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彼の隣

 その夜は、二人で試作したあのクリスマスメニューがいよいよ黒猫で始まるということで透くんに誘われていた。

 お店で出されるメニューの試作なんてしたのはもちろん初めてだから、それが目の前で直に見られるというのは結構ドキドキするものなんだな、なんて思いながらお隣に向かう。


 外はすっかり冬の寒さで、風も吹いているから明日はもっと冷えるのかもしれない。それは「寒っ!」と思わず声に出してしまうほど。

 そういえばもうすぐクリスマス。初めて迎える聖夜を、わたし達はどんな風に過ごすのだろう。





「今晩は、お邪魔します」

「璃青さん、いらっしゃい」



 透くんにカウンターの外れの席に案内され、上着を脱いで椅子に座る。



「杜さん、今晩は。クリスマスメニュー、今日からなんですね。もうそんな時期なんですねー」



 カウンターの中の杜さんに話しかけた。



「そうだね。璃青さんがここで迎える初めての冬だね」

「はい」



 そう言われて妙に照れてしまったけれど、杜さんも柔らかく笑ってくれた。

 色々あったけど、来年の今頃もここにこうしていられるといいな。来年のわたしも透くんと一緒にいられるかな。


 杜さんがわたしにグラスを差し出す。



「璃青さん、外は寒かったでしょう。ホットカクテルどうぞ」

「わ、暖まりそう。ありがとうございます、いただきます」



 一口飲んで、忙しそうに動き回る透くんを目で追った。恋人になった透くんだけど、お店モードの彼にも未だにドキドキしてしまう。それどころか“恋人”という響きにもまだまだ慣れることができずにいるけれど。


 ここで顔を赤くしているのがバレたらもう酔ったのかと思われるかな。透くんの仕事姿に萌えました、なんて言ったら引かれてしまうかしら。



 二人でトッピングを考えたポテトサラダや、わたしが頑張って作ってみたトリッパのトマト煮込み、後はクリスマスらしいカンパーニュ。うん、牡蠣のお料理よりもクリスマスらしいカラーだから目でも楽しめるのね。ベーコンとトマトの赤に、この緑はピスタチオ?

 どれもワインによく合いそうなお味。


 あの時は二人で作って食べたから美味しいのかな、なんて思ってたけど、澄さんのお料理も、ホッとする温かさでこれはこれでとても美味しい。

 ……幸せだな、わたしって。こうして透くんや杜さん、澄さんに優しく迎えて貰えて。

 この温もりを知ってしまったら、もう一人には戻れないかも。



 そうしてお料理やワインを楽しんでいたけれど、それが嵐の前の静けさだったんだ、って知ったのはそれからすぐの事だった。




 カラン、と軽やかな音が来客を伝え、反射的にドアの方を見ていた。もう営業時間も半分を過ぎている。なのにこの時間帯にしては珍しい、綺麗な女性客が一人。

 店内を暫く見渡し、そして彼女は息を飲むほど美しく笑った。真っ直ぐにこちらにやって来る。一体誰の知り合い?



「透、会いたかった」



 彼女は黒目がちの大きな瞳で一心に透くんを見つめ、彼の身体を抱きしめていた。

 ………どういうこと?



「凜、何しに来たの?」



 “凜”。透くんは何故か若干顔を顰めているようだけど、その呼び方で瞬時に親しい間柄なのだと気付いた。



「決まってるじゃない! 就職祝いを渡しに♪」



 更に輝くように微笑んで透くんを見上げる。

 手提げを受け取った透くんは「ありがとうございます」と照れたように小さく笑った。その笑顔は営業スマイルなんかじゃなかった。



「うーんやはり、カワイイ。そういう素直な表情。嬉しいなら嬉しい顔ちゃんとしないとダメじゃない」 



 頭を撫でられて、少しだけ不快な顔をしているようだけど、その手を振り払うわけでもない。

 女性が当たり前のように杜さんの目の前のカウンター席に座ると、杜さんも相好を崩していた。



「ユキくんはいつでも可愛いよ」

「そうよね! 杜さん久しぶり! 相変わらず、ダンディー♪」

「凜ちゃんもますます綺麗になったね!」

「ありがと! でも透って私にこういった言葉かけてくれないの!

 カワイイとか綺麗だねとかまったくよ! 朝目覚めた時とか、行ってきますのキスの時とか言ってくれてもいいと思わない?」



 わたしの他に、こういう存在の人がいたんだ。久しぶりにこの彼女に再会できるまでの、わたしは繋ぎだったのかな。わたしだけを“好き”という言葉は、あれはみんな嘘だったの?


 杜さんと彼女の会話はまだ続いていた。



「私が愛の籠ったメール出してあげているのに、ユキったらそれに『大丈夫です。ありがとうございました』という素っ気ない感じで一行以上返してくれた事ないのよ!!」

「まあ、凜ちゃんは、ユキくんが数少なくそういう甘えができる相手だから」

「そりゃ私も、そこは分かってるわよ! 透は私の事大好きで、愛してくれているって。でもツンデレだから」



 “愛してる”?わたしにくれた囁きは、全部夢だったのかな。それとも誰にでもそう言うの?



「ツンデレって何だよ、凜と関わると面倒だからそうなるんだろ。用事終わったら、さっさと帰ったら。疲れてるんだろ?」

「それは透が可愛すぎるから悪いの。それに何やかんや言って、心配してくれるところが、本当に優しいんだから」



 そう言うと彼女は透くんにキスをした。透くんは避ける素振りもなかった。“元カノ”そんな言葉が頭をよぎった。

 いつの間にか透くんの口調も変わっている。わたしとはいつも敬語で話すくせに。



「便利の間違いでは? 今日は飲みすぎないでよ!」

「え~思いっきり呑むためにきたのに。今日泊まって良い?」

「いいけど、着替えは?」

「今日帰国してそのままここきたから大丈夫! 荷物実は杜さんの家の前にもう置かせてもらっているんだ~」

「でも、俺の部屋のソファーベッドそこまで寝心地よくないよ! だったら四階の客室の方が」



 ………もういい。ダメだわ、聞いていられない。

 二人はまだ押し問答していたけれど、わたしの耳には既に何も聞こえない。



「すみません、杜さん。お会計お願いします」



 小さな声で言うと杜さんは“もう?”という顔をしていたけれど、わたしの顔色までは見えていないのだろう。

 わたしは上着を持つと、透くん達から隠れるように、そっとお店を後にした。



 あてもなく足早に歩いていた。とうに家を通り過ぎ、いつしかわたしは何かに導かれるように月読神社の入り口にやってきていた。

 街灯も少なく、風はザワザワと森の木々の葉を鳴らす。暗い闇は我に返るとちょっとだけ怖いと感じたけれど、ここは神域。


 ーーー神様、わたしを今だけ隠して下さい。どうか頭を冷やして戻るまで、誰にも見つかりませんように。




 恥ずかしい。わたし、どうして本命の存在に気付けなかったんだろう。そうよね、よく考えたらあんなに出来た人に、ちゃんとした素敵な人がいないわけないのに。

 あの瞳を信じてた。わたしに見せてくれる笑顔が大好きで、あんなに誰かを欲しいと思ったことなどなかった。これからどんな顔をすればいいの?あの人に笑いかける透くんを、わたしは側で見ていられるの?


 オフホワイトのコートの裾が風に舞う。泣くまいとしても、後から後から涙が零れる。心が壊れそう、ってこういうことを言うのかな。

 わたしの中にも、こんな感情が眠っていたのね。



「ーーー璃青さん!!」



 空耳まで聞こえる。重症だわ。わたし、透くんを好き過ぎる。



「璃青さん、こんな所にいた………」



 息を切らし、上着も羽織らずにいる透くんに腕を掴まれて、我に返った。

 どうしてここにいるの。



「風邪を引きますよ。………璃青さん、帰りましょう」

「ーーーや、嫌………っ」



 彼の手を払いのけていた。年上の女がみっともなく泣いているところなんて、見ないで欲しい。



「璃青さん?」

「本命の人がいる人に振り回されるのは嫌なの。透くんこそ、そんな薄着でこんな所にまで来て風邪を引くわよ。早くあの人のところに帰ったら?」



 思ったよりも冷静に言えていた。



「やっぱり誤解しているんですね。あの人は俺の、」

「止めて!もういいから」

「璃青さん、聞いて!」

「大事な人なんでしょう?わたしなんかよりもずっと。ーーーもう、嫌なの。わたしだけが好きで、大好きで、苦しいの………!」



 振りほどくつもりが、突然抱きしめられていた。



「だから俺の話を聞いて!って」

「やだ、離して!」

「離さない!絶対に!!」

「やめ………んんっ!」



 強引に片腕と顎を掴まれて、噛み付くようなキスをされた。こんなの嫌なのに、どうしてわたし、拒めないの。

 激しいキスに頭がクラクラする。息が上がって苦しくて、空いた手で彼の胸を叩いた。



「………っはぁ。……ん、嫌、こんなの、いや……っ」



 キスの短い合間に必死に訴えるけれど、透くんのキスは止まらない。涙がまた溢れているのに、気付いてはくれない。こんなの、彼らしくない。





「………………」



 ようやく唇を離した透くんは、少し興奮した様子で大きく一度深呼吸をした。

 真剣にわたしの顔を見つめると、片腕でまだわたしを抱き寄せたまま、細長く繊細な指がわたしの頰を撫で、涙を拭う。

 その心地良く優しい手に、わたしの心も凪いでいく。瞬きをして静かな気持ちで見つめ返して、その瞳の中に彼の気持ちを探した。


 やがて透くんはわたしを見つめたまま、口を開いた。



「………まず誤解を解かせてください。さっき店にきた女性は私の姉です」

「嘘」

「顔みたら一目瞭然でしょ? 双子って言われてしまう程、姉にそっくりだと言われますよ」

「でも、だって………」

「姉はああいう人なんです。あの態度が璃青さんを傷付けてしまったならすみません」

「…………透くん」

「はい」

「わたしね、怖いの。またこんな事があるかもしれない。本当はいつも頭のどこかでそう思っていたの。あなたはまだ若いし、わたしには勿体ないくらいの人だから」



 見上げると、そこには苦しげに顔を歪めた透くんがいた。



「そんなに俺って信用できませんか?」

「………そうじゃないわ。それはわたしが弱いせいなの。わたしには自信なんて何ひとつないのよ」



 不安に思う気持ちは、彼に届いているかな。



「だったら俺は何度でも言う! 貴女が好きだと、貴女に夢中なんだと!」



 そう言うと同時にまた強く抱きしめられていて、気付いたらその身体は震えていた。


 信じてもいいの?わたしはまだあなたを好きでいてもいいの?

 そんな事を考えながらはたと気付いた。そういえば透くんの身体が冷たい。



「ねぇ透くん、風邪引いちゃう!早く戻って!」

「璃青さんが帰るというまで帰りません! こんな所に一人にしておける訳ないだろ!」

「………分かったわ、ごめんなさい。わたしもちゃんと帰るから。ね、一緒に帰りましょう?」



 これ以上透くんの体温が下がらないように、わたしも腕を背中に回して抱きしめる。

 少し意地を張っているような彼が急に年相応に見えて、そんな透くんを可愛いと思う。



 わたし達はどちらからともなく手を繋ぎ、商店街に向かって歩き出す。けれど早く透くんに暖まって欲しくてわたしの方がつい先に立って手を引くように歩いてしまった。


 今回はわたしの勘違いだったけれど、これからまた似たような誤解やすれ違いはあるのかもしれない。

 心は繋がっていると信じたいけれど、その見えない不安をわたしはどうしても拭いきれずにいる。

 そんな事ばかり考えていたからなのか、お店に着くまでの間、殆ど何も話せなかった。



「すみませんでした」

「え?」

「先ほど無理矢理……キス……してしまって………」

「う、ううん。わたしこそ、誤解してごめんなさい」



 首を振りながら、あのキスを思い出して顔が熱くなった。

 彼は繋いだわたしの手を引いて、さり気なく黒猫に誘う。けれどわたしの身体は頑なにそれを拒んだ。



「待って」

「やはり怒ってますか?………俺の事、嫌いになってしまいましたか?」

「………好きよ。わたしも透くんしかいらないと思ってる。でも、こんな顔でお姉さんに会うのは恥ずかしいの」



 こんな姿をあの綺麗な人に見せられる訳がない。わたし、今きっと酷い顔をしているから。



「そんな気を使うような存在ではないんですが、分かりました。また日を改めて御紹介します」

「はい、お願いします」



 手を繋いだまま、ふと見上げたら唇に、優しいキスが降ってくる。



「透くん、お休みなさい」

「はい、お休みなさい」



 手を離し、空を仰ぐと満天の星が輝き、それはまるでプラネタリウムのようだった。今夜のこの空を一緒に“綺麗だね”と寄り添って見られないことは寂しいけれど、こんな事はこれから何度でも数えきれないほどあって、その都度乗り越えていかなければならない。



 信じていく、って実はとても難しい。もっと強くなりたいけれど、それにはお互いに知らない事が多すぎる。

 二人はまだまだこれからだから。




 店舗二階の居住スペースに戻り、お風呂に入る。湯船に浸かると、さっきまで泣いていた瞼がとても重い。わたしは、ふぅ、とため息をついて今夜の出来事を思い返していた。


 あんなに激しく感情を露わにする彼を初めて見た。これまで穏やかに見えていた彼は、ずっとその内にあの激しさを秘めていたのだろうか。そうだとすればこれから、今よりも深くわたしの領域に踏み込まれてしまうのかもしれない。それが少し怖い。



 彼だけじゃない。

 わたしだってあれほど感情が爆発したことは少なくとも社会人になってからは一度だってない。彼を知っていくうちに、わたしの中に隠れていた感情も次々表れて、最近戸惑うことが増えている。

 でも、今夜の彼のようにわたしも自分の気持ちに素直になって、その気持ちを伝えられるようになれたら。



 真っ直ぐに前を向いて強くあろうとする大人びた彼も、誰に対しても真摯に向き合おうとする彼も、今日みたいな激しい彼も、そして弱さを少しだけ見せてくれた彼も。その全てで“透くん”なんだ、と分かった気がする。これでもわたしの知らないところがまだまだあるのかもしれないけれど。


 信じたい。

 信じて傷つくのはとても怖いけれど、それでも彼に近い場所にいたいと思う。

 彼の隣にいる為に、信じる気持ちと、強い想いを持ち続けていたい。


 



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