プロ野球選手との淡い恋29
そよは稲村の会社でお世話になることを決めた。
稲村は誰もが知っている大きな会社の会長で、それもまた驚きだったが、それが理由ではない。
病院での仕事も充実していた。
けれど、自分を必要としてくれた稲村の気持ちが嬉しかった。
そよは名刺を受け取った次の日に稲村に連絡をし、お世話になりたいとお願いした。
病院の上司に当たる階婦長に退職を伝えた。
すでに院長には稲村から正式にそよを引き抜き連絡を受けていたようで、わざわざそよを院長室に呼び、とても喜んでいる、頑張ってほしいとそれはそれは激励された。
稲村があのイナケンの会長であることは、すぐにバックヤードの話題を独占した。
そして、そよの転職話はサクセスストーリーとして、羨望と嫉妬、色んなものを混ぜながら内々に話が広がっていった。
そよが病院を去ったのは、光田が復帰戦が決まり御礼に来た2日前のことだった。
稲村の会社に入社して以来、そよは稲村と一度も会っていないが、一度だけ電話があった。
「そよちゃん、元気にやっとるようだな」
「ありがとうございます」
「ところで昨日、見たかい?」
「何をですか?」
「野球小僧の復帰試合じゃよ」
光田のことだと、そよは気づいた。
「見ました。素晴らしかったです」
「連絡してみたかい?」
きっと、稲村は自分が渡したメモのことを気にしているのだ。
間に入ってくれた稲村にメールを送ったことを伝える必要はある。けれど、内田菜々のことが頭にあり、送りましたと軽々しく答えるのも悩ましかったが、
「昨日、メールを送りました。これからも応援していますと送りました」と素直に伝えた。
稲村はただ「ふーん」と何とも気のない返事をしてから「ま、がんばれ」と言って電話が切れた。
入社するなり、その稲村を元気にした笑顔でそよの存在はすぐに知られるようになった。
そよに近づこうとする者もいた。
しかし、そよの部署の部長は稲村から密命を受けていた。
そよは稲村の親戚だから、変なものが寄って来たら追い払うと言う大役を直々に賜わった。
部長は色々と睨みを効かせたが、誰も事情を知らないから、部長が変だと噂した。
そよが仕事終わり帰ろうとした時、隣の席の川島由里子が声をかけてきた。
「佐野さん、来週の水曜日時間ある?」
「はい、空いてます」
由里子はよかったと微笑んだ。
「隣の部の真里さんと、上田くん、吉沢くんと仕事帰りに軽くご飯に行こうって話があって。よかったら、佐野さんも一緒に行かない?」
そよは誘われたことが嬉しくて、「行きます!」と元気に答えた。




