19 アレクという人
夏の光が少し弱まって来た。
昼下がりの避暑地は、湖から吹く風こそ涼しいが、通りはまぶしいほど明るい。
店の軒先に立っていると、白い光が石畳を跳ね返してくる。
その光の中を、賑やかな一団が通り過ぎていった。
笑い声。
高い声。
軽い靴音。
若者たちだ。
肩を寄せて歩き、誰かが冗談を言い、肩をぶつけ合って笑い、別の誰かが大げさに笑う。
未来が当たり前に続くと信じている顔だ。
わたしはその背中を、静かに眺めていた。
――自信に満ちている。
そう思う。
そして、思う。
潰す。
もちろん、文字通りではない。
そんな野蛮なことをするつもりはない。
だが、あの自信。
あの軽さ。
あの「自分たちは正しい」という確信。
それは、いずれ壊れる。
わたしはそれを少し早めるだけだ。
わたしは店の柱にもたれ、腕を組んだ。
ミネルバには言っていない。
いや、言うつもりもない。
彼女は王都に戻った。
婚約式の準備で忙しくしている。
だがわたしは避暑地に残った。
理由は簡単に説明してある。
店の面倒を見るため。
避暑地に家を買うため。いくらなんでもずっと兄の家にお世話になるわけにはいかない。それに、二人きりにもなりたい。
――嘘ではない。
だが、本当でもない。
本当の理由は、別にある。
明日、友人たちと集まる。
夏の終わりの小さな集まりだ。
名目は「夏の名残を楽しむ会」。
実際には、少し違う。
役所で書類と格闘している友人がいる。
あれは真面目すぎる男で、法律の条文と格闘しているときの顔は、まるで戦場の兵士のようだ。
「だったら、手伝え」
と言われた。
わたしは承知した。
もう一人、外交部の友人がある要人を招待したがっている。
だから彼を夜会に招待することも約束した。
表向きは、ただの集まり。
酒と食事と会話。
だが、実際には少しだけ違う。
王都に戻ったら忙しい。
友人の手伝い。
夜会の準備。
そして――
少しだけ、世界を動かす。
ミネルバには言わない。
彼女は、きっと止める。
あるいは、悲しそうな顔をする。
それは見たくない。
だから黙っている。
その代わり、彼女が安心して笑える場所を作る。
わたしのやり方で。
通りはまだ明るい。
夏の光は、まだ終わらない。
友人たちは、重荷をおろしたすっきりした顔で王都へ戻っていった。
◇◆◇◆◇
わたしは店の中を見回す。
棚には、色々なものが並んでいる。
小さな陶器。
ガラスの瓶。
外国の砂糖菓子。
細工の可愛い匙。
布の小物。
避暑地の客は、こういうものを買う。
必要ではない。
だが、欲しくなる。
そんなものばかりだ。
ミネルバは、この店を見て少し不思議そうな顔をしていた。
「どなたかのためですか?」
そう聞かれた。
わたしは笑って答えた。
「暇つぶしだ」
半分は本当だ。
半分は嘘だ。
棚の上の小さなガラス瓶を指で回す。
陽の光が当たると、淡い色が揺れる。
……こういうものが好きなのだ。
可愛いもの。
楽しいもの。
意味がなくても、少し嬉しくなるもの。
人には言わない。
言えば笑われるし、仕事に差し支える。
だから商売を前面に出している。
「店」という形にしてしまえば、誰も不思議に思わない。
わたしは瓶を棚に戻した。
外では、さっきの若者たちの笑い声が遠ざかっていく。
まぶしい夏と軽い未来。
わたしは小さく息を吐いた。
「さて」
◇◆◇◆◇
王都からの手紙が届いたのは、店を閉めたあとのことだった。
避暑地の夕方は早い。湖の光が静かに沈み、昼間の賑わいが嘘のように落ち着く。店の扉を閉め、帳簿を片づけていると、使用人が封筒を差し出した。
「王都からです」
そう言われた瞬間、わたしは誰からの手紙なのかすぐにわかった。
封の色も、紙の質も、見覚えがある。
ミネルバだ。
わたしは思わず少し笑ってしまった。
数日前に別れたばかりなのに、手紙が届くだけでこんなにも嬉しいとは思わなかった。
封を切る。
紙を開く。
そして――思わず息を止めた。
やはり、きれいな字だ。
整っていて、やさしくて、どこか静かな強さがある。
わたしはこの字が好きだった。
最初に見たときから、ずっと。
読み始める。
王都は忙しいこと。
婚約の準備が始まったこと。
招待状の文面を整えていること。
文字を追いながら、自然と情景が浮かぶ。
王都の屋敷。
広げられた紙。
マーガレットが横からのぞきこんでいる様子。
夫人が楽しそうに笑っている姿。
そしてその中心に、ペンを持ったミネルバがいる。
想像するだけで、胸があたたかくなる。
続きを読む。
避暑地で毎日顔を合わせていたせいか、こちらでは少し静かすぎます。
そこを読んだとき、わたしは思わず声を出して笑った。
「それはこちらも同じだ」
誰に言うでもなく、そうつぶやいた。
避暑地は相変わらず穏やかだ。
けれど、どこか足りない。
どこにいても、少し先に彼女がいた。
それが当たり前になっていたらしい。
マーガレットが、次に会ったら新鮮な気持ちで会えるのよ、と言いました。
ほんとうにそうなるでしょうか?
そこまで読んで、わたしはしばらく手紙から目を離した。
新鮮な気持ち。
なるほど。
あの子らしい言葉だ。
そして、ミネルバらしい疑問だ。
わたしは椅子にもたれ、天井を見た。
会えない時間。
それは確かに寂しい。
けれど同時に、気づくこともある。
ミネルバがいないとき、わたしはよく考える。
彼女が笑った顔。
少し困った顔。
驚いた顔。
そして――
藤棚の下でのこと。
あのとき、わたしはひざまずいた。
言葉は自然に出た。
愛している。
毎日この言葉を言いたい。
あれは衝動ではない。
あの瞬間までの、すべての時間がそうさせた。
彼女の手紙を見て、改めて思う。
この人は、わたしの人生に必要な人だ。
ただ一緒にいるだけで、世界が少し穏やかになる。
手紙を最後まで、もう一度読む。
そして丁寧に折り直した。
「さて」
わたしは立ち上がる。
窓を開けると、夜の湖が見えた。
静かな光が広がっている。
「新鮮な気持ち、か」
そうつぶやく。
たぶん、そうなるだろう。
いや。きっと、そうなる。
次に王都で彼女を見るとき。
ドレスを着て、少し照れて、でもちゃんと背筋を伸ばしているだろう。
その姿を見たら――
また同じ言葉を言う気がする。
「綺麗だ」
わたしは苦笑した。
「これは、手紙を書かなければな」
机に戻り、紙を広げてペンを取る。
彼女は今、王都で忙しくしている。
でも、その忙しさの中で、わたしを思い出して手紙を書いた。
ならば、わたしも同じことをしよう。
ペン先を紙に置く。
インクが静かに広がる。
わたしは書き始めた。
ミネルバへ。
避暑地は相変わらず静かです。
そして、あなたがいないので少しだけ退屈です。
書きながら、わたしは小さく笑った。
手紙というものは不思議だ。
離れているのに、距離が縮まる。
彼女がこの手紙を読む頃。
きっとまた、顔を赤くするのだろう。
その様子を想像して、わたしは静かに思った。
早く会いたい。
とても。
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