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春の避暑地で  作者: 朝山 みどり


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18/50

18 王都のミネルバから、避暑地のアレクへ.


王都に戻ってから、屋敷の中が急に忙しくなった。


避暑地では、時間が水のように静かに流れていたのに、王都では人の足音も、馬車の音も、侍女たちの動きも、何もかもが少し速い。朝になると仕立屋が来て、昼には装身具の箱が運ばれ、午後には招待客の名簿が広げられる。


その真ん中に、わたしがいた。


少し前まで、婚約とは重たいものだった。

家と家の話で、当人の気持ちは後からついてくるものだと思っていた。

けれど今は違う。


みんなが忙しそうにしているのに、胸の奥には妙なあたたかさがあった。

これは、わたしのための支度なのだとわかるからだ。


けれど、そのあたたかさの隣には、小さな寂しさもあった。


アレクは避暑地に残っている。

店の面倒を見るためだと聞いて、なるほどと思った。あの人らしい。

避暑地の店は、あの場所に馴染むために少し早く開けたのだし、置いてある品も、そこで過ごす時間ごと売っているような店だった。

きっと最後まで、自分の目で見ていたいのだろう。


わかる。わかるのだけれど。


朝の紅茶を飲むときも、廊下を歩くときも、庭の花を眺めるときも、ふと、青い目を探してしまう。


そのたびに、ああいないのだと気づく。


初めて会った日から、考えてみれば、わたしたちは毎日のように顔を合わせていた。

朝の乗馬に朝食の席。

湖の道と藤棚の下。

どこにいても、少し先にあの人がいて、こちらを見て、穏やかに笑った。


それが急になくなると、思っていたより心もとない。


そのことを、ある日の午後、マーガレットに見抜かれた。


布見本を前にして、夫人と三人で次のドレスの相談をしていたときだ。

わたしが青みのある薄紫の布を手に取ったまま、少しぼんやりしていたらしい。


マーガレットが言う。

「ミネルバ、また叔父様のことを考えてますね」


思わず布を落としかけた。


「そ、そんなことは」


夫人がくすっと笑う。

「顔に書いてあるわよ」


わたしは急に恥ずかしくなって、布見本に視線を落とした。


「そんなに、わかりやすいでしょうか」


「とても」

とマーガレットが元気よく言う。


「でも、いいことです。次に会ったら、新鮮な気持ちで会えるんですもの」


わたしは思わず顔を上げた。


「新鮮な気持ち?」


「ええ」

とマーガレットが得意そうに言う。

「少し会えないと、会ったときに、わぁってなるでしょう」


「わぁって」

とわたしが聞き返すと、夫人がとうとう声を立てて笑った。


「どこで覚えたの、そんなこと」


「本で読みました」

とマーガレットが胸を張る。

「恋人同士は、ちょっと離れていたほうが、次に会った時に好きって気持ちが強くなるんですよ」


「まあ」

と夫人が言う。

「もう、そんな本を読んでいるのね」


わたしは恥ずかしくてたまらなかったけれど、なぜか少しだけ笑ってしまった。


その夜、部屋に戻ってからも、マーガレットの言葉が耳に残っていた。


新鮮な気持ち。


そうかもしれない。

そう思う一方で、こんなふうに人を待つのは初めてだった。


テリウスを待ったことはなかった。

来れば会うし、来なければそれまで。

婚約者とは、そういうものだと思っていた。


けれどアレクは違う。

会えないだけで、今日あった小さな出来事を話したくなる。

仕立屋が持ってきた布の色、夫人が選んだ飾りも、マーガレットの妙に大人びた発言も。

いちいち伝えたくなる。


これは、ずいぶん面倒な感情だと思う。

面倒で、でも、幸福だった。


数日後、招待状の文面を整えるために、わたしは書斎に呼ばれた。


ローハン様が長椅子に座り、夫人がその横で封蝋の色を選び、マーガレットが紙の山をのぞきこんでいる。


「ミネルバ、この書き出しはどうかしら」

と夫人が紙を差し出した。


わたしは受け取って目を通した。

文面は丁寧で、失礼はない。

けれど、どこか固い。


「もう少しだけやわらかくしたみたらどうでしょうか?」

とわたしが言うと、ローハン様が面白そうに目を細めた。


「ほう。見せてくれ」


わたしは机の前に座り、ペンを取った。


紙に触れると、気持ちが落ち着く。

字を書くことは、わたしにとって呼吸に似ている。

静かに形を整えていくうちに、頭の中まで整っていく。


さらさらと書き進めていると、ふいにローハン様が言った。


「アレクに見せたら、悔しがるだろうな」


ペン先が少し止まる。


「どうしてですか」


「君の字が好きだからだ」

とローハン様がさらりと言った。

「商売人のくせに、あれは妙なところで感心しやすい」


夫人が笑う。

「わかるわ。ミネルバが何か書くたびに、すごく嬉しそうだものね」


マーガレットが身を乗り出した。

「叔父様、きっと戻ったら真っ先に招待状を見ると思います」


わたしは何も言えなくなって、ただ紙に視線を落とした。


書きあがったものを差し出すと、三人が一緒に読んでいる。


「ミネルバ、さすがね」

と夫人が言い、二人もうなずいた。


嬉しい。


たったそれだけのことなのに、胸が静かに満ちていく。


わたしが書く字を好きだと言ってくれる人がいる。

わたしが選んだ言葉を、読みたいと思ってくれる人がいる。


昔なら、字は家のためのものだった。

母に言われ、父に言われ、必要だから書くものだった。

けれど今は違う。


わたしの字を見て、喜んでくれる人がいる。


そのことが、たまらなく嬉しかった。


その日の夜、部屋で一人になると、わたしは小さな紙を取り出した。


招待状とは別の、私的な便箋だ。

避暑地で選んだ、少し青みのある白い紙。

それを見ただけで、湖の色を思い出す。


少し迷ってから、ペンを取る。


何を書けばいいのだろう。

婚約者なのだから、手紙を書いてもおかしくはない。

けれど、いざとなると、簡単な一文さえ難しい。


元気ですか。

それでは、あまりにも他人行儀だ。

早くお戻りください。

それでは、あまりにもそのままだ。


ペン先を紙の上で止めたまま、わたしは小さく息を吐いた。


すると、窓の外で風が鳴った。

王都の風なのに、なぜか避暑地の匂いを思い出す。

湖の光。藤の香り。あの店のコーヒーの匂い。


そして、ひざまずいたアレクの顔。


胸がじんわり熱くなる。


わたしはようやく書き始めた。


アレクへ。

王都は忙しく、毎日が少しだけ騒がしいです。

けれど皆さまがよくしてくださるので、わたしは元気です。

婚約式の準備も始まりました。

招待状の文面も整えています。

あなたが戻ったら、見てください。

それから。

避暑地で毎日顔を合わせていたせいか、こちらでは少し静かすぎます。


そこまで書いて、手が止まった。


顔が熱い。

最後の一文は、あまりにも正直だったかもしれない。


けれど、消したくなかった。

だって本当のことだ。

王都は騒がしいのに、あの人がいないだけで、妙なところだけ静かになる。


わたしはそのまま続きを書く。


マーガレットが、次に会ったら新鮮な気持ちで会えるのよ、と言いました。

ほんとうにそうなるでしょうか?

早く、結果を知りたく思います。


書き終えた瞬間、自分で自分に驚いた。


こんな文を書けるようになるなんて。

少し前のわたしなら、考えもしなかった。


封を閉じてから、そっと胸に当てる。


不思議だった。

会えない寂しさは消えないのに、手紙を書いただけで少しだけ近くなる。


もしかしたら、婚約とはこういうものなのかもしれない。


誰かに決められた関係ではなく。

自分で選んで、自分の言葉で結び直していくもの。


蝋燭の灯りが揺れる。

机の上には、昼に選んだ布見本がまだ広がっている。

薄紫。青。やわらかな白。

どれも、わたしが自分で選んだ色だ。


昔のわたしなら、誰かに決めてもらうほうが楽だと思っていた。

けれど今は違う。


待つことも。

選ぶことも。

好きだと思うことも。


少し怖いけれど、ちゃんと自分の人生の中にある。


わたしは封を見つめながら、小さく笑った。


「早く帰って来てください、アレク」


そうつぶやく声は、自分で思っていたよりずっとやさしかった。


いつも読んでいただきありがとうございます!


誤字、脱字を教えていただくのもありがとうございます。

とても助かっております。

楽しんでいただけましたら、ブックマーク・★★★★★をよろしくお願いします。

それからもう一つ、ページの下部にあります、「ポイントを入れて作者を応援しよう」より、ポイントを入れていただけると嬉しいです。


どうぞよろしくお願いいたします。



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