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CARAMEL  作者: 来生尚
約束の期限
19/28

 片目が蒼の神殿に戻ってから2週間後。

 午後、長老の部屋にお茶を出しに行くように言い付かり、午前中は部屋の掃除に明け暮れている。

 いつこの場所に元の住人が戻ってきてもいいように。

 執事から聞いた話だと、どの部屋もかつて巫女付きと呼ばれた人が熱心に手入れしていたらしい。

 自分が仕えた巫女は他の巫女に比べて特別なんですよ、と執事が少し照れたような顔で教えてくれた。

 ずっと、私が使う部屋も執事が手入れし続けてくれたのだろう。そして、きっとこれからも。

 私はこの神殿には残らないと決めている。

 ここには竜が眠っている。その傍にいたい気持ちに嘘はない。

「でも、ごめんね。神官長にはなれないよ」

 窓の向こうの奥殿と呼ばれる場所に向かって呟くと、風がふわりと頬を撫でる。

 かつて眠りに着く前に竜がその意思を伝えようとしていた時のように。

 優しい風は、私が出て行くことを認めてくれている。

 未来の約束をしたのだもの。今、私がここに残り続ける事を、あなたは望んでいないのでしょう。

 瞳の奥、脳裏には子供のような姿で笑う竜が浮かんで、消える。

 好きだよ。死ぬまでずっとあなたのことは忘れないよ。

 ここを離れても、遠くにいても、命の灯火が消えるその瞬間まで、私の心にはあなたが住み着いたまま。

 私を巫女に選んでくれて、ありがとう。

 でも、もう行くね。

 パタンと扉を閉め、カーテンを閉じる。

 失ってしまった大好きな人。

 さようなら、またいつか会おうね。

 失いたくない大好きな人。

 私、取り戻しに行くわ。ただ待っているのは、性に合わないの。

 部屋は私が戻った時と変わらないように整えた。他の部屋も、綺麗に片付けておいた。

 私が女官としてここですべき事は、やり終えたわ。

 荷物を一まとめにして、執事の待つ金庫へと足を向ける。

 部屋を空けて、私の手に握られている麻袋を見て、執事が微笑みながら溜息をつく。

「もう、行ってしまわれるのですか」

 いつもそう。執事には何も言わなくても伝わっている。不思議なんだけれど。

「はい。お世話になりました。また会えて嬉しかったです」

「わたしもですよ。お嬢様」

 にっこりと微笑むと、執事はくるりと踵を返す。

「荷物はこの辺に置いておかれると宜しいかと思います。まだ長老からお呼びは掛からないようですから、この部屋でのんびりしていてください」

 きっといつものように裏に行き、お茶の準備をしてくれているのだろう。

 そんなに広くは無い部屋の天井まで続く幾つもの本棚。

 本棚に圧迫されているせいか、きっと本当の部屋の広さよりもずっと窮屈に感じる。

 窓からの灯りも乏しく、執事が帳簿を見る時には眼鏡を掛けるのは、この暗さで目が悪くなってしまったのもあるのかもしれない。

 巫女であった7年。女官であった2ヵ月半。

 そのどちらも傍にいたのは執事だった。どうせなら……。

「お嬢様、どうぞ」

 執事はやはりお茶をお盆に載せて現れる。

 すっかり女官になってから定位置になっている空き机の一つにお茶を置くと、執事は自分の席に着く。

 淡々と帳簿を捲り、何かメモを取りながらさらさらとペンを動かしていく。

 優秀な経理担当。この神殿でたった一人の。

 やっぱり言えないわ。きっとダメって言われるに決まっているもの。

 黙々と業務をこなしていく執事を横目に見ながら、これからどうするのか推敲し続けている。

 これといった策があるわけではない。

 自分に何が出来るかと言われると、ものすごく出来る事は限られている。

 この外に出た瞬間、私の命を狙う誰かに遭遇するかもしれない。それでも、何もせずにこのまま彼が神官長様と結婚するのを見ているなんて出来ない。

 怒られるかな。お兄様に。

 ちゃんとここで待っているって約束したのに、勝手に外に出たりしたら。

 我侭勝手なことをしたら、お兄様だけじゃなくてお父様にも迷惑がかかるかもしれない。

 ごめんなさい。

 溜息が漏れ出る。その溜息に執事が反応する。

「退屈ですか。お嬢様さえおいやでなければ、書庫で本を借りてきてお読みになられてはいかがでしょうか」

「そうじゃないの。退屈なわけじゃないの。ごめんなさい」

 執事がペンを置き、背筋を伸ばしてこちらを見る。

 視線を斜め下に向け、何かを考えるような仕草をしてから、意を決したかのように私のほうを見る。

「今まで一度もお嬢様のお気持ちをお伺いした事がありませんでしたが、もしわたしでよければお話をお伺いいたしますよ」

 思いがけない執事の提案に目を見開いてしまう。

「申し訳ございません。出すぎたことかと思いましたが、お嬢様がお一人で抱え込まれているようで誰かが聞くことにより少し気持ちが楽になるのでしたらと思って提案申し上げました。分をわきまえない事、重々承知いたしております。申し訳ございません」

 恐縮しきりの執事に、慌てて両手を振って否定する。

「そんなこと無いです。すごく嬉しかったです。ごめんなさい。私も誤解をしてしまうような反応をしてしまって」

 少しほっとしたような表情で、執事が口元を少しだけ上げる。

「執事は、私に神官長になって欲しいですか」

 目を細め、執事は俯きながら首を横に振る。

「いいえ。わたしはお嬢様が外でお幸せになられる事を望んでおります。かつてはそのようには思っておりませんでしたが」

 自嘲するような笑みを浮かべ、執事が目を閉じる。

「巫女でなくなられる事が決まった日。わたしは神官をやめようと決意致しました。お嬢様のいらっしゃらない神殿には何も意味を成さないと考えていたからです。ですので、巫女付きのお役目が終わったら神官を辞めるつもりでした。お嬢様以外にお仕えしたくは無かったからです」

「……本気で、そう思っていたの?」

「ええ。正直申し上げますと、渋々現在の業務をしていた部分もございます。ですが、再びお嬢様にお会いし、先日片目の話を聞いた時にわたしの考えは間違っていると思いました」

「どうして?」

「お嬢様は我々が傍にいても、きっと心の底から笑う事は無いでしょう。感情を押し殺して毎日をお過ごしになられるでしょう。そのような事を強いるのは、真にお嬢様の幸せを考えたら出来るはずもありません」

 執事はいつもの能面のような表情に戻り、パタンと帳簿を閉じる。

「わたしはずっとここにいます。もしもお嬢様が外でお辛い思いをしたら、いつでもここに戻ってこられるように全て整えておきましょう。それがわたしがお嬢様に出来る事だと考えております」

「シレ……」

「その名を口にしてはなりませんよ。ここにいる限り、私は執事。あなた様はお嬢なのですから」

 指を口の前に一本立てて、執事が目配せする。

「じゃあその名を呼べるところに一緒に行ってくれますか」

 口に出さずにはおられず執事に問うと、執事はびっくりした表情のまま固まってしまう。

「今の私は貴族の娘です。傍仕えの者が必要です。だから、一緒に、これからも一緒にいてくれませんか」

 ゆっくりと表情を和らげ、執事は今まで見たことが無いような穏やかな笑みを浮かべる。

 それが同意であってくれたらと思い、執事の言葉を待つ。

 その時間が何故かとてもとても長く感じる。

 執事と過ごした7年。

 一番傍にいて、巫女であった私を支えてくれた人。

 これから先も傍にいてくれたら、これ以上なく強い味方になってくれる。執事が傍にいてくれたら、きっと今以上に胸を張っていられる気がする。

「ダメですよ。ここにいるから、わたしが有能に見えるだけで、外に出たら世間の常識も知らない人間でしかありません。あなた様のお役には立てません。それに、いつまでもわたしに甘えていてはいけません。あなたは自分の力で未来を切り開ける力をお持ちです。わたしのような過去の遺物に捕らわれてはなりません」

「過去の遺物なんかじゃっ」

 笑顔のまま、執事は首を何度も左右に振る。

「わたしが傍にいては、あなたは奇跡の巫女の亡霊から逃れる事は出来ませんよ。それを捨て、新たな人生を切り開こうとなさっておられるのでしょう」

 諭すような言葉に、唇を噛み締める。

 きっと、どんなに言葉を尽くしても、執事は同意なんてしてくれない。一緒に行ってはくれない。

「あなたの傍にいるのに相応しい人物は、わたしのような一介の神官ではありませんよ。全てを手に入れ、それでもなお、わたしを必要となさるなら、お呼び下さい。ただし覚えておいて下さい。一度神官を辞めた者は、もう二度と神官にはなれないのですよ」

「それはどういう意味でしょうか」

「あなたが再び神殿に戻る日が来たとしても、その時わたしが外の人間になってしまっていたら、一緒に神殿には戻れないという意味です。よくお考えになり、お決め下さい。わたしはお嬢様のお世話をこの神殿において他の者に任せる気はありません」

 執事の言葉の意味を考えるべく、言われた事を反芻する。

 もう一度ここに戻る日がくるかもしれないだろうと執事は言うけれど、もう一度戻る気なんて無いのに。

 だって、その時には神官長に担ぎ上げられるわけでしょう。

 ここに神官長として入ってしまったら、もう彼には会えなくなってしまうじゃない。そんなの嫌だもの。だから、そんな日は来ないわ。

 絶対にもう戻らないからと口にしようとした時、執事が片目を瞑って目の前に帳簿を開く。

「ここは今これだけ赤字なんですよ。これを黒字に立て直さないと、水竜の神殿の存在そのものが危うくなります。水竜様をお守りする為にも、神殿経営の建て直しが終わるまで、わたしはここを離れるつもりはありませんよ」

 到底黒字にはなりそうのない金額を目にし、絶対に執事は外には行ってくれないという事がわかる。

 笑顔の奥に強い意思を感じ、目を伏せる。

 きっと、私が大切にしていたものを、執事がここで守り続けてくれる。

 無いけれど、もう一度ここに戻る日があるとしたら、その時また執事に会える。

 執事はまた戻る事があるかもしれないから、ここで待っていてくれると言っている。だから……。

「わかりました。無理を言ってごめんなさい」

 一緒にいてくれたら心強いと思うのは、私の我侭でしかない。執事にそれを強要は出来ない。

 目を開けると、執事が能面に戻っている。

 何故だろう。この顔を見ると安心する。ずっと以前から変わらないからかな。

「いいえ。お申し出大変嬉しく思いました。正直に申し上げますと、小躍りしたい位嬉しく、鉄仮面が壊れるところでした」

 執事らしくない冗談に吹き出してしまうと、執事が頬を緩める。

「どうか幸せにおなり下さい。それこそがわたしの願いです」

 本当の味方はここにいる。

 たった一人でも後押ししてくれるのなら、私は私の決めた道を歩んでいこう。


 お茶の用意を済ませ、長老の部屋を訪れると片目が長老の横に立っている。まるで長老の参謀であるかのように。

「お待たせいたしました」

 長老の前にお茶を置き、片目のほうに視線を向ける。

「片目にもお茶をお持ちいたしますか」

「結構じゃ。お茶は口実に過ぎん。お嬢の教育係はどうしておる?」

「間もなく来るかと思いますが」

「そうか。執事が来たら、行くとするかのう」

 どこに?

 何か話があってこの部屋に呼ばれたのかと思っていたのだけれど。例えば私が神殿を出ようとしているのがバレたとか。

 どこに行くかとかを説明してくれるつもりは全く無いようで、長老と片目は厳しい顔のままでいる。

 所在無く、視線を奥殿のほうへと向ける。

 心の中で蒼き瞳の竜の名を呼ぶ。

 次に会う時は、いつなんだろうね。

 奥殿を見つめていると、執事が私の荷物の入った麻袋を持って執務室へとやってくる。

「それはなんじゃ」

「荷物ですが」

 それ以上詳細に触れようとはしない執事に溜息をつき、長老は椅子から立ち上がる。

「では参るとするか」

 よく見ると、長老は神官としての正装で、煌びやかな宝石がいくつか服についていて、普段は身につけていないマントのような物も身に纏っている。

 何があるのだろう。

 横を歩く執事の顔を見上げるけれど、執事の視線は正面だけを見据えている。

 執務室から外へと繋がる迷宮のような廊下を進むと、水竜の神殿の正門のある広場へと辿り着く。

 一瞬、暗い回廊から陽の燦々と降り注ぐ外へと出て目が眩み、視界が真っ黒なような真っ白のような景色に変わってしまう。

 その変わった景色の向こうに、ぼんやりと見える光景には、会いたい人が立っていた。

「お兄様っ」

 迎えに来てくれたんだ。

 背後に沢山の近衛兵を従えていたお兄様が、私の声を聞いて表情を和らげる。

 嬉しくて衝動が押さえ切れなくて、神官たちの間を抜けて一直線に門の傍のお兄様のところへ駆け寄る。

 走っていくと、息が切れる。ドクドクと胸の鼓動が激しくなる。

 本当ならあまり運動をしてはいけない体のせいもあり、ちょっとの距離のはずなのにお兄様のところに辿りついた時には、さっきまでとは違う意味で視界がぼんやりとぼやけてくる。

 両手を広げて待っていてくださるお兄様の腕の中に飛び込むと、安心感が広がっていく。

 ちゃんと約束を守って迎えに来てくださった。

 呼吸が荒くて言葉が上手く出ないけれど、見上げたお兄様の顔はとても優しい。

「元気にしていたか」

「はい」

「そうか。それならば良かった」

 ぎゅっと背中に回した腕に力を籠められるので、お兄様に体重を預ける。本当は目眩で視界が回りそうな感じで一人で立っているのが辛い。

「大丈夫か。無理をしすぎたのだろう。少し休んだ方がいい」

「大丈夫です。安心したら気が抜けただけですよ」

「少し休むと良い」

 腕の力が緩み、お兄様は目線を他のところへ向ける。

 そこには私がこの世の中で一番綺麗で上品で、気品溢れると思っている女性が立っている。

 ここにいないはずなのに、どうして。

「しんかんちょう、さま」

 声が擦れる。会いに行こうと思っていた人がどうしてここに。紅竜の神殿にいるはずなのに。

「お久しぶりね。今はお嬢と呼ばれているそうね」

「はい」

 口元だけ笑みを浮かべ、ちっとも笑っていない視線を私に向けると、神官長様はふーっと溜息をつく。

「まさかまたお会いするとは思っていなかったわ、お嬢」

「はい。神官長様」

 お兄様の腕を抜け、揺らぐ視界のまま神官長様に対峙する。

 くらっと体が傾ぐのを、お兄様の腕が支える。

「大丈夫か」

「はい。ありがとうございます」

 お兄様の傍を離れ、幾人かの神官の輪の中心にいる神官長様のところへ、ゆっくりゆっくり歩み寄る。

 神官長様は微動だにせず、私だけを見据えている。

 何かを言おうと口を開いたお兄様を視線で静止して、神官長様の前でなるべく優雅に見えるように挨拶をする。女官の制服のまま。

「お久しぶりです、神官長様」

「何をしているのかしら、ここで。あなたはもう外の人のはずよね」

 笑っているのに笑っていない笑顔のまま、やわらくて優しい口調なのに詰問されているような雰囲気を醸し出している神官長様に微笑み返す。

 笑顔は鉄壁の防御になる。

 その事は神殿での7年で学び、王都の1ヶ月で裏づけされた。

「はい。事情があってお世話になっておりました。しかし、迎えが来ましたので、今日こちらをお暇致します」

「そう。近衛兵があなたのお身内なのかしら」

「そうです。兄が迎えに来てくれましたので、王都に帰ります」

 ふっと鼻で笑われる。

「王都に、ね。まさかあなたからそんな言葉を聞くとは思いませんでしたわ」

 衣を翻し、神官長様は神殿の方へと足を向ける。

「いらっしゃい。立ち話をする趣味はありませんわよ」

 後に続くべきなのかどうしたらいいのか、お兄様の方を振り返る。

 お兄様が視線で神殿の方を指し示すので、そちらに行った方がいいのだろうか。

「早くいらっしゃい」

 足を止めて、神官長様に声を掛けられる。

「お兄様が」

 ふーっと深い溜息をついた神官長様が、頭を抱えるような仕草をする。

「あなたはこの神殿の規則もお忘れなのかしら」

 外部の人間が神殿の建物の中に入る事は許されない。けれど、お兄様と離れる気もしない。

 立ち尽くして二人を交互に見つめるけれど、答えが出ない。

 確かに中にはお兄様と一緒にはいけない規則だけれど、今別れたらまたお兄様がどこかに行ってしまう気がするの。また後で迎えに来るからって言って。

 もう一度溜息をつく神官長様に背を向け、お兄様のところへ小走りで行く。

 ぎょっとした顔のお兄様の服の袖を掴んでから、神官長様に声を掛ける。

「規則は知っています。でももう離れたくないんです」

 神官長様以上に、片目が呆れたような顔をする。神官長様はというと、クスクスと笑い声をあげる。

「兄妹だから? まあいいわ。では礼拝堂の方へ回りなさいな。わたくしたちは中から行きますから。その代わり、付き添いはあなたのお兄様おひとりになさって」

「はい。ありがとうございます」

 笑い声をあげたままの神官長様が、神官たちを引き連れて神殿の建物の中へと消える。

 一人残った執事が、午前中に詰めておいた荷物を入れた麻袋を持ってきてくれる。

「こちらを。お嬢様」

「ありがとうございます」

 お礼をすると、執事がポキっと腰から折れるような礼をする。

「お嬢様をよろしくお願いいたします」

 頭を上げた執事の視線とお兄様の視線が合う。

「その言葉、真に妹を大切にすべき人物に伝えておこう」

 無表情のまま首を傾げる執事に、お兄様が咳払いを一つしてから付け足す。

「俺は自分の力の及ぶ範囲で妹を守ろう。君がずっと守っていたように」

 お兄様の言葉に、執事はにっこりと微笑む。

「お願い致します」

 短い言葉を添え、執事もまた神殿の中へと姿を消す。

 残された近衛兵に指示を出したお兄様と二人、ぐるりと神殿の外壁沿いに作られた道を礼拝堂へと向かって歩く。

 周囲には誰もいない二人きりの時間。

 お兄様は口数少なく、黙々と歩いている。そんなお兄様になんて声を掛けていいのかもわからず、一歩後ろを着いていく。

「すまないな。迎えが俺で」

 歩きながらお兄様が呟くように言う。

「彼は?」

「王都だ」

 どうしてとは聞けなかった。やっぱり神官長様と結婚するからなのだろうか。それとも国王の差し金なのかな。

「じゃあ私はずっとここにいたほうがいいの?」

 お兄様が立ち止まって振り返る。

「ここにいたいか?」

 ぶんぶんと首を左右に振る。

「お兄様と王都に帰ります」

「そうか」

 再びお兄様は歩き出し、時折草を踏む音や枝を踏む音が聞こえる以外、会話らしい会話なんて一つもしないままだった。

 どうしてそんな風にお兄様が口を閉ざしたまま何を話そうともしないのか、どうして神官長様と一緒だったのか。聞きたいことは沢山あるのに、背中が聞くなと言っているように見える。

 彼は王都に行ってしまったけれど、私をここへは迎えに来なかったけれど、お兄様は執事の言葉を「真に伝えるべき人に」と言っていた。それは彼しかいないはず。

 だったら、もう一度私は彼に会えるんじゃないかしら。

 そんなことを考えていると歩いていると、急にお兄様が立ち止まるので、背中にボンとぶつかってしまう。

「った。ごめんなさい」

 思わず鼻をさすりながら謝ると、お兄様は背中を向けたまま立ち尽くしている。

 どうしていきなり立ち止まったのだろう。どうして何も言わないのだろう。

 広い背中で視界が遮られているので、横に並ぶように一歩前に出てお兄様の見ているものを見据える。

 何故、ここに。

 ちょろちょろと長い舌が目の前で動いている。

 人知を超えるような大きさの舌、その先の鱗に覆われた地上のあらゆる生物よりも大きな顔。そして紅色の、炎のように紅い瞳。

「……り、りゅう」

 にたりと笑うような表情をした紅い瞳の竜が、べろんと舌で私の頬を撫でる。かつて巫女だった時にしていたように。

「どうしてここにいるの?」

 手を伸ばして、紅竜の頬に触れる。

 かつてはその声が聴こえてきたのに、今は喉を鳴らす音しか聞こえない。

 巫女だった時にしていたように、紅竜の額と自分の額を合わせてみる。その意思が伝わってこないかなと思って。

 けれど、やはり何も伝わってくるものは無い。

「がうっ」

 小さな咆哮をあげると、紅竜がすーっと空へと舞い上がっていく。

 あっという間にその影は小さくなり、空を自在に飛びまわる竜は見えなくなってしまう。

 どうしてここにいたのだろう。

 まさか、私に会いに?

 神官長になれって言いに来たのかな。ううん、それとも、外にいろって言いに来たのかな。何にしても、何か伝えたい事があったはずよね。そうじゃなかったら、巫女だった時のように扱ったりしないだろうから。

 何が言いたかったの。あなたは私に何を伝えようとしていたの。

 天翔ける竜に、その言葉は届かない。

「本当に今はもう竜の声は聴こえないのか?」

 お兄様の声は擦れている。そして私のことを目を見開いたまま見つめている。

「はい。もう聴こえません」

「お前にとって、竜とは何なんだ」

「友達みたいな感じです。紅竜は」

 これ以上無いといった感じで、お兄様が目を見開く。

「ともだちだと!?」

「はい」

 お兄様は信じられないといった様子で、口元を手で押さえて立ち尽くしてしまう。

 きっと何か心配をしてきてくれたのであろう紅竜を、一言で説明するならば友達と答えるのが的確なような気がしたのだけれど、何か間違えたかしら。

 ごつごつとした鱗に覆われた肌も、爬虫類のような瞳も、とてもとても人とは相容れない生物のように見えるけれど、それでもずっと、声が聴こえなくても友達だと信じている。紅竜の一番最初の巫女で、友達。紅竜自身もそう言ってくれた。

「竜が友とはな」

 吐き出すように言ったきり、お兄様は口を開かない。何か思うところがあるのかもしれない。

 こんな妹は嫌だなと思われてなければいいのだけれど。

 その心中を問いただす勇気は無く、礼拝堂へ着くまでの間、お兄様の背中だけを見つめていた。

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