風の旅館、フーシャにて
緑豊かな左翅大陸の北山稜、多くの人類や動物が行き交う山には、彼らの道標となる旅館も点在している。
色取り取りの風車で入り口を飾り立てられている宿『フーシャ』もその一つだ。
旅をする者達には、大気の魔女エアライナーの加護があらんことと、この風車が示している。
フーシャを経営するのは一組の、壮年の人間の夫婦。
元冒険者と、元騎士であった二人は引退と同時にこの山間の中腹に一軒の宿を建てた。
数多の旅人の通り道で憩いの宿として、彼らを労ってきた夫婦は、今の閑散期を満喫している。
といっても、旅人はいつ訪れるか知れないので、宿は年中無休の灯りを点していた。
その灯りを見つけた一組の、まだ旅を始めて日の浅い子供達が、向かってきた。
※
山を歩きながらの旅は一長一短だ。春の頃だから恵みはそれなりにあれど、主に天候という脅威がぼくらの足を止める。
春の嵐は雲をよく掻き混ぜ、雨を降らせることが多い。幸い、そんなに暑くも寒くもないし、バケツ水のような豪雨は来なかった。
中継点になる旅人用の山小屋にも丁度良く世話になった。
服や下着が乾く場所もほぼ安全地帯だったし、乾くまでの時間の過ごし方にもリブマリアは文句一つだけ言って後は楽しんでいた。
リブマリアは、貴族の令嬢として10年を生きてきた割には、正反対なアウトドア生活にも適応していた。
元々好奇心が強い子だったけれど、学習したい意欲も高かったから、色んなことにも挑戦しては失敗もして、試行錯誤も辞さなかった。
そうして安全な飲み水の作り方、採っていい果実の区別、動物の見つけ方、狼や猪など猛獣系の対策などを学習していった。
キャンプの仕方も、初心者にしては筋が上手かった。あと数回繰り返せばぼくが作るのと遜色ないテントも作れるだろう。
料理セットは既にマスターしている。焚き火の作り方も飯用の簡素釜土も、ちゃんと出来ていた。
ぼくとは1日交代で、料理をしている。まさか小動物の解体もやれるとは思わなかった。こちらはまだまだ危なっかしいけど。
こんな具合で山伝いの旅を進めて行った。
意外なくらい順調だったのは、前情報(提供者:シーサー&ファスト)通りで治安が良かったのもある。
これまで遭遇した動物の中で警戒したのは狼と、ホーンラビット。それだけだった。
だからリブマリアにじっくりアウトドアの知識を実践と共に授けることが出来たんだと思う。
「そろそろ、この山にある一番大きな道の駅が見つかるかな……」
地図によると、この山岳地帯には道の駅、一軒の宿屋があるようだ。
本来はその山下の村からの道から行く所なんだけど、ぼくらの旅路は山間になっている。
舗装された道路は分かり易い。それまで純粋な森林を掻い潜ってきた足腰にサービスを与えてくれる。
「あ、見て下さい!きっとあそこです!」
リブマリアが指差した先、登山が楽になるように伐採されて視界も開けていた山道のある頂きに、一軒家が。
「今夜はあそこに泊まろう」
丁度良かった。春の遅い日没が迫っていて、おまけにまた雨が訪れていたからだ。
ぬかるんでも旅人の足が取られないよう、石材で出来た道路を、それでもぼくはリブマリアが転ばないよう慎重に踏み歩く。
「まるでペンション……貴族が利用する別荘のようですね」
「そう、見えなくはないかも」
大きさはこないだの冒険者ギルドくらいか?もう暗いし全体はよく分からないが、それくらいありそうな外観だった。
玄関先には、多くの風車がぼくらを迎えているように、雨風によって忙しく回っていた。
入館する前に、念の為と、ぼくはリブマリアにフードを外させた。
リブマリアの肌がちゃんと白いか、耳も触れられたぐらいでは偽物とバレないか。
ここ一週間は動物以外の誰何とは接触しなかった。だがいつ人と遭遇するかもしれないので、リブマリアの変装魔法は毎日かけ続けている。
よし、と確認して、リブマリアも頷いて、入館した。
「いらっしゃいませ!……あらまあ!こんな可愛らしいお客さんが来るとはねぇ!」
開けられた玄関口では、一人の人間の女性がタオルを持っていた。
どうやら彼ら側からはぼくらが此処まで登ってくるのを分かってたらしい。……開けてたからか、しかし中腹とは言え、脇の獣道から来た旅人だと見られてないだろうか?
とりあえず、差し出されたタオルを受け取って、先ずはリブマリアを……と思ったが、彼女は既にタオルを貰って、髪を拭いていた。
ぼくは、顔を覆うように拭いていた。
ふと、視線が二つ向けられている。
方や心配そうに、方や訝しんでいるように。
前者は後者に釣られて、それからぼくのことを気遣おうと何かあぐねいている。
リブマリアに無用な配慮はしてほしくない。
だから、ぼくはフードを取って顔を晒した。
ぼくを見る女性の目は、一瞬だが見開いた。
…………分かっている。リブマリアの容姿を賞賛するのは当たり前のように、ぼくの容姿への反応も当然のものだ。
だが彼女はすぐに気にしないように(反ってそれが気懸かりだと取られるのに)この館内での案内を進めた。
「ロビーは直ぐそこだけど、今、冒険者カードを提示出来ます?…………ありがとう。まあ、10歳なのによく此処まで歩いて来れたのね。えらいねぇ。あなたもまだ本当に若い。ふふ、久しぶりに自分より年下のエルフに出会えたわ」
「えっ……」
「私もう60過ぎているけど、エルフの子達には若く見えるってよく褒められるからね~。だからエルフは好きよ」
「60歳!?とても見えません!綺麗ですね女将さん!」
「うふふ~~ありがとう~」
話を逸らした?ぼく達が提示した冒険者証明書の年齢記載に彼女は食いつく。
人間の平均寿命は80~100歳くらいと聞いている。
ぼくは実物の人間を数えるほどしか見てないけど、比べるにしたら、確かに自己申告された年齢よりずっと若々しく見える。
老化傾向は無くもないが……いや、こちらも疑り深く観察するのはよそう。母曰く、女性は大抵は年齢を気にするものだ。相手から振ったとしてもそれで揶揄ってはいけない。
そこにロビーの奥から男性が現れた。
「よお!憩いの宿フーシャにようこそ!予約なしでも歓迎するぞ!」
女将らしき女性と同年代……60程の人間の男性らしい。
こちらは年相応で白髪で皺も多い、だが体格もよく活力が漲っている山の男って感じだ。
女性は出てきた男の顔を見るなり怒鳴った。だがこちらが怯む程でない、母親が子供に注意をする程度の勢いに似ていた。
「アンタ夕食の仕込みと風呂の火入れもう出来たの!!?」
「もうやったよ母ちゃん!ささ、そこの嬢ちゃんと兄ちゃんも先ずは我がフーシャ自慢の風呂を使いな。うちはこないだの名湯めぐりでも二星を貰った程のオススメで」
「この子ら初見!先ず案内!荷物預かりに部屋のチェック夕餉の準備!……あ、お客様、手続きは入浴後で大丈夫ですからね。大切なものは浴槽前脱衣室にも持って行けますので、とりあえずそれ以外の荷物は此処に置いて下さい。……案内する!」
「……はい」
たぶん、夫なんだろうけど、完全に主導権はこちらの婦人が握っているようだ。
理路整然とした指導と、客側への対応の最適さ。言った通り、ぼくらが必須品を荷物から取り出すまで待ちつつも、預かり用の籠と鍵も用意してくれる。
男もまた接客業者らしく宿の喧伝をするが、婦人の一喝には襟を正していった。
この様子を眺めたリブマリアは何故か笑いを堪えていて頬を引き攣らせていた。
メイド長みたい、と小声が零れていた。
(まさかの完全個室式だったとは……)
先ず風呂と聞いて、大衆銭湯などの露天風呂かと思った。
本日はぼく達以外の客人は泊まっていないと聞いて、それでも焦った。リブマリアの変装魔法を解けざるをえないからだ。
だが案内されたのは一人一部屋の個室。脱衣所と二重の区切りが付けられていた。
浴室は全体が檜で出来ていた。浴槽も一人が使うのに最適な大きさで、温泉はかけ流しで人体を温めるに適した温度を保っている。
身を清める石鹸と垢すり、シャワーヘッドに洗髪用品もあって、そういえば脱衣所にはタオルと浴衣に、洗面台とドライヤー、風呂上り用の化粧一式までも揃っていた。宿屋でここまで完備されているのも珍しい。
いつか読んだ冒険者の回顧録にあった、旅館というものを思い出した。
仕事を終えて泥塗れになった冒険者が、しっかりリフレッシユする為のおもてなしの形。
だから旅人にとって、旅先の宿屋で清潔感を求められる水回りこそ、最高の環境設備の所は信用に値する。
我々旅人や冒険者もマナーを守って、使用したら軽く濯ぐだけでも良いから使用前に近い状態にしておこうと。
実際に石鹸と洗髪剤も使って身を髪を清めてから、浸かった檜の浴槽は、一瞬天に上りかけた。
長い山旅をしてきた足にはとても効いたし、肌も融解してしまいそうだった。
しばらくぶりの、温かな布団のような…………それも最高峰の布地に包まれたような…………。
リンリンリンリン!
耳に鋭く刺さるが、不思議と不快感のない鈴の音に沈みかけた意識が戻ってきた。
(ハッ!?まさか、寝てた!!?)
鈴の鳴り所らしい、点滅している小窓を叩いたり押したりすれば、鈴の音は鳴り止んだ。
「ああ良かった。湯に沈んでいるかと思ったよ」
小窓から旦那の声が聞こえる。ぼくはやはり、うたた寝をしていたようだ。
「すいません。すぐに上がります」
「慌てない。湯舟から急いで出ると湯のぼせって言って、立ち眩みや転ぶ原因になるんだ。水分は取っているか?脱衣所に置いてたお客さん用の水は飲んでた?」
「取ってませんでした……」
「だろうな。旅の初心者にありがちで、山歩き直後の温泉が効き過ぎて脱水状態になっちまうことがあるんだ。シャワーで冷水を浴びるのが先で良い。一旦体を冷やして、ゆっくり動いて、水を飲むんだぞ」
「分かりました……」
ぼくは指示された通りにして、浴室を後にした。取り易い位置にあった飲用水は適度に冷たくて、美味かった。
「そうだ、彼女、ぼくの、連れの子は……?」
「お嬢ちゃんならもうとっくに上がっているよ」
旦那の返事にぼくは仰天した。リブマリアがもう風呂を終えているって?
ぼくは急いで、けれどさっきのように無様にならないよう気を付けて、浴室を軽く掃除してから自分の全身をタオルで拭った。
浴衣の着方は知っててよかった。初心者用ガイドという名の絵入り壁紙もあったけど。どこまで親切な設計なんだと感心した。
「リブマリア!あっ……」
「カジュモルドさん大丈夫ですか?」
「……うん、なんとか……」
廊下の待合用の椅子に座っていたリブマリアは、風呂上りではあるが、変装魔法を掛けたのと遜色のない『変装』をしていた。
今の彼女の顔は首元まで白粉を塗っている。化粧は母のを時々眺める程度の知見しかないが、不自然でない仕上がりだと思う。
首より下は長袖の部屋着でしっかり肌を隠していて、その上に浴衣を着て、手袋を着けている。
あとはエルフ専用の耳当て袋を着ければカモフラージュとして及第点だ。
季節的に少し着込み過ぎではないかと怪しまれるかもだが、かなり接近されなければ、疑われないだろう。
「上流階級では、沐浴後も手袋をしているのは珍しいことではないんですよ」
「そっか……」
「……白粉、化粧の匂いはちょっと、怪しいです。もっと薄く塗れば良かったかな……?」
「うん……まあ、今晩だけだろうし、大丈夫だろ」
たぶん、と言い掛けた口を喉に押し込める。
大丈夫だ。一晩だけだ。
旦那さんに案内された食堂に入る前から、食欲をそそる匂いで腹がよく空いているのを感じてた。
胃が活発化していて、栄養を求めている。風呂の効果かもしれない。
「急ごしらえだけど、苦手な食べ物もあるだろうし、残しても良いからね」
「いえ!全部食べられます!」
「良かった。じゃあいただきます!」
「いただきます」
客人であるぼく達が食卓に着いてから、夫婦も別席で食事に入ったようだ。
ぼく達の食事前の挨拶の作法は、天の恵みに感謝する黙禱形式だ。
いただきます。という感謝の言葉は敢えて音に発しない。……ということは、旦那と女将はもしかして異邦の……いや、今は目の前の夕食に集中しよう。
ほうれん草とトマトのピザ。クリームシチュー。サラダ。そして照り焼きソーセージか。
ありきたりなオードブルかつ野菜中心、シチューに肉が欠片程度なのはエルフに気を使ったからか。
リブマリアには十分な量だけど、ぼくにはちょっと足りなかったかな。
「あら?もう食べ終わったの?」
「カジュモルドさん、急いで食べ過ぎです」
「えっ、いや、普通の早さのはずだが……?」
「……こちらも、食べてどうぞ」
あくまで普通のペースで咀嚼していたんだが、そんなに腹が減ってたのか?
リブマリアがまだ口も付けてないソーセージの皿を勧めてくれた。とりあえず、一本だけ、ゆっくり咀嚼しよう。
「ははっ、やっぱり育ち盛りの男には足りなかったか!まってろ、おかわり持ってくるから」
「え!いや、そこまで……!」
「いいのいいの!宿代は食事込みだし、今は冷蔵庫の中身も余っているんだから」
追加できたのは唐揚げだった。ありがたいくらい美味かった。ピザも肉付きが来ていて、こちらも気が付いたら平らげてしまった。
…………山旅では川魚と山菜、果実中心、オマケで野兎肉だったからか。そんなに肉と粉物に飢えていたのか、自分。
腹が十分に満たされたのは久しぶりかもしれない。
正直、ちょっと食べ過ぎたかも。この後に激しい運動する必要もない、安全な施設内だから、胃の中のモノがゆっくり消化されるのを感じながら、温かい御茶を締めとして一服していた。
隣ではリブマリアが食後のデザートであるアイスクリームをニコニコの笑顔で堪能している。女子の別腹という奴らしい。
「ごちそうさまでした。とても美味しかったです」
「……ごちそうさまでした」
リブマリアが女将と旦那に向けて食事の締め言葉もとい挨拶を発したので、ぼくも後追いで挨拶する。
二人共機嫌よくどういたしまして。と朗らかな笑顔と愛想よい声で返事してくれた。
さて、食事が終わったらやることがある。
「すいません、荷物は何処に預けているんでしたか?」
「ああ、すぐ其処に」
女将が指したのは、荷物籠に置かれてた旅道具一式。
どうやら、ぼくらが泊まる部屋の案内ついでに持っていく予定だったようだ。
探す手間がかからないで助かる。ということでぼくは自分の鞄から地図を取り出した。とっくに片付けられて広くなっている食卓に、一応女将さん達の許可を貰ってから地図を開いた。
「ここが旅の宿フーシャ。今ぼく達はこの辺りに居る。次の目的地は……ここか、ここ、だから明日歩ける分は……」
「ちょっと待て。お前さん達明日もう発つのか?」
「えっ?……そのつもりですが?」
明日からの旅の行程をリブマリアに告げようとしたら、旦那が割って入ってきた。
女将さんも神妙な顔をしている。
「日没ギリギリでフーシャに着くような足、しかもまだ10歳の女の子を連れて、明日はずっと続く雨の中山道を歩くのか?」
「む……」
おそらく、この旦那はぼくらが麓の町から登山してきた者達と思っているんだろう。
ぼくらは山間を何日も旅している。田舎から遠足に来た若者じゃないんだ。
しかし、まだ10歳という、リブマリアの年齢を指摘されて、そう言われれば彼女の体調はどうだろうかと考えてしまう。
「あんたの目的地はどうやらマーサ村のようだな?そこなら朝露の内に出て何事もなければ余裕で日中に着ける。だが本気か?この強雨の勢いは明日には収まらないぞ」
確かに、雨は続いている。今夜から明日中は風も強くなるのも読めた。
ぼく一人なら兎も角、リブマリアは大丈夫だろうか。さっきも、雨でぬかるんだ山道に足を取られそうになっていた。
「……おじさんの意見だが、1日様子を見る為に2泊取った方がいいぞ。ああ勿論、宿泊代は子供料金として割引しておく」
商売が上手い。ただのお人よしでなく、あくまで宿屋の主として連泊を勧めているのだ。
ぼく自身も、この旅に強行軍は計画していない。センタースタンドには冬まで着けばいいんだから。
ちなみに手持ちの路銀は余裕だった。自給自足の生活のおかげで、余り消費する機会がなかったのが今回の功を奏したようだ。
「どうする?リブマリア」
「……明日は休みたいです。……ゆっくりしたい」
やっぱり彼女も連日の野宿に不満は溜まっていたようだ。それはそうだ、まだ10歳の子供で、伯爵令嬢なんだから。時々はちゃんとした施設で心身を休めたいだろう。
「分かった。明日の分も支払います。よろしくお願いします」
ぼくはリブマリアに応じて、それから旦那と女将に向けて頭を下げた。彼らには今夜だけで充分恩恵を貰った気がするが、明日も世話になるだろう。
ただ、油断してはいけない。リブマリアも自覚している筈だ。彼女の正体を、絶対に他人に知られてはいけないことを。
ぼくらが旦那さんに案内された宿泊部屋は、二人には広すぎるスペースだった。
家族向きらしい、畳の居間と外景を見渡せる奥行き付。部屋の玄関脇には個室トイレと洗面台室が別々に設置されていた。
ぼく達は畳に上がる前に、靴は脱いでおくようにと言い付けられた。段差の上に、部屋専用の室内履きも置かれていた。
「ここはニホン式でね。この襖という収納スペースから布団を取り出して、この広い畳の上に広げて寝床を作るんだ」
旦那さんが説明しながら実際に二人分を作ってくれた。
羽毛布団が敷く為のと被る為のに重ねられ、枕も載せて完成である。
リブマリアはその間、初めて触れる畳とやらの感触に感動していた。そのまま寝転がっても気持ち良いぞと旦那さんは笑って勧めたが、育ちの良い彼女はそこまではしゃぐことはしなかった。
後はルームサービスの方法を教えられて、もう就寝時間なので、旦那さんは去る挨拶をする。
「では、おやすみなさい」
「ありがとうございます。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
ぼくらも床に着く挨拶を返して、旦那さんが玄関を丁寧に閉じて行ったのを見送ったら、漸く一息を深く吐いた。
「……じゃあ、もう寝ようか。クタクタだろ?」
「はい。その前に、化粧を落とせなきゃいけませんね」
「ああ、そうか」
白粉を付けたまま寝るのは流石に肌に悪そうだろう。リブマリアは仕切りのない洗面台室に入って蛇口を開いた。
消灯し、布団に包まれたぼく達は、奥行きから聞こえる雨風の音を聴きながら眠りに着く。
環境音だけと物足りないのか、互いの他愛ない雑談を寝惚けるまでしていた。
リブマリアの伯爵邸での暮らしは、旅の合間でもちょくちょく語られる。
端々に聞いても、生みの親の博士はろくでもないことと、育ての親の伯爵に本当に愛されて育てられたんだなということは分かる。
「私、生まれたばかりの頃、赤ちゃんだった頃も結構覚えているんですよ。ハイハイしか出来なかったのは博士曰く3か月で、人の子にしては短すぎるけどゴブリンの子にしては長すぎるって。ただもう首が座ってたので体自体は安定してたと、だからって裸のまま床に置いとくの酷いですよね。飲食だけお世話してあとはほぼ放置で時々観察とお掃除。獣人の赤ちゃんだってオムツくらいは履かせているのに」
傍から聞けばただの虐待である。博士って奴からすればリブマリアは研究用生物でしかないって話ならそれまでだが。
真っ当な人なら激怒するのは当然だ。偶々彼の研究室に訪問したハーフェン伯爵が、裸の赤子が床に寝転がっているのを発見した時の心情が、ぼくにもありありと想像出来る。
「……伯爵様に抱きかかえられて、そのまま赤ちゃん用の浴室に連れられたのが生まれて最初のお風呂でした。5歳になるまでメイド長に洗われていたことも、さっきのお風呂で懐かしいなって思い出しました」
人造の実験生物から人の子として、それも貴族の最高の教育を受けて貰うまでの経緯は、彼女が最良な文明施設からやや過酷な自然環境にもある程度耐えられると示唆しているようだった。
「だから私って、硬い床だったらうつ伏せで寝て、ちゃんとしたお布団と枕なら仰向けで寝た方が楽だと覚えたんですね」
振りしきる雨に、荒ぶる風が加わり、窓を叩いている音になる。
テントじゃなくて良かったと心底思うし、山小屋より安心して寝られた。




