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CARAMEL  作者: 来生尚
約束の期限
18/28

 神殿に来て何が変わったかというと、どちらかというと「戻った」感が強い。

 見知った神官たちは「巫女様」から「お嬢様」に呼び方を変えただけで、接し方は以前と変わらない。

 私があまり接する事の無かった神官たちは、髪を切ったせいもあり、どうやら私がかつて巫女だったという事には気が付いていないらしい。

 馴染みのという言い方には語弊があるかもしれないけれど、かつて巫女だった時にお世話になった一部の神官たちには真相が長老から告げられている。

 女官としてあれこれ働いているというのに、昔みたいに丁寧に話しかけてくれたりする。物を持っていたら、代わりに持ちますからと気を遣われてしまう。

 そうでない神官はというと、ごくごく普通の女官として私のことを扱っている。

 何故だろうと思って長老に聞くと、顔を隠すベールを使っていた事もあり、あまり間近で素顔を神官たちが見ていなかった事。それと、いるわけがないという思い込みが、別人だと思わせているのだろうと言っていた。

 女官としての日々は、昔神殿で生活していた頃と大きくは変わらない。

 肉体労働がかなり増えているだけで。

 朝、夜明け前に起き出して身を清める。そして朝の礼拝に参加する。

 ここには巫女がいないので、本来巫女が取り仕切る礼拝を、祭事を担当する神官が勤めている。

 朝食後は掃除が主。自分の使っている部屋を含み、この区画の部屋の掃除を担当している。

 私の知らない「巫女であった人たち」が使っていた部屋は、すぐにそこで生活が出来るくらいに清潔に保たれている。塵一つないように掃き清め、噴き掃除をし、食器類も毎日洗っておく。

 寝具も天気の良い日には干したりしている。

 昼食後は、執事と呼ばれる神官の仕事の手伝いをする。

 といっても、経理を担当している執事の手伝いは、もっぱら雑用になる。

 書庫に行って過去の資料を取ってきたり、決裁の判子を貰いに長老のところに行ったり。大概長老のところに行くと、世間話に花が咲いてなかなか戻れなくなるのだけれど、執事はその事を責めたりはしない。

 夕食後からは自由時間になる。

 自由時間といってもこれといってする事がないので、王都にいる新しい家族に手紙を書いたり、旅に出ているお兄様にも手紙を書いたり。

 そして、カーテンの向こう側の奥殿を見つめる。

 もう一度、竜の声が聴こえないかなと耳をすませて。

 虫の音を聞きながら、竜と過ごした日々を思い出す。

 蒼い竜と過ごした4年。紅の竜と過ごした3年。

 そのどちらも決して楽しい事だけだったわけではないのに、振り返ると充実していて幸せだったように思う。辛い事は都合よく記憶から消えているか、当時の胸の痛みが薄らいでいるせいで。

 嘆き、苦しみ、そして打ちのめされた日もあったのに。

 私にとって神殿とは、自分の本当の家と同じくらい自然でいられる場所みたい。

 気を抜いて、片意地張らずにいられる、等身大の自分でいられる場所。

 昔は気を張って、ボロを出さないようにって必死に巫女を演じていたはずなのに。おかしいの。

 それはきっと神官たちが優しいだけではなく、容赦なく嫌味も言ってくれるし、くだらない事を言って笑いあうことが出来るからだろう。


 久しぶりに片目が神殿に戻ってきたようで、長老にお茶を運ぶという女官見習いとしては大役を上司である執事から受け、長老の執務室へと足を運ぶ。

 部屋に入ると、長老は私の持ってきたお茶菓子を目に留める。

「おやおや。今日はお嬢の手作りではないのかい。残念じゃのう」

 ティーポットからお茶をカップに注ぎ込みながら、長老と話す。

「ええ。最近手が荒れてきたから禁止だそうです。そんなに変わってないと思うのですけれど、爪の手入れが行き届いてないと執事に怒られました」

「あの執事がかい。それはまた珍しい事もあるもんじゃ。そういうところには無頓着そうに見えるがのう」

「あれで結構目ざといんですよ。書類を手渡す時に、指先をチェックしているみたいです。昔はそんなこと言わなかったのに」

 はははと豪快に長老が笑う。

「元々几帳面な男じゃからのう。その細かさを買われて経理業務をしているくらいじゃ。金庫番と呼ばれている経理担当神官が紅竜の神殿に移ってしもうたから、奴の双肩に神殿の台所事情が掛かっている。っと話が逸れてしまいましたのう」

 長老の執事の評価を聞き、改めて優秀な神官なんだろうなと思う。

 その無表情からはあまり感情が伝わってこないけれど、決められた業務はきっちりとこなす人であることを、傍にいた7年でも十二分にわかっている。

 とっつきにくい人だけれど、とてもきちんと様々な事を線引きして優先順位をつけ、効率的に仕事をこなしている。

 私情を挟まない伝票取立ては、確かにされる側からは脅威だろう。

「お嬢のお菓子は当分食べられんのか。早く手を綺麗にしてくだされ。爺にはどうやったらいいのか、さーっぱりわからんがのう」

 心底残念そうに言う長老に笑みが零れると、長老も微笑む。

 思うところは色々あるだろうけれど、以前よりも少し砕けた感じで接してくれる長老との時間は、心が和む。

「どうじゃ。お前も食ってみたかろう、片目」

 姿なんてどこにも見えない片目に声を掛けたので、キョロキョロと周囲を見回すと、扉がカチャリと音を立てて片目が入ってくる。

「ばれてましたか」

「ばればれじゃ。もう少し上手に気配を消すべきじゃのう」

 長老はにやりと笑い、片目に手招きをする。

 全然気付かなかった。長老は視線さえも動かしていなかったのに、どうして扉の向こうに片目がいるって気付いたのだろう。気配と言うけれど、全くわからなかったわ。

「で、どうじゃ。外の様子は」

 片目の分のお茶も用意するために執務用の机から離れると、長老は片目に話を振る。

 きっと私に聞かれても構わないと思っているから、今日ここに呼ばれたのだろう。もしも秘密にしておきたいような話だったら、私を呼んだりしないだろう。

 カチャカチャとカップが音を立てる合間に、片目のボソボソとした声が混じる。

「平穏そうですよ。王都でも大きなイザコザは起きておりません。初日だけですが紅竜の神殿で大祭に参加しましたが、祭宮も相変わず軽口を叩いたりしていました」

 祭宮。

 彼の地位を示す言葉に、ドキっと胸が音を立てる。

 相変わらずということは、体調不良とかって事は無いってことよね。良かった。元気なんだ。

 ほっとして頬が緩む。

 幽閉や断食の影響で風貌が様変わりしていたりしたら、きっと片目が何かしら言うはずよね。

 王都の港で彼と別れて数ヶ月。正確には2ヶ月半。

 必ず迎えに行くと言って、彼は私のもとを離れて王宮へと行ってしまった。そして幽閉されていた。

 毎日必ず好きって言うって言っていたのに、もうずっとその言葉を聞いていない。

 急に彼が恋しくて堪らなくなってくる。

 右手に嵌められた彼の地位を示す印章が施された指輪。約束の印。

 これが無くては彼の業務に支障が出るとお兄様も言っていたから、必ずこれを取りに戻ってくるだろう。私のところへ。

 いつになった会えるんだろう。早く会いたい。

 好きって言って欲しい。私の全部、彼で埋め尽くされてしまえばいいのに。そうしたら、きっとここに残りたいなんて思わなくなるはずだから。

「しかし問題がありまして」

 彼の事に意識が飛んでいたところに、急に片目の言葉が鮮明になる。

 どのくらいぼーっとしていたのかわからないけれど、慌てて片目の元にお茶を運ぶ。

 片目の前にお茶を置いた時、片目と目が合う。

「貴族の方、お元気そうでしたよ」

 お兄様の事かしら。

「教えてくださり、ありがとうございます」

 3ヶ月以内に迎えに来るとお兄様は言っていたから、残る期限はあと1ヶ月半。

 今はまだ紅竜の神殿にいるのかしら。それともこちらに向かってきているのかしら。

 片目は瞬きをして、再び長老の方に視線を戻す。

 長老が傍にいるようにと示すように、一つの椅子を指し示すのでそこに腰を下ろして二人の会話に耳を傾ける。

「長老は神官長様と祭宮が婚約者であったとご存知でしたか?」

 その話……。

 自ら神官長様に話をする為に、今回彼は幽閉を解かれて大祭に参加することになったとお兄様がおっしゃっていたわ。

 本当に、説得に行ったんだ。

 やっぱり彼は神官長様と結婚してしまうの?

「いや。聞いてはおらんのう。お嬢は聞いた事はあるかのう」

 話を振られ、ぱっと顔をあげて長老を見る。

 いけない。彼の事で頭が一杯になっていたわ。

「一度神官長様からお伺いした事があります。形だけのもの、生まれた時からの婚約者だとおっしゃっていました」

 片目が思いっきり溜息を吐いて、頭を抱える。

 その様子には目もくれず、長老が腕組みをして考える。

「で、結婚する時が来たというわけじゃな。そのように仰せになられていたのか、神官長様は」

「笑い飛ばしておられましたが、人払いをされてしまいましたので、お二人の間でどのような会話がなされたのかはわかりません。それとなく神官長様付きの神官に探りを入れましたが、奴も何も聞いていなかったようです」

「ふむ。成程。それは困った事態になりそうじゃのう」

 ふーっと長老も息を吐く。

「先の神官長様と、今の神官長様以外に王族出身の巫女はおらんから、どちらかが神官長の任に就いていただかなくては困るが、先の方はかなりお年を召しておられるし、体調にも不安があるしのう」

「はい。先の方にお戻りいただくというのは、妙案とは思えません。こちらにいらした時点でも車椅子をお使いになる事も多かったですから」

「ふーむ。こりゃ、本気で御両人が結婚されるとなると、神殿は開闢以来の歴史を覆す必要に迫られそうじゃのう」

 長老は険しい顔で片目を見る。

 片目の眉間にも、皺が何本も寄っている。

「それを簡単に容認したとあっては、王家側が神殿を蔑ろにしているか軽んじていると見て問題ないでしょう。あちらとしても、むやみにこちらと喧嘩をなさるつもりは無いでしょうが」

 ふんと長老が鼻で笑う。

「売られた喧嘩は買うが、あまりやりたくないのう。あちらとしても、何らかの形で神殿に影響力を残しておきたいはずじゃ。そう簡単に上手くまとまるとも思っておられんだろうよ。祭宮様も」

「しかし、祭宮による巫女様毒殺未遂事件、先王による巫女侮辱事件など、近年の王家のやり方は目に余るものがあるかと思います。しかも今回神官長様を退任させるなど、正気の沙汰とは思えません」

「まあまあ、あちらにも色々事情がおありじゃろうよ」

 長老は口内を潤すように、もう冷めてしまったお茶を口にする。

 釣られて片目もお茶を飲む。

 しばしの沈黙の後、片目がまた口を開く。

「そう暢気に構えてはおられません。こちらとしても何らの対策を講じません事には」

 カチャと音を立てて、長老がカップを置く。

「わしら外野があれこれ言っても仕方がなかろう。全ては神官長様のお心一つじゃ。神官長様がお決めになられるべきじゃ。あの方の人生なのだからのう」

 神官長様は、一生分の恋をしたと言っていた。

 恋焦がれても届かない相手に恋をし、二度と届かないものを永遠に追い求めるのだと。

 でも、あの時は水竜の声が聴こえなくなった私を慰める為にそう言っていただけで、もしかしたら本心は祭宮である彼の事を想っていたかもしれない。

 疑念が浮かんでしまい、その考えから頭が離れなくなる。

 誰よりも彼に相応しい女性。

 王族であり、巫女を経験し、美しくたおやかなで気品あふれる女性。

 私なんかが敵うわけが無い。

 国王が、私よりも神官長様をと言うのは納得が出来る。

 誰から見ても、王弟である彼に相応しいのは私じゃなくて彼女だろう。

 巫女である過去を隠している私は、どこの馬の骨かもわからない田舎娘。彼の思し召しによって貴族の娘という事になっているけれど、そんなのはメッキでしかない。

 本物の美しさや身分を持っているのは、神官長様のほうなのだから。

 もしかしたら彼も、幽閉の間に考えを変えたかもしれない。自分の身分に相応しい相手は神官長様だって。

 だから、神官長様に結婚の事を切り出したんじゃないのかしら。

 そこまで考えが至って、胸が張り裂けそうになる。

 もう、彼は私の事を迎えになんてこないかもしれない。

 お兄様にこの指輪を回収するように指示を出し、私には二度と会いに来ないかもしれない。

 それか、彼の本来の身分に相応しく、正妃は神官長様という事にして、私はそのうちほとぼりが冷めた頃に側妃として召し抱えられるかもしれない。

 目の前では長老と片目が今後について色々と話をしていたけれど、何一つ頭に入っては来ない。

 きっと彼は私を迎えになんて来ない。

 神官長様に結婚を切り出したという事は、そういう事なんだもの。

 私を迎えに来るのはお兄様だろう。

 それならばいっそ、もう王都に戻らずにここで一生過ごしたほうがいいのかもしれない。


 書庫からいくつかの資料を持ち帰り、執事のいる通称「金庫」と呼ばれる部屋に向かう。

 途中何人かの神官や女官とすれ違うけれど、誰も私のことなんか気にしていない。

 書庫で資料を受け取った後、書庫番のカカシと呼ばれる神官に聞かれた。いつまで神殿にいるのかと。

 いつになるのだろう。

 彼とも約束をしたし、お兄様とも約束をした。

 けれど、約束の期限が過ぎても、私はここから出ないんじゃないかって気が最近はしている。

 彼が神官長様を選び、王都でその結婚式を見るなんて事、とてもとても耐えられそうに無い。貴族になってしまった今、その式には参列しなくてはならないだろう。

 間近で彼が他の女性を抱きしめたり、愛を囁いたり、キスをしたり。

 そんな場面、想像しただけでも辛いのに、現実に見る勇気なんて無い。

 だからここに居続けたほうがいい気がする。

 でも、僅かでも彼を信じたくて、カカシにはいつとは答えられなかった。

「時がきたら」

 都合のいい言葉で誤魔化した。

 迷路のような回廊を歩き、金庫にもう少しというところで片目に声を掛けられる。

 通路に寄りかかり、ポケットに手を突っ込んでいる。ガラの悪さは神官一だろう。

「お嬢、今いいですか」

「いいですけれど、こんな場所でいいんですか」

「では、金庫の中で」

 あとわずかの距離を片目と肩を並べて歩く。こうやって二人で歩くのは初めてかも。

「執事に聞かれる分には構わないんですか」

「アイツは口が堅い。それにあなたの不利になるような事は一切しないでしょうよ」

 執事と共に巫女付きと呼ばれて業務をしていた関係上、互いの性格はよく知っているのだろう。

 私に不利になるような事?

 ということは、片目が私に話そうとしている事は、表沙汰にすると面倒な事が起こるということなのだろうか。

 何にしても、聞いてみなくてはよくわからない。

 あ、片目の話は聞いても良くわからない事が多々あるけれど。

 扉を開けて、帳簿だらけの部屋に踏み込むと、業務の時だけ掛ける眼鏡を掛けた執事が顔をあげる。

 少しだけ眉を上げ、一緒に入ってきた片目に視線を送る。

「何か御用でしょうか。旅費の申請の件でしたら、増額は難しいですよ」

「飲み屋じゃ領収書なんて出ねえだろ。その辺りも情報収集の為に必要経費だ。多少なりとも増額してくれないか」

「無理ですね。現在こちらの神殿は赤字が続いています。もし申請するなら紅竜の神殿でお願いします」

 片目の申し出を切って捨て、執事はまた帳簿に目を戻そうとする。

「おい。俺の話の本題はそれじゃない。自己完結する前に話を聞け」

 執事はペンを置き、掛けていた眼鏡を外して机に置く。

「何でしょう。立ち話ではお嬢様が疲れてしまいますから、こちらの椅子にでもどうぞ」

 かつては他の神官たちと何人かで経理業務をやっていた関係上、この部屋の中には今は使われていない机と椅子が3セット残されている。

 その主人のいなくなった椅子に、片目と私は腰を下ろす。この部屋には、応接セットのようなものは無い。

 業務上必要な物以外は全て取り払われている。

 座り終わるのを確認すると、執事は立ち上がって帳簿棚の裏へと姿を消す。多分、お茶を持ってきてくれるのだろう。

 することもないまま片目と残され、ふいに片目と目が合う。

「お嬢は、いつ貴族のご子息とお知り合いになられたのですか」

 相変わらず片目は多大なる誤解をしているのだろうか。きっと、してるんだろうな。

「最近ですよ。あの家にお世話になるようになったのはここ数ヶ月の事です」

 事実を述べたのに、片目は不信感たっぷりの目をする。

「本当ですか? いやに親密だったので、かなり長い間情を交わしておられるのかと思いましたが」

 言われて恥ずかしさで頬が熱くなる。

 お兄様とは兄妹愛はあったとしても、恋愛要素は全く無いのに。

 確かにものすごく頼りにしているし、一緒にいると心地いいし、楽しいけれど。

「ものすごい誤解をされているようですけれど、義理の兄妹なだけですよ」

 じーっと片目に顔を覗き込まれ、余計に頬の温度が上がる。

 やだな。なんか。

「それならそれでいいんですけれどね。結構熱心に頼まれたものですから。お嬢が危険だから匿って欲しいと」

「お兄様にですか?」

「ええ。まあ。哀願されましたので、引き受けました」

 そんなに熱心に頼んでくださっていたなんて。

 改めてお兄様が私の為に色々動いてくださっていた事を知り、嬉しくなる。

 てっきり、お父様が手を回したのかと思っていたのに。

 お兄様にお礼のお手紙を書かなきゃ。それよりもお会いした時に、ちゃんと自分の口で感謝の言葉を伝えたほうがいいかしら。

「よっぽど、お好きなんですね」

 片目の白い視線を感じ、慌てて首を横に振る。

「兄妹ですから、当たり前ですよ」

 納得したのかしなかったのか、片目は大きく肩を上下させて溜息をつく。

「それより、今日はどうしたんですか? こんな話をする為に呼び止めたわけではないですよね」

 慌てて話を逸らす為に切り出すと、目の前に執事がティーカップを差し出す。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 助け舟を出してくれたのかな。執事は片目の前にもティーカップを置き、自分の仕事用の席に座る。

 片目もお兄様の話をそれ以上続けようとはせず、こほんと咳払いをして顔をしかめる。

「お嬢、神官長になりませんか」

「は?」

 唐突な切り出しに、お茶を吹き出すかと思った。

 王族出身の巫女経験者しか神官長にはなれないのが決まりなのに。何を突然言い出すのだろう。

「神官長様が結婚し退任された後、先の方が再び職責に就かれるのは不可能だと思います。そうすると、巫女経験者の中から誰かを選ばなくてはなりません」

「だからって、何で私なんですか」

「あなたが奇跡の巫女だからです。あなた以外、水竜の神殿および紅竜の神殿の神官全てが納得する人はいません」

「けどっ」

 まだ結婚するって決まったわけじゃない。彼は結婚しないって言っていたもの。神官長様だって、形だけの婚約だって。

「それは長老のご意思ですか」

 静かに執事が切り出す。その視線を片目が受け流す。

「不満か、執事。お嬢が神官長では」

「それ以前の問題です。まだ神官長様がご結婚なさると決まってはいないのですから、時期尚早でしょう」

「先手先手で動いておかなくては、いざと言う時に身動きが取れなくなる。王家に対抗できる柱は、奇跡の巫女以外いないだろう」

 執事が溜息を吐き出す。珍しい。こんな風にあからさまに不快感を示すなんて。

「奇跡の巫女はもういないのですよ。お嬢様は、ただの貴族のご令嬢です。今巫女様と交代された日に、奇跡の巫女はいなくなったのですよ」

「詭弁だ。巫女としての能力に関して言えばそうかもしれないが、お嬢が奇跡の巫女であったという事には何ら変わりない」

「いいえ。もういないのです。奇跡の巫女はこの国のどこにも。それもまた、奇跡の巫女のおこした奇跡に他なりません」

 チっと片目が舌打ちする。

「話にならねえな。お前が口出しする事じゃない。お嬢が決める事だ」

 二人の視線が突き刺さる。

「その瞳、元の色にお戻しいただけますね。そして神官長様が退任された後、新神官長として神殿にお残りいただけますね」

「嫌です」

 考えるより先に口が動いていた。即答すると、片目は眉間に皺を寄せる。

「このような形でお嬢の恋を引き裂く事になってしまい申し訳ありませんが、貴族の方のことは諦めて下さい。神殿の為に」

「嫌です。お兄様は必ず迎えに来ると言いました。私はお兄様と王都に帰るんです」

 何故か視界の端で執事が笑みを浮かべる。

「子供を沢山産まなくては、紅竜様に怒られてしまいますしね」

 普段表情を変える事さえ稀な執事の笑みは片目に向けられ、片目はぎょっとした顔をする。

「紅竜様のご意思に逆らう事は、我々神官には出来ませんよ。その辺りをよく考慮した方が宜しいのでは」

 執事の問いかけに、片目は言葉を失ったまま忌々しそうな顔をするしかない。

「とにかく、神官長様が退任された後の事、お嬢もよくお考え下さい。失礼します」

 バタンと大きな音を立てて、片目が金庫を後にする。

 神官長様が彼と結婚して、私が神官長になる?

 そんなのって。

 外で生きやすいようにってカモフラージュの為に紅の竜が変えてくれた、瞳の色。

 竜たちと生活するうちに、竜のもつ瞳と同じ色に変わってしまった私の瞳。水竜の蒼。紅竜の紅。それを隠す為に紅竜がしてくれたまやかし。

 外で生きる為にした細工を、神殿の為に解けと。

 彼と共に歩んでいく為に、偽りの瞳の色を本来の色に変えてしまってもいいと思ったこともある。でも、神殿に君臨する為に瞳の色を戻すなんて出来ない。それは紅竜の意思に反するし、彼と神官長様の結婚の為に、急造神官長になりたいなんて思ってないもの。

 ダメだ。

 ちゃんと彼と話さなきゃ何も解決しない。

 彼が今どうしたいのか。それを聞いて、私はどうしたいのか。

 本当に神官長様と結婚するのかどうか。ちゃんとこの目で彼を見て、この耳で彼の声を聞いて、本当のことが知りたい。

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