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目の前でお父様と、片目と呼ばれる神官が話をしている。
その話の内容は全然頭に入ってこない。右の耳から左の耳へ素通りしていく。
どうしてまた神殿に行かなくてはいけないの? 私はもう巫女じゃないのに。巫女を辞めたら二度と神殿には立ち入れないって、残りたいと言った私に口煩く言っていたのに。どうして。
「どうした?」
お兄様の小声の問いかけが頭上から降ってくる。
無意識のうちにお兄様の腕を掴んでいたみたいで、はっとして手を離す。
「ごめんなさい」
「別に構わないよ」
お兄様は離した手を繋いでくれる。分厚くてがさついた手から温もりが伝わってくる。彼の細いけれど骨ばった綺麗な手とは違うけれど、伝わってくる安心感は同じ気がする。
「不安か」
図星を突かれてしまいお兄様の顔を見上げると、お兄様の頬が緩む。
「大丈夫だ。ここにいるよりも安全だ」
そうかもしれない。確かにあの堅牢な施設の中に外部の手は届かないけれど、それでも。
「嫌です。ここにいたいです。どうしてここにいてはいけないの?」
「どうしてとは」
「ここで待ってるって約束したから……」
お兄様が困ったような顔をしてお父様の方に視線を向けると、お父様が手招きする。
片目はそっとお父様から離れ、壁際に寄る。
「おいで」
お父様の声に促され、お兄様と手を繋いだまま傍に歩み寄る。
そんな私たちの様子を、お父様は苦笑交じりに見つめる。
「随分と親密になったものだな」
言われてお兄様と顔を見合わせる。
親密? ダンスのレッスンで手を握るのなんて毎日の事だし、外に出かける時には危ないからって必ず手を繋ぐし。別に親密って言うほどのことではないと思うのだけれども。
お互いにそう思ったようで、二人して首を傾げてしまう。
溜息をつき、お父様が私だけを手招きする。お兄様にはしっししと手を払って、遠ざける。
「すまない。ここにいても君を守りきれないんだ。だから申し訳ないが、明日にでも神殿に向かって貰いたい」
泣きたい気持ちでいっぱいになる。
でも絶対に涙は流さないって決めている。彼に会うまで、二度と泣かないって決めたんだもの。気持ちだけでも強く持っていないと、あの国王に負けた気がしてしまう。
負けたくない。今自分が崩れてしまったら、手を貸してくださるお父様たちにも申し訳ない。
だけど、上手く言葉が紡げなくなってしまった。
お父様に言われたら、否とは言えない。けれど、行きたくない。
どうしてかと問われたら、この居心地のいい場所で、彼と約束したこの場所で待ち続けていたいという建前と、口には出せない本音がある。
口に出せないなら、せめて何かしら、首を振るなりして気持ちを表現したらいいのだろうけれど、それも出来ない。
ここにいたいのは私のワガママ。だけれど、素直に行きますとも言えない。
ただ下唇を噛むしか出来ない私の肩がポンと叩かれる。
「あと1日、いや一晩でいいので猶予を下さい。その間に説得しますから」
お兄様の言葉に、お父様が私とお兄様を交互に見比べる。
しばらくそうしていたかと思うと、大きく伸びをするような動作をして溜息をつく。
「任せたよ。もういい、二人とも行きなさい」
「ありがとうございます。さあ、行こう」
お兄様に促され、一礼をしてお父様の前から去る。
コツンコツンと足音を重ね、招かれるままにお兄様の部屋に入る。
何度か入った事があるけれど、飾り気の無い部屋。
「適当に座れ」
「はい」
言われるがままにソファに腰掛けると、お兄様はベッドの上に腰を下ろす。そして腕組みをして私の事を見つめる。
じーっと見つめる瞳は、まるで何かを測ろうとしているように思える。
「どうしてダメなんですか、ここにいては」
どうして行きたくないのかと聞かれる前に聞いてみる。行きたくない本当の理由は、誰にも言いたくない。
少し表情を崩したお兄様がベッドに後ろ手をついて伸び、それから弾かれたように身体を起こす。
「簡単に言えば、もう俺が四六時中お前の監視が出来なくなったから」
監視、されていたのか。全然そんな風には思っていなかった。好意だけで接してくれているわけではない事はわかっていても、お兄様に監視なんて言われると、結構キツイなあ。
「言葉が悪かったか。悪い虫やらがつかないように見てたんだ」
感情が表情に出てしまっていたようで、お兄様が少し慌てて訂正する。
「だが本来の業務に戻るよう命令が来ている。父上の根回しが功を奏したようだね。といっても、我が家を蔑ろにし続けることは例え王族だろうとも難しいだろうから、そう難しい問題でも無かっただろう。どちらかというと、問題はあの方だったはずだ」
ドキンと胸が跳ねる。
あの方。お兄様がそう呼ぶのは唯一人。
「彼に、会ったの?」
お兄様は俯いたまま首を横に振る。
「会えていない。ただ俺を含む近衛に招集が掛かっているから、間違いなく幽閉は終わるようだな」
彼は元気なんだろうか。ちゃんとご飯も食べているだろうか。どこか具合を悪くしていたりしないだろうか。
「三ヶ月ほど王都を離れる。どうしてかわかるか?」
三ヶ月。どうしてそんなに長い間、王都を離れるのだろう。お兄様が仕事で離れるだけじゃなくて、それには彼も含まれるという事よね。だって、お兄様は彼を護衛するのが本来の仕事なんだもの。
「どこかにお出掛けになるんですか?」
ふっとお兄様が笑う。嫌な笑い方じゃなくて、頬を緩め、目は優しく私を見つめる。
「あの方の仕事は何かな?」
「……祭事。もしかして、大祭に?」
「そうだ。大祭を取り仕切る為に神殿に出掛けるんだ。だから、必ずまた会える。むしろここにいるよりも会える確立は高いんじゃないか」
神殿に行けば、彼に会える。
思わず右手の親指をぐっと両手で握り締めてしまう。
会いたい。彼に会いたい。
「ただ大祭の用件だけで行く訳ではないよ。お前には残酷な話かもしれないが、大祭に関して言えば代役を立てても良かったんだ。婚約者の姫君に結婚の同意を貰う為に、あの方自ら動くようにと陛下からのご下命だ」
頭の中にはある一人の女性の姿が浮かぶ。
神官長と呼ばれる、彼の従妹姫。
「じゃあ紅のほうに行くのね。お兄様たちは」
「ああ、そうだ。ただお前が行くのは蒼の神殿だ」
蒼の神殿。
ぐらりと世界が揺らぐ。あの場所に、もう一度。
あそこは、私にとって……。
「蒼のほうにも例年立ち寄っているし、今回もきっと行く事になるだろうから待っていてくれるね」
頭の中に、巫女であった日々が幾つも浮かぶ。
初めて巫女候補として立ち入った蒼の神殿。巫女として、竜の声を聴く日々。
毎日それが続くのだと思っていた、平穏が続くのだと思っていた。
二頭の竜。失われてしまったもの。
さざなみの音。空一面に広がる竜の奇跡。
お兄様の言葉が耳には一切入らなくなってしまった。
頭の中にこだまするのは、たった一人の声だけ。私が失った、私の大切な……。
ふわりと世界が空転する。
久しぶりに味わったこの感覚に覚えがある。
視界の端にお兄様の姿が見える。その手が近付いて来た時にはもう、私は闇の中に吸い込まれていってしまった。
翌朝、全ての仕度が整ってからお父様の部屋を訪れる。部屋の中にはお母様とお兄様も待っている。
お兄様はいつもの服装とは違って、初めて会った時と同じ近衛兵の制服に身を包んでいる。
部屋の片隅に、片目の神官も控えている。
「行ってまいります」
気を失ってしまって部屋に運ばれてから、ずっと考えていた。
どうするのが一番いいのか。
今もやっぱり本当は神殿に戻りたくない。けれど、ここにはもう置いて貰えない。お父様の意思は固い。
お兄様が安心して本来の業務に戻る為にも、私はここを出なくては。
本当は戻りたくなんてない。だけれど、昨日お兄様は私に約束してくれた。
「必ず迎えに行く。あの方がお前を迎えに行く時は俺が一緒だし、仮にあの方が迎えに行けなかったとしても、俺が王都に戻る前には必ず迎えに行く。約束する」
私もお兄様との約束を果たす。必ず再びここに戻ってくるわ。
「気をつけて行っておいで」
「はい」
お父様の言葉に深く頭を下げ、片目の神官に目配せする。
「参りましょう。巫女様」
その言葉に咳払いをして返す。
「私は巫女じゃないわ。その呼び方はやめて」
片目の口元が歪むように上がる。
「ではお嬢様、参りましょう」
何か引っかかるけれど、片目の言う事が嫌味ったらしいのは今に始まった事じゃない。
気にせずに片目の後に続く。
ここから蒼の神殿まで、神殿の警備兵と共に行く事になっているようだ。神殿の馬車を使って。それならば国王側もみだりに手を出す事が出来ないらしい。
一応、私も神官の制服を着て変装している。
髪を短くしていたのが、こんなところで役に立つとは。
お兄様とお父様に屋敷の玄関まで先導され、玄関で再び挨拶をする。
「何か困った事があったら、いつでも文を書くんだよ」
「はい。ありがとうございます。行ってまいります」
お父様に挨拶をし、踵を返して神殿の馬車に乗り込もうとすると、お兄様の腕が伸びてきて手首を掴まれる。
「必ず迎えに行く。いいな」
「……はい」
振り返って答えるとお兄様が手を離すので、ゆっくりとお辞儀をする。
大丈夫。私はきっとここに帰ってくる。
1週間ほど馬車に揺られ、辿りついたのは懐かしいという言葉が相応しいような蒼の神殿。正式名称を水竜の神殿という。
水竜の神殿の正門から入り、かつて神官長様が使っていた執務室に通される。
そこには長老と呼ばれる老神官が執務用の机に座って待っている。
「おやおや、お前さんかい」
手許の書類から顔をあげ、老神官が手招きをする。
「女官見習いさん、ようこそ水竜の神殿へ」
昨日お兄様から説明された。
正規の方法では神殿に入り込めないので、女官候補として神殿に送り込むと。だから今日から私は水竜の神殿の巫女じゃなくて、水竜の神殿の女官になる。
パタンと扉が閉められ、部屋の中には長老と片目だけが残る。
足音が遠ざかっていくと、長老は立ち上がってゆっくりと歩み寄ってくる。
「お帰りなさいませ、巫女様」
にっこりと笑う長老に、思わず顔が引きつる。
「……おじいちゃん」
「ふぉっふぉっふぉっ。巫女様だけよのう、ワシをそのように呼ぶのは。懐かしいのう」
一度だけしかそんな風に呼んだことは無いと思うけれど。
「しかし随分と髪を切りなさったな。一瞬誰が入ってきたのかと思ったぞ」
「ちょっと、色々あって」
老神官は皺だらけの顔に更に皺を寄せ、笑ったのか怒ったのか複雑な表情を作る。
「そのようじゃな。まあいい。巫女様が戻ってこられると聞き、皆喜んでおりますぞ」
今度は私の顔が複雑に変わる。泣き笑いのような顔に。
「あの、私はもう巫女じゃありません」
「そうじゃな。でもワシらにとって、たった一人の奇跡の巫女じゃよ。例え竜の声が聴こえなくとも、奇跡の巫女であるという事には変わりなかろう」
だから片目も屋敷で私の事を巫女と呼んだんだろうか。
奇跡の巫女。
その二つ名を拒んできた一年弱。再びそこに戻るなんて。
「まあ、表立ってはもう誰もあなた様を巫女様とはお呼び出来ませんがな。巫女は唯一人。紅竜の神殿におわす今巫女様のみじゃ。今日からは女官候補の一人。その名も身分も捨てて頂きますぞ」
にやりと笑う長老に、片目がひそひそ声を掛ける。
「あまり手の荒れるような作業はさせるなと釘を刺されました」
「ふんっ。頼んでおいて注文が多いのう。巫女様は……っと、その呼び名は相応しくありませんな。なんとお呼び致しましょうか。この神殿では本来の名や身分は皆捨てております。ワシは長老、こやつが片目と呼ばれるように、皆異名で呼ばれておるんじゃ。さて、何が相応しいかのう」
神官たちに名を聞いても頑なに教えてくれなかったのは、そういう理由があったからなんだわ。こっそり教えてくれた人も何人かいるけれど。
「やはり貴族のお嬢様をお預かりしたのですから、お嬢では?」
何故か長老がプっと噴き出す。そんな可笑しなことを片目は言っていないと思うのだけれど。直接的過ぎるとか。
「それしかないかのう。まあ、それが一番妥当かもしれんのう。便宜上、お嬢と呼ばせていただいて宜しいかな」
「はい。構いません」
思いっきり笑いを堪えている片目に、後で突っ込みを入れておこう。何がそんなにおかしいのだろう。
長老が咳払いをすると、片目の表情が元に戻る。
こほんともう一度咳払いをし、長老はチンと机の上のベルを鳴らす。
しばらくすると、コンコンと扉を叩く音がして、神官が一人部屋に入ってくる。
深く下げたままの顔をあげた瞬間、神官が思い切り目を見開く。
「新しく入った女官だ。便宜上、お嬢とお呼びする。おぬしが教育係じゃ、執事」
執事と呼ばれた神官が固まったまま動かないのを、片目が面白そうに眺めている。
「言葉もない、か」
くくっと笑う片目を、長老が横目で制する。
「通常の女官候補と同じ扱いをして良い。そちに全て任せるが構わんかのう」
「かしこまりました」
ポキっと音がするのではないかと思うほどの勢いで腰を折り曲げ、きっちりと頭を下げる。
顔をあげた執事と目が合うと、執事はまた頭を下げる。
「そういう畏まったのはいらんと言うておるんじゃ。いいか、ここにいるのはただの女官じゃ。よいな」
ポンっと書類を執事に手渡し、長老は私に向き直る。
「ここにいる間は何も心配せんでよい。誰もそなたを狙う者はおらんからのう」
どこまで長老は聞いているのだろう。私がここに来るに至った真相を。
「しかし巫女の血とはこうも厄介なものかのう。貴族のご子息がわざわざ匿ってくれと言ってくるとは」
お兄様の事かしら。ここに預けようとしたのは、お兄様だったのね。
「それにしてもいつの間に、貴族のご子息と恋仲になられたのじゃ。いやいやてっきり村におられるのかと思っていたから、爺はひっくり返るのではないかと思うくらい肝を抜かしましたぞ」
視線を片目に向けると、片目がすっと視線を逸らす。
何か、すごく何か間違って伝わっている気がするのだけれど。長老に余計な事を吹き込んだのも、きっと片目ね。
真相を話したほうがいいんだろうか、それとも口に出さないほうがいいのだろうか。迷って答えられずにいるのをどう捕らえたのか、長老は慌てた表情で手を振る。
「いやいや、責めているのではありませんぞ。血を後世に伝える事も大切な役割だからのう」
なんだか訂正するのも面倒な気がしてきた。
それに本当はお兄様じゃなくて、王族の彼なんですなんて言ったら、余計に根掘り葉掘り聞かれそうな気がするし。
もしかしたらお父様もお兄様も、わざと真相を告げなかったのかもしれない。この神殿の中に国王の協力者がいる可能性も疑って。
そう思うと、ますますもって真相は誰にも言えないわ。
「お嬢様もお疲れかと思います。今日のところはこの辺になさいませんか」
執事が助け舟を出すように切り出すと、長老はうんうんと首を縦に振る。
「そうじゃな。長旅でお疲れやもしれんな。今日はゆっくりお休みになられるといい。明日からは少しずつ女官の業務を覚えてもらいますぞ」
「はい。よろしくお願いします」
そう言って長老の部屋を後にし、執事と並んで回廊を歩く。
いつもいつも、神殿にいる間はこうやって執事と歩いていた。彼こそが私の神官だった。私の身の回りの世話などを全てしてくれていた。
無言で回廊を歩く間、誰も神官とはすれ違わなかった。
紅の神殿。正式な名では紅竜の神殿と呼ばれる神殿を建立した後、ここにいた神官の半数以上は移ってしまったから、かつてここにいた頃に比べると人がかなり少ないのかもしれない。
幾つもの角を曲がり、迷宮と呼ばれる神殿に相応しいような隠し通路のような場所を通っていくと、かつて自分が使っていた部屋のある区画に辿り着く。
しーんと静まり返って足音だけが響くことからも、この辺りには殆ど人がいないというのが窺い知れる。
無人の区画は以前とは少し様変わりしているようで、この区画の入り口に扉が付けられ、以前は無かった回廊が一本増えている。その回廊の続く先がどこなのかはわからない。
一つの部屋の前で立ち止まり、執事は以前と変わらぬ様子で扉を開ける。
その扉の先は昔のまま、私が使っていたままの部屋が残っている。調度品も、カーテンも、何もかも。
「ここは」
「ええ、以前お使いになられていたお部屋です。ただ手狭でしたので他の部屋と繋げて広くしていたりはしております」
「……どうして? 私がここに来るの、知っていたわけじゃないんですよね」
「はい。先ほどお顔を拝見して初めて知りました。今日入る女官候補が巫女様、いえ、お嬢様であると」
執事は慣れた手つきで部屋の窓を開け、締め切られて淀んでいた空気を入れ替える。
使っていなかった部屋なのに、埃も無く、かなり綺麗に手入れされている。
「ずっと、このまま取っておいたんですか」
「そうみたいですね。私が手を入れるようになったのはこちらに戻ってきてからですが、それ以前も誰かしら手入れしていたようですよ」
さらりと言いのけ、以前より広くなった部屋の中で執事がお茶の準備を始める。
「あの、自分でしますから」
ふっと執事が口元に笑みを浮かべる。
「すみません。ついついお嬢様のお顔を見ると、昔に戻った気がしてしまいまして」
作業を止め、執事がティーポットから手を離す。
「もうお会いできないと思っておりました。どのような形であれ、再びお会いできて嬉しく思っております」
私も本当は執事の顔を見た瞬間、ほっとしてしまった。巫女として過ごした七年もの間、ずっと一番近くにいたのは執事だったから。
懐かしさと、郷愁で胸がいっぱいになる。
けれど、今はもう執事に傅かれる立場には無い。あの過去と同じように接するわけにはいかない。
私は女官候補。執事は神官。
「ありがとうございます。でも今日からは私は女官なので、前みたいに何から何までしても貰うわけにはいきませんから、色々教えて下さいね」
少し困ったような顔をして、執事が笑みを浮かべる。
「かしこまりました。何かご不自由がございましたら、何なりとお申し付け下さい。新しい回廊をお使いいただければ、すぐに神殿の中枢部まで辿り着けるようになっております」
「わかりました。ありがとうございます」
「ではわたしはこれで失礼致します。食事の時間になりましたら、お呼びに参ります」
パタリと扉が閉められ、がらーんと広くなった部屋の中で一人になる。
一人になると、癖で窓際に寄っていってしまう。窓の向こう、木立の向こう側にある水竜の神殿の最深部である奥殿が見える。
「また来ちゃったよ」
はためくカーテンの向こう側に声を掛けるけれど、返答は無い。あるはずが無い。
だって蒼い瞳の竜は眠りについているのだもの。それに私は巫女じゃないのだもの。
「ねえ、春に咲く花で一番綺麗なのって何だろう。キミは何が好き?」
甲高い声が甘えるように問いかけてくる。
私の膝の上に頭を乗せて寝転んだまま、少年は両手を宙へと伸ばしている。
「好きな花? そうね、子供の頃はタンポポ積んだりシロツメクサで冠作ったりしたかな」
クスクスと笑い声がして、少年は重みを感じない身体をごろんと横に転がし、床にうつぶせになって両肘をついて顎を手に乗せる。
上目遣いで見てくる少年の蒼い瞳がじーっと私を見つめる。
「やっぱ庶民派だねー。もっと豪奢な花とか言うかと思った。でもいいや、あげる」
少年があげると言った瞬間、宙から黄色と白の花が降り注いでくる。
ふわりふわりと落ちてくる花には重さを感じなくて、少年の不思議な力が為しているのだとわかる。
蒼い瞳、実体の無い身体。そして不可思議な力。
彼がこの世を支配する水竜の化身そのものだと言って、誰が信じるだろう。
ごくごく普通の小さな少年といっても過言じゃない。見た目よりもずっと幼い中身。鬼ごっことかくれんぼ、それからお絵かきと折り紙が好きな少年。
私たちが座る場所の周りだけに咲いた花を不思議そうに見ていると、少年は首を傾げて顔を覗き込んでくる。
「嬉しくない?」
「嬉しくないわけじゃなくて、すごいなって思って。どこから出したの?」
「んー。外。ちょっとこっちに移ってねってお願いしただけだよ」
大雑把な答えだけれど、きっと細かく問いただしてみても答えてくれないだろうし、仮に答えてくれたとしても理解出来ないだろう。
「そうなんだ。ありがとう。でも抜いちゃうの勿体無いね」
「いーよ。花冠、作ってよ。ボクそういうの見たことないから見てみたいんだ」
無邪気な様子で話す少年に笑いかけると、満面の笑みを浮かべる。
一本ずつ丁寧に編みこんで、シロツメクサの花冠を作って少年の頭に載せると少年は破顔する。
「ありがとう」
その笑みと言葉に嬉しくなって、私の気持ちも幸せでいっぱいになる。
とある港町の路地。港町といっても、海に面しているのではなく、大河を縦断する船のための港がある。
お店の外に並べられたテラス席で、船の出港の時間までの間、お茶を飲んでいる。
目の前に座る青年は人々の目を釘付けにするほどの容姿をしているのに、全く人の目を気にする素振りを見せない。本当に気にしていないのかもしれない。
形だけ頼んで口をつけていないお茶のカップに指を当て、ぼーっと空を眺めている。
青年といると人の視線に晒される事が多くて、それも大分慣れたつもりなんだけれど、こうやって行き交う人みんなに見られながら飲食するのって気恥ずかしい。
なるべく早くここを出たくて、パクパクと勢いよく口にケーキを放り込んでいくと、クスクスと笑い声が聴こえる。
特徴がまるでないのに、それなのにやけに心に染み入る声の主が、私の頬についたクリームを拭う。
「慌てすぎ。子供じゃないんだから」
言いながらクリームのついた指を私の目の前に差し出すので、ペロリとクリームを舐め取る。
「そんなにお腹すいてたの?」
今、暗に舐めろっていう感じで指を差し出したのはあなたじゃない。
頬が熱くなって、青年から目を逸らす。
「そんなことないもん」
「ふーん。じゃあボクの手、食べたくなるくらい美味しそうだった?」
意地悪な問いかけに、ますます全身の血が顔に上ったんじゃないかって位、顔の温度が上がる。
青年は私の頬に手を当てて、青年の方を見るように誘導するように力を入れる。
視線が合う。
一瞬目が合ったかと思うと、次の瞬間に青年は噴き出す。
「真っ赤だ。そういう顔も可愛くて好きだな。もっともっと困っちゃえばいいのに」
「いじわる」
クスっと笑ったかと思うと、ちゅっと音を立てて青年が頬にキスをする。
「いじわるでいいんだ。だって、ボクの事が好きだからそういう顔するんでしょ。好きで好きでたまらないって顔しててよ。ずっとボクだけを好きなキミでいて」
照れもせずに言う青年に対し、私は全身の血が沸騰しちゃうんじゃないかってくらい気恥ずかしくなってしまう。
頬にキスをしたのだって、きっと大した意味なんて無いに違いない。そうすれば私がどぎまぎする事をよく知っていて、わざとやったのかもしれない。
でも、それでも、日差しのせいじゃなくて身も心も蕩けてしまいそう。
「好きだよ。ずっと一緒にいられたらいいね」
その問いに、私は何て答えたんだろう。
使い慣れたベッドから起き上がった時、頬に涙が流れ落ちる。
ポタポタと、布団の上に水玉の染みが幾つも出来ていく。
まだ夜明け前の薄暗い時間。ほんの少し東の空が白んでいる。その光が、青年の眠るところを照らしている。
蒼い瞳の竜。
少年のような姿をして、いつも遊んで遊んでと身体に絡みつくように甘えてきた。
人の姿に化け、共に旅をした数ヶ月。人間でいうなら青年のような姿で、いつもいつも甘い言葉を囁く。
ずっとずっと一緒にいようねとは言えなかった。一緒にいられたらいいねとしか、お互いに言えなかった。終わりが来ることを知っていたから。
それでも好きだった。誰よりも。たとえ人外の生き物だろうとも。
蒼い竜が眠りに付いた後も、何度も何度も夢を見る。一週間に一度とか、数週間に一度とか、頻度は色々だけれど、頻繁に思い出す。
幸せだった頃の記憶。
夢の中の私は、蒼い竜だけを追い求め恋している。現実にはもう会うこともないというのに。
ポタン。
大きな涙の粒が落ちる。
ここに来たら、過去の想いから逃げられなくなってしまうから来たくなかった。
本当は巫女を辞めた後も、村に戻りたくなかった。この神殿で、青年の眠るこの場所で、命尽きる日まで過ごしていたかった。
心の中に、彼の声が響く。
「その魂まで俺にくれとは言わない。今生だけで良いから俺の傍にいて。俺は今の、生真面目で不器用で、なのに突拍子も無い事をするお前が良い。今のお前が傍にいてくれれば、それでいいよ」
私の為に幽閉されている彼。永遠とも思える長い眠りについた青年。
「すきだよ」 二人とも。
こうなるってわかっていたから、ここには来たくなかったのに。
過去の想いに引きずられる事は目に見えていたから。ここにいたら、絶対に奥の建物に眠る竜に会いに行きたくなる。止められなくなる。
今は彼を想っているはずなのに、過去の思い出に気持ちが引っ張られてしまう。
ずっとここにいたら、過去の気持ちに戻ってしまうんじゃないかしら。それが不安で不安でしょうがない。
胸元にある青い石を握り締める。
今、あなたはどうしているの。紅の神殿に向かっているの。またもう一度会えるのはいつなのかな。
会いたいよ。会いたくて仕方ないよ。彼に。
だけどそう思う気持ちの裏側で、もう一つの欲望が顔を出す。
もう一度会いたい。竜に。
「早く迎えに来て。お兄様」
必ず迎えに来ると、3ヶ月以内に迎えに来ると言った優しいお兄様の顔が、瞳の裏側に浮かんで消える。
私がここから抜け出せなくなる前に。
竜が眠る場所から離れたくないと思うようになる前に。本当はどこよりも居心地のいい、住み慣れたこの場所から帰るのが嫌になる前に。




