6 空中裁判
時計の針はほんの少し巻き戻る。
施設は唸り声をあげて駆動をはじめていた。
無人となった廊下、客室、食堂ホール――――明かりが落とされた空間を、天井にラインを引くように長く伸びる青白い常夜灯だけが、鼓動するようなリズムで照らしている。
『この施設は閉鎖されます――――』
『内部に残っている人は、すみやかに外部への脱出をお願いいたします』
『完全閉鎖までのカウントダウン――――残り1200秒』
『――――残り1120秒―――――』
『残り――――――』
地下深く。
人は誰も到達しえないその場所もまた、さらなる駆動を始めていた。
卵の内側のような楕円の空間の中心。『エリカ』の本体が納められた箱と、管につながれた台座。
施設のセンサーはその台座と床の空間に、あるはずがない生命の存在を認識し、その情報を警告とともに『エリカ』へと伝達した。
そしてその情報は、0.001秒以下の速度で、子機である『エリカ』へも共有される。
「――――は」
エリカは息の塊をひとつぶ、まぶたを見開くと同時に吐き出した。
「――――……なんですって」
いまだ目覚めない娘の顔を見下ろし、次にするべき行動について一瞬で決断する。
娘の首の下にサリヴァンが置いていった上着を噛ませ、横たえると、振り返ることなく来た道を戻っていく。
その顔には、何千年も胸に抱えていた固い決意だけがあった。
それからほんの、数秒あと。
『悪魔』の目が開いた。
◇
生身ってこんなに重かったかしら、と、アリスは思う。
そうね。こんなものだったわよ。と、アリスは自分の肉体がいかに脆かったかを思い出し、(やられたわ)と思った。
情報としてアリスは知っている。
『選ばれしもの』の条件のひとつは、『生きた人間』であること。
例外的に『魔術師』に選ばれた女亡者や、『星』のアルヴィン・アトラスのように、肉体を失っているものが選ばしものとなれば、『こう』なるように、この『最後の審判』ではさだめられているのだろう。
裸の肌に触れる石の床が、生まれたばかりの体温を急速に奪っていく。
ぼやけた視界と、重くきしむ首を回してあたりを見渡せば、壁のくぼみに収められている箱のひとつが開いていた。
(あたしの目、あそこにあったのね)
だからここに『再誕』したのだろう。
起伏がなだらかな体だ。いちばん元気で動けた年齢の体である。
アリスの肉体は弱くてもろい。最大にして致命的な弱点だ。
――――しかもこの肉体は、ひとつしかない。昔のように、クローンの体を量産して使い捨てるなんてセレブな真似は、もうできない。
アリスはエリカとともに神々への交渉を手伝ったが、その交渉じたいには同席していなかった。
だからアリスは、『審判』について、神々とエリカらの間で交わされた細かな約束までは知らない。
それは、互いを知るようになっていったエリカとアリスの双方が、一本線を引いたために起こった『気遣い』の結果だ。
エリカは肉体を喪ったアリスに、これ以上の負担を強いることを嫌がった。
アリスは、そんな彼女の感情と自分の過去を顧みて、距離を取る選択をした。
あのころ、二人のあいだにはそのような絶妙な距離感が構築されていた。
信頼で成り立っていた友情だった。それをアリスのほうから破り捨てるまでの五十二年間は、とても長かった。
――――三千五百年、冥界で眠るよりも、ずっと長かった。
それは苦痛からくるものではない。逆だ。楽しすぎたからだ。
互いに、人間から逸脱した力を生まれ持ち、それを使いこなすことで生きてきた。
大きな力を持つことに倦むこともなく、驕ることもなく、権力を手段と考えるところに共感した。
ふてぶてしいほど度胸があって、昼寝と料理と読書が好きで、猫のような女。
心の中にいる十歳のアリスが、嫉妬して泣くほど楽しい五十二年間だったのだ。
『こんな友達がもっと早くほしかった』と。『どうしてもっと早く出会えなかったの』と。
もうずっと長いあいだ、心のどこかは孤独に蝕まれてきた。
はじめて対等な友ができたのに、家族は死んだあとだった。
すべては失敗したあとだった。
彼らを守るために、世界のすべてを捧げてきたのに。
もっと早くに彼女と出会っていたら、違う選択肢があっただろう。こんな後悔は無かったかもしれない。
それくらい、エリカ・クロックフォードという女を好きになっていたのだ。
――――だから、友が変わっていくのがいやだった。
エリカ・クロックフォードが消えていくのが、アリスにはよく見えた。
昼寝と料理と読書が好きで、猫のような女が消えていく。
女獅子のように高潔で、蛇のように狡猾で、龍のように恐れられる『始祖の魔女』になっていくさまが、アリスにはよく見えていた。
叩かれるほど強くなる鋼のように、彼女の柔らかい部分は、きっともう戻ってこない。
過去にアリスがやがて魔王と呼ばれるようになったように。
アリス自身が彼女という鋼を鍛えたひとりであるから、それがよくわかった。
(そんなのいやよ)
しかしアリスは、もう死んでいる。
エリカは肉体がない友よりも、多くの生きている民のために生きていた。
いつしかエリカの中では、死んでしまったビス・ケイリスクたちと同列となっていた。
とっくに『救えなかった友』のひとりでしかないのだ。
そう気づいたときの、湧きあがるような衝動―――――。
(そんなのは、いやなの)
だから甦った。
もういちど彼女の前に、今度は『最大の脅威』としてあらわれたのだ。
『箱』――――いいや、棺の中の女に言う。
「どうせ消えるなら、最後にあたしと全力で戦ってよ」
箱はうっすらと熱を持っていて温かい。
それを支えに立ち上がり、アリスは壁のくぼみをもう一度振り仰いだ。
何度も肉体を使い捨ててきた経験があるアリスは、はやくもこの新しい肉体の操作に慣れ始めていた。
ここにある『目』をすべて奪えば、アリスの力は全盛期まで甦るだろう。そもそも、最初はヒースを使って『目』を奪還するつもりだったのだ。
しかし生身の体を持ってしまったら、アリスはこの楕円の部屋から出ることもできない。
『あなたバカじゃないの? そんなにつめが甘かったかしら』
それは、天井のスピーカーからの声だった。
なつかしい声だ。ついアリスは笑いがこみあげる。
「……悪かったわねェ! 想定外で予想外よ! こんなふうにピッチピチの体で蘇っちゃったのなんてね! 元はといえば、あなたの娘のせいなんだから」
『懐かしい物言いね。変わらないわ』
ため息とともにエリカは言った。
『そういうものなのよ、子供なんて。それより、その場所は関係者以外立ち入り禁止よ。とくにあなたは出禁なの。わかってるの? 』
「迷い込んじゃったんだから仕方ないでしょ! それよりあたし以上に関係者じゃない人っている? 」
『関係者だからダメなのよ。何も触らず出てって。この施設からすべての人間に退去命令も出してるのよ』
「あなたは来ないのね? 」
『ええ。あなたには会わない』
少しの沈黙ののち、エリカは続けた。
『……次に顔を合わせるときは、今度こそあなたを殺すときよ』
歯車が廻る。
噛み合って、無数の独楽が駆動する。
アリスを乗せたまま、部屋はゴロゴロと音を立てながら、ゆっくりと壁の中を動き出した。




