会話にはクロスも加えなさい』
粥を運ぶ手を止め、椀に匙を突っ込み横へどける。
それからベッドに腰掛け、クロスに体と横顔を寄せて相互紙を見せた。
当のクロスはまだ疲労してはいるものの、朦朧とした状態からは脱したようで、痺れも取れている。
ただ、体がまだ重いせいで、小さくうめきながらアイランの肩に体重を預けてしまう。
アイランも足をからませながら、更に抱き寄せるように身を寄せて受け止め、しっかりと相互紙の文面を見落とさぬよう態勢を整えた。
『アーリー・マードックの死は明らかに一線を超えるものだわ。奴は卑怯者だけど大物よ、"兵の魔女"に殺されたとあればコー・ナイルの魔道士たちは黙っちゃいないわ。存在感を示して新たなリーダーとしての地位を狙う者、宙吊りになった利権を切り分けようとする者、機に乗じて魔女を攻撃したい者、ただ周囲の雰囲気に流されるだけの者、全員が"兵の魔女"を狙うわ』
アッサルートは歯噛みした。
今にして思えば、あのずさんな"フェルマーの日誌"強奪計画の目的はコレだったのだ。
クランツはクロスと"兵の魔女"の関係を、自らを投影する形で熟知していたに違いない。
だからわざわざクロスを強奪劇に巻き込んだのだ。
陰謀の臭いを的確に撒き、対処と調査のために"兵の魔女"が動くことを読んだのだ。
アイランとクロス。この二つの運命の交わりを計算に入れ、マードックを殺させる。
既に魔道士会と魔女協会の決定的な離間は成った。ヒビはまだ小さいが、このヒビは必ず大きく、深くなるだろう。
その結果のために、クランツは大勢の仲間や部下を切り捨てた。カーギ・カリンの信者たち、ディゴ荒野に潜らせた工作員、自分になびいた北部の大物マードック。
恐らく奴は、自身の目的を仲間らにほとんど話してすらいないだろう。
だからヘインネスクの保護を急いで命じたのだ。
ここまでする相手ならば、彼らを使い捨ての自覚なきスパイとして仕立てている可能性が高い。
彼らを工作員の仲介人として使っているのも、恐らくは警戒心を抱かれずに殺し屋を送り込むためだろう。
ならば、今自分がここでクランツという存在を確信したのにあわせて、彼らを処分する可能性が高い。
もしそうなれば、"胞の魔女"が、悲しむ。
貴重な証言者が消えてしまうのも避けなくてはならない。
だが、今は、魔道士会への対処が優先だ。
反統王連衡への対応は後回しにせざるを得ない。
それも、恐らくは、クランツの思惑通りなのだろう。
『連中は領主と衛兵に根回しして"兵の魔女"を逮捕させるはずよ。衛兵の中に反統王連衡の工作員が紛れ込んでいるのだとしたら、そいつらが衛兵たちを鼓舞して実行させるでしょう。もしそうなったら、絶対に衛兵に手を出しちゃダメよ。逃げるのもダメ』
『理由をお尋ねしてもよろしいでしょうか?』
クロスを体全体で支えながら、片手で返事を書く。
そんな姿勢でも、文字には乱れも震えも無かった。
『正当な手続きと法に則っての逮捕になるからよ。しかもマードックの死と、魔道士会の強烈な圧力の二つが、ことを大きくする。そんな状況で抵抗して、もしそれが成功でもしてしまったら、今度は統王が乗り出さざるを得なくなる。それは絶対に避けなきゃいけないのよ。下手をすれば、私たちは統王とも戦わなきゃいけなくなるし、統王は反統王連衡の前に私たちの相手をするはめになるわ』
『統王様とは、対応を協議していないのですか?』
ペンを掴むアイランの手をそっと握って、クロスが書かせた文字。
こちらの方は、大いに乱れていたものの、どうにか文字としての体裁は保てていた。
『いま判明している反統王連衡加盟者の名前は伝えてあるわ。その上で、お互いどう動くべきか連絡は取り合っているけれど、いまは慎重に動かなきゃいけない時なのよ。相手の規模や実体を正確に把握して、穏便なうちに反逆者全員を同時に捕らえる。まだそれができる状態じゃないのよ』
もしそれが出来ずに、中途半端な行動に移ってしまえば、残った連中による武装蜂起を招いてしまう。
完全に準備ができていない状態での蜂起ならば、負けることはない。
だが局所的、散発的な蜂起と攻撃を開始されては、制圧にかなりの時間と労力がかかってしまう。
もしそうなれば国土は荒れ、行政システムや物流は寸断され、経済と福祉は破壊。人心は荒廃し、悪漢が群れをなし、いくつもの自警組織や自治組織が並び立つだろう。
それの行き着くところは、国土の分断。
三角連衡は勝利を目指し、勝利のために力を結集させたからこそ、被害や悪影響は比較的軽微かつ狭い範囲でとどまっていた。
しかし、敵は現在分散している。小さな勢力の乱発はほとんどの反逆者に勝利をもたらさないだろうが、非常に広範囲の破壊が行えるだけの猶予は残すだろう。
勝利を諦めた暴力の乱立が、戦乱の嵐を再び呼び起こしてしまう可能性すらあるのだ。
だが、全員を同時に叩くことができたならば、奴らを暴れさせることなく、ただの犯罪者として全員処罰してしまえる。
問題は情報だ。重要なのは全て情報だ。今はそれが足りていない。だから統王は大ナタを振るえないのだ。
『だから、アイラン、あなたは逮捕されなくちゃいけない。裁判を受けなくちゃならない。確実に魔道士会の意向が反映された不公平な裁判だけれど、公平なものだったとしても勝ち目は薄いわ。土地柄を考えるに、私たちの根回しや調略も恐らく間に合わない』
魔道士会は"兵の魔女"を極刑に処すよう求めるだろう。
戦さ場で矛を振るわぬ彼らにとって、それが敵将の首級を上げるに等しい功績となる。
それをなしえた人物は魔道士会という組織の内部で一目置かれ、尊敬され、出世するのだろう。
"兵の魔女"の首をとった偉大な存在として、語られるようになるのだろう。
だからこそ、彼らは死に物狂いでマードックの仇を討とうとするし、コー・ナイル市民も協力するだろう。
何せ"兵の魔女"は嫌われている。恐れから直接的な行動を取ってこなかっただけで、このような機会があれば、皆こぞって石を投げるに違いない。
両隣の人たちも石を投げつけているのだから大丈夫だろう、というだけの考えで。
『だからクロス、あなたが時間を稼ぐのよ。できる限り時間を稼いで、裁判を長引かせて、私たちの打つ手が間に合うようにするの』
思わず「え?」と声が漏れた。
アイランは嬉しそうに笑って、そんなクロスの横顔をぺろりと舐めた。
『もちろん助言者には"法の魔女"をつける。その上で、どんな方法でもいいから、とにかく時間を稼ぐのよ。"兵の魔女"の命を、あなたが握るのよ』
再び、アイランの手を握る。
今度はペンを動かしたかったからではなく、ただ握りたかったからだ。
不安に苛まれる中で、手の温もりに心を安らげたかったからだ。
それから、顔を横に向けて、アイランを見る。
彼女の顔は、無邪気にはしゃぐ子供そのものだった。
なんの不安も恐れも無い。
そして、何よりも、クロスを信じていた。
自分が見初めた、受け入れた、この特別な男を。
握る手に力がこもる。
眉が引き締められ、緩んでいたアゴが強く噛み締められる。
どのみち、やらねばならないのだ。
ならば"忌み子"らしく、迷いは打ち捨てて突き進むのみ。
僕が、アイランさんを守るんだ。
そのような決意を魂で踏みしめながら、クロスはアイランの手を動かした。
『わかりました、僕が、やります』
そして20分後、家のドアが叩かれた。
コー・ナイル衛兵の「開けろ!」という声と共に。




