プロ野球選手との淡い恋55
そよが自宅アパートに向かって歩いていると、突然、黒塗りの車が近づいて来た。
磨き上げられた黒塗り、見たことも無い高級車が、そよの行手を塞ぐように止まった。
サスペンス映画みたいだが、これは、危険だとそよの中でサイレンが険しく鳴る。
逃げた方がいいに違いない。
そよが走り出そうとすると、後部座席の窓が開き声が聞こえた。
「そよちゃん」
聞き覚えのある声に、思わず足を止めて車の窓の方を振り返った。
「稲村さん?」
後部座席から顔を出したのは稲村だった。
「そうじゃ。早く乗りなさい」
助手席から身体の厳つい、スーツ姿の男が降りて来てドアをあけた。
やたら広い車内に、柔らかい革張りのシート。
そよは言われるままに乗り込んだ。
「どうしたんですか?こんな所で」
「そよちゃんを待っておったんじゃ」
「私をですか?」
稲村は楽しそうに笑う。
「そよちゃんは相変わらずじゃな。そこがいい」
言葉の意味が分からなくて、不思議そうにそよは稲村を見つめた。
「アパートの近くに、週刊誌の記者が張っていたぞ。のこのこ写真を撮らせてあげる所じゃった。しかし、あの野球小僧は、そよちゃんをこんな危険な目に合わせるとは許せん」
「光田さんは、何も悪くありません」
稲村は大袈裟に驚いた。
「なんと!そよちゃんはあれをかばうのか。あれは、他にも女がいるらしいじゃないか。なんでも、女優と一般人と二股の挙句に、一般人は捨てたと。おっと、そよちゃんのことか!これは傷心のところ、失礼」
白々しく稲村はニヤニヤしながら、深く頭を下げた。
「稲村さん、あ、会長。違うんです。あれは、週刊誌が勝手に書き立ててるだけで、女優さんと光田さんは何もないんです」
「それじゃ、そよちゃんとは何かあるのか?」
そよはムキになった自分が恥ずかしくなって俯いたから、稲村はそれはそれは楽しそうに快活に笑った。
暫く笑っていた稲村が、「そうじゃ」とたった今思い出したように呟いた。
「そよちゃんに人事異動が出ていたぞ」
「私に、ですか?」
「さよう。なんでも、秘書課に異動だそうだ。明日から」
そよは驚きで頭が回らない。
「秘書課ですか?私が?」
「そうじゃ。それで、わしは明日から出張に行く。なに、短期出張だ。そよちゃんにも同行してもらう」
「会長、私が一緒に行くのですか?」
「そうじゃ。そよちゃんは会長秘書なんだから、当たり前じゃろ」
「あまりにも急なもので。それじゃ、荷物を」
稲村はそよの言葉を遮り、続けた。
「週刊誌の記者が潜むアパートに戻っても、仕方がなかろう。気分転換にもいい。ほら、行くぞ」
呆気にとられているうちに、車は空港に着いた。
ロビーでは数人の幹部社員や秘書室長の国見が自家用ジェットに乗り込む準備をしていた。
お手洗いに行くと言って席を外し、光田に電話をかけた。
携帯を見ると、光田からメールが届いていた。
「今どこにいますか?心配してる」
すぐに電話をかけたが、光田は電話に出ない。
そよは慌てて伝言を残した。
「悠也さん、そよです。たくさんお話ししたかったけど、急に仕事になってしまって。短期の出張なんだけど、今、空港で遠くみたい。稲村会長とか、他に沢山の人と一緒だから心配しないで。また、かけます」
ちょうど伝言を終えると、外から国見の声がした。
「佐野さん、もう時間です」
「はい!」
そよは携帯電話を鞄にしまうと、稲村たちの後を追いかけ、ジェットに乗り込んだ。




