2 龍の血筋
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フェルヴィン皇帝の長女、ヴェロニカ皇女は、世界的に高名な地質学者の一番弟子である。
その名を、クロシュカ・エラバント。
世界中を旅して研究を重ねたクロシュカ博士の一番の功績は、この『多重海層世界』が、もとは一つであったと証明してみせたことだ。
クロシュカ博士には、同名の父がおり、父親もまた学者であった。
天文学者クロシュカ・エラバント。
『最後の龍』を自称する、古き龍の末裔を自称するという。
――――『龍』。
それは、まだ昼も夜もこの世にないころ。
混沌の蛇が天へと打ち上げた『時』の塊から、地上へ落ちてしまった欠片たちの子孫。
天にのぼった『時』は、あまたの星々として輝き、ゆっくりと廻り出した。
『時』が生まれた世界には昼と夜が生まれ、季節が生まれ、命が芽吹いたという。
地上に落ちた『時』は、蛇がいくらかは回収してその腹に呑み込み、そうして蛇は時の先を見つめる力を手に入れた。
地上に残った欠片はのちに『龍』と呼ばれるものとなり、神々とも違う悠久を生きる存在となり、煮え立つ火山の奥深く――暗闇の海底深く――森を流れるせせらぎの源へ――あるいは、その身体そのものを土に横たえ山脈となって、天へ上った星々の瞬きを数えながら生きてきた。
「……儂が生まれたころは、故郷には数百もの龍が暮らしていたものじゃった」
……クロシュカ・エラバントは、そうして代を重ねてきた龍の末裔である。
生まれたのは『混沌の夜』と同じころ。
いわく、『世界でいちばん星々に近い山』で生まれたという。
「血族は真白き息吹を吐きながら、岩壁をほじくり出てきた石を食うて生きておった。元来、龍の雌雄はあいまいである。雌として生まれついても、力をつければ術を得て、儂のように雄として生きることもできる」
クロシュカは、半ばで折れた右の角をさすった。
「龍は独占欲が強い。宝は寝床の奥深くに隠し、誰の目にも触れさせぬ。つがいとなれば死すまでつがいを愛して死ぬ。雄の龍とつがいとなれば、雌は雄が死すまで外へと出られなくなる。儂は若いころ、同世代のうちでは小さく弱かった。今思えば、大器晩成型というやつであった……」
ふっくらとした頬に手をあて、ふうとクロシュカはため息をついた。
「雄はつがいに良い雌を見つけると、勝負を申し込む。雌が負ければ、つがいの献身的な愛を受けるかわりに自由を失うこととなる。小娘であった儂は、一丁前に、郷一番の雄に懸想した。しかし強い雄は、強い雌を求めるのだ。弱い雌には、弱い雄が寄ってくる。そうしているうちに、初恋の男は別の強い雌とつがいとなった。
儂は思った――――『ならば』と。このまま手頃な雄のつがいとなるならば、と」
恋に破れ、若きクロシュカは思った。
――――ならば夢に番おう。
天に昇った先祖たち。その巡りを見つめることに、この長い龍生を捧げよう、と。
それはヒトのような果てなき野望。
それは龍にあるまじき意欲。
同胞の制止から耳を塞ぎ、山を下った。
渡り鳥のように西から東へ。空ばかりを見て、地面を歩いた。人に紛れるすべを磨き、何百年、何千年。
もくもくと海層から海層へ。星々の巡りだけを見つめて歩き続けた。
やがてクロシュカ・エラバントという名を得て、人の世では賢者として知られるようになる。
妻を得たのは二百余年前。人間の女の寿命は短く、つがいと共にした時間は龍にとっての一夜のやすらぎでしかなかった。
子連れとなっても旅を続け、そして三か月ほど前――――。
◇
ざりざり。
おぞましい音が脳髄を揺らす。
あふれ出た唾液と汗で、噛まされた布が滴るほどだった。猿轡の下で上げた怒声は、押し殺した悲鳴に変わる。
ぞりぞり。
おぞましい。煮詰められた不快感。虚脱していく筋肉に抗おうとする思考とは裏腹に、脳は狂う寸前の恐怖を与えてくる。
……恐怖。
そう、それは確かに恐怖だった。
矜持。自信。力。
それを犯されるという、恐怖。
――――我は龍ぞ!
――――星の同胞たる龍なるぞ!!
――――この屈辱!!! この無礼!!! 忘れぬぞ! けして忘れぬッ!
――――殺す! 地の果てへも逃げきれぬと知れ! 必ず貴様を縊り殺してやろうぞ!!!




