光の魔女8
クロスの最も古い記憶は6歳の頃、寝台で目覚めた記憶だった。
染みの浮いた天井と固い毛布、寝台と小さな円卓兼腰掛けだけが置かれた部屋は、まさに病室といった風情であった。
何を考えることもなく、ただ天井を見つめていると、ドアの軋む音が響く。
目を向けると、そこに立っているのは黒い薄手のローブと黒い魔女帽を身に着けた、一人の魔女だった。
顔はなく、帽子の下にあるのは漠然とした闇のみ。
顔を憶えていないのだ。
魔女はしなだれかかるように、または引きずるように、寝台の傍に屈み込む。
そしてクロスの顔を覗き込んだ時、闇の端から微かに八重歯と吊り上がった口の端が姿を見せた。
『あなたのお名前はぁ?』
闇の奥から数多の声が重なって響く。
言葉は憶えているのだが、どのような声であったかを忘れているためだった。
(どなたか、憶えていないのですか?)
(はい、魔女だったのは憶えているんですが)
溶け合った精神の中で、同じ記憶を見ながらクリンとクロスが意思を交わす。
それは思考と同じ、記憶と同じ速度で進む交流であった。
『わからないのね?』
魔女が首を傾げる。幼いクロスはただ、眼前の闇を見つめたまま、押し黙っていた。
声は分からなかったが、口調は柔らかく、優しげだった。
『あなたはクロス。クロス・フォーリーズよ』
魔女の右手がそっと胸の上に置かれる。
彼女の八重歯は涎で濡れていた。
その歯が、クロスの耳元に寄せられる。
静かに耳打ちするように、もしくは噛み付くように。
『あなたはもう、自由。何があっても、もう守るものは無い』
囁き声は艶かしく、背筋が震えた。
(でも、綺麗な人だったと思います。背中が寒くなった、のを憶えてますから)
八重歯のぬらついた輝きと口の端の笑み。
彼はそれだけを憶えていた。その印象が強かったがために、他の記憶が薄れてしまったのだ。
それに、この魔女とは結局再会していない。
何者だったのか今でも不明なままなのだ。
しかしこの経験が、結果的に、彼を長い間魔女の学問から遠ざけた。
二ヶ月間の観察の後、彼は子供部屋に移され、じいやを始めとした知識層の死人たちによる教育が始まった。
教堂は既に魔女協会領にも置かれていたが、クロスがそこへ通うことはなかった。
シリネディーク城内から一歩も外へ出ることなく、彼は幼少時代を過ごしたのである。
8歳の頃、子供部屋でいつものようにじいやと共通語の勉強をしていると、アッサルートが訪ねてきた。
"屍の魔女"を既に継承していた彼女とは月に一度会っており、その度に自分はあなたの師匠なのだと言い聞かされてきた。
彼女は母親の代わりを務めようとはせず、世話係や教育係やエルガンらにクロスを任せていた。
それでも、月に一度は自ら様子を見に来るのである。
幼いクロスは、そんな彼女を警戒していた。
一ヶ月というのは子供にとっては、大人が感じるそれよりも遥かに長い。
押し延べられた時間の中で、親しみは会う毎に薄れていた。
だが、アッサルートは懸命に、クロスを知ろうとした。
本を読み聞かせ、会っている間は教師役を代わり、玩具で一緒に遊ぶ時すらあった。
それはどこか強迫的であったが、紛うことなき母性でもあった。
しかしその日は、笑みを浮かべてクロスに歩み寄るよりも先に、じいやに話しかけていた。
声を潜め、眉間にしわを寄せ、深刻そうな様子だった。
会話の内容は理解できなくとも、言葉の音と、真剣な表情は記憶に刻まれていた。
『学習能力と記憶に問題はございません。むしろ論理思考は群を抜いた成長ぶりです。しかしながら……』
『情動に問題があるのね? グーニィもそうだったわ』
『炎骨候が色々と図らってはくれているのですが、未だに、泣きも怒りも致しませぬ。ただ、笑いを作るのみで……』
『私たちの機嫌を取って、自分の利益にさせるために笑うだけよ。可哀想だわ、このままじゃ、ひどい大人に育ってしまう』
『かと言って、有効な手も……』
『アーゲルン人を使ったらどうかしら? あなた魔界の生態学に詳しかったわよね?』
『魂の未熟な幼子に感応させるは危険にございます。耐え切れず、崩壊してしまうやも……』
幼いクロスは、立ち上がって、二人の間に割って入った。
会話は中断され、二人の視線が注がれる。
『あらぁ〜、ごめんねぇ、構ってやれなくって』
"屍の魔女"は破顔し、身を屈めてクロスと目線を合わせた。
『今日はどうするぅ? 一緒に遊ぶ? それとも本を読んであげましょうか?』
問いかけに、彼はただ、口を固く結んだまま両手を広げた。
抱っこの催促だ。
『まっ、おませさんねぇ〜。でもいいわよん♪』
アッサルートは8歳にもなる男の子を軽々と抱き上げた。
赤子をあやすように「よしよし」と背中をさすりながら、頭に頬を寄せる。
柔らかな女体と母性に埋もれながらも、クロスの表情は一切変わっていなかった。
そのまま10歳になり、基礎的な教育を修めた彼は本格的に"屍の魔女"に師事した。
しかし、進んで学んだのは自ら見出した炎の魔法と、夢中になった統世史書ばかりだった。
アッサルートの教えからは時に逃げ、時に無視し、自ら感じるままに行う。
それを師が咎めなかったのは、ひとえにクロスが"忌み子"であるからだった。
己の情動を表さなかった時期に比べれば、何かに夢中で溺れている状態の方が良いのかもしれない。
そう考えたアッサルートは、彼の問題行動を事実上放置してしまったのだ。
そんな状況を解決したのは、シリネディークの魔女たちに仕える死人たちだった。
当時、既に炎骨候との異名すら持っていたエルガン・ナッカランは、あらゆる死人たちから尊敬されていた。
『死人の軍勢』の軍団長であり、ルネイ国人衆との戦では獅子奮迅の活躍を見せた兵であり、固有の魂と魔力を具えた新たな死人たちの祖。
彼が問題を感じた時は、あらゆる死人が同じ問題を感じる時だった。
ある日エルガンは、食料庫で隠れて史書を読んでいたクロスを見つけた。
この弟子が外出する師に同伴を申し付けられているにも関わらず、それを無視していたのを、彼は知っていた。
本来ならば直ちに、既に出発してしまった主人を追いかけ、報告し、判断を仰ぐべき状況である。
だが武人エルガンは、食料庫から少年を叩き出すと、城中の死人に命じて彼を追わせた。
倉庫番も、雑役夫も、女中も、教師も、兵士も、料理人も、全ての死人がクロスを追いかけたのだ。
それも、全員が殺す気で。
『クロスよ、俺はお前の友である。故にその堕落ぶりを捨て置きはせぬ。お前が何者に想われているか、存分に思い知るがいい』
廊下に出ると隊列を成した死人の衛兵が逃げ道を塞ぎ、部屋に逃げ込めば死人の女中がハサミや針を手に襲い掛かった。
寝台の下に隠れれば死人の雑役夫が燭台を引きずりながら周囲を徘徊した。
台所に逃げ込めば死人の料理人がナイフを投げつけ、教師たちに助けを求めたならば、彼らは沈痛な面持ちで本やペンを振り下ろした。
どこに逃げても隠れても、そこには既にエルガンの手が回っており、あらゆる策や陽動は容易く看破された。
(すごい、ですね。この時はどうだったんですか?)
(そりゃあ、ものすごく怖かったですよ。優しくしてくれた人たちが、躊躇せず本気で殺そうとしてくるんですから。初めて、本気で怖いと思いました。命の危機ってのもそうですけど、何よりも、心の奥底からどんどん恐怖が溢れ出して止まらなかったんです)
最後には、クロスは死人の衛兵たちに囲まれ、追い詰められた。
そこで、遂にエルガン自らが衛兵の海を割って歩み出たのである。
血の臭いが染み付いて取れなくなった、巨大な双剣を携えて。
それは当時のクロスの身長とほぼ同じ長さであり、幅は既に胴を超えている巨大な鉄塊。
ルネイ国人衆の兵を薄紙が如く引き裂いた名剣、弓手の"鯨骨"と馬手の"渦潮"である。
その劔が、真っ直ぐ眼前に突きつけられた。
少年の顔は絶望に染まった。
死人の衛兵相手であれば、炎の魔法を全力で放ち、運次第で活路を開けただろう。
しかし炎骨候エルガン・ナッカランの武勇と豪胆に、未熟な炎が通用するはずもない。
自身の骨を包むおが屑が燃え上がろうとも、彼は剣を振るうだろう。
『情けと慈悲は、欠かすべからざる武人の心得だ。その情けに拠り、渾身を以って"渦潮"を振り下ろさん』
そう告げ、右手の剣が振り上げられた。
長大な切っ先が天井を削り、そして、振り下ろされる。
天井の石を裂き、空気を切断し、確実な死がクロスの脳天に迫る。
それは寸止めも引止めも無い斬撃であり、彼を真っ二つにした後は床板をも砕くであろう。
しかし、それは阻まれた。
クロスとエルガンの間に割り込み、止まらぬ一撃を止めた者があったのだ。
『そこまでよ、エルガン……!』
それはストイル・カグズ・アッサルートだった。
彼女は、含氷石とそれを囲む錫が杖頭に絡むように埋め込まれた、樫の木の杖を愛用していた。
その杖が、巨大な鉄塊を受け止めているのである。
当然、膂力によるものではなく、魔力で押し留めているものであるが。
杖と魔力はそのまま"渦潮"を横に弾く。
その動きのまま流れるように半回転すると、杖の石突がエルガンの胴に突き刺さった。
それだけで、エルガンの巨躯は弾き飛ばされ、手放された双剣はガラリと重い音を立てて床に落ちた。
エルガンは衛兵の人垣を押しのけながら仰向けに倒れる。
一瞬の攻防の末であったが、死人たちは突然のことに呆気にとられて動けなかった。
その間に、アッサルートは死人たちに向き直り、杖の石突を強く床に打ち付けた。
『あんたらぁ! 私の留守中に何してんのよ!』
怒声一発。死人たちは怯み、一歩退がった。
『どういうつもりか知らないけれど、可愛い弟子にこんなことされて黙ってられるほど、"屍の魔女"は優しい系譜じゃないわよ』
その分、"屍の魔女"が一歩前に出る。
額に青筋を浮かせ、目尻を怒りに吊り上げ、杖を後ろに振りかぶりながら。
『全 員 一 列 に 並 べ ! その素っ首、残らず叩き落としてくれる!!』
後ろから見ていたクロスにも、その怒りと、死人たちの怯えは伝わった。
普段、死人たちにも親しげで、優しく、激しい怒りなど見せたことがない師の初めての姿。
どんな些細な相談にも快く応じ、領民や魔女のみならず死人たちまで細やかに経営する、当世きっての才女の怒り。
エルガンに比べて遥かに小さな背中が、今は大きく、頼もしく、怒り故に優しかった。
その時、クロスの魂の奥で何かが弾けた。
蓋のように、栓のように押さえつけていた何かが砕け、怒涛のような熱さが全身に溢れ出た。
魔力漏出ではない。魂の圧力が、遂にコルク栓のように楔を弾き出したのだ。
クロスは泣いた。この世に生まれ出でた時以来、初めて泣いた。
喉を涸らし、涙と汗を迸らせ、顔を真っ赤に染め上げながら、ひたすら泣き喚いた。
その大声に、先ほどまで死人たちに凄んでいたアッサルートも駆け寄り、我が子のように抱きすくめる。
『よしよし、怖かったわねぇ、本当に、怖かったのねぇ』
しみじみと感じ入るように、弟子をなだめる。
彼女の表情には意外な驚きと、安堵に近い慈しみがあった。
クロスの様子に、アッサルートは驚いていたのだ。
恐怖を感じ、それを泣くと言う形で表すなどというのは、これまで一度も無かったのだ。
それも、洪水のような、産声のような泣きっぷりである。今まで溜め込んでいたものが決壊したのは明白だった。
それこそが、長年待ち望まれた、人間性への始まりであった。
アッサルートは治療の成功の確信と、責任ある愛弟子の将来に心から安心した。
それを噛み締めるように、泣き喚く少年の頭をいつまでも撫でていた。
この時初めて、クロスは心の底から感情というものを、他者の気持ちというものを思い知ったのだ。
(炎骨候はこれを狙っていたんですか?)
(そうです。後から知ったことではありますが……死人たちは命令通り本気で殺そうとしたけれど、エルガンさんは指揮を手加減していました。衛兵は道を封じて行進するだけで、女中は分散して配置。雑役夫の見回りは短時間で、料理人のナイフは研がれておらず、教師はまともな武器を持っていなかった。最後に姿を見せたのも、怒れる師匠の一撃を自ら受け止めるためだったんです)
この後、エルガンと騒動に参加した死人たちは、"屍の魔女"とクロスに深く謝意を示した。
意図を知ったアッサルートも怒りを収め、全員に一年の無給処分を申し付けるに留め置いた。
クロス・フォーリーズはめきめきと感情を育み、様々な表情を見せるようになった。
エルガンに対しては暫くの間苦手意識を持ってはいたが、生来の硬骨と気さくさに絆され、再び友誼を深めるに至った。
アッサルートを師として仰ぐようになり、14歳から本格的にその教えを受け取り始めた。
他者と心を通わせるようになり、知性を役立てる術を自ら吸収していった。
こうして、彼は師や友の信頼を勝ち得るほどの人格と知性を育んだのだ。
後は一人前の魔法使いとなるために、外の世界を学ぶのみ。
書物や物語、知識だけではなく、その肌で世界を感じ、その目で風景の色彩を刻み、その耳で人々の声を聞く。
その試練こそが、このお役目なのである。未熟で、欠けていた己から、人間として成長するための旅なのだ。
故に、決して諦めないのだ。
"光の魔女"を救ってみせなければ、彼の旅は意味を失うのである。




