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山のような書類にサインをして印鑑を押し、部下に押し付けて部屋を出る。
これで念願の休暇に入れる。
兄王に無理を言って貰った、人生でたった一度きりの休暇。
この休暇が終わったら、俺は皇太弟と呼ばれることになる。肩書きがもう一つ増えるだけだが、周囲はそれだけでは済ませてはくれない。
非常に残念な事に、兄王は先の大戦で負った怪我のせいで半身に軽い麻痺が残っており、体調も崩しがち。
それにまだ跡継ぎが一人も生まれていない。
国にとってこれは非常に由々しき事態だ。
即位から4年近くになるというのに、王に後継者がいないのだから。
そこで白羽の矢が当たったのが、王位継承権1位である実弟の俺。まあ順当といえば順当。
折角閑職について、自由を謳歌していたというのに。非常に面倒な展開になってきた。
まず第一に、俺にも妻子がいない。
大した問題じゃないだろうと下々の者なら思うかもしれないが、王族にとって重要な任の一つは跡継ぎを残すことだ。
兄も、そして俺にも現状跡継ぎはいない。
当然従兄弟もいるし、そこには子もいるので断絶するという事は無い。
ただ直系王族である俺たち兄弟が子を為さないままというのも、今後火種の一つになりかねない。
とっとと兄のところに子供が出来てくれたら、外野もここまで煩くないのだろうが。
おかげさまで俺の部屋の前には貴族連中が列なしてやってくる。
正妃で無理なら側室にでも、だと。
全く興味無いので、とっととお帰りいただくわけだが。
しかし、このままでいるというわけにもいかない。かといって、意中の相手は問題がありすぎて。
ああ、彼女の事を思い出したら頭が痛くなってきた。
何であいつはああも堅物なんだ。
好きとか言うなら、とっとと俺のものになっとけよ。
彼女にとっては非常に重要なんだろうけれど、いつまでもいつまでも理屈を捏ね回している。頭で考えるな、大事なのは心だろ。恋愛なんて。
いっそ無理やりにでもという、非常にサディスティックな考えが浮かばないわけでもない。
だが一度彼女の心の壊すような、彼女の信頼を崩すような事をしたら、絶対二度と俺の事なんて見もしないだろう。
慎重に慎重に。少しずつ彼女の心に入り込んで。
でも一つだけ言いたい。
もう七年半以上我慢した。そろそろいいんじゃない?
王城でやる仕事は追え、後は自分の居城に帰るのみ。周辺視察のオマケつきで。
その途中で彼女に会いに行く。
部下の寝静まる時間にそっと起き出し、眠い目を擦りながら彼女の住む村を訪れる。
何故そんな夜明け前に出かけるかと問われたら、彼女が日中会ってくれないからだ。
なるべく冷静を装って彼女の待つ場所まで行くと、こちらに気付いた途端にぱあっと微笑む。
おい。朝からそれは凶器だろう。眠気を破壊する効果は抜群すぎる。すぐに抱きしめたくなる。
「おはよう」
微笑む彼女がありきたりな挨拶をする。
「おはよう。相変わらず早起きだな」
近付いて彼女の前に立つと、彼女が俺の服の袖を掴む。
自分から抱きついてきたりしない。いつもこうやって、ちょっと甘えるような仕草をする。
「もう癖だよ。こんな夜明け前、普通は寝てるよね」
苦笑いを浮かべる彼女。
どうして彼女がそんな早起きの習慣がついてしまったのか、その秘密を知るのはごく一部。この国のトップシークレット。
国にとってかけがえの無い、ある特殊な業務についていた為、早寝早起きが身についたようだ。
袖を掴んだままの彼女を腕の中に引き入れ、その感触を楽しむ。
王宮の女たちのような花の香りも、商売女のような安っぽい鼻をつくような香水の匂いもしない。ふわっと髪から石けんの香りが漂ってくる。
「どうしていつもこんな時間に来るの?」
お前のせいだ。お前の。俺だって本当はもっと寝てたいよ。
「別に昼間に来てもいいけど。正装で」
ちょっと意地悪をしてみたくなって言うと、彼女が青褪めた顔で首を激しく左右に振る。
そう。彼女は決して昼間に会ってはくれない。
俺は気にしないのに。彼女が彼女であれば、別に他にどんな問題があるというのだろう。
だけれど彼女は俺が生粋の王族であるという事、そして彼女の現状がただの一介の村娘だという事が気になって気になってしょうがないようだ。
そんな事どうだっていい事なのに。
彼女が特殊な業務をしていた本人だとわかれば、絶対に俺たちの事を反対する奴なんかいない。
そもそも、彼女を選んだ事に対して外野にとやかく言わせる気も無いが。
会えなかった時間を埋めるため、彼女を抱きしめて唇を奪う。
この微妙な関係を始めた当初、抱きしめられただけで体をがちがちにしていた彼女が、俺に心を開いてくれているのか徐々に身体をゆだねてくれるようになってきた。
とはいえ二、三ヶ月に一度しか会えないので、全然一向に関係改善には向かわない。
そっと重ねるだけのキスだけじゃ物足りなくて、彼女の口内を味わおうとすると苦しそうな声を上げる。
「ん……」
眉をひそめ、ぎゅっと俺の服を掴んで受け入れる彼女に夢中になる。
「ね……苦し……い」
潤んだ目で訴えてくるが、却下。
「息すれば」
気にせずに続けていると、彼女がトントンと胸を叩く。限界か、残念だ。
一日にそう何度もキスもさせてくれないのだから、もうちょっと楽しみたかったのに。
大体、まあ彼女には言えないけれど、俺ってば禁欲生活を強いられているわけだ。
彼女に操を立ててるとか、そういう古風な理由じゃなくって、もっとどろどろの欲まみれの理由で。
下手に女に手を出すと、ろくな事にならない。
身をもって先王である長兄が教えてくれた。
適当に手をつけた商売女が、あなたの子よといって王城を訪れ、強引に王族の一員に加わった。
本当に長兄の子供だったのかわからない。真実は闇の中だ。
ただその身元不明の子を、長兄は自分の子として受け入れた。心当たりが十二分にあったということだろう。
身分を隠して遊んだとしても、どこでばれて余計な事をされるかわからない。
下手に貴族の娘に手を出した日には、間違いなく責任問題。彼女を娶る事すら困難になりかねない。
俺じゃなくて、俺の血を継ぐ者が欲しくて欲しくてたまらないらしい。世の中の女たちは。
そんな中、彼女だけは俺の価値をそういう部分では見ていない。
王族辞めろくらいの勢いだし。
辞められるものなら辞めるさ。女の為に王冠を投げ出すっていうのも、吟遊詩人たちのいいネタになりそうだ。
だけど、ごめんな。
俺は捨てられないんだ。生まれた瞬間から与えられた血の枷を。
休暇前の最後の仕事。
部下たちを引き連れ、彼女の住む村を訪れる。
居城の周辺地域の視察というのが名目。裏の目的は、秘密。
村長に挨拶をしていると、ちょうどよく彼女が姿を現す。
溜息をついて顔を伏せる。あれは自分を卑下している時に彼女がよくやる癖。
けれど目的達成の為には彼女を説得しなくてはいけない。
彼女の特殊業務について知る村人の前で、彼女の磨かれた知性と立ち居振る舞いを引き出し、そして彼女と二人きりの時間をゲットする。
ソファに座った彼女を抱きしめ、今日二度目のキスをする。
誰かに邪魔される心配もない、思いっきり彼女を抱きしめて追い立てるように何度も何度も唇を重ねる。
顔を真っ赤にして目を潤ませる彼女から唇を離す。
どうしても聞きたかった。
「なあ。どうしても駄目なのか」
「え?」
肩で息をする彼女は思いがけないといったような表情をする。まだまだ理性が残っているようだ。
理性なんて吹き飛んでしまえばいい。お堅い彼女の頭の中を溶かして、その本心を口に出させたい。
そう思いつつ、首筋に唇を這わす。
「俺のものになれよ。もういいだろう?」
火照って上気した首元に軽くキスをして答えを待つ。
彼女の匂いにクラクラしてくる。
「もうちょっとだけでいいから、待って」
これ以上何を待てというのだろう。散々待っているじゃないか。
「嫌だ。このまま連れて帰る」
「えっ……まっ……」
嫌だとでも言おうとしたのかもしれない彼女の唇を塞いで、幾度も幾度も角度を変えて彼女が言葉を紡ぐことを遮る。
決して嫌がったりしない。彼女なりに精一杯俺に応えている。それなのに……。
「嫌がらないくせに」
ついついそんな言葉が口をついて出てくる。
すると彼女の反応が薄くなり、瞳を涙でいっぱいにして俺のことを見つめる。瞬きをすると、涙がすーっと頬を流れる。
「ごめん」
何を焦っているのだろう。呆れられたのだろうか。
彼女の涙が引くまで、腕の中に抱きしめる。
あーあ。こうやって抱きしめても、キスしても嫌がらないのに。何故一緒にいることは嫌がるんだろう。
彼女の肩が、しゃくりあげるたびに揺れる。
ポンポンとその背を軽く叩き、髪を撫でる。
こうやって触れる事を許されるようになってから、徐々に彼女は近付いてきた。俺のところへ。
嫌われていない。好かれている事もわかる。
だけど不安が過ぎる。
このまま進めないまま、俺たちは引き裂かれるんじゃないかって。
兄に休暇を申し出た時、玉座ではなく私室にいた兄が険しい顔をした。
「それは皇太弟の申し出は断るという意味か」
「いいえ。それはお受けいたします。が、皇太弟になってしまっては、真に欲しいものを手に入れることが出来なくなってしまうので、ちょっと時間を下さい」
兄はくるりと椅子の向きを変え、執務用の机の上に両肘をついて前のめりになる。
「珍しいな、お前がそんな風に言うのは。欲しいものとは何だ。さすがに何ヶ月も休みをくれてはやれんぞ」
乗ってきたな。
「女です」
あっさりと答えると、兄は鳩が豆鉄砲を食らったかのような間抜け面をする。
王の顔から兄の顔に表情を変え、兄が笑う。
「そうか。お前がそんなに情熱を燃やすような相手がいたか」
「はい」
「それは噂の宝石の相手だな」
兄にも伝わっていたとは。思わず溜息をつくと、くくっという笑い声をあげて兄が何か書類にサインをする。
「どうせお前の事だ。全て根回しは済んでいるのであろう。行け行け。とっとと行け。で、さっさと帰ってこい」
ひょいと書類をこちらに手渡し、兄は楽しそうに頬杖をつく。
書類の中身は渡航許可書。
どうせなら外国にでも行ってこい、そういうことらしい。
観光ついでにこの目で視察してこいと。
「これだとかなり日数が必要になりますが」
「ああ。次の例大祭までに戻ってくれば構わない。現地集合でも構わんぞ」
「かしこまりました」
かなり寛容な兄の言葉に、兄弟ながらに王と家臣ゆえ深く頭を下げる。
「但し、これで手に入らなかったら諦めろ。その際にはこちらで全てお膳立てする。いいな」
鋭い眼光は王のそれだった。
「かしこまりました、陛下」
そんな遣り取りをしたのが、年明け。結局雑事を片付けるのに数ヶ月を要した。何で俺のところに山盛りの書類が来るんだ。
絶対に嫌がらせに違いない。兄の。
その中には早急に処理をしなくてはいけない案件も含まれていて、例大祭まであと4ヶ月あるかないか。
王城から例大祭を行う現場までは約1ヶ月掛かる。つまり残された時間は3ヶ月。
その間に彼女を落とせるか。
どうせならもっと時間を掛けて関係を詰めていきたかったが、この際仕方ない。
今までの長い月日を思うと、性急過ぎる気もしないでもないが。
腕の中の彼女の涙が引くのを待って、彼女の最後の涙の一滴を指で掬い取る。
真っ赤に腫らした目が、焦った俺を責めているようだ。
これで簡単に手に入るはずなんて無い。わかっていたはずだ。
「ねえ……」
真っ直ぐな彼女の瞳が俺を貫く。
「好き?」
思いもかけない問いかけに首を傾げつつ、彼女の濡れた頬に張り付いた髪の毛を梳かす。
「私ね、昔凄く好きな人がいたの」
「知ってるよ」
奴のことなら、嫌というほど。
目の前でお前が掻っ攫われていくのも、お前が奴に幸せそうに微笑むのも全部見た。目の前で。
「そうだよね。知らないわけないよね」
苦笑いを浮かべる彼女の頬に触れる。
触れる事さえ許されなかったあの時を思い出すと、焦燥感でいっぱいになる。
目の前にいたのに。確かに一時は俺のほうを見ていたのに。いつから奴のほうへ目を向けてしまったんだろう。
そして手に入れることを諦めなくてはならないのかと思った時もある。
触れた手に彼女の手が重なる。
目を閉じ、俺の手を握る彼女が愛おしい。
「今でもまだ忘れられないの」
「うん」
「忘れるまで待ってて欲しいの」
おねだりするかのような、それでいて必死な様子の彼女に首を横に振る。
「別に忘れる必要なんて無いだろ」
忘れよう忘れようと思うたびに、奴のことを思い出すんだろう。
過去の思い出を上書きして消す事なんて出来ない。事実は事実として受け止めるしかない。
「それは時間が解決するものなのか。それとも俺が役不足だって事なのか」
「ちがっ……そうじゃないの。そうじゃないの」
俺の手を離し、彼女の細い腕が俺の首に巻きつけられる。
こんな風に彼女から俺を求めてくる事なんて、今まで一度も無かった。
けれど、今はこんな風に誤魔化して欲しくない。嬉しい反面、明確な言葉が欲しくて彼女の体と俺の体の間に空間を作る。
「何? お前はどうしたいの? 俺に何を求めてる?」
傷ついた顔で、また瞳には涙がいっぱいになっている。
俺ってよく彼女の事泣かすよな。
けれど、どうしても欲しい。彼女が俺をどう思っているのか。この先どうしたいと思っているのか。
唇をへの字にして、泣く一歩手前で堪えている彼女を見つめる。
「ねえ、好き?」
「好きだよ」
彼女の問いに答えると、ますますその顔を歪ませる。
声も無く、静かに涙を零す。
いじめすぎたかな。
空間を作り為に彼女の肩を押し留めていた手から力を抜くと、ふえっという泣き声が耳元をくすぐる。
「……いっしょにいたい」
ほんの微かに消え入るように言う彼女の言葉に、思わず彼女を抱いている腕の力を籠める。
大進歩だ。こんな事彼女が言うなんて。
「けど……」
けど? けど、何だよ。
「他の人も好きなのに一緒にいるなんて酷いこと、私には出来ないよ」
振り出しかよ。
溜息をつきたいのを堪え、天井の模様を眺める。
いないから、もう二度と会えないから彼女の中で奴の存在が大きいままなんだろうか。
それとも、あの時点で勝負ついてて、俺は形勢逆転など不可能だったのだろうか。
「じゃあ、もうやめる? こんな事」
彼女の背に回した腕の力を弱め、そんな事無いよという返答を期待しながら彼女を見る。
必死に縋りついてきてくれたらいい。それだけで俺は彼女にとってかけがえの無い存在であると思える。
「いやぁっ」
予想に反して、彼女は泣き崩れてしまった。
俺に縋るでもなく、そのまま両手で顔を覆ってしまう。
「嫌なら俺といればいいだろ。簡単なことじゃないか」
ひっくひっくと泣き声を上げる彼女の手に触れると、俺の手を振り払う。
「あなたが良くても私が嫌なの。そんな中途半端なの嫌」
「なら、離れるしかないだろ」
口説きに来たはずだったのに、いつの間にか別れ話になっている。
しかも仲違いしたとかではなく、過去の男の存在のせいで。あの野郎、永遠に眠ってろ。
「嫌っ。離れていかないで」
「言ってる事めちゃくちゃだぞ」
ポンっと彼女の頭を叩くと、彼女がぐちゃぐちゃの顔を上げる。
ずずっと鼻をすすり、目を瞬くと、意を決したような表情で俺の腕を掴む。
何だ?
「ずるくてごめんなさい」
そう言うと、俺の胸の中に飛び込んでくる。
これは……現状維持を受け入れろという事か。だが、残念ながらもう時間がないんだ。
「俺と別れるか、それとも俺と一緒に行くか。今選んで」
残酷だとわかっているけれど、彼女に最後通牒を突きつける。
その答えが、俺たちの運命を動かすに違いない。
俺と彼女の関係。
まだ本当は何も始まっていない。
別れるのかと聞いたけれど、付き合っていたわけでもない。
俺に残された自由時間。
あと三ヶ月。
たった一つのワガママを叶える為だけの休暇。
現在王子休業中。