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一緒にいたい。
初めてその言葉を口にした気がする。
彼を失いたくは無い。出来る事なら傍にいたい。
だけど心の中のもう一人の存在を消せなくて、一緒にいることも躊躇われる。
一度手に入れてしまった彼の温もり。それを手放すなんて、とても出来やしない。
手を伸ばして彼の胸元にもたれかかる。
トクントクンと聞こえる規則正しい音。心地よくて目を閉じる。
「俺と別れるか、それとも俺と一緒に行くか。今選んで」
心音を聞いていた私に突然の宣告。
顔を上げて彼の顔を見ると、その眉間には皺が寄っている。
視線が絡み、彼の手が頬に触れる。
「どうしたい?」
心を鷲づかみにするような甘い優しい声なのに、彼の顔は苦悩に満ちている。
「一緒に行くって?」
問いかけた声が掠れる。
ドキドキと大きな音を立てている鼓動。冷たい指先。
二人きりのこの空間が、今はとても重苦しい。
「言葉通りだよ」
彼の手がすーっと頬から首へと移動して、服の中に隠れた銀色の鎖に辿り着く。
鎖の先につく石が彼の指によって撫でられる。
彼の指先にちょこんと乗った青い石を見つめていると、その石に彼が口付けする。視線は私を見たままで。
「ゆっくり待つつもりだったんだけどね。色々こっちの状況も変わったんだ」
状況が変わった?
「だから今選んで欲しい。無理を言っている事はわかっている」
彼の手首に、私の石の半身である青い石が光っているのが見える。
一つの石を二つに分けて、別々に持つ二つの石が一つに戻れるように、ずっと一緒にいられるようにと願いを籠めて身に着ける。
この国で今流行っている恋のおまじない。
彼が私にくれた、青い石。
これを私にくれたのは、もうずっとずっと前の事。
「俺の意思は伝わっていると思うけど、もう一度言っておこうか?」
知ってる。
首を左右に振って、彼の手首に光る石に触れる。
この石を、彼はどんな気持ちで私にくれたのだろう。ううん、それも本当はちゃんとわかっている。
だけどどうしてもあと一歩が踏み出せない。
「今選べなかったら?」
「それは必然的にNOとみなすよ。もう、お前には会いに来ない」
苦笑を浮かべて言う彼の手を掴む。
「もう会えなくなるなんて嫌」
「だけど、その後にでもって付くんだろ? ごめんな。でもが付くならもう会えない。俺はお前に会いに来られるのはこれが最後だ」
「最後?」
「ああ。もうこうやって会うことは出来ないよ」
ちゅっと音を立てて、彼が軽く唇を重ねる。
「それでもお前は構わない?」
情けないけれど、そこまで言われても決心が付かない。
彼に会えなくなるのは嫌。でも何もかもかなぐり捨てて彼の横に立つことも出来ない。
どうしてダメなんだろう。一緒にいたいのに、一緒にいたくない。
涙がこみ上げてきそうだったけれど、ぐっと唇を噛んで耐える。
よっぽど情けない顔をしていたのか、彼がポンポンと頭を撫でるように叩く。
「一晩考えて。俺は他の村の視察にも行かなきゃいけないから。明日の朝までに答えを出しておいて」
深く頷き返して彼の瞳を覗きこむと、ふっと鼻で笑う。
「情けない顔。俺が好きになった女は、自分の手で自分の運命を切り開くような強さを持った女だったはずだけどな」
首を傾げると彼の顔が近付いてきて、ピンとおでこを指で弾かれる。
「いったー」
そんなに強くないけれど、それなりには痛くて声を上げるとクスクスと彼が笑う。
涙が瞳から零れるから、ごしごしと袖で涙を拭くと面白そうな顔をしている。
「笑い事じゃないわよ。痛かったんだから」
何が楽しかったのか、嬉しそうに笑っている。
「そうやって俺にぶつかってこいよ。困らせている俺が言うのもなんだけど、あんまり情けない顔ばっかりしてると不細工になるぞ」
「不細工って。そんな事言うなら困らせないでよ」
口を尖らせて抗議しているのに、彼は心底楽しそうだ。
「好きだけで何もかも捨てられるほど、私だって能天気じゃないんだからっ」
「そうか? アイツとなら全て捨てていけたじゃないか。それが出来ないのは、アイツよりも俺の事は好きじゃないから?」
さらりと言って苦笑いを浮かべているけれど、ぐさりと私の心には何かが突き刺さる。
自分に与えられた職務も全て放棄して、たった一人の手を取って逃げた数ヶ月。
どうしてもあの人が欲しくて、それしか手に入れる方法が無かったような気がして、とんでもないことをやらかした。
たった数ヶ月間だけの、あの人と私の幸福な夢のような時間。
一緒にいたいからっていうだけで、何もかも失ってもいいと思えたあの頃。
彼は、その事を言っている。
そしてどうして自分とはそれが出来ないのかと、言外に責めているんだろう。
あの時のように全てを捨てて、彼だけを選ぶ事が出来るのかと問われている。
否定しなければ、彼よりもあの人のほうが好きなんだろうと判断されてしまう。
「そういう事じゃないよ。あの人のほうが好きだからとか、あなたの方が好きだからとかっていうんじゃなくて」
「じゃあどうして?」
そう彼が聞きたくなるのもわかる。私が逆の立場なら、やはり同じように聞くだろう。
ただ問いに対する明確な答えも持っていない。
あの人よりも彼のほうが好きって言い切れるだけの強い恋心が無い。けれど、ものすごく失いたくないという気持ちが強い。
「どちらが好きとかじゃない。私はあの時あの人を欲しかったの」
「うん。で、今は?」
「手放したくない。無くしてしまうのは嫌」
彼の首に両手を回し抱きつく。
今自分の全身で感じる彼の温もりをなくしてしまうのが怖い。
二度と会えないなんて、耐えられない。
「そっか」
ポンポンと背中を軽く叩かれ、しばらくすると彼が離れていく。
「これが最後か、それともこれからも続けるのか。お前の答えを待ってるよ」
「うん」
ソファから立ち上がって、彼がその表情を王子様のそれに戻す。
もう甘い笑みも言葉も無く、そこには他者を寄せ付けないような笑顔があるだけ。
部屋を出ようとする彼に掛ける言葉も無い。
教えられた礼儀作法に沿って、彼に頭を下げる。
ドアノブを回すカチャという音が胸に刺さり、ちくりと痛む。
「ああそうだ。忘れ物」
忘れ物?
ぱっと顔を上げると、目の前に彼が立っている。
ふわっとその腕に抱きしめられ、耳元に吐息が掛かる。彼がいつもつけている香水の香りに包まれ、心が満たされていく。
「一緒にいて欲しい。好きだよ」
囁く彼のほうに顔を向けると、唇がゆっくりと重なる。
優しくて頭が蕩けちゃいそうなくらい甘いキス。
何度も何度も唇を重ね、その合間に彼が囁く。
「俺の事好き?」
きゅんと胸が締め付けられる。
「すき。すごく好き」
吐息交じりに答えると、またキスの波に攫われていく。この時間が永遠に続けばいいのに。
「で、あんたどうするの?」
親友の家に呼ばれ、今日は一緒に夕食をとる約束をしていた。
テーブルに並ぶ食事を口に運ぶよりも先に、親友が問いかけてくる。
旦那さんが呆れたような顔をしている。
「とりあえず食べてからにしたらどうだ」
溜息をつき、親友は食事を優先する事にしたようだ。
テーブル一杯に並べられた食事は、あっという間に三人の胃袋に納まっていく。
旦那さんと結婚してから本格的に料理をするようになったと言っていたけれど、すごく美味しくてお腹がはちきれそう。
普段はどちらかというと毒舌を吐く事が多いし、旦那さんに素っ気無い感じで接しているように思えるけれど、本当はとても大切にしているんだなって、こういうところからも伝わってくる。
食事を終えると、旦那さんはそっと席を立って話し合いに加わらないと示すかのように別室に行ってしまう。
片付けられたテーブルの上には、彼女と旦那さんが作っている葡萄を原料にしたワインが何本も置かれている。
これは長い夜になりそうな雰囲気だわ。
彼から今日言われた事を一通り話すと、親友ははーっと溜息をつく。
「で、どうしたいの?」
問われても答えが出ない。あの時答えられなかったように。
目の前のワイングラスに手を伸ばし、口の中を潤す。
「よくわからなくて。今のこの関係をずるずる続けたいのが本音かな」
「ふーん」
親友もワインを口に運ぶ。
「ってことは、あんたは王子様の妾になりたいの?」
思いもかけない言葉に、思わずワインを噴き出しそうになる。
「そんなっ。全然そんなんじゃないよ」
「だって、あんたの言うことはそういう事だよ。表だって彼とは付き合いたくない。こっそりと誰にも知られず、ああ私は知ってるけど、付き合っていくっていう事は、妾か愛人って事じゃないの?」
考えても無かったことで思考が停止して、親友の言葉がどんどん頭の中に水を流し込むように流れ込んでくる。
「王子様だっていつまでも未婚って訳にもいかないだろうから、そろそろ妃を娶るだろうね。だけどあんたはずっと日陰者で終わるんだよ」
妃。日陰者。
ぐるぐると頭の中で言葉が回る。
彼の婚約者である、とてもとても綺麗で上品なある女性の事が頭に浮かぶ。
「仮に彼の子を身ごもったとしても私生児。誰からも祝福されはしない。それどころか会いにさえ来ないかもしれない。あんたが妊娠出産で苦しんでいる時も、育児でてんやわんやの時も」
「あの、子供出来るような事はしたことないけど」
「今はそういう細かい事はどうでもいいの。……あ、まだした事無かったんだ。ごめん。てっきり」
ボンと顔から火が上がる。一気に全身に酔いが回ったかのように熱くなる。
「大事にされてんだね、王子様に」
そうなのかな。大事にしてると、そういう事しないものなの?。
でもそういう雰囲気になったら……。
いやっ。想像がつかない。
「あのさ、そこで百面相しないでくれる? 小娘でもあるまいに。そりゃあの仕事は未婚で処女じゃなくちゃ出来ないってのが条件だからねー。まあ不思議は無いよ」
何と言ったらいいのかわからず口をパクパクしていると、何か納得したかのように親友はうんうんと頷く。
「話が脱線したけど、王子様を他の誰にも取られたくないなら、王子様のところに飛び込んでいくしかないと思うよ。他の女が王子様の横に並んでもいいの?」
「それは嫌」
婚約者の女性と微笑みあっている姿を思い浮かべると、胸がムカムカしてくる。
過去に何度も見た二人の睦まじい光景。
目の前でもう一度それを見たら、多分嫉妬でおかしくなる。
まだ彼とこういう関係になる前だったのに、それでも嫉妬で泣いたり怒ったりしていたのに。
きっと今だったら。
「耐えられない。そんなの」
にやっと親友は笑う。
「なら、王子様を手放さない方法考えたら?」
それはこの中途半端な関係に終止符を打って、彼の横に並べという事だよね。
「でも私なんか彼に相応しくないよ。こんなみすぼらしい村娘なんだよ」
「王子様はそうは思ってないでしょ。首のとこ、大分自己主張してるみたいだよ」
首?
手で首の辺りを撫でるけれど、別段変わったところはないんだけど、何だろう。
「反対。キスマーク、派手についてるよ」
ボンと頭から煙があがった気がする。
いつの間にそんなの付けてたの? 私一日全然気付かずに生活してたんだけど。超恥ずかしい。
「王子様も随分大胆だね。そんなの付けてるからてっきり……」
「あーっ。もうそれ以上言わないで。私一日これでお店出てたんだよー。何してんのよ、もうっ」
両手で両耳を塞いで、親友の言葉を遮る。
恥ずかしさでいてもたってもいられなくなり、ワイングラスに注がれたワインを一気に煽るように飲み干す。
一杯、二杯。
くいくい飲んでいると、親友にグラスを取り上げられる。
「からかって悪かったから。前後不覚になる前に答えだそうよ。あんたは王子様とこれからどうしたいの?」
酔いなのか照れなのかわからないけれど、顔がとても熱い。
そしてお酒の力のせいもあって、いつもより饒舌になってしまう。
「なんかね」
「ん?」
「今はいないあの人の事がまだ心の中にあるから、すごく好きなんだけど全部で100だとしたら、そのうちの何割かはあの人が占めてると思うのね」
親友は相槌を打つだけで、口を挟もうとしない。
「それでも彼のこともとても好きなの。他の誰にも取られたくないし、もう会えなくなるのも嫌なの。でもそんな中途半端なのでいいのかなって思うの。彼のことを100好きになれるまで待ちたいんだけれど、それじゃダメなのかな」
「うーん。まあそういう考えもあるよね」
「でしょっ。だからもうちょっと時間掛けて距離を縮めたいのよ。それなのにどうしてダメなのかな。どうして今決めなきゃいけないのかな」
「王子様にも色々あるんでしょ。縁談を持ちかけられてるとかが有力だとは思うけどね」
縁談。
彼が私以外の誰かと結婚するの?
「今選ばなければ、王子様はあんたの事を捨てて、他の女を愛するようになるんだろうねぇ。あんたにするように愛を囁いたり、キスしたり。それでいいの?」
「……やだ」
「なら王子様と一緒にいたら?」
うーん。それはわかってるんだけれど、でもあの人の事が。
口に出さなかったけれど、親友は呆れたような顔をしている。
「そんなに良かったの? 昔の男。何年も忘れられないくらい」
「んー。良かったとかそういうんじゃないんだけど。生まれ変わったら、今度はずっと一緒にいようねって約束したの。だからあの人の事忘れちゃいけないような気がして」
ふっと鼻で笑われる
なんかおかしなこと言ったかな。
「くっだらなーい。先のわからない未来の約束の為に、今を犠牲にするつもり?」
親友はポンとワインを目の前に差し出して、空になっていた私のグラスに一気にワインを注ぎ込む。
「死んだ後のことでしょ。あんた死んだ後のことのほうが、今より大事なの? だとしたら相当馬鹿だわ。寧ろ今すぐ死んだら? そしたらすぐに会えるんじゃない。昔の男に」
怒らせようとしているんだとわかるけれど、怒る気力も起きないほど正論だ。
先の見えない未来の約束と、今目の前にいる彼の温もりを天秤に掛けて考えてるんだもの。
ワインに一口だけ口をつける。
「ねえ、忘れてもいいのかな。あの人の事」
「忘れる事は無いんじゃない。思い出として大切に持っていたら?」
「そっか。そうだよね」
何かストンと腑に落ちた。
100全部彼の事を好きになったら、もう遠い未来であの人に会えないような気がしていたの。
あの時に約束した気持ちのままでいないと、二度と会えないような気がして、心のどこかで彼を好きになり過ぎないようにって歯止めを掛けていた。
でも、いいんだよね。
彼をすごく好きになったとしても、未来の約束が無くなってしまうわけではないんだよね。
「それに王子様はあんたが大事に大事にその気持ちを取っておいたとしても、それさえも包んでくれるよ。だから全部ぶつけてみたらいいんじゃないの。悶々としてないで」
「あ……それは彼も知ってるから」
「あっそ」
呆れたように苦笑いを浮かべてワイングラスを指で弾く。
「こうやって飲むのもこれが最後かな?」
「どうだろうね。最後にはしたくないなあ。たまには一緒にこうやって飲んで話をしたいよ」
「あたしもよ。だけどあたしはあんたに幸せになって欲しいよ」
「ありがとう」
親友と笑いあい、他愛のない話に終始する。
こうやって何でも話しあえる心地いい場所。けれど彼との人生を選んだら、もう二度とこうやって二人で語り合う事なんて出来ないかもしれない。
郷愁が胸を締め付ける。
ここにずっといられたらいいのに。彼が私の場所に来てくれたら良かったのに。
だけど私の恋しい彼は、この国の王子様。その全てを捨ててとは言えない。捨てられないのもわかっているから。
翌朝、彼との約束の場所に行く。
村の外れの小高い丘。村を一望出来る、それでいてあまり人が来ない場所。
早朝という事もあり、目の前の村は寝静まっている。
草を踏みしめる音が背後から聞こえてくると、胸が痛いくらいバクバクと音を立てる。
結局一睡も出来なかった。
緊張なのか、興奮なのか、私の頭の中は鼓動の音で埋め尽くされていく。
目の前に彼が立った時には目眩がしてしまうくらい、わけわからない感じになっている。少し寝たほうが良かったかな。
「おはよう」
声が上ずっているけれど、彼は全く気にした様子は無い。にっこりと王子様然とした微笑みを浮かべている。
ある程度の距離感を保ったまま、それ以上は近付いてこようとはしない。それが本来の私たちの距離だといわんばかりに。
五歩程度の距離で、手を伸ばせばすぐに届きそうなのに、やんわりと拒絶されているかのように感じる。
今までずっと感じた事が無かった彼の拒絶が苦しい。触れられない事がたまらない。彼の心の壁に阻まれている事が辛い。
手を伸ばしても避けられてしまうだろう。
それがどんなに哀しい事なのか、今身をもって知る。
王子様の彼。庶民の私。
本来なら頭を垂れて、跪かなきゃいけない。その腕の中に抱きとめらることなどありえない。彼には本来なら横に並ぶのに相応しい女性がいる。
なんか、色々考えてたらどんどん胸が苦しくなってくる。
私が持っている、彼と共にいられる免罪符は、彼が私に向けてくれる愛情があってこそ。
それが無ければ一緒にいるなんて畏れ多い事なんだわ。
「どうしたの」
彼が問いかける。
その声のトーンがやはり王子様のそれで、どんどん頭の中が悪い方悪い方へと転がっていく。
思わず唇を噛み締めてしまう。
「答えを」
私の心中など全く気にしないといった素振りで、素っ気無く彼が呟くように言う。
何か、心の中のリミッターが切れたかもしれない。
「私を見てよ。前にも言ったじゃない。王子様してないで私を見てよ」
ピクリと彼の眉が動き、微笑みがゆっくりと真顔に変わっていく。
「他の人を見たら嫌。そうやって距離を取られるのも嫌。私が好きなあなたは、そうやって王子様の笑顔を浮かべたあなたじゃないのっ」
「じゃあどうして欲しい」
低い声にぞくっとする。鋭い視線が、まるで私の全身を射抜くように冷たい。
「いつもみたいにしてよ。どうしてそんな風に怖い顔するの」
「出来ない。お前の答えを聞いてない。答えいかんによっては、あれが最後だと言ったはずだ」
冷ややかな視線と声で突き放す彼には、昨日の甘さは全然無い。むしろ冷酷といっても過言じゃないくらいだ。これもまた彼の持つ側面なのかもしれない。
でも……。
きりっと奥歯を噛み締める。
「終わりにしたいの?」
煽ってもしょうがないのはわかっているけれど、何故かそうせずにはいられない。
「したいなんて言っていないだろう」
少しだけ彼の瞳がゆらりと動く。感情が瞳に灯される。
「でも、終わりにしたいように見えるよ。そうやって突き放して」
「お前はとことん馬鹿だな。俺とお前の関係は一度昨日終わったんだよ。今日からどうするかはお前自身が決める事だ」
「違う。私とあなたが決める事よ」
彼ににっこりと微笑みをむける。かつて培った社交的な挨拶。その時に身に着けた心の鎧の纏い方。
「二人できちんと話して決める事よ」
「詭弁だな」
彼もまた微笑む。
何故か勝負をしている気分になってきた。おかしいな。
くいっと顎を持ち上げられ、彼に強制的に上を向かされる。
「そんなに俺の気持ちが知りたいの? まだまだ足りなかった?」
にやりと笑う彼を見て、一瞬しまったと思ったけれど、それを表に出したら負けだわ。
「足りないのは、私じゃなくてあなたじゃないの?」
彼が鼻で笑う。
「ああ足りないね。全然足りない。どうやって教えてくれるつもり?」
げっ。どつぼったかもしれない。にやにや笑っているのもん、至近距離で。
「さあ。お望みのままに」
「言ったな。後悔しないな?」
「後悔なんてしないわよ」
売り文句に買い文句。言っている言葉の意味まで考えて話してない。
けど、後悔なんてしない。きっと。
「一緒にいればわかるでしょ、そのうちに」
不思議そうな顔をして、それから彼は眉をひそめる。
伝わらなかったのだろうか。
出来うる限りさらっと流すように言ったのが不味かったのだろうか。
「一緒にいてもいい?」
言い直しても彼の表情は変わらない。
時が止まったように動かなくなってしまった彼に不安を覚える。
「あの……」
顎をつかまれたままで動けずにいると、ふいにぎゅっと抱きしめられる。
「絶対に手放さないし、逃げたいって言っても逃がさない。それでも構わないんだな」
ポンと彼の胸を押して、彼との間に距離を取る。
どうしても彼の顔を見て話したかったから。
「私が他の誰にもあなたを渡したくないの。だからどこにも行かないで」
とてもとても綺麗で、家柄も申し分の無い婚約者のところへも、他の私の知らない女性のところへも。
時折見せる優しい顔も、甘い囁きも、全部全部私だけのものにしたい。
他の誰にも渡したくない。だから一緒にいる。それが私の答え。
ゆっくりと重なる唇を目を閉じて受け入れる。
ここは私だけの特等席。
「おい」
やけに冷ややかな声がして、しかめっ面の彼が顔を背ける。
「お前酒臭い。朝まで飲んでやがったな」
「朝までじゃないよ。それにそんなに飲んでないよ」
「うそつけ。めちゃくちゃ酒臭いじゃねえか。百年の恋も醒めるぞ」
げー。出足から躓いた?
だって飲まずにはやってられないくらい緊張してたし、それに話ながらお水代わりに飲んでたから。
「とりあえず昼頃迎えに来るから、それまでに酒抜いとけ。酒臭い女とキスすんの嫌だからな」
言いながらも彼が笑っている。
本気で呆れられたわけじゃないと信じたい。
「それからとびっきりのお洒落しとけ。デートしよう」
デートという言葉に胸が躍る。思わず頬が緩むと、彼がポンっと頭を撫でる。
目を上げると、いつものような優しい笑みを浮かべる。
「色々覚悟しとけよ」
……って、一体何?




