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魔女はペン先と黒インクにて集う  作者: wicker-man
腑の章
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腑の魔女9

「ただいま戻りましたー」



"腑の魔女"の診療所に戻って開口一番、気の抜けた声を響かせる。

朝は荒野を歩き、昼は"腑の魔女"を手伝い、夕方からはスノウル女公を手伝った。

とにかく大変に疲れる一日であり、とても気を張った声など出せなかった。


だが、それを迎える者はいなかった。

居間兼待合室は相変わらず散らかっているが、人っ子一人見当たらない。

咳き込む老人も、床に座り込む男も、駆け回る子どもも、それどころか椅子の上で揺らめくヘラシュ=ノグの姿すらない。

明かりも灯っておらず、自前のカンテラを持っていなければ足元すら見えなかっただろう。


「ヘラシュ=ノグさん? お留守なんですか?」


そう言いながらも、留守であるとは思っていなかった。

麻薬を常用したり人付き合いが乱暴だったりと、問題の多い人物ではあるが、短い時間でもわかったことはある。

彼女は、決して入院患者たちを置いて外出などしないだろう。


居間に散らばった物に埋もれているのかとも思ったが、そうでも無さそうだ。強盗が入った様子も無い。

カーテンを捲って隣室に踏み込むも、奥の部屋で横になっている入院患者たちの足先が見えるだけで、彼女の姿は無い。

だが、手術台から右側の壁が、扉のように開いているのを見つけた。

急性虫垂炎の少年を手術するために運び入れた部屋とは逆側の空間だ。

しかもそこからは、微かだが光が漏れていた。

揺らめく蝋燭の炎がもたらす、手元だけを照らす光だ。


クロスがそこに踏み入ると、"腑の魔女"の背中が見えた。

石台の上で横になっている裸の老人。その体を水と布で拭き清めているようだった。

左手に燭台を持ち、右手に布切れを握り締め、老人の体を時に力強く、時に優しく擦る。


シリネディーク城で育ったクロスには、一目でわかった。

あの老人は、死体だ。それも非常に新鮮な。



「ヘラシュ=ノグさん」



声をかけながら歩み寄る。

彼女は一瞬手を止めて振り向き「ああ」と応えると、また手を動かし続けた。


「患者さん、亡くなったんですか?」


左手の燭台を受け取り、代わりに自分のカンテラを彼女の手元に寄せる。

節約のために蝋燭の火は吹き消した。



「ええ、ついさっきね。末期のカーヴァー黒斑病患者で、手の施しようが無かったから、セイラ粉麻薬で苦しみを制御してたのよ」



老人の死に顔は安らかで、ぱっかりと開いた口は居眠りでもしているかのようだった。

体は痩せ細り、黄疸の痕跡が出てはいたが、表情の筋肉には一切の緊張が見られなかった。


「カーヴァー黒斑病?」

「肝臓に黒い斑点が出て、肝機能が徐々に蝕まれる病気よ。硬変でも炎症でも腫瘍でもない原因不明の病気で、スノウル全域とボノハウロの一部でしか症例が無い、一種の風土病ね。この土地にしか無い何らかの物質が、肝臓に異常を引き起こすんだと思うわ。肝臓には血液から毒物を漉し取る役目もあるから、毒にやられやすいのよ」

「もしかして、その研究のために?」

「ま、そういうことね。2年かけても原因はまるで不明だけれど」


"腑の魔女"の遍歴にあっては、2年の滞在というのは最長であった。

彼女はここで新たな病を見出し、患者第一号の名を取ってカーヴァー黒斑病と名付けて研究に打ち込んだ。

「おそらく風土病であろう」という推測があるのみで、その原因物質が不明なまま研究をし続ける。

それは、彼女自身がその病に侵される危険を日々増大させているに他ならない。

病の研究者は常にその病に曝されながら生きている。その姿はさながら最前線の兵士であろう。



「クロス、麻薬のことだけれどね」



中断されていた話を、やにわに切り出される。

彼女の方から切り出すとは意外だったため、つい「あ、はい」と間抜けな反応をしてしまった。



「あたしは長生きしようなんざ、これっぽっちも思っちゃいないのよ。悲しむ両親も兄弟もいない。グーグは、まあ悲しむかしらね? でも涙は出さないでしょ。今すぐここで死ぬなら、それでいいと思ってるわ」



袖を捲った腕で布を濡らし、絞っては拭う。

硬直の残る死体の脇にも手を差し込み、丁寧に清め続ける。

不衛生な遺体は病の元であり、この診療所でそんなものを許していいはずがないからだ。


「でも『医者じゃなくなる』のは死んでもお断りよ。私は、医者である自分を最後まで貫き通してみせる」


死体を傾け、背面もしっかりと拭く。


「この荒野に、医者なんて殆どいない。皆もっと住み良い場所を選んでしまう。例えば、御典医とかね。だから患者はそこら中に溢れ返っている。その全てと、私は向き合うつもりよ。命が縮もうが逮捕されようが知ったこっちゃないし、あなたにどう言われようと変えるつもりも無いわ」


陰部や臀部まで躊躇いなく、布を取り替えながら拭う。

慈しむようにというよりは、縋り付くように。


「だからクロス、デザンに協力してやんなさい。あたしはここで患者と向き合い続けなきゃならない。街道整備が状況を解決するかもしれなくても、ここを離れるわけにはいかないのよ」


クロスは息を呑んだ。

カーヴァー黒斑病が風土病であり、その原因がもし食物や水にあった場合、街道整備による交易が解決になるかもしれない。

他所の土地の食物や水が継続的に摂取できる状況が整えば、比較検証によって原因物質が特定出来るかもしれない。

病に侵されないような食文化を改めて形成し直せるかもしれない。

もしそうでなかったとしても、原因を他の要素へ絞り込む糸口になるだろう。

彼女はそのために、クロスを使わせたのだ。ただ、医療のためだけに。


全身を隈なく拭い終えると、熱湯消毒して干した清潔な布をかけて保護する。

それから、"腑の魔女"はすれ違いざまに「明かりありがと」と告げながら出て行ってしまった。


クロスはポケットに入れたままの小箱を握り締めた。


彼女の覚悟は、何となくではあるが、理解できる。

出会ってより一日も経っていないが、医療へ捧げる徹底した生き様には敬意すら抱きつつあった。

だが、やはり間違っている。誰あろう、彼女の言ったグーグとクリンから学び取ったことだ。

あのやり方は続けてはいけない。それを教えるためにも、やはりこの小箱は渡さなくてはならない。

中身が何であろうとも、彼女を救うにはこれに賭けるしか無いように思えた。


しかし、今日は疲れてしまった。本当に多くの出来事があった一日だったのだ。

この決意の実行は、後日へと先延ばしせざるを得なかった。




そんな時、別のポケットに差し込んでいた相互紙が小さく振動した。

死者への敬意から、取り敢えず退室して出入口を閉じる。

それから、中央の手術台の上で相互紙を広げた。



『そっちはどうかしら?』



浮き出た字は師の"屍の魔女"ことストイル・カグズ・アッサルートのものだった。

その字が吸い込まれるのを見届けると、黒インクにペンを浸して返事を書き連ねる。


『"腑の魔女"さんのところにいます。とにかく、凄まじい忙しさで本当に大変でした』

『彼女は魔女である前に医者なのよ。昔は医療も魔法の一つだったというから、あながち間違いでも無いのでしょうね。

 先代に師事していた頃から、医術への執念は凄まじいものがあったそうよ。だから姉弟子のクルーラー・グーニィとも気が合ったのかもしれないわね。まあその辺は複雑な事情があるのだけれど』

『複雑な事情、ですか?』


訊ねてから、返事が書き送られてくるまでには暫く間があった。

アッサルート自身、何を記すべきなのかを考える必要があったのだろう。


しかし、浮き上がる字には、やはり歪みも揺らぎも見られなかった。



『先代の"腑の魔女"には、実は最初は弟子として師事した訳じゃ無かったのよ。彼女は魔女になるつもりは無くて、それを先代の"腑の魔女"にも伝えた上で、あくまでも生徒として医術を学んでいたようよ』

『魔女になるつもりが無い生徒に教えるって、よく先代が了承しましたね』

『あまりにもしつこくお願いされて、仕方なく折れたようね。彼女は代々の"腑の魔女"が蓄積した医術を修めて、それを以って統王の御典医になったわ。当時最年少かつ唯一の女性典医だったらしいわ。でもある事件でその職を失って、それで"腑の魔女"の所に戻ってきたのよ』

『ある事件?』

『統王の産まれたばかりの息女が亡くなったのよ、彼女の責任でね』



クロスはため息をついた。

疲労のみによるものではないのは明白だった。



『師匠、実は統王様から『"腑の魔女"に渡すように』と言われて預かった小箱があるんです』

『ええ、統王本人から聞いてるわ』

『本当に渡すべきでしょうか? あの方、重責と麻薬と仕事でボロボロなんです。小箱の中身によっては、とんでもないことになりかねません』



決意が揺らいだ訳ではないが、新たな事情を知ってしまった今、新たな心配が湧いて出るのは当然と言えた。


『立派になっても、やっぱりまだ若いわね』


まず返ってきたのは、挑発するかのような前置きだった。

その不遜に思える態度も、結局は相手を鼓舞するためのものなのだが。



『あの事件で実際に何が起きていたか? どんな想いが去来していたか? それは当人たちにしかわからない。最初から私たちが口を挟むような事柄じゃないのよ。最初に医術を学ぶ時、彼女は快活で、父母を愛し、統王を尊敬し、医者への憧れに溢れていた。でも、再び戻った彼女はすっかり変わっていた。医術への執念に取り憑かれ、患者の治療以外の一切に興味を示さない、強迫的な』



ここで文字が一度途切れた。

やはり、考えながら書いているのだろう。

新たに浮かんだ文字は、異なる描写を記していた。



『とにかく、それほどの出来事が起きていて、それについて私たちは殆ど何も知らないに等しい。彼女は他の典医に弾劾され、統王もそれを承認して、彼女は解雇された。でも、あそこまで人が変わるような何かが、記録に残らないような形の何かがあったに違いないわ。そして、私たちがそれを知ろうとしてはいけないのよ』



知識を求め、好奇を尊ぶ魔女の頭領をして「知ろうとしてはいけない」と言わしめる何か。

それは何らかの陰謀や必要悪というよりは、重要な何かを守るためのようであると思えた。



『渡すべきよ、クロス。彼女にだけ読んでほしい理由は、きっと途轍もなく重要なはずだわ』



師の忠告に唯々諾々と従う訳ではないが、やはり、渡さない訳にはいかないと感じた。

統王もそれを望んでいるはず。そして統王のことも師のことも、彼は信じている。

あの二人ならば、ただ患者を治したいと切に望む魔女に対し、非道な仕打ちはしない。


『わかりました、ありがとうございますお師匠様』


了解した旨を書き送れば、もう躊躇いは出来ない。

決心は覚悟に変わり、覚悟は不思議な脱力を生んだ。


その脱力のおかげか、一つ、済ませるべき用事を彼は思い出した。




『それはそれとして、お師匠様。実は一つ相談したいことが──』

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