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花嫁修業なのか貴族の娘修行なのかよくわからないけれど、とにかく修行な毎日を過ごして一月。
あれから彼の音沙汰は無く、国王がちょっかいを出してくる気配も無い。
屋敷の中で過ごしたり、たまにお兄様かお母様と一緒に城下に出る事もある。
かつて私が体験していたような、外の騒動とは無関係のゆったりとした時間が流れている。
彼と全く連絡が取れない事を不安には思うけれど、私にはどうしようもないので悠然と構えているフリをして待っている。
待つ以外、今の私に出来る事って何だろう。
毎日のように自問自答する。
本当は彼の為に何かしたい。彼に会う為の努力をしたい。
だけれど、それをしてしまえば、とても親切で優しい新しい家族に迷惑を掛けてしまう。
それが心苦しくて、自分が何も出来ないもどかしさも言い出せずにいる。
毎日のように、本人は暇だからというのだけれどダンスのレッスンに付き合ってくれるお兄様。
貴族の女性としての嗜みを色々と教えてくれるお母様。
そして、あまりお姿を見せる事は無いけれど、いつも優しい言葉を掛けてくださるお父様。
私の部屋に来る時には、何故かいつもお菓子を持ってきて下さる。女の子の好きなものは甘いものなんだろう? と最初におっしゃっていたから、お父様なりの気遣いなのだと思う。
優しくて温かい人たちを裏切ったり、ご迷惑を掛けるようなこと、私には出来ない。
彼の事はお父様とお兄様に任せておけばいいとお母様も言うので、はいと答える事しか出来ない。
籠の中の鳥のようだとは思わないけれど、これで本当にいいのだろうかと思う。
彼は食べる事を拒んでまで国王に抵抗しているというのに、私は毎日暢気に美味しい物を食べている。半分はテーブルマナーの練習なんだけれど。
それでも、今彼が置かれている状況を考えると、こんな風にのんびりとした毎日を過ごす事が心苦しい。楽しいと思う事も多い毎日だけど、楽しんではいけないような気がして。
今日はお兄様に連れられて、城下のとあるお店まで来ている。
何でも最近流行のスイーツで人気のお店とかで、行列の中で順番が来るのを待っている。
お兄様はどちらかというと強面なのにも関わらず、結構甘いものがお好きなようでたまにこういうお店に連れて来てくださる。
でも意外だったのは、末端とはいえ王族で名だたる貴族の子息のはずのお兄様が、ごくごく普通の顔をして行列に並ぶ事。
変な言い方だけれども、権力を表に出せば並ぶ事なんて無いような気がする。
実際に自分がその立場になって、そういう事をやるかと言われたらやらないし、仮にお兄様がそういう事をなさったとしたらあまり良い感情は抱かないけれど、貴族ってそういうものなんじゃないかなって思っていたから意外だった。
「不思議そうな顔してるね」
お兄様が私を見下ろして問いかける。
外にいる時のお兄様は「兄」モード全開になる。普段は形だけの「お兄様」なのに。
こんな風に、お兄様の事を他の誰も知らないような場所であっても。
周囲の人に私の兄であると植え付けるているのか、それとも私自身やお兄様自身に思い込ませる為なのか。
「どうして毎日甘いものを食べて太らないのかなと思ったの。私、最近ちょっと太ってきた気がするもの」
「そうか? お前は少し太ったくらいで丁度良いよ。痩せ過ぎとは言わないが、もうちょっとふっくらしたほうが可愛く見える」
さらりと言うお兄様は本気でそう思っているのか思っていないのか、あまり感情を表に出さないので良くわからない。
けれど、ものすごく口が上手いから、頬がかーっと赤くなってしまう。
「お兄様は口がお上手ね」
「そんなことないよ。妹が出来て、これでも浮かれているんだ。それにね」
「それに?」
「どうせなら自慢の妹であって欲しいからね、お前には。他人に羨ましがられるくらいの娘になってくれたら嬉しいな」
にっこりと笑みを付け足され、その笑みを正面から受け止められない。
一人っ子だった事もあって、兄という存在をどう受け止めたらいいのかわからない。
勿論、形だけの兄妹だからお兄様にとって私は彼からの預かりものという側面の方が大きいはず。
だけれどそうやって上手く乗せられてしまうと、何となくその気になってしまうというか、もっと頑張らなきゃって思ってしまう。
やんわりとした激励は、もっとその期待に応えたいと思ってしまう。
「ここで待ってて。買ってくるよ」
順番が近付き、ポンとまるで彼がするように私の頭を撫でて、お兄様は私を列の外へと促す。
長蛇の列から少し離れ、他のお店の邪魔にならないように街路樹の傍へと場所を移す。
遠めから見ても、背の高いお兄様は目立つ。
兵士として鍛えているのもあるせいだろうけれど、身体もとても大きく立派で、甘いものを好んで食べるようには見えない。
背を小さく丸めて店員にあれこれと注文している姿は滑稽にも思えてくる。
でもそれも全ては私の為なのだろうと思うと、心がくすぐったくて嬉しくなる。
恋とかじゃなくて、安心して信頼出来る存在が彼以外にも出来たことが心強い。今は周り全部が敵みたいに思えるもの。
思えば、いつもこんな風に見えない存在と戦ってきているような気がする。
巫女に選ばれた日から、私はずっと成長する事を義務付けられている。
少しでも巫女らしくなる為に、少しでも彼に相応しくなる為に。
「すみません」
ぼーっとお兄様の姿を見ながら考え事をしていると、ふいに声を掛けられる。
声のするほうを振り返ると、青白い顔をした男の人が立っている。
何だろう。もしも道を尋ねられたりだとしたら困るな。王都の中のことは全然わからないんだもの。
「……家のお嬢さんですね?」
ボソボソとした口調で聞き取りにくく、首を傾げてしまう。
何を訪ねられたのだろう。
それを同意と捕らえたのか、はたまた否定と捕らえたのかはわからないけれど、男は口元を歪める。
「やっと見つけた」
意味がわからずにいると、男はずるずるとした長いローブの端から陽光に反射する刃物を取り出す。
刃物と男を交互に見比べるだけで、声が出ない。
お兄様を呼ばなきゃと思っても、叫び声を上げることすら出来ない。
どうしよう。どうしよう。
冷や汗が全身を伝う。
この状況がかなり不味い状況だというのは、男の尋常ではない様子からもわかる。
刃物の先を向けられ、ずるずると後ろに下がりつつも、男の様子から目が放せない。もし一瞬でも目を逸らしたら、その隙に刺されてしまいそうで。
怖い。どうしよう。
咄嗟にあの禁断の名が頭を過ぎる。
呼んでしまおうか。あの名を。紅き竜の名を。助けてって叫んだら、きっと助けてくれる。
「た……」
声が裏返って、それ以上の言葉が喉に引っかかって、紅き竜の名を呼ぶことも出来ない。
じりじりと後ずさりしつつ、声が出ない事を呪う。何で、何で悲鳴さえ出す事が出来ないの。
にやりと男が笑い、その手首を返したのがわかる。
殺される。
恐怖に目を瞑りそうになった瞬間、視界に大きな背中が飛び込んでくる。
その大きな身体で私を庇うと、目の前の男があっという間に地面に沈み込む。
何が起こったのかもわからない速さで、男はお兄様に腕を捻り上げられている。
「誰に頼まれた」
「言うわけがないだろう」
にたりと笑うと、男は口の中から血を流す。
「くそっ」
お兄様は男の顎を掴み、口を開かせる。
「毒を噛んだか」
冷ややかな目で泡を噴く男を見、男から手を離す。
ぱたりと倒れるその男には興味を失ったかのように背を向け、私の身体を抱きしめる。
「どこも何も無いな?」
こくりこくりと何度も縦に首を振って答えると、お兄様は私の背を優しく撫でる。
「怖い思いをさせてしまったな。少しでも離れて悪かった」
謝罪の言葉に今度は首を横に振り、お兄様の背中に回した腕に力を籠める。そうすれば少しでも震えが止まるような気がして。
背中や頭を撫で続けるお兄様の温もりが、今は何よりも安心できる。
屋敷に戻って、お兄様は私をお母様に託すとどこかへ出かけてしまう。
何があったの? と心配そうな顔のお母様に事の顛末を話すと、その顔は蒼白になって言葉を失ってしまった。
とてもとても買ってきたスイーツで午後のお茶を楽しもうなどという気分にはなれず、部屋で一人お茶を飲んだ。そのお茶も淹れられてから大分たって冷め切った頃に。
その夜、お父様に呼ばれたので、お兄様と家族用の小さなリビングへ向かう。
小さなと言っても、かなり大きくて立派な部屋だけれど。
「昼間はすみませんでした」
お兄様が歩きながら話すので、足を止めて顔を見上げると、お兄様も足を止めて私を見つめる。
「あなたを危険に晒すなど、あの方に顔向け出来ません。それに何よりも、あなたに恐怖を味あわせてしまったことを心より申し訳なく思います」
付け足すお兄様に、首を横に振る。
「いいえ。あの男は私を捜しているような事を言っていましたから、遅かれ早かれこのような事にはなっていたと思います。だからお兄様と一緒に出かけた時で良かったです。助けていただいてありがとうございます」
困ったように眉を下げ、お兄様が私の右手を手に取る。
「私はあなた方に忠誠を誓う身。そのように気になさる事はありません」
右の親指の指輪が、お兄様にそう言わせるのだろうか。
「お兄様」
「はい」
「私はお兄様と家族になりたいです。彼から預かったからとかではなく、義理とはいえ兄弟になったのですから、本当の家族のようになりたいです」
目を見開き、戸惑いの表情でお兄様が立ち尽くす。
「敬語もいりません。忠誠なんかいりません。私は叱って下さったり一緒に買い物に行ってくれるお兄様が好きです。あ、好きといっても家族としてのですよ。普通の家族になりたいんです。それはダメですか?」
唖然としたままお兄様が固まってしまったので、それはきっと受け入れられない事なんだろう。
家族ごっこなのかもしれないけれど、実の家族であるママと過ごした時間と同じ位、今この時間が愛おしいと思う。
お父様、お母様、お兄様。そして私。
急に付け足される事になった私を受け入れて欲しいというのが、到底無理なのかもしれない。
だけれどくすぐったいくらいの幸せな家族ごっこだったから、この時間を大切にしたい。手に入れた温もりを手放したくない。
お客さんとして厚遇されて甘やかされているだけだから、そう思うのかもしれないという事は十二分にわかっている。
王都には、ここしか私には居場所が無い。だからそれを守ろうと必死になっているだけなのかもしれない。
「君は……」
何かを言おうとして、お兄様が口を噤む。
手を口に添え、考えこむように立ち尽くしてしまう。
「本気でそう思っているのかね」
いつの間にか傍にいたお父様に声を掛けられる。全然、気配を感じなかった。
「はい。図々しい言い分であるということは百も承知です。ご迷惑を掛けるばかりの私が、お父様やお母様お兄様のご好意に有頂天になって自惚れているだけの事だという事もわかっています」
否定も肯定もせず、お父様はじーっと私を見つめ続ける。
「形はどうあれ、今は私はこの家の養女です。これから死ぬまでそれは変わらないのでしたら、厚かましいかもしれませんが、この家の本当の家族になりたいです」
「何故そのように思うのです」
お父様に問われ、お兄様とお父様の顔を見る。
「昼間、暴漢に襲われた時にお兄様に助けていただきました。その時に私はお兄様が守ってくださる事が嬉しかったです。でもそれは彼の部下であるお兄様が守ってくれたからではなく、兄として妹を守ってくれた事が嬉しかったんです」
ぴくりとお父様は眉をひそめてお兄様を見る。お兄様は相変わらず凍りついたように固まったまま動かない。
「その違いはどこに感じたのかね」
「私がまだ沢山の人に傅かれていた頃、どんな事があっても周囲の人は私に触れる事はありませんでした。どんなに辛い時でも、温もりを与えてくれる人は傍にはいませんでした。けれどお兄様は震える私を抱きしめて下さった。その温もりが嬉しかったんです。本当にお兄様が私に仕えているというのなら、きっとそのような事はなさらなかったはずですよね」
ふっとお父様が口元に笑みを浮かべる。
「だから息子は君にとって部下ではないと?」
「はい。だから本当に家族になりたいと思いました。勿論、お父様ともお母様とも」
くすりとお父様が笑みを浮かべたかと思うと、冷淡な視線を私に向ける。
それは今までに見たことが無いような表情で、温かさなど微塵も無い。まるで奇妙なものを見るかのような視線にも思える。
「君はわたしにとって、政争の具の一つだ。その事はわかっているのかね」
何故だか、その一言がすとんと胸に落ち、むしろ安堵さえ感じる。
そのせいか、自然と笑みが零れる。自分の胸の内を隠す為の鎧のような笑みが。
「ええ、わかっています。百パーセントの好意だけで私を受け入れたと答えられるほうが違和感を感じます。そう思えるほど私は能天気ではありません」
火花が散るような空間がお父様との間にあるのに、怖いとか嫌だとかは思わない。
腹の探りあいかもしれないけれど、笑顔の下、好意の下にある真実が表に出てきた事が嬉しい。
なぜなら、本当に利用しようと思っているだけならば、わざわざこのような事は言い出さなかったはず。
つまり、お父様も私を測ろうとしているのだと思う。
「何らかの利点を感じ、お父様は私を受け入れる事になさったのでしょう。カイを持つ者である彼の信頼は、私を受け入れる事で対外的に大きく触れ回る事になりますし、今後彼がお父様やお兄様を重用するようになるでしょうから」
「君は利口だな。そして正直な娘だ」
ふふっと笑い、お父様の顔からは険しさが消える。
「あの方は君がそのような娘だから、君を選んだのかな?」
「さあ。彼の心は私にはわかりません。どうしてこんな面倒くさい私なんかを選んだんでしょうね」
「面倒臭い?」
問いかけてきたのはお兄様だった。
「だって、ただの村娘で田舎者でしかない私ですから、普通には王家には受け入れられないのが道理です。なのにどうして陛下に楯突いてまで私に拘るのかわかりません」
さっきとはまた違った驚きをお兄様が見せる。
「意外にドライだな。もっと夢見る乙女のようなのかと思っていたが」
「吟遊詩人の語る物語のように、ですか? ごくごく一般的に考えれば、そんな夢物語は有り得ないことは理解できます。恋だの愛だのと陛下はおっしゃいましたが、まさにその通りではないのでしょうか。本来王族の結婚にそんなものを持ち込むのはおかしいと思います」
お父様もお兄様も興味深そうに私の顔を覗き込む。
「では何故お前は今ここにいるんだ。理解しているのだろう」
お兄様の問いに、にっこりと微笑んで返す。
「好きだからに決まっているじゃないですか。他の誰にも彼を渡したくないし、彼の傍にいたいからです。理解しているという事と感情は全く別の問題です。それに私は王子だから彼が好きなんじゃないんですもの」
ぶっとお兄様が堪えきれない様子で噴き出す。
「言い切ったな」
「はい。言い切りました」
ポンっとお兄様が私の頭に手を置く。
「その恋、俺が味方してやる。兄としてな」
にっこりと笑って、お兄様が私の頭をぐしゃっと撫でる。
「それでいいですね、父上」
「ああ、構わんよ。なかなか面白い娘を下さったな、殿下も」
「本当にただの田舎娘だとしたら、あの方が選ぶわけがないでしょう。一癖も二癖もあるようなタイプが好きなんですよ。あの人は」
くくくっとお父様が笑い声を上げる。
なんだか、もんのすごく彼が貶されているような、私が変わり者だと言われているような。
「貴族だからこの家にいたいと言われるより、温もりが欲しいから家族になりたいと言われるほうが清々しい。欲の無い子だね、君は」
欲?
お父様が何の事を言っているのかわからなくて、首を傾げる。
「王冠もいらない、貴族という地位もいらない。誰もが垂涎のまなざしで見つめるものよりも、人の心を君は望むんだね?」
「だって心が無ければ、孤独だと思います。傍にいるのに心が通い合わなかったら哀しいです。経緯はどうあれ家族になったのなら心を通わせたいです。ダメですか?」
「いいや。そんなことを言われるとは正直夢にも思っていなかったんでね。驚いたよ」
クスクスと笑い声が廊下に響く。
リビングから顔を出しているのはお母様だった。
「だから言ったでしょう。その娘はとてもいい子なのよって」
お母様は妖艶とも言えるような笑みを浮かべる。
「王をも凌ぐ地位と権力を持っていた娘ですもの。殿下の身位が持つ意味くらい、わかっているのよ。その身をもって」
一歩一歩近付いてきたかと思うと、お母様は目の前に立つ。
「この先もずっと、わたくしたちにとって、あなたは本当の娘というよりも駒の一つにしか過ぎないかもしれませんわよ。それをわかっているのね? それでもわたくしたちの心を望むのね?」
試されるかのような言葉に、ほんの少し胸が痛む。
「はい。いつか本当に心の底から笑いあって、お菓子を囲んでお茶を飲みたいです。それに……」
「それに?」
問いかけてきたお母様に微笑みかける。
「信じるって決めたんです。疑っていたらきりが無いじゃないですか。だから、笑顔の裏側の意味を考えないと決めたんです」
お父様とお母様は顔を見合わせ、二人は視線で何か会話している。お兄様は心配ないよという感じでポンっと私の背中を叩く。
「夫婦喧嘩した時に帰ってこられる場所くらい用意しておきますよ。だから安心なさい」
さらりとお母様が言い、お父様が苦笑いを浮かべる。
いつかはきっと受け入れてくださるかもしれない。今は無理でも。
「さて本題について話し合いましょう。立ち話では疲れてしまうわ。部屋に入りましょう」
お母様に促され、お兄様に背を押されて部屋に入る。
「あの暴漢、やはり陛下の手の者と見て間違いないか」
「はい。それが自然でしょう。もしくは陛下が直接命令を出したのではなく、陛下の一派の者の仕業でしょう」
ふーっとお父様が溜息をつく。
「やはりそうか。この一月、色々潰してきたが、そろそろ限界かもしれんな。ここまでなりふり構わずやってくるとはな」
お父様は一層深く眉間に皺を寄せ、深い溜息をつく。
「用意は出来ているのか」
「はい。手筈は整っております」
「そうか……心苦しいが、その手を使うしかあるまいな」
お父様のその言葉を最後に、部屋の中には沈黙が流れる。
誰もが言う言葉を見失ったかのように、長い長い静寂が部屋を支配する。時々溜息が部屋の空気を重たくするが。
お父様がお兄様に目配せし、お兄様は部屋の外に姿を消す。
パタンと小さな音を立てて扉が閉められると、お父様は私の右手を手に取る。
「すまない。ここではもう君を守りきれない」
申し訳なさそうにお父様が頭を下げる。
「ここにいる限り、君は命を狙われ続ける。不本意ではあるけれど、君を信頼出来る場所に預けようと思う」
お父様のその言葉を聞くのと、お兄様が扉を開くのが同時だった。
「強固な守りと厳重な機密、そして誰も入り込めない迷路の中へ」
その言葉を聞きつつ、視界に入ってきた人物に目を配る。
お兄様の後に、頭を垂れたままの旅人が連れ立ってくる。その人が顔を上げた瞬間、息を呑んだ。それは私にかつて跪いていた人の一人。
その人物はお兄様の横で、膝を折って私のほうを見る。
「お迎えに参りました。どうぞその身を我らにお任せ下さい」
隻眼の、外部諜報員として働いている神官の言葉に素直に同意できず、お父様の顔を見る。
「すまない。全てわたしの力不足だ」
それ以上の言い訳はせず、お父様は頭を垂れる。
その代わりにお母様が私の元にやってきて、右の人差し指に一つの指輪を嵌める。
「これはこの家の紋が刻まれた指輪。あなたがこの家の大切な娘である証明。息子も同じデザインの物を身に着けているのよ、決してあなたを手放すわけではないわ。守る為に預けるだけよ」
指に煌く白銀の指輪は見事な彫刻が施されている。この家がかなりの財力と権力を持っていることを、この指輪一つでもわかる。
それほどの家にありながら、私を守りきれないという事は、きっと私が知らないところで様々な陰謀が渦巻いているのだろう。
片目の神官と視線が合う。
「敢えてこう呼ばせて頂きます。巫女様、どうぞ我らの元へお戻り下さい」
膝を折り、額を床にこすり付けんばかりに頭を垂れる神官と、その横に立つお兄様を何度も見比べる。
お兄様は苦渋の表情を浮かべ、神官を見下ろしている。
「私はもう巫女じゃありません」
震える唇で言えたのは、そんな瑣末な一言だけだった。