6 ワイルド・サイドを行け①
「……まだなの、ヒース……! 」
旅支度を整えつつある船団が遠目に見える。
腕の中で眠る娘を見下ろして、エリカは呟いた。
『アリス』を船に乗せるわけにはいかないのだ。
だからヒースは、みずからの力で、かの女を退けなければならない。
このままでは、この娘を乗せないまま、船が発ってしまう。
(それはダメ……計画の前提がひっくり返ってしまう)
ヒースの中で行われているのは、体の主導権を握るための綱引きだ。
必要なのは、強靭な精神力と意思の力。
今のアリスに、自身の力を増幅させる『脳』はない。
肉体の所有者であるヒースのほうが、圧倒的に有利。そのはずだった。
(……見誤ったのかもしれないわ)
アリスが体の中にいることは、ヒース自身にも知らせていなかった。
知ってしまえば、アリスが再び『発症』したとき、彼女も知るところになる。
だからいつ発症してもいいように、迎え撃てるだけの精神力を持つよう、準備をしてきたつもりだった。
これに関しては、万全のつもりだったのだ。
『自分の娘ならば』。
――――そう驕ったところが、どこかに無かったか?
エリカはたまらず娘の額にあわせた。
唇を噛んで祈る。
神にではない。
サリヴァンが召喚したかもしれない祖霊に。
娘に流れる自分以外の血に祈る。
「―――――隊長……おこがましいのは分かってる。でもどうか、この子を助けてちょうだい……」
✡
「ヒースが来なかったら、おれはここに残ります」
「駄目だ。許可しねえ」
サリヴァンの言葉に、黒毛のケツル船長、ココ・ピピは首を振った。
「ここは危険な状態になるから全員連れて出航するという契約を交わしている。船は一尾置いていくようにする。ネーロも船乗りだ。起きれば、自分で操縦して追ってこれる」
「――――でもおれは婚約者だ! 」
らしくなく大きな声が出た。
船室はしんとした沈黙が落ちた。慌ただしく動いていた船員ですら、ちょっとのあいだ動きを止めてこちらを見つめている。
「……おまえが? 」
たっぷりとした静けさのあと、ココ・ピピが目を丸くして小さくつぶやいた。
「こんなちびが……いや失礼。いや、いや……あの頃に比べたら大きくなってるな。そうか……おまえなのか、王子さまってのは」
感慨深げに繰り返して、ココ・ピピは頭を掻く。
「……王にはならないから、おれは王子じゃない」
「そういう意味じゃあない……ここにいる船員にとってアイツはただの船乗りだからな。……そういうのじゃあ、ねえんだ」
ココ・ピピは体をかがめ、ささやいた。
「……つまり、ネーロを女にするのは、この世じゃお前だけって意味サ」
サリーの顔に、さっと赤みが差した。
「……そういうことなら、マ、応援するよ。色男。俺にも責任ってやつがあるからな。――――おいロッサ! 」
ココ・ピピは、赤い長毛の船員を手招いた。
「へい、なんでしょキャプテ、ひっ! 」
「聞き耳立ててたな? 」
ココ・ピピはその肩をがっしり掴み、顔をのぞきこんだ。
「そそそそんなのみんなそうでしょ……」
「だろうな、うん。じゃあやることは分かってるな? みんなも、おまえも」
「え、へい。なんでもします……」
「ンじゃ、いまからおまえ、俺の代理な」
「んにゃ!? 」
「頼んだぞ。わからないことはビアンコに聞け。な! 」
「にゃあ~!? 」
ポンポンとロッサの肩を叩き、ココ・ピピは体を反転させると、翼を片方だけ広げてサリヴァンの肩を抱くように包んだ。
「そういうことにした。いいだろ? 」
✡
ヒースはそっと口を開く。
「―――――お父さん」
背後にいた気配が、はじめて目の前に立っていた。ブーツのつま先だけを見ながら、ヒースは続きの言葉を口にする。
「……ごめんね。あと、助けてくれて、ありがと」
「なぜ謝る必要が? 」
「いやあ……なんか、あれだけ良くしてもらったのに、実の父親とヨソのおばさんを間違えるなんて、我ながら失態だったなぁって」
「あちらはそれが常套手段なので、仕方ありません」
「えへへ。実はそう言ってもらえると思ってた。あの状況じゃあね、対策なんてできないって」
「でも、途中で気が付いたはずですよ」
「うわ~……気づかれてた」
「……なぜ撥ね退けなかったのです? あなたには出来たはずです。僕が教えたことを応用すれば、自分の夢はコントロールできたはず」
「こんなこと言うと、今度こそ怒られるのかもしれないけど……」
ヒースは頬を掻いた。
「僕、彼女のこと、知りたくなっちゃったんだよね。……あ! いま呆れたね!? そういう感じがする! 」
「……弁明は聞きましょう」
「だってすごいんだよ!? そもそも僕の知らない世界の話だから好奇心ももちろんあったけど、それ以上にさ! 手段と動機がすごいんだ! 『世界征服』だよ!? 」
ヒースの声に反応して、何もない世界に風が吹く。白とも黒ともなかった世界が青く色づき、足元で野草が揺らめいた。
「動機は純粋だった! 家族を守るためだ! でも常人じゃああそこまでしない! 能力があってもできやしないだろ!? 僕ならそうだもん! だって僕、あの人の娘なんだからさ、なろうと思えば女神にだってなれるんだ! だけど絶対できないって確信がある! それをさ、彼女は人間のままやってのけたんだ! 」
「あなたの動機は共感したからですか? 」
「共感なんてできるわけないよ! だからすごいって思ったんだ! しいて言葉を選ぶなら、『尊敬』っていうのがふさわしいと思うんだ! ――――あ、また呆れてる? 」
「……いいえ。感心しています。六割ほどは」
「僕思うんだよねー。やっぱり僕って、ああいう人、嫌いになれないんだよ。なんかほら、だって、僕の周りってああいう人ばっかりじゃない? 勇気があって、思い切りもよくって、すごく周りのことを考えてる人――――」
「あなたには……」ビス・ケイリスクは、声を震わせてヒースに問うた。「アリスが『周りの人のことを考えてる』ように見えるのですか? 」
それがあまりにも形容しがたい声色だったので、ヒースはつい顔を上げる。
「うん」
父は、泣いても怒ってもいなかった。――――むしろ少し口角を上げていた。
髪は白く、細い癖っ毛だ。目じりは垂れ目ぎみで、瞼が眠たげに厚い。鼻はこぶりで、唇は薄かった。
それは自分と似ているところなど、どこにもない顔立ちだった。
――――けれど不思議と、親しみのある顔だった。
「……お父さん、小さいね。ジジくらいしかないじゃない」
「そうですね。年を取らないように長年薬学的処置をしていましたので」
「心配かけてごめんね? 死んでたのにさ、わざわざご足労いただいて」
「いえ、血筋が近いので、そこまでの苦労はございません」
「はあ、そなの? 」
「そういうものです。心配をかけたのはむしろ彼女のほうでしょう。その点については、よくよく反省していただきたいですね。僕はきみが死んでも同じ所で会えますが、彼女はそうではない。心労は幾らばかりか察するに余りある。お母さんは大切になさい」
その最後の一言の響きは、ずいぶん優しい。
「じゃ、さ。最後にひとつだけ聞かせてよ。母さんのしたことに怒ってないの?
……それどういう顔? 」
「これは……大きな行き違いを察した顔です」
両手で顔を覆って、ビスはもごもごと応えた。
「で、どう思ってるの」
「あなたに会えたことに感謝しています」
「そんな上澄みみたいな言葉じゃなくってさ、なんかほら、無いの? 」
「あっても子供に言いません」
「あっ、そういうの? いやどういうの? ポジティブに取ったらいいの? それともネガティブ? あっ! ちょっと待ってよ! 都合が悪くなったらって! もーっ! 」
がばりと起き上がってはじめて、ヒースは(あれ? なんで僕寝てたんだっけ)と首を傾げた。
大きく振り上げた腕に、奇妙な感触が残っている。
「あれ? 僕、どこに……」
濡れた青い目がこちらを睨んでいるのと目が合った。
肩を丸め、両手は奇妙にどちらも顎に添えて、アリスは言葉もなくこちらを睨んでいる。
さっきから腕に何かが当たったような気がしていた。衝撃の行く先は、そこだったらしい。
「へぇ~、夢の中なのに、きみは痛いんだね」
ヒースは率直な感想を言っただけなのに、アリスは嫌そうに表情を曇らせた。




