兵の魔女14
力なくうなだれていると、微かに椅子の動く音がした。
なんとか首を持ち上げて前方に視線を向けると、カラになった椅子に腰掛けるマードックがいた。
老いた爬虫人は固い椅子に座っても杖を手放さず、やれやれと呟きながらため息をつく。
「あなたは、行かないんですか?」
薬の影響が残ったまま気炎を吐いたせいで、喋ることすらおっくうな状態だったが、懸命に絞り出した。
マードックの目は濁り、表情には爬虫らしい虚無が戻っていたが、さきほどのような無視を決め込むつもりはもう無いようだった。
「鉄人の術式を書いたのはワシだ。"薔薇"めが既に狙いをつけて追ってるだろう。あれに狙われれば、どこへ行こうと同じよ。ならば、今ここは世界一マシな場所だ」
鉄人、とは恐らくあのゴーレムのことと思われた。
そしてどうやら、この老人はやはりクロスを殺すつもりはないようだ。
口ぶりからして、最悪の場合人質として使うつもりなのだろう。
と、なると、多少突っ込んだ話をしても多少の安全は担保される。
「そんなにまでして、どうして、あんなのについたんですか? また魔道士会と統王様を、裏切ってまで。"兵の魔女"を敵に回してまで」
「生存と利益のためだ。あのメス狼をワシの街から追い出すためのな」
「じゃあ、失敗ですね。あいつに"兵の魔女"を殺す気は無い。狂った妄想に付き合わされるだけだ」
「狂っていようと力は力。魔女を取り除かせる、駆除業者として働いてくれれば良い」
裏切りで邪魔者を排除し、その権益を奪い取る。
それが、爬虫人アーリー・マードックの処世術だった。
彼にかかれば、反統王連合すらいずれ切り捨てる対象なのだろう。
生き延びるため、利益のため、自分を翻す。
何よりも現実的で、手っ取り早く、賢明なやり口。
三角連衡の乱以前から、魔道士会内部でもこのように力を伸ばしていったであろうことは、想像に難くなかった。
だからこそ、この状況でも落ち着いているのだろう。
自分は何一つ間違えてはいないという自負心と、冷徹な経験則が彼に杖を握らせている。
しかし
「誇りは、ないんですか? 信念があるはず。魔道士を最初に志した時の、決意があったはず」
裏切るためには、まず何かに所属しなくてはならない。
だが彼は、滅び、寂れた爬虫人の文化から一人放り出され、何者でも無い状況から魔道士を選んだ。
立ち尽くしながらも、あくる日魔法使いになる、と決めた心がまだどこかに残っているはず。
自分をここまで高めるに至った、最初の大きな決断。そこに誇りがあるはず。
「あの男は、あなたが築いたもののことなんか何とも思っちゃいない。あなたは裏切り者だ、道義に欠ける行いをした、恥知らずのように振る舞った。でも、その行いによってあなたは世界を良くしたんだ。叛乱を速やかに終わらせて損害を抑え、巧みな手腕で高級食材のラードを誰でも買えるようにした。そんなあなたが、あんな男の風下に回るんですか?」
優秀な詐欺師は、相手に主導権が己にあるよう思わせる。
だが、相手の力量を見誤れば、本当に主導権が相手に移ってしまう。
マードックは"兵の魔女"を追い出すためにクランツと反統王連合を利用しているのかもしれない。
しかしクロスには、それ以上の何かが感じられていた。
マードックを味方に引き入れるという意図以上のものが、あのクランツという男からは感じられたのだ。
「マードックさん、あなたは、魔道士会コー・ナイル支部長で"薬屋"の頭領でしょう」
老いた爬虫人はため息を漏らした。
感じ入るような嘆息でも、疲れたような息継ぎでもない。
呆れるような、低い音だった。
「小僧、まず、お前が信念だと思っているものは、ただの執着だ」
独り言のような、もしくは諦め混じりに諭すような声だった。
自分でも自分の言葉を馬鹿馬鹿しいと断じながら話している。
恐らくは、そのような声であった。
「お前は執着している、あのクランツとかいう若造もだ。"忌み子"というのは皆そうなのか? 実に、くだらない。お前と奴の言葉は、添削する気さえ起きんよ」
語りながら、咳を拳で受け止める。
喉をごろごろと鳴らし、再びため息をついて呼吸を整える。
「いいか、人生とは、無意味だ」
つい最近も、同じような言葉を聞いた。
同じような、聞き覚えのある思想だった。
「昨日、今日、明日、何の意味もない。歴史とは積もりゆく砂のようなものだ。新たな歴史が古い歴史を覆い隠し、いずれ全ての人々は見えなくなった砂を忘れ去る。かつての古代文明、それこそカシッド・イルの錬金術文明以前にも人間は存在したはずだというのに、何故それを憶えていない? 何故記録が残っていない? どうしてあるべき歴史が伝わっていない?」
熱さはなく、淡々と述べられる。
それはまるで、漫然と続く講義のようでもあった。
「生き物は忘れ去る。我らが今ここでこうしている事実も、いずれ堆積する砂の奥に埋もれ、必ず埋もれ去る。長い長い歴史の中で出来事は希釈され、意義を失った過去から少しずつ剥がれ落ちていく。大地は世界の存在など気にも留めておらず、天は我らの存在に気付きもしないのだ」
虚無、そして絶望。
ただ口を動かすだけの老人の姿には、何も宿っていなかった。
まるで人形と話しているかのようであった。
「なればこそ、ワシは自由だ。あらゆることが無意味の砂に埋もれるならば、どんなことだって出来る、何だってやれる。あやつは、少なくともそれは理解していた。だから手を組んだのだ」
言葉が通じない。
ドワアフが如き固さではねつけるのではない。
全く、存在しないのだ。何一つ響かないのだ。
クロスは絶句するほか無かった。
彼の経験上、ここまでの虚無に触れるのは初めてだった。
虚無であるが故に影響されない。
虚無であるが故に無敵。
揺れ動くような心が、既に存在していないのだ。
「わかったか? わかったなら、無駄口を閉じておれ」
従いたくはなかったが、その言葉に従うしかなかった。
命令でも、催促でもない、それは忠告だった。
何を言ったところで決して通じない。体力を削り、精神を揺さぶり、魂に芽を植えることすら出来ない。
だから、やめろ。そのような現実的な忠言であったのだ。
冷たい空間を、さめた沈黙が包み込む。
クロスは脱力して頭を背もたれに預け、マードックは杖を握ったままじっと捕虜を見つめていた。
だが実際の所、その目は何も捉えていなかったに違いない。
瞑想か精神統一のように、魂も精神も感覚も不動を保っていたに過ぎなかったに違いない。
濡れた静寂を破ったのは、天井越しに響いたいくつもの音だった。
何かに殺到するような足音と振動、その直後から立ち始めるうめき声と悲鳴。
マードックは天井を仰ぎ見た後「やれやれ」と呟き、杖をついて立ち上がった。
人の倒れる音が足跡のように続き、悲鳴がそれを縁取る。
それを聞きながらも、老いた爬虫人は急ぎも焦りもせずに、ゆっくりと振り返った。
そして闇の一点をじぃっと見つめる。
その一点から、木材を砕くような音と共に一つの影が歩み出た。
闇がこぼした一雫のような黒衣に、煌めく白刃と牙を彩る鮮血の赤色。
薔薇の花の紋章はあらゆる命を圧し、やにわに放たれた獣が如く力強い吐息が魂にまとわりつく。
大口と涎の主人、"兵の魔女"アイラン・ヘルゼンデル。
前菜は既に済ましておいでだ。
「アイランさん!」
その姿に怯みも戦慄も既に覚えない。
むしろ、頼もしくすら思える。
クロスの縋るような視線に対し、アイランは口元だけで笑みを作ってみせた。
目こそ帽子の作る影で見えないものの、輝きのない視線はむしろ暗殺者としての切れ味を感じさせた。
「マァァドックぅぅぅ、"作家"のお前にしては随分ちんけな術式組んだじゃなぁい?」
吐息交じりのべたつく声は、舌なめずりする獣の飢えの証。
しかし、隠そうともしない欲望と殺気をまともに受けて尚、マードックは震えひとつ起こしていなかった。
正確には震えてはいたものの、それは老いによるものであって、魂の動揺や狼狽、戦慄の表情は全く浮かべていなかった。
"作家"とは、術式の構築を専門とする魔法使いを指す、魔道士会内部の呼称である。術式書きとも呼ばれる。
術式とは構造を作動させる命令であり、体系ごとに異なる暗号が用いられることが多い。
魔女協会が使うのは主にカシッド・イル語の変形であるが、魔道士会が使うのは数学記号の組み合わせである。
後は、計算式の省略の仕方や、頻出する数字、競合の処理の仕方などから個々人のクセが読み取れる。
マードックほどの高名な"作家"ならば、比較もたやすい。
「あの若造は、いい仕事をした。罠を置けば、"兵の魔女"は嬉々として飛び込む」
距離こそあるものの、足腰すらまともに立たぬ老人が、正面から"兵の魔女"の殺意を平然と流していた。
かと言って鈍っているわけではなく、平常そのものである。
「だが、準備不足で来たのは此度のみだろうな」
震えがピタリと止んだ。
杖が振り上げられ、同時にアイランが放たれた矢が如く飛び出す。
飛び道具も投げ物もなく、両の手の剣のみを引き絞って。
ごぉん、と杖が石の床を突いた。
その瞬間、青色の光がほとばしり、床全体を囲むような紋様が現れる。
多重円の図形にいくつもの術式が書き込まれたその様式に、クロスは見覚えがあった。
"石の魔女"ガニツが用いていた文字玉の模様と、そっくりだった。
瞬間、紋様から飛び出した光がアイランに巻き付いた。
タコの触手のようにからめ取り、彼女を空中に縫い付けたのだ。
がん、がん、と杖を突き立てる音が何度も響く。
その度に、新たな光が走り、アイランの手足を縛った。
術式と魔力の伝導構造をあらかじめ部屋中に仕込んでいたのだろう。
杖から放った魔力が任意の術式を起動し、その術式に則って床下に蓄積された魔力が、わずかに彫られた床の溝から飛び出す。
床下に溜まった魔力の発生源は、おそらく──
「なぁるほど、ヒョウガンマスね、中々やるじゃないのぅ」
全身をがんじがらめにされながら、それでもアイランは不敵に笑んだ。
ヒョウガンマス漁が最盛期を迎える時期に、大量の漁獲を売るのではなく、この罠のために使い潰す。
数百を超す魚を売らずに潰し、その魔力をかき集めて調整する。マードックにとって大損害だろう。
しかしその甲斐あって、"兵の魔女"をして身動きが取れぬほどの強靭な縄が用意できたのだ。
継ぎ合わせの上に、容れ物もない魔力では長続きもしない。
だがそれでも、多量かつ強力な魔力が制御可能な状況に、無防備な"兵の魔女"を誘い込めた。
で、あれば、魔力の使い道は縄のみに限らない。
「まだ、まだ」
更に一度、杖が床を叩くと、今度は天井に紋様が現れた。
床の紋様も変化して天井のそれと対になる形をとる。
術式が宙に浮き上がり、二つの紋様の間を魚のように行き来し始めた。
これは、魔力の圧搾機だ。
上下から魔力を発し、魔鳴法によってアイランの魔力を振動させる。
二点からもたらされる振動は急速に対象を崩壊させ、魔力は魂と肉体を突き破って爆発するだろう。
その際、空気中の微量な魔力も影響の余波を受けることで、細かい振動の波、すなわち高周波が発生する。
脳の奥でこだまする耳鳴りのような、不快な音である。
クロスは頭を振りながら、苦悶の表情を浮かべた。
マードックすら、奥歯を軽く噛み締めている。
高周波は更に大きく、魔力の圧力と振動は更に強く。
アイランも悲鳴のような、甲高い声をあげながらおとがいを反らせた。
一瞬、心配が勝ったクロスだったが、直後には思い出した。
この声は、悲鳴じゃない。聞いたことのある、声。
常に最後はこの声で終わる。
絶頂の嬌声だ。
だらしなく垂れ下がった舌、鮫のように開かれた大口と喉。
その喉の奥から、込み上げるような光が遡った。
まるで黄昏のような、あるいは燃え盛る炎の反射光のような。
それが激しい輝きを帯びるに従って、高周波に新たな音が混ざり始める。
人の悲鳴のような、それも幾百幾千もの叫びが重なったような音。
間違いなくアイラン自身の声ではなかったが、間違いなくアイランの喉、光の根元から響く音だった。
そして、悲鳴の重奏は光と共に激しく、明瞭になっていく。
とどまらぬそれが、ついに高周波を上回り出した瞬間、それは現れた。
それはアイランの喉の奥より出でて、口から突き出た。
それは燃え盛る炎の中心を固めたような、「何か」としか呼べぬものだった。
水飴に似た質感の表面は業火の輝きを放ち、大蛇が如く伸び、うねる動きは生きているかのようだった。
悲鳴は轟き続け、表面にびっしりと現れた斑紋や凹凸は、それぞれが人の顔のようにも見えた。
そして、その模様のどれもが、歪んでいた。
苦痛と悲嘆に満ちた、叫び声をあげていた。
「なんだ、これは」
マードックの表情が驚愕に満ち、重いまぶたに縁取られた目が限界まで開かれる。
ここまでの新鮮な驚きを味わったのは、何十年ぶりであろうか。
このような感情が己の内に残っていたのも、思いがけないことだっただろう。
しかし、同時に、理解してもいた。
この異様な何か、その正体を。
──魂だ。
生物が内包する魔力を包んで保ち、精神の源泉でもあるエネルギー。
空気中や無機物にも染みている魔力に比べ、か細く脆弱。
知性を持つ生物は大きく分厚い魂を持つがために、内包可能な魔力の容量も多く、生命力も強い。
とはいえ、それを力として活用するのは余りにも効率が悪い。
消費しても完璧な補充や修復が難しく、肉体に入れていなければ保存もできない。
一つの生命から抽出できる量も少なく、簡単に破損もしてしまう。
だがそれらをおしても、魂には唯一無二の絶対的な特性があった。
異常なまでに高い、魔力に対する遮断性である。
光が、弾けた。
魂の塊から、刃物のような形の幾十もの枝が飛び出た。
それらは紋様を引き裂き、触手の光を寸断し、床下に浸透して魔力源を滅ぼした。
高らかに歌い上げるような悲鳴を轟かせ、高周波を包み込み、あらゆる術式を破壊した。
隅々にまで食い込み、突き刺さり、そして風車のように一度回転しただけで全ての青い光が消え失せた。
マードックの杖まで弾け、仰け反った老体は支えを失って倒れ込んだ。
その顔は最初から最後まで、驚きに彩られていた。
「素晴らしい……」
純粋な感動だった。
何の色も宿っていなかった彼の目に、炎の輝きが投射されていた。
何事もなかったかのように着地したアイランの大口が、今度は魂の塊をすすり上げる。
折り畳まれ、叫びながら引き込まれる様は捕食の光景そのものである。
吐き出した内臓を再び飲み込むように一息に吸い、大口と喉奥に格納。
嚥下され、口も喉も元の大きさに閉じられた頃には、もう輝きも悲鳴すらも残ってはいなかった。
「犠牲者の、魂か。何世代も、"兵の魔女"はそれを継承してきたのか。噂は、本当だったのか」
魂喰らい。
いくつもある異名の一つは、顔を失った犠牲者の魂が痕跡すら残さず消え去っていることに由来する。
その牙と口で顔を食べるという殺し方は、あらゆる"兵の魔女"が用いる方法だった。
あれ程の強さ、あれ程の量、あれ程の形を成すには、一体どれほどの数の魂が必要なのだろう?
それは幾万にも届く死の末に違いない。
それだけの魂が、繋ぎ止められ、苛まれ、使役され、消費され続けている。
恐るべき冒涜であり、殺し続けるための完璧な構造。
"兵の魔女"の徹底した生態は、それを造り上げた初代"屍の魔女"の執念をそのまま表しているかのようだった。
これが、"兵の魔女"の秘密だ。
「まったく、本当に、魔女というやつは」
言葉とは裏腹に、声色には少しだけ嬉しさが滲んでいた。
あまりにも美しいものを目にした時、人は感動のあまり恐れすら抱く。
嫌悪や忌避が、愛や喜悦と交わるのだ。
彼の場合、それは呆れ返るほどのばかばかしさと、実現したことへの畏敬によって成し遂げられた。
「はは、ははは」
それはまるで、出来の良い冗談を聞いたような、しわがれた笑い声だった。
投げやりになったわけでも、壊れたわけでもない。
余りにも馬鹿らしくて、笑うしかなかったのだ。
だがそれは、心からの笑いでもあった。
「大人」というものになってから初めての、笑いであった。
「マードック、お前のことカス野郎とは思ってたけど」
アイランが、その前に立つ。
童のようにけたけたと笑う老人を、それでも片手で床を探って杖を握ろうとする魔法使いを、見下ろす。
その目は、ただひたすらに、標的の急所を見定める鷹が如き怜悧さに満ちていた。
「案外、嫌いじゃなかったわよ」
そして、一閃と共に、深いシワが刻まれた爬虫人の首が飛んだ。




