閑話 千の翼 後編
メリクリウス(五月のこと)
メリクリウスの十五日は、兄の命日とされる日だった。
両親――――とくに母は、その日はかならず墓参りに行く。
その墓は、ライト家の神聖な森の手前にある丘に、ぽつんとひとりぼっちで安置されている。
兄コネリウスの墓は森の中、一族の墓場にあったから、ヴァイオレットは十二歳になるまで、その墓の存在を知らなかった。
その日、母はかならず、丘の墓のほうへ先に行く。
刻まれた名前は『アダム・キャンベル』。
兄の墓に埋葬されている、ひとりの少年の名前である。
母親の名前は、マイア・キャンベル。
ヴァイオレットの乳母だった女性だった。
その日、彼女は朝方、雪解けが流れ込んで増水した川の下流で、息子の成れの果てを一人で引き上げた。
彼はそのとき兄よりひとつ下の四歳だった。
どうしようもない事故だった。
この季節のサマンサ領の丘には、枯れ木を折り、年によっては、風車を壊す強い風が吹く。
マイアの家の背には、そのあたりに住む家族が用水路代わりにしていた小川があった。
増水していた川へ向かって、家を押し倒すかたちで風は吹き、煉瓦で固められていた川岸の盛り土が瓦礫の重さによって崩れ、足場をなくした家は土台ごと崩れながら流れに押し流される。
子供が家にいたことも、マイアが屋敷へ仕事に出ている時間だったことも、その古い家が風で引き倒されてしまったことも、それは、誰の悪意も介入していない事故だった。
母は言った。
「マイアは――――夫を亡くしてサマンサ領に来て一年と少しばかりだった。西で嵐と大きな山崩れがあって、多くの人が家をなくして逃げ込んできたの。このあたりは人が減る一方だから、入植民はありがたかった。
故郷が恋しかったんでしょうね。新しく来た人たちは、住んでいた場所と同じかたちの家を建てたの。このあたりに三十年住んでいる大工さんなら、あの場所に建てる家の屋根は、もっと低く頑丈に、土台は石造りで平たくしたでしょうけれど、あのあたりは、入植希望の人たちが新しく開墾していく地域だった。この十年は比較的、風が穏やかな年が続いていたせいもあるし、開墾で、何百年も昔に植えた、風よけの木が倒されてしまったせいでもある。
でもこれは、知識があって警告できたかもしれない古い地元の人たちと、入植者の村人たちとの仲をわたしたち領主一家がもっと取り持ってやれば、防げたことだったかもしれない。それは今もずっと思ってることよ」
兄コネリウスの、出立の日が迫るころに起きた悲劇。
死んでしまったアダムは赤毛で、体が同じ年のほかの子たちよりも大きかった。
小川の下流周辺には、サマンサ領主一家が冬から初夏にかけて住む屋敷もある。
もともと、コネリウスは死んだことにする手筈だった。
もはや誰も語りたがらないから、誰がその計画を言い出したのかは分からない。
当時のマイアにはお金が無かったから、息子の弔いが満足にできなかった。
マイアと領主一家と陰王アイリーンは、コネリウス・サリヴァン・アトラス・ライトの棺の中に、アダムの遺体を身代わりとして入れることを決定した。
それを両親から知らされた日。
ヴァイオレットは、大いなるもののために犠牲になった、五人の人間の存在を知った。
マイアとアダムの親子と、父と母と――――そして兄。
(兄さんは生きているのね)
ヴァイオレットは、再会への衝動を抑えきれなかった。
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「あたしは、自分が溶け出して消えてしまうみたいな気持ちだった。こんなの、誰にも相談できない。兄さんに会えば何かわかると思った。会って話せば、何かがよくなる。あたしの気持ちを、全部わかってもらえると思ったの。あたしたちは、ほとんど同じ立場だって……傲慢にもそう思って、あたしは汽車に乗った」
幼いころから、金髪と青い目で暮らしてきた。全部を解いて、生まれた時の姿で会いに行った。
そうしないと、兄に気づいてもらえないと思ったから。
両親は、兄の生存の証拠を屋敷から一掃していた。
手掛かりとなったのは、曽祖父が山小屋に隠し持っていた手紙の束の中。『銀蛇』という宛名がついたものを見つけ、そこに兄らしき男の子の話が、何度も出てきた。
首都をさまよい、見つけたのは偶然だった。
束ねた赤毛が自分と似ていたから。後ろからちらりと見えた頬と耳の形が、母のそれと似ていたから。
思っていたより小柄な人だった。
道ばた、無我夢中で走り寄って手を掴んだとき、彼は驚いた顔をして振り返り、相手が誰なのかを、一瞬で理解したに違いない。
――――そこにあったのは『恐怖』だ。
誰かのあんなに怯えた顔を、ヴァイオレットははじめて見た。
この再会を望まれていないと、瞬時にヴァイオレットは理解した。
立ち尽くす彼女に、兄は低くささやいた。
「――――わかっているのか? 」
「……ごめんなさい」
ほんとうに口にしたかどうかは、今となっては分からない。
とっさに頭に浮かんできて、思考を支配した言葉がそれだった。
「あっ」とか、「うう、」とか、唸って何も言葉が出なかったかもしれない。
その場をすぐに逃げ出した。自分が何を目的にやってきたのか、兄に知られたくないと思った。
羞恥心と恐怖で震えながら、実家ではなく寮へ帰った。
言い逃れのできない失敗だった。
手紙が来るたび、何か月も怯えて過ごした。
夏が来て、長期休暇で実家へ帰って、そこではじめて母の本名を明かされた―――――。
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『お兄さんに会うのが怖い? 』
ヴァイオレットは、頷くかわりに重くうつむいた。
「……自分がどんなふうに怖いのか、何が怖いのか、分からないことが怖いの。思い出してもぐちゃぐちゃで、説明ができない。兄さんを前にして、自分がどうなるのか、分からないのも怖い」
『レティ、僕に何ができる? 』
うつむいたまま動かないヴァイオレットの肩を叩き、言葉を指さす。
「会うときは、いっしょに……」
消え入るような声が言う。
落ちる涙から目をそらして、アルヴィンは彼女の右手を握り締めることで応えた。




