第17話 軽葉 その2
普通にピアノを弾いただけだった。
演奏が悪くて怒られるのなら分かる、でもそうじゃないことはすぐに気が付いた。
教室の子供達がコソコソと、小さな声であちこち話し始めた。
『あれ、アタシが全然できなかったところ……』
『なんでワザワザこの教室に来たの? 私たちに自慢したかったとか?』
『ずっと練習してきたのに、あんなの見せられたらさぁ』
『なんか、やな感じ』
心臓にフォークでも刺されたかと思った。胸が酷く苦しく締めつけられていった。
不安になって声が出なくて、口をパクパクさせながら周りを見回していると、苦笑いの先生が話しかけてきた。
『じょっ、上手だねー軽葉ちゃん。うんうん、うん……』
この人も嫌な雰囲気を出していることを感じ取って、私は教室にいるのが怖くなってきていた。
まだらで、不満げな拍手に私は包まれた。子供ながらに私は、迷惑を掛けてしまったのだと実感してしまったの。
でも何がいけなかったのか、私は何故こんな態度を取られているのか分からなかった。
──人間は善人や悪人だけで分けられるなんてことはない。
大多数の人間はそのどちらでも無くて、大勢の人々の平均と善悪の割合を比較した時に、人は判断される。
ただし、例外がある。それは人間が自然と多数派を選ぶという性質。
善悪に関係なく少数派、またはその個の存在を多数派の人間は避け、蔑み、嘲笑い、嫌い、排そうとする。
人間の中に眠る醜悪さと凶暴性が、多数派という後ろ盾を得て牙を剥く。
少数派の人間がどれほど努力しても、多数派は理解しようとする所か更に下へと突き落としてくる。
だから私はどんなに変わってもこの人達には受け入れてもらえないんだと、その真実の片鱗を悟ってしまった。
私はこの時から、人が怖くなった。
大好きだったピアノは、もう一人でいる時しか楽しくなかった。どれだけ頑張って弾いても人の目が刺さり、かといって弾かない選択肢はなかったの。
『またあの子……』
『ヤなかんじー』
同い年の子供は皆、そう言って私を遠くから睨んでた。
ピアノの先生も何故か、私のことが嫌いだったみたい。最初から私が少し弾けていたのが、先生は気に入らなかったのかも。
習い事は私に無理矢理でもやらせるためにお金を払ってたから、授業自体は受けられた。
でも私だけ先生から何も言われなかったり、無視されることもあって。
何より──
『生意気』
背筋が凍るような声でいつも、そう耳元で先生に囁かれるのが一番嫌だった。
心を傷つけられ続けて、人を恐れるようになって、何時からか私は吃音症になって、言葉が詰まるようになったの。
人が怖かった、それもあって私は会話をすることが出来なくなってた。
小学校に上がってから、それは私にとって一番の障壁に変わったのね。
『アイツなんでいつも一人なの?』
『話しかけてもちゃんと答えないしムカつく』
『うわっ、変なの』
『あたま病気なんじゃないのー』
『でもさぁ、いっつもテストは百点なんだよ。なんなの』
『あんなやつ無視しようぜ』
小学校の六年間は、ひたすらに孤独だった。
友達は当然いなかったし、楽しいことなんて探しても、本当に本当に一つもない。
いつもみんなは私を無視して目も合わさない。
たまに上靴を捨てられたり、机の中を汚された時だけ周りは私を見て嘲笑ってた。
終わりのない孤独感と閉塞感。それが徐々に心を蝕んで腐敗させた。
勉強で良い成績を取ると疎まれる。それが嫌でわざと悪い成績になろうものなら、両親にこっぴどく叱られる。
私の人生に、正解は用意されなかった。
中学校なんて、付近の何ヶ所かの小学校から上がってきた子供が集められるだけ。
今まで通り馴染めなくて、話しかけることも出来なかった。
小学校の同級生達が私のことを色々言ってから、他の人達も私を避けていった。
そんな日々を送ってたある日ね、私、ふと思っちゃったんだ。
『あっ、もう良いや』
次の日から、私は不登校になった。部屋から一歩も出ず、部屋の中でも何もせずにずっと。
小さくなって部屋の隅に留まってたかった。
最初の頃の両親は私を怒って、なんとか学校に通わせようとしたけど、あの人達はすぐに諦めた。
世間体を気にする両親に、そんな事なんて出来るはずないって、私はこの時から薄々と感じてたの。
白い部屋の中、私は時間の感覚もなくなるぐらい同じ景色を眺めながら篭った。
何日も同じ服を着て、汚くなったらタンスの服を取り出して着替えた。髪は部屋の文房具のハサミで大雑把に切った。
両親のいない時間を見計らって、トイレとお風呂代わりの蒸しタオルでの体拭きを済ませた。
食事だけはお母さんが作って部屋の前に置いててくれたけど、冷えた残り物を適当な皿に乗せてあっただけ。
この時は、感情が何も起きなかった。死体みたいに転がって、残酷に時間が経っていった。
私が不登校になってから一年半のある夜、両親は夫婦喧嘩をしていた。
母が聞いた事のないような声で、ヒステリックになっていたのは、今でも耳にこびり付いてる。
『なんでこんなっ……こんなこと、こんなことッ!』
『喚くな! 今更後悔しても、もう遅過ぎるだろう』
『どうすれば良かったの? あんなのを外に出したら近所から白い目で見られる。なら家から出さない方が良いと思ったのよ』
皿が何枚も割れる音。激しく飛び交う大人達の怒号。床が軋むほどの荒々しい足音。
その時ドアにもたれかかってた私は、何も考えないまま二人の会話を盗み聞きしていたの。
鼓膜を突く甲高い悲鳴が響いた後、泣き叫ぶ母の声が鮮明に聞こえてきた。
『不妊治療でせっかく子供を授かれたのに、あんな……』
ここまで堕落してガラクタになった骸同然の私だったけど、まだこの時は心が残ってた。でも遂に、私は実の母の口から聞いてしまったの。
私に向けられた、怒りと憎悪の言葉を。
『あんな愚図になるなんて!!』
母の一言で呼吸が止まった。胸の中にまだあった何かが、塵も残さず崩れ落ちた。
『だから私はあの時言ったんだ。まだ小さい内に施設へ入れて別の養子を貰う方が、後々に恥をかかずに済むと』
苛立った父の声が私の全てを踏み躙る。私の人生や存在みたいなものが、何もかも否定された。
両親は初めから私を『軽葉』という人間ではなく、子供という名の見栄の為の道具としてしか見てなかった。
心の何処かで抱いてた淡い希望が打ち砕かれて、私の中に残ったのはただの無慈悲な現実。
この世界で私を愛してくれた人はいなかった。私は孤独の中でしか生きられない存在。
十四年の時間を過ごして得たのは、果てしない孤独と夢見てた虚像。
この瞬間、私はもう生きている意味を無くした。
悲しいだとか、死にたいだとか、もうそんな気持ちも追いついて来なかった。
逃げたい、こんな所に居たくない。辛い思いしか私にくれないこの世界から早くいなくなりたい。
そういう気持ちで一杯だった。
一年半ぶりに扉を開けて、喚いている両親に見向きもせず私は外へ出た。
運動不足でやせ細った足は痛み、長いこと怠けさせていた肺は激しく波打って呼吸を乱す。
泣きながら走ったよ。終わりにしたいって思ったら、寧ろ足取りが軽くなっていったの。
ここに居る事を私の体までが否定してるみたいで、辛かったなぁ。
それでも暗い夜道を駆けて、私は目的地に辿り着いた。
不気味な音を鳴らして赤く点滅する踏切、レールから響いてくる電車の走る音。
最期の最期でようやく、私は安息を迎えられるって思った。
一気に身体は軽くなって、空を飛ぶみたいに安全バーの前まで進めたの。
けたたましい電車のクラクションすら耳には入らなかった。
人生で一番、心が安らかだったの。死ぬことなんて怖くないぐらい、これまでがしんどかったから。
もう終わるんだっていう安心感で、頬の筋肉が緩んだ。自然と笑えたその時に、ちょうど流れ星が見えたの。
「おめでとう」って、言ったみたいに。
流した涙で歪んだ視界が少しだけ晴れたその時、私の右半身にほんの一瞬だけ鈍い痛みが走った。
そして私は、死んだよ。これが転生する前の、私の物語……
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落ち着いた声音になった軽葉は、これまで歩んだ自身の物語を話終える。
「ご、ごめんね。こんなつまらない話しちゃって」
「ううん、ううん……!」
胸の中身を抉られたように、酷く傷んだ。目の前の少女の人生の、あまりに惨い全てを聞いて、声が出なかった。
彼女が初対面の時の私を恐れたのも、彼女自身の過小評価も、いつも詰まっている声も、些細な事で謝罪をするのも、彼女の行動の全てが繋がる。
彼女が語っている時でさえ、その特徴は現れていた。
あれほど上手いピアノも彼女は「少し出来た」としか言っていない。哀しいほどの、自己肯定感の低さ。
言葉の端々で、未だに自分を追い詰めるような事を言ってる自覚がないようだった。
でも何より見ていられないのが、彼女の安らかな表情だった。
軽葉が先程流していた涙は話が進むに連れて収まり、語り手として私に教えてくれていた時には1度も吃ることは無かった。
こんな悲惨なことを思い出しても、彼女はそんな苦しみ達から解放されている今が安らぎなんだと、嫌でも分かってしまう。
前世の不幸を振り返って安寧を噛み締める様は、尋常なことではない。
そんな生い立ちを語った不幸だった少女を前に、私は自分の無力さと不器用さを恨んだ。
涙を拭い、私は軽葉を強く抱き締める。
「わっ! か、奏ちゃん!?」
「ごめん。これぐらいしか、出来なくて」
小さく今にも折れてしまいそうな軽葉の身体をそっと包み込む。ふわっと香った髪の匂いが鼻腔をくすぐる。
再び込み上げてくる涙を抑えながら、私は友人に精一杯の愛を込めた言葉をかけた。
「何があっても、私は軽葉の、軽葉の味方だから。絶対に裏切らないよ」
「ありがとう、奏ちゃん。私の、お友達……」
乱れた息の混じる声で、私はそっと囁く。
「私も、同じだからね……」
私達の火の勢いが徐々に収まってきていた時、近くの雑草がガサガサと揺れる音がした。
同時に明らかに人のものと思われる吐息と、柔らかな土を踏みしめる足音も響いた。
「だっ、誰!?」
別の火の明かりが寄って来ていた。
警戒心を刺激された私は軽葉の前に立ち、丸太に立てかけていた銀の剣を構える。でも剣先は震えてまともな姿勢ではない。
辺りの闇のせいで恐怖心が高まっていたが、その気持ちは穏やかな低い声によって掻き消された。
「こんな所に……結界に異常があったと思ったら、子供だけじゃないか」
草むらから一人、火の灯ったランタンを持つ中年の男性が現れた。
緑の外套を纏った彼は、私達と顔を突合せて目を見開いている。




