閑話 千の翼 前編
空はよかった。
翼がある限り、空はそこにあるだけで迎え入れてくれたから。
美しいだけなら惹かれはしなかっただろう。
そこを飛ぶものがどんな思いを抱えていようと、天空の色は変わらない。日は昇り、雨は降るし、青空がある。
彼女にとって、この世界という舞台上における主人公は、いつだって自分であった。
それなりに賢く育った彼女は、いつしか自分における役柄を定めるようになった。
家柄も才能もあるが、明るく奔放な子供の『役』は、周囲が求める彼女の像だ。
さいわいにも、善良でおおらかな保護者に恵まれ、人に親切にするのは苦ではないほどに彼女自身も善良で、報われるほどには、才能もあった。
彼女は、自覚的に望まれる『像』を自分に埋め込んで、短い人生を生きてきた。
一つのことに大きな結果を出せば、それを理由にすることもできると学んだ。
才気ある変人として振舞うのは楽だった。
人に迷惑をかけないほどのわがままなら、それで周囲はあきらめてくれる。
くよくよする姿は、親にも見せなかった。
見せたくないというプライドもあった。幼くして死んだとされる兄と比べられるのは、ごめんだったからだ。
それだけで『いつだってなんとかなる』。
順風満帆といえた。
彼女は自分がしたいことのために、自分の『役』を徹底して守り抜いてきたのだ。
「……あたしね、鳥になりたいの。鳥になって、空を飛びたい」
『大きくなったら』と付けなかったのは、『大きくなったら』では間に合わないから。
なら、一分一秒も無駄にせず、今すぐにでもそうなりたいから。
(大きくなったら、あたしはきっと『何か』にならなきゃいけないから……)
それは次期サマンサ領主であり、この国の柱である貴族の当主としての責任と立場である。
兄が幼くして名前と地位を消し去って役割を務めていることを、彼女は重く受け止めていた。
家と血筋は誰かが受け継いでいかなくてはならない。
ならばそれは、自分だと。
幼いころに見た、夏の丘。青い空。
風の音。翠の土の香り。
ケツルたちの虹色の衣装。草木に落ちる影。
ただ子供の今は、翼さえあればよかった。
それだけを許してほしかった。
(空さえ飛べれば、もうあたしの夢は叶ったんだもの。他の夢なんて持ったりしないわ)
首都の空は曇っていた。
鼻をすすると、喉の奥が塩っぽい。
「……こんなの、お兄様にくらべたらどうってことないじゃない。そうでしょ? 」
✡
シオンが「ヴァイオレットのことは夜になったら迎えに行く約束になっている」と言っていたが、彼女の帰宅は、ほんとうに夜も更けた深夜の手前のころになった。
陽王との謁見があったその日の午後。
ステラのペントハウスに帰還後のアルヴィンは、テーブルの端で置物のように帰宅を待っていた。
居間には、暖炉の上にある機械から、ステラの声が流れている。
ステラのほうは日暮れごろに帰宅した。
事情をある程度知っているのだろうステラは、クラーク夫人からの追求に応じるわけにはいかず、困ったようすで「心配することはないよ」と言ったきり、忙しなく仕事へ出かけていった。
アルヴィンの目には、そんなステラの対応こそが彼女の安全を保障しているように見えたのだが、クラーク夫人はそうはいかなかったようだ。
帰宅したステラになだめられて、一度しぶしぶ着替えだけを済ませに行って戻ると、ずっと扉を睨んで動かない。
シオンは追求からそうそうに逃げ出し、もしかしたら、とっくにこのペントハウスにはいないのかもしれなかった。
そうして扉を睨みながらメイドと執事に拝み倒されて、アルヴィン以外がずいぶん遅い夕食を取り――――。
シオンに連れられて帰ってきたヴァイオレットは、アルヴィンが知る彼女とは、すこし変わっている、ように見えた。
一晩たち、二日、三日と経つうちに、その変化は、気のせいとは言えなくなってくる。
まず、部屋にこもることが増えた。
疲れているからだろうと最初は思った。
あの陽気なオウムのように話しかけてきたおしゃべりが減った。
空を飛ぶことを禁止されているから気がふさいでいるのかと思った。
何よりの変化。彼女は笑顔のあと、恥じいるように顔を歪めたりはしなかった。
(……何かあったんだ)
しかしアルヴィンには、それを自分が聞いていいものかどうかの踏ん切りがつかなかった。
理由はいろいろある。
異性であること。
彼女の悩みが、城での出来事の中にあるのなら、外国人の自分には言いづらいだろうということ。
そして、アルヴィン自身が、自分は相談するには役不足だと思っているということ。
アルヴィンには、悩みを抱える困った友達などいたことがない。
生身だったなら、きっととっくに知恵熱が出ていただろう。
アルヴィンが行動を起こすまで、ゆうに三日がかかった。
ステラに相談すると、こう言った。
「悩みを聞くなら夜さ。星が見える場所で、体を温めるものでも飲めば、口が緩むってもんさ」
と、水晶の床の玄関ホールでの散歩をふたりに許可した。
アドバイスは的確で、温かいミルクの効果はてきめんだった、かもしれない。
いや、あとにして思えば、ヴァイオレット自身も、何かを打ち明けたかったのだ。
だから、胸の内にある傷を少し開いて、そのありさまを、友に見せてくれたのだろう。
彼女にとって話せる範囲の秘密は、それくらいしかなかった。
水晶の上を踊りだすように駆け出した彼女は、久しぶりにあの明るさだった。
たあいのない一方的な軽口と、オーバーリアクションのあと。ひそめた声は低く、少し冷たい温度だった。
「……あのね、友達には、他に誰にも言ったことないんだけど」
しかし、アルヴィンには(ああ、これだ)とわかったのだ。
それは、自分に置き換えるなら、あの学校での、思い出すのも忌まわしい出来事を告白するような、そういうもの。
「……以前ね、父の言いつけを破って、兄さんに会いに行ったことがあるの」




