6 愛のけだもの
「ふゥ――――……」
(……条件はそろった)
シオンは、脳裏に何度も反芻した言葉を改めて復唱した。
(これは『審判』への介入にはならず、これは無辜の民を守るためでもなく、この場所はあらゆる大地の上、あらゆる海の上でもない)
伏せていた目を上げ、一息で目の前の怪物を二つに斬り捨てる。
「“星々の血が応える 夜と闇と時のあるじ”―――――」
呼吸を細く絞り、整えながら集中を高め、どの角度から敵が来ても、かかとの方向は円を描いて、円柱の中心からはけっして離れないように動いた。
密度を増す青い霧の中、白刃だけが、きらりきらりと閃く。
「“くろがねのうろこ 燃える舌 あまねくものを見通す虚の目 星の血をもつもの 混沌の化身 賢者と妊婦の守護者 無限の首をもつ御方”――――――」
剣を掲げて天を衝く。
刹那、時が止まった。
「“わが名、わが血に宿る約定と誓約に従って、わがあるじ、陰王アイリーンへ”――――」
その男が立つ空気が凝固し、圧縮される。
「―――――“この身を流転の贄に御捧げいたします”」
―――――そして放たれる。
瞳の色が変わる。髪が、身丈が変わる。
すと、と石畳の上に立ったのは、しなやかな肉体を持つ女だった。
均整の取れた長い手足に、丈が足りないそのままを着込み、伸びやかに立っている。
涼しげな切れ長の瞳は柘榴のような深紅で、ごく薄い唇はかすかに微笑んでいた。
「“スート『女教皇』”」
それは、銀でできた兵だった。
独立した六枚の翼を背負い、主と同じくらいの背丈に、同じくらい細身の体を持つ。
頭は無く、円環が三連、そこに浮かぶばかりである。
「ここはどの大地の上でもなく、どの海の上でもなく、これは『審判』への介入ではない。どこぞで見ている神々の王よ。問題なかろう? 」
誰へともなく言い、上がった腕による無言の号令によって、『女教皇』のスート兵は蝗どもへと猛攻をはじめた。
手足はそのまま剣になり、盾になり、鈍器になる。場に残った『女帝』の黄金兵五機とともに、周囲の蝗を駆逐していく。
「“炎よ”」
空を握る。
「“星よ”」
空を握って腕を広げ、ゆっくりと歩きだす。
「“夜よ”」
手から、足が踏んだそこから、星々を宿した炎が噴き出す。
「そら来い。わたしが呼んでいるぞ」
アイリーンが生み出す『星の火』は、蝗たちに対し何よりも圧倒的だった。
空を覆いつくす勢いで吹きだした銀河の炎は、ひとつの生き物のように冷たく蝗たちに噛みつき、その場に残る命は焼かずに慰撫した。
まさしく原初の龍、始祖の蛇の、混沌から生み出した火そのものである。
四船までは、とうに天へ飛び立った。
五船目は、いまようやく最後の乗船者を乗せて扉が閉まるところである。
「――――師匠! 」
ぴしゃりと扉が閉じる前、放たれた言葉だけが、アイリーンの耳に届いた。
「あとは頼んだぞ莫迦弟子ども! 」
飛び立つ弟子たちに向かってアイリーンは腕を振り上げ、聞こえるかもわからない声を上げて応える。
「ここはすっかり、ほとんど冥界だな」
あたりを見渡していう。
青い霧は彼女の体などすっかり通り越し、昇っていく船影に迫る勢いだった。やがては伸ばした腕の先も見えなくなるだろう。
その向こうに歩み寄ってくる女の影を見て、アイリーンは小首をかしげる。
「母さん」
「エリカか。お前の今わの際には間に合ってよかった」
「予測が外れたわ」
影が揺れる。長い黒髪が尾を引いた。
「ごめん、なさ―――――」
青い炎が霧の影の奥から噴き出し、その体にかぶさる。
「……いいところで時間切れだぞ、フランク」
アイリーンの目が冷たくとがり、その下から舌打ちが漏れた。
「すみませんね。息子ほど持久力がなくって」
同じ唇から、低い男の声が言った。
「長時間の変身魔法と冥界からの召喚で、もうへとへとですよ。僕も年ですかね」
男の手が懐から眼鏡を取り出し、灰色の目がはまった、抉られたように溝の深い鼻筋にかけられる。
「うん。これでよく見える」
フランクは半身に剣を構えた。どこからか蹄の音もする。
「例の盗まれた『灰』から蘇ったのか。僕の母校の森を焼いたとか」
そのものは、肌はおろか、髪すら焼けずに、炎と一体になって揺れていた。
瞳は明るく輝く青だというのに、すべてを忘失したように虚ろである。
「その人は焼かないで」
霧の向こう、誰かの声にそう言われてか、『吊るされた男』は踵を返し、霧に消えていく。
フランクは癖っ毛をかき混ぜるように掻いた。
「さてこれはなんとも……緊急事態といえるのかな。シオンに連絡しなくっちゃ」
✡
青白い霧がたちこめている。
冷えたミルクの中を歩いているようだった。
ようやく自分の足元が見えるほどの視界には、暗闇を歩くような閉塞感がある。
ヴェロニカはいまだそこに留まり、ジッと霧の向こうの蹄の音に耳を澄ませていた。
「まちなさい」
静かにその人物を引き留める声を上げる。
見えない。けれど感じている。
ヴェロニカの語り部ダイアナ。
その前の主人。
伯父であり、ヴェロニカの影に宿す語り部ダイアナが、ヴェロニカと同じ魂の性質を持つとした英雄。
「―――――おまちなさい!ジーン・アトラス! 」
踏み込み、拳を引き絞る。
銀河を宿す龍の血が燃えてヴェロニカの内から滲み出し、指のはざまから噴き出して覆った。
霧を穿って突き出した拳は、円錐型にその瞬間、視界を斬り裂いた。白骨馬のいななきが響く。
彼女の拳は、噴き出す炎ごと、一回り小さな掌に受け止められていた。
驚くべきはその膂力だ。ヴェロニカの力を受け止めてもなおビクともしない。逆に拘束された形になる。
その青い火をまとう人物の後ろで、組み合う二人を眺めている少年がいた。
彼はヴェロニカの姿にわずかに目を見開いて、ごく薄く唇を曲げる。自罰的な、老人の微笑みだった。
「……なるほど。ダイアナの次のあるじがキミか」
「ええ。そしてその頭蓋骨は愛する弟のもの」
「返せと? これを」
ジーンは指先で自分のこめかみをつつく。
ヴェロニカは、ゆっくりと首を振った。
「あなたからは、すくなくとも三つのものを返していただきますわ。弟の頭蓋骨。わたくしの大好きなダイアナの笑顔。穏やかで平和なフェルヴィンの大地」
「ならば、奪っていけ」
諦観にまみれた微笑みが、青い炎を吐き出しながら言う。
「おれから奪って、取り戻してくれ――――」
「それは困るわぁ。今はダメよ」
割り込んできたのは、のんきな響きの明るい女の声だった。
ヴェロニカの腰ほどしかない少女が、ジーンのマントを引っ張っている。
裸の少女の姿に眉をひそめたジーンは、求められるがままため息とともに、薄い緑の布地に銀の刺繍のマントを脱いだ。
マントを着こみながら少女は言う。
「この人たちはあたしが呼んだんだもの。上層まで連れてってくれなきゃ困っちゃう。せっかく生き返ったばかりなのに、こんな寒いところで死にたかないわ。すぐ死んじゃったら、それこそ命の無駄づかいってもんじゃない? 」
「あなたが、呼んだ? 」
「ええ。冥界からコーリーング!ってね。地上にもう一度出たくってさ。あなたのご家族にはご迷惑をおかけしているけれど……マ、賠償なんかの話は後日にしましょうね。……ほら王様。肩かしなさいよ。あたしがひとりで乗馬できるように見える? 」
「……ではあなたが、『魔術師』」
「違うわ。彼女は下請けしただけ。あたしは彼、ジーンの蘇りを発注して、彼女は材料としてあなたの弟の頭蓋骨を仕入れした。だからこの顔を見て分かるとおり、彼はあたしのことがあんまり好きじゃないの。そういうこと。そういうことなのよ」
少女、アリスはにっこりと馬上でヴェロニカに微笑んだ。
「そういうことだって、あなたたちの『教皇』に伝えてちょうだい。あたしは魔王と呼ばれた女。『悪魔』の名を宿したもの」
腕を広げ、アハハと笑う。
無邪気に悪意を振りまくように。
「なぜ……」
「答えはあなたたちと同じよ。『すべては愛ゆえに』。人が狂うのはいつだって、愛と孤独と怒りだわ。そしてそれを、情熱とも呼ぶのよね。人は情熱のために、なんにでもなれてしまう。時にケダモノにだってなるものよ」
ふたたび空に蝗が湧き出す。
しかしもう、船にも、空島にも、人にも手を出さない。
飢えは飲み込み、ひとつの生き物のように黒雲となって地上を目指す。
雲の切れ間、天から伸びる光のはしごを手繰るように、上へ、上へ。
その中心にただ一人の女をともなって、悪魔の群れは行進していく。
ヒース・クロックフォードは船の中から。そしてエリカ・クロックフォードは天空の孤城の中から。
それぞれ別の場所から、それを見つめていた。




