7月29日 その④
視界の端で、鮮血が舞う。
それを横目に、愛香は自分が担当していない戦場の結末を察する。
──栄は、歌穂に敗北した。
愛香は、李徴の方を一瞥する。その巨体からは考えられない軽い身のこなしに苦戦を強いられていたが、それでも愛香は無傷を貫いている。
「──たわけ」
愛香は嘆息と共にそう口にして、戦闘の続行と栄の救出を天秤にかける。
論理的に考えるのであれば、このままいつまで続くかわからない尻尾取りを続けるよりも、一秒が未来を左右する栄の救出に動くべきだろう。
感情で考えるのであれば──、栄に死んでほしくない。そう思うのが、愛香の本心だった。
「潮時だな」
愛香がそう口にすると、前方から突進してくる李徴を闘牛士のようにヒラリと躱す。そして、白虎と化した歌穂に腹を掻っ捌かれている栄の救出に動いた。
致命傷だ。だが、まだ死んでいない。死なせない。
愛香は、歌穂に対してタックルしてその体の重心をずらす。転びそうになった歌穂の足をつかんで、そのまま後ろから迫っていた李徴に投げ飛ばす。
──今、尻尾をつかめれば歌穂を人に戻せただろうか。
一瞬、愛香は脳内でそんなことを考えるけれども、歌穂を人に戻してしまったら、愛香が背負って逃げる人が2人になってしまう。そうなると、流石の愛香でも李徴から逃げられるか──と問われて自信がない。
「──妾ならそれでも完璧にこなしてしまうのだろうがな」
念には念を、だ。一度、歌穂の救出は見送る。きっと、栄であれば無理をしてでも歌穂を助けに行くだろう。その際に協力を惜しまなければいい──愛香はそう覚悟を決めて、怪我を負った栄を方に背負う。
栄の腹部に爪が立てられていたようで、深い裂傷ができている。
内臓が漏れ出ることはないが、それでも痛々しい傷は見るに堪えない。失神しているから、大声で騒がないことだけが唯一の救いだろう。
──保健室に連れて行けば治してもらえるだろうか。
マス美先生が七不思議の途中で動いてくれるかは、愛香にも判別しかねる。マスコット大先生を筆頭に、デスゲーム運営陣は傍から見れば気分屋なところがあるので、断られる可能性は十分にあった。
もし断られたら、皇斗と手を組んで応急処置だけでもするか──などと、先行く未来を考えながら、愛香は罠の露わになった校庭を進む。
そのすぐ後ろを、歌穂と李徴の2人が追ってきていた。
「──虎に追われるとはな。牛になったようで不快だ」
そうなると、背中で失神している栄はネズミだろうか。
──と、牛歩だとは思えないようなスピードで愛香は、ところどころに落とし穴の用意されている校庭を落ちないように駆ける。
落とし穴の中には針や粘着床などの、この状況で落ちればひとたまりもなさそうな罠が敷かれていた。
「──」
愛香は、栄を背負ったまま全力疾走しているけれども息を切らす様子はない。後方を走る2頭の虎も、愛香に付いてきていた。
虎の瞬間最高時速は80kmとも言われているが、まだ虎になったばかりでその体の本領出来ていないのかもしれない。その点で、愛香は助かったと思う。流石の愛香でも、時速80kmでは走ることはできない。
だが、その一方で少しずつ愛香と2頭の距離が縮まっているのも事実だった。
これは、愛香のスピードが劣っているのではなく地形が原因だろう。だからこそ、愛香はどうすれば2人で逃げ切れるかを思案する。そして──
「──妾は李徴を信じている。そういうことにすれば、問題ない」
愛香はそう口にして、地面を踏みしめて空中に大きく跳びあがる。ふわりと愛香の長い金髪が舞い上がり、それめがけて2頭も飛び上がった。
流し目で虎の方を見据える愛香は、一種の美人画のようだ。彼女は、美人画には描かなかったような表情──企みが上手く行ったと言わんばかりの笑みを浮かべる。
それを見て、虎と化した李徴と歌穂の2人は何を思っただろうか。
歌穂の一馬身ならぬ一虎身先を走っていた李徴は虎となった今でも表情豊かに驚きを表現する。
だが、もう空中に飛びあがってしまったのだからもう戻ることはできない。愛香の権謀術数にものの見事にハマった李徴は、その顔面に愛香の足がめり込み──
「グルァ!」
そのまま、剣山の上へと落下する。黄と黒の毛並みの内側から、赤が追加されて周囲に撒き散らす。
腹を見せびらかして情けなく脚を動かしている李徴を見下しながら、愛香は足場に着地する。
一瞬遅れて、愛香の着地した場所へと白虎と化した歌穂が迫るけれども、その頃にはもう愛香は動き出していた。
──そのまま、栄を背負った愛香は罠だらけの校庭を駆け抜けて校舎前に到達する。
後方には歌穂がいるが、飛び込んできても回避できるだけの距離は存在していた。だから、大丈夫だ。栄を死なせずにこの鏡の国から抜け出せる──
──ドン。
歌穂が、何かに衝突するような音が聞こえると同時、愛香の頭上に影がかかる。
「──馬鹿虎め。小賢しいッ!」
人が体当たりしてもビクともしないであろう下駄箱を、歌穂はその巨体を活かして倒して来たのだ。
愛香は、頭上から降ってくる下駄箱を抑える手段を、手を残していない。だから──、
「面倒だ」
愛香はそう口にして、背中に背負っていた栄を投げて全身鏡を経由させて鏡の世界から一足先に脱出させる。水中に沈みこむように、波紋を広げて栄が消えていった鏡面を眺めながら少し満足そうな表所を浮かべ、愛香は下駄箱に押しつぶされた。





