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魔女はペン先と黒インクにて集う  作者: wicker-man
胞の章
13/194

胞の魔女4

ナッグ・ローグには"潮の悪魔"がいる。


ナッグ森林帯(ローグ)の歴史はここ150年程度のものだ。

かつて南の沿岸地帯に居住していた人間たちが、南海のハールーン島から攻め込んできたハールーン海上蛮族に追い立てられ、逃げ込んだ場所がナッグであった。

北は山岳で塞がれ、東はタージン朝の領土。西は、当時コギとザイル平原を一括統治していたフィンカット家の領土。

ナッグはそれらの領土に挟まれた宙ぶらりんの土地で、誰のものでもない領域であった。


当然、それには理由がある。

ナッグは低温高湿という奇妙な土地である上、南東の奇岩岬から吹き込む潮風がギリギリで届いてしまう場所であった。

風は常に西か南から吹き、それらは全て北の山岳に遮られる。

特異な環境は偏った植生をもたらし、森の殆どは塩害と低温に強いゴルナラの木とルーライで占められていた。

穀物は育たず、多湿で塩混じりの泥には牧草も植えられない。

地中深くまで根を張るゴルナラの木のせいで、土地を切り拓くことさえ困難である。

ルーライの実には毒性があり、それを食す虫たちもまた毒を有したものが多かった。


この地で人間が食せるものは、彼らと同じように他所から追いやられた獣。塩分の強い川や水源に息づく少数の魚と水生生物。それと、煮詰めたゴルナラの芽のみであった。

しかもゴルナラの芽は常食すると腹を下し、病のもととなった。


そのような土地に、沿岸地帯の漁師たちが逃げ込んできた。そこからナッグの歴史が始まったのである。


当然の如く、開拓は壮絶を極めた。

冬でもないのに餓死者が続出し、疫病が出る度に病人を見捨てて細かく移住を繰り返した。

一本のゴルナラを引き抜くのに一週間もの時を要し、泥の上に立った家は容易く歪み、崩れた。

貯蓄したゴルナラの芽を求めて、毒虫の群れが幾度も襲いかかった。

夏でさえこの有様というに、冬が到来すると死者は2倍に膨れ上がった。

なんとか土地を拓いて村を打ち建てても、食料の不足と低温の環境が次々に命を奪い続ける。

交易に使えるような資源も無く、口減らしや盗みが、決して広くはない村の中で横行した。


慣れぬ手つきで畑を作っても、潮風と雨が穀物を腐らせた。

川で銛を突き、水源に網を投げ込んでも、かつての漁獲には遠く及ばない。

湿度とゴルナラの難燃性によって干物作りも難しい。

高湿と不衛生、悪い栄養状態が度々疫病を発生させる。

立て続けに起きる人死と、物資の不足は、人心を荒廃させ、加速度的な治安低下を招いた。

そしてそれら全ての問題には、終わりが見えないのだ。


この土地は呪われている。彼らがそう考えるのは無理からぬことであった。


"潮の悪魔"

それは自分たちをこの地に追いやったハールーン海上蛮族と、この土地の悪性を象徴した信仰と憎悪であった。

ナッグという土地そのものであり、自分らの苦境の表現であり、憎悪によって日々の苦痛を和らげようとするいたいけな慰めであった。

彼らはまさに、"潮の悪魔"の災いによって滅びようとしていた。


そこに転機があった。

ある"一つのもの"がナッグの地を訪れたのだ。


"一つのもの"がルーライの実に触れると、実は赤みを帯び食べられるようになった。

"一つのもの"が杖を地面に差し入れると、杖は無数の黒い枝に分かれて大地を浄化した。

"一つのもの"が藻の端屑を投げ入れると、川は清められ種々の魚で溢れかえった。

"一つのもの"が病人に薬湯を飲ませると、病と下痢はたちどころに人々から立ち去った。

"一つのもの"が毒虫の群れに手を振ると、毒虫は森の奥へ引き返し二度と姿を見せなくなった。


"一つのもの"は人々に、ルーライの果実を使った酒造の業を教え伝えた。

"一つのもの"は人々に、ゴルナラの木を軽く火で炙れば頑丈かつ加工しやすい木材となることを教え伝えた。

"一つのもの"は人々に、代表を立てて東のタージン朝に加わるよう交渉すべきなのを教え伝えた。


この行いを、人々は五業三徳と呼んで尊んだ。

以降130年間、ナッグの地はかつての姿と労苦の残滓すら失うほどに繁栄した。


だが忘れてはならない。

"潮の悪魔"は死んではいない。

ナッグの繁栄を奪い去ろうと、悪魔は待ち続けている。

我々が繁栄にあぐらをかき、努力を怠った時、再び災いをもたらすために。

"潮の悪魔"は、今も森の奥で潜んでいるに違いないのだ。




エンリッケ・ヘインネスクは幼少の頃、祖父より繰り返し繰り返しこの話を聞いて育った。

既に記憶がぼけ始めていた祖父だったが、この話だけは常に正確に憶えていた。

父が「ただのお伽話だ」と呆れながら無視しても、彼の心の奥底にこの話は届いていた。

むしろ、彼の心という芽は、この話を土壌として育っているとさえ言えた。


それは彼の誇りであり、土地と村に対する愛情であった。

先人の努力と苦難の物語であり、豪農一族の長子として自分が担うべき責任であった。

いずれ自分が土地と家を継いだ時、何に換えても守っていかなくてはならないという決意の楔であった。












「ぬっ、ふんっ、くおっ」


朝っぱらから、クロスは重大な問題と格闘していた。

地下室で目覚めた彼は、洗濯と水浴びをしようと階段を上がっていた。

そこに、出入り口を塞ぐ鉄板が立ちはだかったのである。

鉄板を持ち上げようと、かれこれ5分は苦闘しているが、鉄板は僅かな隙間を数瞬見せるだけであった。

昨日は虫の群れが軽々と持ち上げていた鉄板である。クロスの中には、既に意地のようなものが萌芽しつつあった。


「ふぅーーーっ、よし」


中断し、息をついて何かを決心したかのように膝を叩く。

そして、階段を降り始めた。

諦めた訳ではない。必要なものを取りに戻ったのだ。


「ふんぐっ!」


再び鉄板との戦いを始めた彼の左手には、取り外されたカンテラの持ち手が握られていた。

肩と首と背中を鉄板に押し付け、全力で以って持ち上げる。

そうして、僅かな隙間が開いた瞬間、そこに持ち手を突っ込んだ。

持ち手は鉄の棒を曲げたものである。隙間を維持し、あとはそれを梃子にして隙間を広げ、そして鉄板を押し上げるのではなく横へズラしていく。

そうして、彼はようやく鉄板をどかせるのに成功した。


大きく息を吐きながら、階段を上がって周囲を見渡す。

だが、そこに"胞の魔女"はいなかった。

あるのは中央の地面に横たわる空の人型鉄檻と、壁にかけられた衣服。

彼女の痕跡を示すものは、それだけであった。


「"胞の魔女"さーん? クルギャさーん?」


別段用事があるわけでも無いのだが、気にかかったので、呼んでみる。

呼びかけに対する、明確な返答は見られなかったが、数秒もすると変化はあった。


横たわる鉄檻の真下の地面が、細かく掘り返され始めたのだ。

地面の下から小さな隆起が現れ、もこもこと盛り上がっていくと、その頂点からどっと虫が溢れ出した。

同時に、壁にかけられていた衣服の各所と、壁の隙間からも一斉に虫が湧き出る。

それらは衣服に集まると、飛べる虫どもが力を合わせて衣服を鉄檻へと運んでいった。

その間にも地面からは続々と虫が溢れ出ており、衣服と鉄檻が合流すると虫の群れは合体し、激しく無秩序に蠢き回りながらも、鉄檻の上体を起こしていく。

衣服も虫の動きに合わせて滅茶苦茶に丸められ、広げられ、引き回されているように見えた。


鉄檻がゆっくりと、立ち上がり始める。

無秩序の中にも秩序があり、その集約が人としての動作を生み出していた。

衣服もでたらめにかき乱され続けているように見えて、少しずつあるべき場所へと収まり続けている。


そうして、鉄檻が完全に立ち上がった時には、いつの間にか衣服も完全に整えられていた。

まるで、色が揃うその瞬間まで滅茶苦茶な配置にしか見えないパズルのように。

解けたその瞬間まで、解けつつあったことに気付かれない難問のように。

全てが同時に完了する瞬間というものは、その過程が一見して無秩序であるように見えるのだ。


『お、おははよよう、ござます』


ぎぎっと首がクロスの方を向く。

この乱れた口調は、寝ぼけ眼を擦りながら呂律の回らない言葉を発しているようなものなのだ、とやっと理解できた。


「おはようございます」


初見に比べて遥かに冷静に、挨拶を返す。

"胞の魔女"の動きはぎこちない。挨拶の返しに更なる反応を示すこともなく、檻を軋ませながらドアに向かって歩き始めた。

先回りしてドアを開けてやると、『あありがととっとございままま す』と長い礼を贈られる。

彼女はまるでゼンマイ人形のようなぎこちなさで外へ歩み出る。


『んんん〜〜〜〜〜〜〜〜』


そしてまずは、木漏れ日を浴びながら一つ大きな伸びをした。

虫の雑音が一際大きく響き、体の端々から僅かずつ体内の虫が漏れ出ては戻っていく。

陽の光と伸びで意識が刺激されたのか、ぎこちなさは幾分か和らいでいた。


次は水源のほとりに静かに座ると、スカートの長裾から虫たちの列が伸び始めた。

虫たちは水源から水滴を取ると、また列を作って"胞の魔女"へと戻ってゆく。

水を飲んでいるのだ。


その様子を後ろから眺めていると、クロスは何故か自分の心が安らぐのを感じた。

木漏れ日と豊かな草はらの中、湧き出る清水のほとりに座る黒衣の魔女。

まるで物語の挿絵のような、神秘さとのどかさを併せ持つ光景であった。

魔女帽を脱いでひらひらさせると、虫の群れに満ちた頭部が露わになってしまうのだが。

それは水に足を遊ばせる少女のようでもあり、陽光と澄んだ空気に和む老婆のようでもあった。


『あ、うっかりしてました』


座ったまま、体をひねってクロスの方を向く。

その動きや喋り方に、もうぎこちなさは残っていなかった。


『先に朝食にしましょう!』


明るく言い放つ彼女に笑顔を返すが、クロスの内心は穏やかならなかった。

自分を気遣って先に朝食にしようと提案してくれたのはわかるのだが、その内容はやはり虫のエサであろう。

今度こそ、腹を括らねばならないのだろうか。

クロスの額を微かに冷や汗が伝った。







『ごちそうさま〜』


上機嫌で手を合わせる"胞の魔女"。

天気の良い日の朝食は水源のほとりで摂る習慣のようで、気持ちよく食事を終えたようだった。


「ご、ごちそう、さままま」


対するクロスは、がくがくと膝と肩を震わせながらなんとか中腰で立っていた。

立ち上がって、気合いとリズムでなんとか押し込まねば入っていかない食事だったのだ。

サラダには明らかに故意に土が混入しており、パンは形容不可能かつ不可解な味がした。

同じメニューを"胞の魔女"は苦もなく平らげていたので、虫たちにとっては最適な食事なのだろう。

だが単なる人間に過ぎないクロスにとって、この朝食は冒涜的ですらあった。


『あははは、私の真似だ〜』


"胞の魔女"はけらけらぶるぶるがさがさと笑いながら手を叩いた。

まさに、クロスの様子は起き抜けのぎこちない彼女と殆ど同じ有様であったのだ。


「ちょ、ちょっと厠に……」


家の裏手にあるトイレ用の小屋へよろよろと、それでいて今なし得る全速力で向かう。

トイレの排泄物は、地枝虫の群れが分解してくれるという仕組みだ。

そこに思う存分、彼らにとって有用な栄養食を補充してあげた。


なんとか足取りを取り戻し、口元を袖で拭いながら戻る。

すると"胞の魔女"は立ち上がって、魔女帽を脱ぎ、抱えていた。

何をしているのか、近寄ってみると、背中越しに"胞の魔女"から声をかけられた。


『クロスさん、ちょっと村の畑を見回ってきます。留守を頼めますか?』


「はい」と何の気もなしに引き受けると、続いて『ありがとうございます』と返ってきた。

その直後に、どっと大量の羽虫が鉄檻の隙間から大空へと飛び立った。

およそ羽を持ち、飛行が可能な全ての虫が、群れをなして飛んだのだ。

同時に、空を飛べない虫が同じく群れをなして鉄檻から脱出し地面を這い進み始める。

穴の開いた瓶から次々と水が出ていくかのように、檻の中の虫どもが目減りしていく。

そしてその全てが、とうとう、空の群れと地の群れに分かれて、同じ方向を目指し発ったのだ。


「あぁー、なるほど」


手で日除けを作りながら、飛び立った虫を見送る。

合点がいった。こうやって、広大な農地を短時間で見回っていたのである。

鉄檻という寄る辺から離れ、群れとして空を行く姿を見ていると、ますます一つの生物であるようには思われなかった。


極小の生物が集合し一つの生物を成す。

もしかするとあの仮説の証明は、あの魔女が生きているのだ、という事実のみで十分になされているのかもしれない。


「さて、洗濯するか」


後に残されたのは、立ったままの鉄檻と、それに纏わり付いた衣服のみであった。

魔女の服は洗い慣れている。乾く時間を稼ぐために、水浴びよりも洗濯を先に済ませることとした。

鉄檻から慎重に衣服を脱がせ、森に入り、乾かすための縄を風通しの良い木の間に張る。


その作業の最中、遠目に木のエレメンタルが歩くのを見た。

こちらに気付いた様子は無く、行き先も反対方向である。




昨日の晩に"胞の魔女"から話は聞いていた。

ここ40年ほどで、木のエレメンタルの数が増えたと。

ルーライ栽培の大規模化と、空気中の魔力の増大が原因ではないか、と彼女は推察していた。

ナッグにとって地枝虫は外来種ではあるが、それの繁殖が原因ならば、増えるのは木のエレメンタルではなく虫エレメンタルのはずである。

何より地枝虫ならば"胞の魔女"が完璧にコントロールしている。


それ故に、北の山岳に近い崖下でひっそりと構えていた居を、森の水源に移したのだ、と。

木のエレメンタルが人々の危害にならぬよう抑えるためでもあり、その行動と増加の原因を調査するためでもある。

古木から湧き出る水源は魔力が集まりやすく、調査にはもってこいなのだ。


そして、今は心配事がある。

コギ谷を襲った大嵐はその後北上しながら弱まっていったため、ナッグへの直接的な影響は軽微であった。

しかし魔力の乱れの余波は確実に影響を及ぼしたはずだ。

木のエレメンタルたちの活動を、嵐による乱流の余波が活発化させたかもしれないのだ。




木のエレメンタルの姿は、数秒も経つと見えなくなった。

他のエレメンタルに比べて動きが鈍く、それほど積極的でもないため危険度は低い。

だが木そのものが群生しやすい上、森には魔力が溜まりやすいため、必然、木のエレメンタルも密集する傾向がある。

複数体に囲まれ、襲い掛かられるのは、十分に危険な状況になりえた。

もっとも、火の魔法を扱うクロスからしてみれば、水エレメンタルよりもよっぽど御し易い相手ではあるが。


一息つき、緊張を解いてから水源へと戻る。

すると今度は、予期せぬ来客が待ち受けていた。

水源のほとりにしゃがんで待っていたのは四人の若者。

酒場で見た、あの四人組だった。


引き返して森へ入ろうかとも思ったが、実行に移す前に一人がクロスに気付いた。

その一人は三人の肩を叩いてクロスを顎で指す。

そして、四人は立ち上がって歩み寄ってきた。

こうなっては、逃げるとかえって状況を悪化させてしまうだろう。

若者はクロスよりも大きく、歳も上であるように思われたが、しっかりと相対する他はなかった。


「お前が、あの化物に会いに来たってぇ奴か?」


一人が先頭に立って話しかけて来た。

明らかに高圧的で、敵対的な態度であった。

豪農の息子なら礼節も弁えていように、あえてそれを欠いているように見受けられた。


「ええ、そうです」


化物。恐らくは"胞の魔女"のことだろう。

その言葉はクロスの胸の内にも、片鱗が芽生えかけた事実はあった。

今や思いもよらない言葉ではあったが、その事実が理解を促した。


先頭の男はニヤリと笑いながら、後ろの仲間たちに目配せをする。

合わせるようにして、他の三人も笑みを浮かべながら頷いた。


「"プアリのモク"から聞いたぜ。魔女協会のもんなんだってな」


プアリ──哺乳類の一種で、非常に臆病な性質で知られている。

転じて、気の弱い者を貶める言葉としても使われる仇名だ。

そこから推察するに、おそらくはあの酒場の給仕のことだろう。


「はい、クロス・フォーリーズと申します。お見知り置きを」


名乗りながら、慇懃に礼をする。

今この状況では、クロスが魔女協会の看板を背負っているのだ。

迂闊な言動は決して取れない。


先頭の男は不遜でわざとらしい笑い声を響かせた。


「俺はエンリッケだ。ヘインネスク家の跡継ぎさ」


名乗りは返したが、礼は返さなかった。

声色から、この会話を何かの遊びと捉えているように思われた。


「初めましてヘインネスクさん。早速で不調法ではありますが、どのような御用向きでしょうか」


木のエレメンタルがうろつく危険な森であることは、彼らも承知のはずである。

で、あるならば、来訪にはそれなりの理由があると見えた。


「ああ、それだがねぇ、簡単に言うとさ、出ていってもらいたいんだわ、あの化物に」


──そら来た。


クロスは内心で、実に久方ぶりに何ものかを嘲った。


「だからさぁ、フォーリーズ君、魔女の溜まり場にさぁ、連れ帰ってくんない? お礼はするから」


後ろの三人が薄笑いを浮かべながら、互いの肩を小突き合った。

礼を続けながらも、クロスはそれを上目で見ていた。


「申し訳ありませんが、私は手紙の配達に赴いただけで、そのような目的はございません。それにここは"胞の魔女"の逗留地として協会に正式に登録されていますので、正当な理由なしに他の土地へ強制的に移住させることはできかねます。これは統地法に基づいた協会の制度ですので──」


言葉の途中で、クロスは胸倉を掴まれて引き上げられた。

胸が圧迫され、エンリッケの顔が肉薄したが、不思議と恐怖は無かった。


「ごちゃごちゃ言ってんなよ。これ以上あんな化物にデカイ面で俺らの土地うろつかれちゃたまんねえんだわ。ここは魔女協会領じゃねぇ、ナッグだ。俺らの土地なんだよ」


静かに、それでいて怒気を孕んだ声で凄む。

クロスの眉間に皺が寄るが、迫力に気押されたためではない。

唾が顔にかかったからだ。


「忘れんなよ! 今日中に出て行かなかったらてめぇをシメるからな!」


突き飛ばすように胸倉から手を離す。

必然、尻もちをつく形にはなってしまったが、見上げ、見下ろされる現在の状況そのままの心理状態ではなかった。

エンリッケは後ろの三人に「行くぞ」と指示すると、村に向かって森へと入って行った。

三人は少し戸惑いながらも、その後をついていく。

どうやら三人の心算では、ここでクロスを暴行するものと思っていたようだった。


立ち上がって襟を正しながら、ふぅ、と長めに息をつく。

全てが終わってから、ようやく冷や汗が流れ始めた。


彼らがここに来た理由は大方、いくら"胞の魔女"を脅しても全く通用しないので、クロスに脅しをかけようとした、というところだろう。

正面突破が効かないからには搦め手を。戦略としては悪くない選択である。

だが日常的に死者の凄惨な顔を見ていたクロスにとって、生者の激した表情などは恐怖に値しなかった。

暗闇の中で子守唄を歌うじいやのうっすらとした笑みと洞穴のような両目に比べれば、はるかに生易しく温かみのある顔であった。


「おっと、洗濯洗濯」


本来の用事を思い出し、小走りで水源のほとりに放置していた衣服へと駆け寄る。

エンリッケたちは、放置されてた衣服には手を出していないようだった。

それが、自らが化物と呼ぶ存在に対しての、最低限の恐れと警戒であるようだった。








「ふーっ」


洗濯も水浴びも終えたクロスは今、悠々と昼食に舌鼓を打っていた。

昨日の夕食、今朝の朝食、と独特な料理を堪能していたため、単なる干し肉とパンが常よりも美味しく感じられる。

天気も良いのでコートを敷物代わりにして、水源の近くで昼食をとる。

木漏れ日と湧き水のささやかな噴水、尖り石と豊かな木々を視界に収め、耳では水源のせせらぎと小鳥の声を聞く。

羽虫が干し肉に寄り付いてくるのは困り物だったが、森は豊かで、平和そのものであった。

爽やかな空気とともにパンを飲み込めば、満足感が心を満たす。

まとわりつくような湿気も無く、微かな潮風の香りには心地よさすら覚えられた。


ふと、クロスは集団の羽音が森から響くのを聞いた。

それはいくつにも重なる音であり、森の木々の間から、確実にこちらへ向かっていた。

"胞の魔女"が帰って来たのだろうか? 昨日の様から類推するに、随分と早いように感じられた。


ともあれ、残った干し肉とパンを一気に口に詰め込んで、立ち上がる。出迎えの準備をするためだ。

干しておいた"胞の魔女"の衣服を回収し、慎重に人型鉄檻へと着せていく。

衣服や帽子はまだ完全に乾いてはいなかったが、虫にとって障りとなるほど濡れてもいなかった。

"胞の魔女"の帰還が早かったため、乾くのが今少し間に合わなかったのである。


とうとう、木の間から虫の群れが姿を見せた。

空を飛ぶ羽虫の群れと、地を這う地虫の群れ。

それらは鉄砲水のように鉄檻に殺到すると、瞬く間にその中に満ちた。

その速度と勢いは、朝起きた時、もしくは見回りに出かける時よりも急いでいるように見えた。


『ク、ク、クロスさんん』


まだ完全に虫が鉄檻に収まっていないうちに、雑音混じりの声が響く。

鉄檻も少しずつ動き始めている。

やはり、何か急いでいるようだった。


「どうしました?」


駆け寄って耳を寄せる。

どうやら、緊急事態のようだった。


『き、木のエレメメメンタル、がが、村に押し寄せ、寄せせ、まししたた』


それは、まごう事のない緊急事態であった。

"胞の魔女"の鉄檻は既に、村の方角に向かってぎこちなく歩き始めている。

まだ完全に虫があるべき位置へついていないというのに。


クロスはすぐに家へと戻った。

地下室へと駆け降り、持ち手が外れたままのカンテラを素手で引っ掴んで急いで戻る。


「行きましょう! クルギャさん!」


"胞の魔女"のもとへと戻るや否や、躊躇う事なくそう宣言する。

その直後、"胞の魔女"は歪んだ声色で『ははいいい』と答え、ぎこちない足取りながらも走り始めた。

クロスも傍らに付き従い、森へと突入していった。

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