プロローグ
ここは中国・妖幻山の中腹部。
地上を護る神々が住む場所として知られ、地元の人間なら誰もが一度は訪れたことのある山である。別に人が立ち入ってはならぬとか、変な伝説があるとか、そんな物は一切ない。ただ神が存在しているというだけの山だ。だが、一つだけ掟があった。それは、人間が妖幻山に住居を構えてはならないという掟で、その掟を破った者はすべからく全ての記憶を失い永遠に山を彷徨い続けることになる。
それさえ守れば、あとは自由。
ピクニックに来ようがキノコを採ろうが、なにしようが勝手なのだ。
だが。
そんな山に住む一組の家族がいた。
一人は二十歳を少し過ぎたくらいの、硬く跳ね上がった髪と大柄な躰が印象的な青年だ。彼は山菜採り用の大きなカゴを背中に背負い、調子外れの歌なんか唄いながら家路についていた。カゴの中には山盛りの山菜と、魚が放り込まれている。
昼も過ぎて腹の虫が治まらない青年・玄堂香は晩ご飯のことを考えてよだれを口の端に滲ませながら軽い足取りで山を越えた。そうして辿り着いたのは、古き良き時代の日本家屋だった―――藁葺屋根に縁側に土間、金だらいに洗濯板、まるで昭和初期の日本家屋である。見た目も古く、築数十年の年季を感じさせる。
「腹が減ったぞぉー、腹ーがぁ。俺はー腹が減ったぞ炒飯・オムライス・カレー・何でも食うぞー。おおーいえー」
調子外れの歌を上機嫌で歌いながら、勢い良く扉を開ける。
バン、という音と共に扉が外れ、香の体に倒れ掛かる。香はきょとんとした顔でそれを見たが、しかし、もう一人の住人はそれを許さない。
「っこぉのばっかもんがぁあああああッッ」
歳は四十半ばか、小柄で背の低い男が飛び出してきて香の頭を下駄の角で殴打する。いい音が山に響き、痛みに香は蹲り、涙目で彼に訴える。
「あう〜、痛いのだぁ」
「ふん、うるさいっ。立付けが悪くなっとるから気をつけろと何べん言わせたら気が済むッ。まったく、猿の方がまだ利口だっ」
「おう。俺、この間な、猿と山菜取りの競争して勝ったぞ。えっへん」
「どあほッ。猿に勝ったぐらいでえばるな、人としてのプライドを持てッ」
「んー、でも一乃介と俺は友達だからなぁ」
「一乃介かエテ乃介か知らんが猿は猿だっ。もういい、お前と話すと頭が痛くなる。とりあえず裏の畑から大根採ってこい、今夜は大根汁じゃ」
「ほーい」
ちぇー、と口先とがらせ子供みたいな顔をして、山菜を担いだままトボトボ去っていく。
そんな孫の背中を見送りながら、男・嘉神は『まったく』と溜息を吐く。
香は嘉神の孫で、今は二人で暮らしている。だがこの香、どう育て方を間違えたのか酷く間が抜けている。天然ボケという言葉はあるが、しかし、その道からも外れて独自の世界をひた走っている感があるのだ。まあ、それでもグレずに育ってくれただけマシと思うべきなのかも知れないが………
☆
香の家では大根の他に茄子やきゅうりも育てている。だが面積を一番多く取っているのが大根で、昔から玄堂家の食生活を支え続けている。季節によっては山で山菜が多く収穫できる事もあるが、それでも毎日必ず大根が食卓に並ぶ。
香は昔、そのことを疑問に思って嘉神に訊ねたことがある。そうすると嘉神、一言だけこう言った。
『美味いから』
なるほどな、と納得する答えだった。
納得したから、別に、もう気にしない。大根が食卓に並ぶことが当り前で、香も大根が好きになった。だから大人になった今でもずーっと大根を食べ続けている。お陰で風邪知らずの健康体を手に入れた、というのは大げさだろうか。
「だーいこん、だーいこん。俺は大根好きなのさー。らららー」
と大根畑に足を踏み入れて、そこで、畑の中央部分になにやらモソモソ動く不信な物体を見つけた。最初は動物かと思ったのだが、スグに違うと判った。それは、人である。ボサボサ頭の大きな男だ。その体は、香に匹敵する程たくましく鍛え上げられている。
香は警戒心も抱かず彼に近づいて、じいっと彼の行動を見た。
ボサボサ頭のその男は、無心で生大根をかじっていた。よほど腹が減っていると見える。
と、男も、香に気づいて、ふと顔を上げた。
「んあ?」
鼻の頭ギリギリまで長い前髪で隠れた、髭面の男だった。年齢すら判らない。ひょっとすると二十代、でも、もしかすると四十代………どちらだろう。
「おう?」
誰だろう。
香は、きょとんとした瞳で彼を見詰める。
男は、焦る様子も怯える様子もなく、長い前髪の隙間から『誰だ?』と言わんばかりの瞳を覗かせた。