5
夕方の礼拝堂。
傾いた陽の光が礼拝堂の中に朱色の帯を何本も作っている。
その光の中心にあるのが祭壇。そして祭壇の前で、神官長様は待っている。
横を歩くお兄様を見上げると、すっと手を差し出されるのでその手を握る。握り返す力は手の大きさや硬さからは想像できないほど柔らかい。
「お待ちしておりましたわ。お嬢」
「お待たせして申し訳ありません。神官長様」
神官長様の前で一礼すると、お兄様が倣うように頭を下げる。お兄様までそんなことなさらなくてもいいのに。
「妹がお世話になっております」
クスっと神官長様が小さく笑い声をあげる。
「妹ね。今はそういう事にしておきますわ。違った報告も聞いておりますけれど」
お兄様と顔を見合わせると、お兄様がニッコリと笑う。
うん。そう。これでいいのよね。
「妹君を少々お借りしてもよろしいかしら」
「構いませんよ。お話している間、礼拝堂の中を見学させていただいても宜しいでしょうか」
「ええ。構いませんわよ」
神官長様の言葉を聞くと、お兄様がゆっくりと手を離す。
「また後で」
「はい」
お兄様が入り口近くまで歩いていくのを見送ってから神官長様に向き直ると、神官長様が礼拝堂の最前列の椅子を指し示す。
「お座りなさいな」
「失礼致します」
最前列中央の席を通路を挟んで右と左に座る。こうやって、ここから祭壇を見上げたのは初めてだわ。
ここから見上げる祭壇は、祭壇の置かれている台座から見上げるのとはまた違った趣がある。より神々しさを感じる。
「神殿に、何故戻ってこられたの」
祭壇から視線を逸らさない神官長様は、こちらをちらりとも見ずに話し出す。
「もう二度とあなたとお会いする事は無いと思っていたのよ。神官たちに乗せられて、ほいほいここまで来たのかしら」
トゲのある言い方にムカっとしてしまうけれど、イライラしてもしょうがないので努めて冷静に答える。
「いいえ。諸事情で命の危険があるとお兄様が判断し、お父様やお兄様がご尽力くださって神殿に匿って貰っております」
ふーん、とその身分から考えると相応しくないような声を漏らし、神官長様が視線をこちらに向ける。
「やはり生き難いのかしら。巫女を辞めた後は」
「平穏とはいきません」
「そう」
あまり興味もないといった様子で、神官長様が視線を祭壇に向ける。
「わたくしは外の世界に出るつもりはありませんわよ」
強い意思を感じる言葉に、神官長様の横顔を凝視する。
「では、結婚なさらないという事でしょうか」
ふっと鼻で笑い、再び神官長様はこちらを向く。
「あなたまで知っていらしたのね。結婚するから神官長を辞めると、どうやら皆思っているようね」
「神官長様?」
「わたくしは水竜様からも紅竜様からも離れる気はありませんわ。その為に、無理を言って巫女を辞めた直後に神官長になったのですもの」
「でも、結婚式の予定が王都で」
おほほっと神官長様が声を上げて笑う。
「そんなもの、祭宮殿下が何とかすればいいのですわ。王族の面子やら何やら、わたくしには一切関係ありませんもの」
ばっさりと切って捨てる神官長様の言葉を、信じてもいいのだろうか。本当に結婚しないって。
「なら、何故こちらにいらしたのですか。王都に行かれる途中に立ち寄られたのですか」
「そんなに気になるの。わたくしが神官長を辞めるかどうか。本当はあなたは神官長になりたいのではなくて? それを望む神官もいるでしょうしね」
「いいえっ」
大きくなってしまった声が礼拝堂の中を反響し、少し離れたところにいる神官たちの視線が一気に集まる。
コホンと咳払いをし、もう一度小声に戻して神官長様と対峙する。
「私は神官長になんてなりたくありません。あなたが捨てるものを下さい」
「……わたくしが捨てるもの?」
きょとんとした顔で小首を傾げる神官長様に頷き返す。
「はい。あなたがいらないもの。神官長になるために捨てたものを、捨てるものを私に下さい」
「何をおっしゃっているの?」
眉をひそめる神官長様に、何て説明しようか悩んでしまう。
どこからどう説明したらいいのだろう。
それとも、本当は説明なんて必要ないのだろうか。
神官長様のほうに体の向きを変え、目の前に二つの指輪が嵌まっている右手を差し出す。
「これに、何か意味が?」
二つの指輪を交互に見比べ、しばらくしてからはっとした顔を上げる。
「何故、あなたがこれを持っていらっしゃるの」
「預かったからです」
緊張でドキドキと鼓動が音を立てるのが聞こえてくる。指先からどんどん冷たい空気が体を這い上がってくる。
真実を告げるだけだというのに、どうしてこんなに緊張するのだろう。
心のどこかで、まだ二人の関係を疑っているからだろうか。
それとも全てをつまびらかにする勇気が無いからだろうか。
でも、もう止められない。
深呼吸をして、背筋を伸ばして神官長様の目を見つめる。
「彼を下さい。お願いします」
しーんと水を打ったかのように神殿が静まり返る。
きっと礼拝堂の中にいることを許された長老を筆頭とした幾人かの神官たちも、耳をそばだてて私たちの話すことを聞いているのだろう。
ごくりと唾を飲む音さえ、響き渡ったような気がする。
「彼って、一体どなたの事を言っていらっしゃるの。あなたのお兄様ではないの? あなたの意中の相手は」
「はい。この指輪の主こそが、私が欲しい人です」
「そう。そういうことだったのね」
クスクスと神官長様が笑い声を上げる。
楽しげな様子で、口元を押さえつつ笑みを漏らす神官長様を見つめていると、差し出したままの右手を握られる。
「どうしても彼でなくてはならないの?」
今は目も笑っている。優しさの含まれた、かつて自分にも向けられたことのある笑みで問いかけられるので、にっこりと笑い返す。
「はい。どうしても」
「ふふっ。じゃあ水竜様はわたくしに下さる?」
ずきっと心が痛む。
一瞬答えを躊躇っていると、神官長様がそっと手を離して祭壇を見上げる。
「わたくしはここに眠る方から離れる気は毛頭ありませんの。それは、わたくしがあの方だけをお慕いしているからです。でもあなたは違うのね」
「……はい。私は紅竜と約束したんです。子を為すと。だから」
「それは後付けの理由でしかありませんわ」
神官長様の視線が突き刺さる。
「子を為す相手は他の誰でも良かったのかしら。そうではないわね?」
目を伏せる。そして瞳の裏側に彼の面影を思い出す。
他の誰かでは嫌だ。彼が私以外の誰かを選ぶのも嫌だ。
「はい」
神官長様が瞬きをし、次の瞬間険しい顔に変わる。
「欲しいなら差し上げますわ。わたくしには必要の無いものですもの。ただ、道は平坦ではなくてよ」
思わず笑みが零れる。
何故だろう。どうしてこんな場面なのに頬が緩んでしまうのだろう。
「はい。既に困難を極めていますから大丈夫です」
その答えに満足したのか、神官長様は何も言わずに祭壇をまた見つめている。
長い間沈黙が流れ、ふうっと神官長様が吐息を吐き出すまで、緊張した空気がピリピリと肌に突き刺すようだった。
「ところで、いつからあなた方はそういう関係になられたのかしら」
「え?」
「神殿にいる頃では無いわよね。巫女を辞めた後なのかしら」
改まって聞かれると気恥ずかしく、頬の熱が上がる。
それを見取った神官長様がきょとんとした顔をし、弾かれたように、ほほほと笑い声をあげる。
「初めて見たわ。あなたがそんな顔をなさるの。巫女の鉄壁の仮面も、彼の前では敢え無く崩れ落ちてしまうのでしょうね」
さも楽しい事のように言う神官長様に返す言葉が見つからない。
そんなに笑われるような変な顔をしているのだろうか。
ちょっと彼との馴れ初めを聞かれただけなのに、笑われてしまうほど動揺してしまうなんて。
「運命の人。あなたに出会う前にね、彼はそんなご神託をわたくしから聞いたのよ」
そんな話初耳だわ。彼もそんなこと一言も言っていなかった。
「そこで運命と出会うでしょう。彼はあなたと会う前にそう水竜から預言されたの。そして本当にあなたは運命の人だったのね」
全て、最初からこうなると決まっていたのだろうか。
彼と出会うその前から。水竜は全て知っていたという事なのだろうか。
ちくんと胸に何かが突き刺さる。
「最初から決められていたから、彼を好きになったわけじゃありません」
「ごめんなさいね。けれど彼の運命を動かして、そしてわたくしに自由を下さるあなたに感謝しているわ」
「神官長様?」
「わたくしは王家の姫として、決められた道を歩む事しか出来ない人生でしたのよ。それなのにわたくしの唯一の我侭である神殿に残りたいという欲望をあなたが叶えて下さる。彼を選び、彼があなたを選んだから」
神官長様が目を細め、私の両手を握る。
「感謝しているわ。ありがとう」
心の底からそう思っているのだと伝わってくるので、こくりと頷き返す。
「彼を、下さるのですね」
「ええ。どうぞ。その代わり、あなたに神官長の地位は差し上げられませんわよ。なんと言われようとも」
「構いません。私はそれに執着はありませんから。ありがとうございます、神官長様」
私はこの神殿で神官たちに囲まれて平穏に暮らすより、彼の傍にいたい。彼となら困難な道も歩んでいける。
全く神殿に未練があるわけではないけれど、水竜の傍にいたくないわけじゃないけれど、今は少しでも早く彼に会いたい。
頭を下げると、頭上から溜息が零れる。
「わたくしの欲しいものをあなたは持っていたのに、それよりもわたくしの欲しくないものをあなたは求めていたなんて皮肉ね」
神官長様は何を求めていたのだろう。私の持っている何を欲していたのだろう。全く想像がつかない。私には、神官長様に欠けているものは一つも無いように思えるのに。
手を握ったままの神官長様を見つめるけれど、欲しているものが何かは決して口には出さないみたい。
「瞳の色、変えなくてよろしいの?」
「どうしてですか。そのつもりはありませんけれど」
「あなたがあなたのままで受け入れられる場所ではありませんわよ、王宮は。神殿でもそうだったでしょう。あなたが巫女だから受け入れられたのです。王宮は王族以外受け入れません」
ずきっと胸が痛み、国王の顔が思い浮かぶ。
一介の村娘などには興味が無いといった国王。彼の隣に相応しいのは、私じゃなくて王族で巫女を経験している目の前にいる神官長様だけだと言っていた。
「貴族の娘じゃ、ダメなんですか」
「ダメでしょうね。元来のあなたの出自を陛下はご存知なのでしょう」
「……と、思います」
ふうっと神官長様が溜息をつく。
「なら無理よ。覚悟を決めなさい。彼と共にいるためにどうすべきなのか。あとはご自分でよく考える事ね」
「はい」
瞳のまやかしを剥がし、蒼と紅の瞳に戻さない限り彼は手に入らないのだろうか。
それは私が持つ二つ名を明らかにする事になる。
村娘の私じゃダメなんだろうか。たとえ今貴族の娘であったとしても、彼の隣には相応しくないままなのかな。
出自だけで彼に相応しいかそうでないか決められて、私は相応しくないからその傍を離れろと国王は言う。
「ありのままの私じゃダメなんですか。村娘の私じゃダメなんですか」
クスっと神官長様が笑う。
「それだけがあなたなの?」
それだけ? 神官長様のおっしゃっている事の意味がよくわからない。
だって、田舎の村のパン屋の娘っていうのが、私の土台じゃない。出自じゃない。付け加えるなら貴族の養女だけれど。
「行きなさい。あなたが欲しいものを手に入れに」
神官長様は立ち上がって、お兄様を手招きする。
すぐに神官長様の指示に気付き、お兄様が私の横に立つ。
「あなたの主は王都に喧嘩をしにいくとおっしゃっていましたわよ。ここでのんびりしている時間は無いのではなくて?」
考えこむかのような間の後、お兄様が口を開く。
「陛下直属の近衛に連れて行かれてしまいまして、こちらとしては何も手を出せません」
「そう。そこまで頑なになられていらっしゃるのね」
考え込むようにし、それから神官長様は祭壇を見つめて口の中で何かを唱える。
呟くような小声は、誰に向けられたものなのだろう。
しばらくすると、礼拝堂の上に黒い影が横切る。
西に傾いていた陽の光が遮られ、礼拝堂の中に闇が走ったかと思うと明るくなり、また暗くなりという規則正しい動きを繰り返している。
「わたくしはね、あなたにご神託を伝えに来たのよ」
「……ご神託」
急に視界が開けるような、それでいて強烈な耳鳴りがしだしたかのような衝撃を受ける。
「巫女は外部の人間には会えませんから。ここにいるあなたにわたくしがご神託を届けに来たの。王都に行くつもりは毛頭ありませんわ。これを伝えたらわたくしはまた紅竜の神殿に戻ります」
天を仰ぎ、神官長様が微笑む。
もしかして、この何度も礼拝堂の上を横切っている影は、紅竜?
「ここに、いるんですね」
「そうね。来たみたいですわね」
立ち上がって神官長様は礼拝堂の外へと続く大きな扉へと足を向ける。
その後の追うように歩いていくと、途中で何人かの神官と目が合う。様々な思いや思惑があるのだろうと思われるような、複雑な表情を浮かべている。
コツコツと足音を響かせながら歩き、そして神官長様が礼拝堂の扉を大きく開くと、目の前には紅竜がちょこんと巨大な体を丸めて座り込んでいる。口に何かを咥えて。
大きな口にちょこっと引っかかるようにしてある袋を神官長様が受け取ると、紅竜は目を細めて笑い、神官長様の頬を舐める。
神官長様嬉しそう微笑んで、飴玉のような小さな何かを紅竜の口元に差し出し、口に対してはかなり小さなそれを紅竜はパクっと口におさめる。
受け取った袋を私の前に差し出すので、受け取るべく腕を差し出すと、ふいっと神官長様がその手を引っ込める。
「約束は違わず果たせ。それが紅竜様から託された言葉よ」
思わず笑みが零れる。
「それってご神託というよりも、私信のような気がするのですけれど」
「そうね。それでも伝えたかったのでしょう、あなたに」
約束。紅竜との約束。
子を為す事、それも100人も。それは到底無理だけれど、いつか竜の声を全ての人が聴こえるようになる為に、巫女の血を後世に伝える事。
「これを持っていきなさい。紅竜様があなたに渡すようにとおっしゃられたの」
袋の中を確認すると、見た事のある服が入っている。
「これって、巫女の」
「そう。水竜の巫女と、紅竜の巫女の正装が入っているわ。あなたの為に作られ、あなたが身につけていたものよ。渡したわよ。後は好きになさい」
神官長様はそれを最後に、私の前から姿を消した。紅竜と共に。
残された私はお兄様の元へ行き、それから二人で長老のところへ行く。
「妹は連れて帰ります。大変お世話になりました」
神官たちや私が口を開く前に、お兄様が切り出す。
「しかし、外ではお嬢の命を狙っている者がおるのじゃろう。わしらはお嬢がいつまでここにいらしても迷惑とは思いませんし、外の危険が排除された後でも良いのでは」
「いいえ。次に会う時は迎えに来る時と妹と約束しておりました。突然の事で申し訳ありませんが、王都に早急に戻らなくてはなりませんので」
ぎゅっと手を握られるので、お兄様の顔を仰ぎ見る。
すると、お兄様がにっこりと笑う。
「構わないね」
「はい」
私の右手を握ったお兄様の左手の指輪と、私の指輪が重なり合う。同じ文様を刻まれた指輪が。
「長老。お世話になりました。私は神官長にはなりません。ごめんなさい」
「それは構わんよ。じゃが、お命が狙われているというのに外に出るというのは」
「大丈夫。お兄様がいますから。ねえ、お兄様」
ふんとお兄様が鼻で笑う。
「お前一人くらい何とかして見せないと、後で色々言われて面倒だからな」
ふふっと笑う私の頭を軽く叩くと、お兄様が真顔に戻る。
「大切にお守りする事、お約束致します。どうか私に今後の事は一任下さい」
ふうっと長老が溜息をつく。
「否と言っても連れて行くのじゃろう」
「はい」
きっぱりとしたお兄様の態度に、長老がもう一度溜息をつく。
「いつでも帰ってきなさい。また困った事があったらのう」
そう言うと背を向けて神殿へと歩き出してしまう。すごく親切にしてくれていたのに、裏切ってしまったような気持ちに苛まれる。
長老の背中が何故かすごく寂しそうに見えて、その背に向かって叫ぶ。
「ありがとうっ。おじいちゃん」
立ち止まった長老が、こちらを向くと豪快に笑い声を上げ、そしてそのまま神殿へと入っていく。
執事に言われたけれど、本当はもっと自分の気持ちとかちゃんと話しておけば良かったのかもしれない。
これでまた神官たちには会えなくなってしまうのに、こんな強引な別れ方を選んでしまった。優しくしてくれて、本当は無理なのに受け入れてくれた人たちを足蹴にするような真似をしてしまった。
「ごめんなさい」
居たたまれなくて、そう叫んだけれど、神官たちに伝わったかどうかわからない。
でも本当に、ここでまた神官たちと生活出来て楽しかったし、嬉しかった。その気持ちに嘘はない。
だけれど、巫女だったという立場に胡坐をかいて、今思うと神官たちの好意や親切が当然だと思っていたような気がする。
権力とは人を傲慢にする。
巫女を否定していたのに、巫女であったから受けられる権益を当たり前のものとして受け入れていた。そんな自分は醜いと思う。自分の力で得られたモノではないものを振りかざし、人の心を踏みにじっていた。
自分が今どうしたかではなく、それをどうやって周囲に理解してもらうかに心を配るべきではなかったのかしら。
本当にどうしたいかを相談したら、みんなきっと相談に乗ってくれていたかもしれない。
こうやって黙って出て行くことのほうが、出て行かれるほうは辛いと思う。私なら悲しくなる。
全てを明らかにする事だけが、正しい事だとは思わないけれど。
せめて神官長にはなりたくないこと。王都に帰りたい事くらい、ちゃんと伝えておけば良かった。
そうすれば、こんなふうにどこかしこりの残る別れをしなくて済んだのに。
彼の事だってそうだ。
彼がいい。彼といたいという気持ちを免罪符にしないで、どうやって受け入れて貰えるか考えなきゃ。
好きだからだけじゃ解決しない。それだけじゃ、彼の傍にいることは出来ないのだから。
実際にそれは国王に既に跳ねつけられているのだもの。




