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カチャリと音がする。
扉を開く音に目線を上げると、いつもの仏頂面のままのお兄様が部屋に入ってくる。
「今大丈夫ですか」
「はい」
お兄様は大柄な体つきからは想像がつかないような繊細な動きで扉を閉め、真向かいの席に腰を下ろす。
「何をしていたのですか」
「先ほどまで爪を整えて貰っていたので、マニキュアが乾くのを待っていたんです」
にこりともせず、お兄様が爪をちらりと見る。
何も感想は無いのか、特に興味も無い様子で溜息をつく。
「こういった事には疎いので母任せですが、不都合はありませんか」
「いいえ、とてもよくしていただいております。ありがとうございます」
少しだけ眉を下げたような感じだけれど、やっぱりあまり表情が変わらない。
この家の娘になってから、お兄様は日に何度かこうやって足を運んでくれる。私がお兄様の上司である彼からの預かりものだから。
「母も娘がいなかったので喜んでいるようです。あなたが来て、この家も華やいだ気がします」
お世辞かもしれないと思いつつも、ちょっとだけ嬉しい。
お母様もお父様も色々と心を砕いて下さっているのがわかるので、何も出来ないのが歯痒かったりしていたから。
お礼に何かをと思っても、私が出来る事といえばパンを焼いたりお菓子を作ったりというようなことなのだけれど、そういった事は貴族の娘がやるには相応しくないらしい。
お父様の話だと、遠縁ではあるけれど王族とも血の繋がりがあるらしく、王城の中に一室与えられているらしい。
文官として、大臣として重鎮の立場にあるお父様。そして王子である彼の片腕であるお兄様。
そのどちらをとっても、この家が王都においてかなりの地位を保持している事が窺える。
「お兄様、お茶でもいかがですか」
「いただきます」
堅い表情のままのお兄様が珍しく長居をしてくれるようなので、立ち上がってお茶の準備に取り掛かる。
あ。そうだ。爪を塗ったばかりだったんだわ。
ポットを手に取ろうとして途方にくれていると、お兄様に声を掛けられる。
「そういう事は自らしなくてもいいんですよ」
手早くお兄様が部屋の中にいる侍女に指示を出し、私には座るように声を掛ける。
どうもまだ身の回りのことを人にして貰うことに慣れない。ほんの一年位前まではそういう生活をしていたのに。
テーブルの上にお茶のセットが整うと、お兄様が人払いをし、部屋の中には二人きりになる。
あまり口数が多くない人なので、こういう時なんて声を掛けたらいいかわからず、爪の色が剥がれないように気を遣いながらティーカップを手に取る。
お兄様もまたお茶を口に運び、ふうっと息を吐く。
「あの方に、今日もまたお会いできませんでした」
彼が王城に行った日から、お兄様は一度も彼に会えていないらしい。
「そうですか。随分日が経ってしまったのに、どうしたのでしょうね」
苦渋の表情といった感じで、お兄様はまた大きな溜息をつく。
「今まで一度もこのような事はありませんでした。父に聞くと、父もあの方にお目通りが叶わないと申しておりました」
どういうことなのだろう。
お父様もお兄様も要職についておられ、文官として武官として彼を支える重要な役目を頂いているはず。その二人が会えないなんておかしいわ。
「あの方を上回るお力を持つのは陛下のみ。つまり陛下のご意向が働いているという事なのでしょう」
「陛下の……」
「あの方にお会いできない以上、こちらとしては手詰まりですね」
確かにお兄様やお父様がどのように立ち回るかは、彼の一存で変わってしまう。なのに命令一つ無いままでは、二人とも動きようが無い。
「私を匿っているせいで、お父様やお兄様にご迷惑が掛かっているのではありませんか」
本来なら重鎮であるお父様や、武官として近衛兵を束ねているお兄様。お二人がこのように扱われるのは私のせいなんじゃないだろうか。
私のほうをちらりと見た後、お兄様はテーブルの上に両肘をついて私の顔を見る。表情は全く変わらないまま。
「もしも私を養子になさらなければ……」
「それは当家が殿下のご意思に基づいて決めた事です。あなたが気に病む事はありません」
でもなんて言っても、一人で悲劇に浸るだけだ。
私を受け入れたのは彼の意思。そしてお父様やお兄様の判断。
そこには政治的意図も働いているはずだろうから、口を挟むなという事なのだろう。
「ご迷惑をお掛けして申し訳ありません」
それだけは伝えたかった。迷惑をかけていることには変わりないから。
「いいえ。気にしてはおりません。それよりも、ダンスの練習ははかどっていますか」
お兄様の質問に、思わず怯んでしまう。
「い、いえ。あまり順調とは言いがたいです」
ふーっと溜息をつき、お兄様は頭を掻く。
「困りましたね。陛下から招待状が届いております。恐らく舞踏会とまではいかないでしょうけれど、貴族の社交の場といえばダンスは付き物です。まして今回はあなたのお披露目の意味合いもありますから、何人にも誘われるでしょうね」
そんな事言われても。
まだダンスの練習始めたばっかりだから、優雅に踊れなんて言われても無理だよ。
「ターン、ステップ。付け焼刃でも何とかなるようにしましょう」
おもむろにお兄様が立ち上がり、手を目の前に差し出す。
「どうせ仕事も無くて暇なんで、いくらでもお付き合いしますよ」
手を重ねてから、あっと気付く。
「すみません。まだ爪が乾いていないかもしれません」
くすりとお兄様が笑顔を見せる。
「手を握る前に気付いてよかった。では乾くまで少し話でもしましょうか」
手を離し、また同じ椅子に腰掛ける。
「さすがに神殿ではダンスは教えてくれませんでしたか?」
「え? あ。はい。あの、どうしてそれを?」
頬を緩めてお兄様が私を見つめる。
「あの方のお傍仕えをしておりますから、あなたのお姿を何度も拝見しておりますよ。ですから、どのようなお立場の方であったのか、よく存じております」
そうなんだ。だからあっさり私のことをお父様は養女にして下さったのかしら。
お兄様はその表情をあまり変えないので、たとえ笑みを浮かべていても真意が読みにくい。本心を笑みで隠しているようにも思える。
「祭壇に立つお姿と、今の妹としてのあなたが結びつき難いですね。神々しいまでの威圧感があなたにはあったのに、今ここにいるあなたにはそれを感じません」
「そうみたいですね。神官たちにもそのように言われた事があります」
「どちらが本来のあなたの姿なのでしょうか。普段はあのような事は無いのですか」
「ありません。それも多分、あの職務に就いていたから出来た事で、今の私にはあのような事は出来ないと思いますよ」
胸の中に苦味が広がっていく。
私の過去を知るが故に、お兄様もまた私にあの時のような姿を求めるのだろうか。
この人も、奇跡をと口にするのだろうか。
「そうですか。ということは、あの方は神々しいお姿に惚れたのではなく、ごくごく普通のあなたに惚れたということですね?」
かーっと頬が赤くなる。
他の人に言われると、なんだか気恥ずかしくて落ち着かない気分になる。
客観的に彼が私に惚れたとか言われると、むずがゆい。
「本当に普通のお嬢さんなんですね。あ、悪い意味ではないですよ」
首を傾げると、お兄様は苦笑して誤魔化すようにお茶を口に運ぶ。
「どちらの姿もあなたなのでしょうけれど、二つの姿がどうにも結びつかないのですよ。あの時の神々しさと、ダンスという言葉に顔を青褪めて、あの方の事を言えば頬を染めるあなたが」
「私はもう巫女ではないのですから、あのような事は二度と出来ません。あれはあの時だけの魔法みたいなものです」
「なるほど。だからあなたもあの方も、その事実を隠されるのですか」
思いがけない事を言われ、一瞬にして固まってしまう。
そんな事を言われるとも思っても見なかった。
元を正せばお兄様が私の過去を知っているとも思っていなかったので、かなり意表を付かれてしまった。
「恐らく過去を隠さなければ、あなたは今頃、堂々とあの方の隣にいることが出来たと思いますよ」
やっぱりそうなのかな。ちくりと胸が痛む。
彼と離れずにいたかったら、やっぱり秘密を全部表に出してしまえば良かったんだわ。
「でも公表してしまうと、彼にも迷惑が掛かります。過剰なまでの期待を求められ、失望されて罵られるかもしれません」
「と、言いますと?」
「私が持つ二つ名は、今なお有効なものではありません。彼にも話したことがありますが、私が特別な力を持っていたのではなく、全ては二頭の竜神の力があったからこそ。私はあくまでも通訳のような役割をしただけなんです」
「それで?」
促すようなお兄様の言葉に頷き、話を続ける。
「けれど私の過去を知った人はもれなく、あの当時の私にも出来なかったことですが、人外の力を発揮する事を求めます。そして結局は出来ない私に失望していくんです」
「そのような事があったのですか」
「はい。例えば病身の身内を助けて欲しいとか、明日の天気を希望通りにして欲しいとか、大よそ人でも竜でも出来かねるようなことばかり求められました。それは私本人だけではなく、母や村の他の人々も同様に求められていました」
眉を寄せ、お兄様は険しい顔をする。
「大衆心理というのは計り知れないな」
独り言だったのかもしれない。呟くように言う口調からは敬語が消え、いつものような一本調子でもない。
「それから、私を何としてでも血族に迎えたいという人もそれこそ山のように。一人で出歩くと襲われる危険があるからって、例え村の中であっても、一人で歩き回る事は禁止されていたんですよ」
思いっきりお兄様が険しい顔になり、眉間には深く皺が刻まれる。
「そんなに警戒していたという事は、何度か……」
言いにくそうに言い淀むお兄様に首を縦に振る。
「ええ、幸いなんとも無かったですけれど。私と間違われて嫌な思いをした子もいます。止めに入って怪我をした人たちもいます。暴漢っていう言葉が相応しいような人が何人もいましたよ」
思い出すのも嫌な出来事なので、なるべく思い出さないようにしながら言葉を紡ぐ。
そうしないと恐怖感で押しつぶされてしまう。
今は「大丈夫だよ」って抱きしめてくれる彼も傍にはいない。一人で恐怖感に打ち勝てる気がしない。
「嫌なことを思い出させてしまって、すみませんでした」
「いいえ。大丈夫です」
指先から血の気が引いているけれど、握り締めて誤魔化す。
大丈夫。ここにはあんな事をするような人たちはいないんだから。
「青褪めて」
彼のよりも、もっと太くて無骨な指が頬に触れる。
思わずびくっと震えてしまうと、その指もぴくりと揺れて離れていく。
「……怖い思いをさせてしまいましたね」
俯くお兄様の表情が強張っている。
「大丈夫です。お兄様が私に危害を加えないとわかっていても、思い出してしまうと駄目なんです」
「いいえ。こちらも無神経でした。申し訳ない」
ぎくしゃくといった感じのお兄様が大きく深呼吸する。
「だからあの方は、あなたを当家にお預けになられたのですね」
「え?」
「私も父も決してあの方に背くような事はしませんし、あなたに奇跡を求めるほど現状困窮してもいません」
お茶を口に含んだかと思うと、お兄様は口元を片側だけ上げて笑う。
「これはきつい試練ですね。己の力量が試されているのですから、あの方に」
それは私に向けられているというよりも、今はここにいない彼に向けられた言葉のようにも聞こえる。
「あなた方が過去を秘密にする理由もわかりました。ですので、私もまたあなたの秘密を守りましょう。大切な妹に手を出す輩が増えても困りますしね」
イタズラっぽい笑みを浮かべて、一瞬だけ片目を閉じる。
「ではまずは当家の姫としてどこに出しても恥ずかしくないように、ダンスでもしましょうか。爪はもう乾いているようですよ」
立ち上がってお兄様はその手を差し出す。
やっぱりダンスの特訓はしないといけないんだ。
逃げ出せるなんて思っていたわけじゃないけれど、自分のリズム感の無さを披露してしまうのが躊躇われる。
「先生の足を何度も踏んでしまっているんですが、平気ですか?」
「鍛えていますから平気ですよ」
ニコニコと笑っていうので、それ以上抵抗を見せる事も出来ない。
覚悟を決めてお兄様の手に手を重ねると、きゅっと無骨な手には似合わないほど優しく握られる。
「時間はあるようで無いですから、特訓しましょうね」
その笑顔がすっごく怖かった。絶対スパルタ式だ、この人も。
「そうそう。一通り練習が終わったら、城下でかなり評判のお菓子を買ってきましたから、一緒に気分転換しましょう」
見事な飴と鞭に、ただ「はい」と答えるしか出来なかった。
そして予想通りスパルタな数時間を過ごした。
特訓も1週間になると、さすがにそれなりの踊れるようになってくる。
お兄様は「何とか合格点ですね」と辛目の採点だったけれど、招待状に書かれた日程にはどうやら間に合ったみたい。
お父様とお兄様、それにお母様と共に王城へと足を運ぶ。
馬車に揺られ、未だ一度も渡った事の無い王城へと続く橋を渡る。
以前、今の国王である彼の兄が即位した時、ここはとても遠い存在に感じていたのに。今は難なく王城の内へと招き入れられてしまう。
城の中にあるお父様に与えられた部屋の中で、お母様と二人でお呼びの声が掛かるのを待っている。
目の前に座るお母様はゆったりと腰掛け、沢山の宝石の重さなど感じさせない涼やかな表情を浮かべている。
それに比べたら私は貧相に見えないだろうか。
養女となってから、かなり沢山の教師をつけていただいて行儀作法など習ったけれど、きちんと身についているかな。
不安や落ち着かなさからきょろきょろと周囲を見回していたりすると、お母様がくすりと笑みを浮かべる。
「緊張しなくても大丈夫よ。思っていたよりも基礎がしっかりしていると、先生方にも評判でしたもの」
「はい。おかしなところはありませんか」
「大丈夫よ。ちゃんとわたくしの娘として胸を張っていればそれで十分よ。あとは胸の石と、あなたの指に嵌まる指輪が全て助けてくれるわ」
お母様は心をほぐすような笑みを浮かべる。
「息子一人だったから、娘が出来て嬉しかったのよ。すぐにお嫁に出してしまうのはつまらないわ。もっとこれからは女同士で楽しみましょうね」
突然現れて養女になった私にも、お母様は優しく接してくださる。
こんなにも温かく迎えて貰えるなんて、すごく恵まれている。
「宝石の人。あなたのことを周囲はそう呼ぶわ。殿下が愛された人だと、その石と指輪を見れば誰にでもわかってしまうわ。もしも嫌な思いをしたなら、ちゃんとわたくしかお父様に言うのよ。きちんと対応しますからね」
「どうしてそんなに良くしてくださるんですか? お父様もお母様も」
疑念がどうしても拭えずに口に出すと、お母様はふふっと声に出して笑う。
「あなたは大切な殿下からのお預かりものですもの。そう言えばあなたは納得するのかしら?」
笑みの下、普段見えない仮面の下の素顔が透けて見える。
「そうじゃないわよね。あなたは自分がわたくしたちに疎まれて当然の存在だと思っているのでしょう。だからわたくしたちの好意を素直に受け取らないのよね」
白く細い指が、私の髪飾りを直す。
至近距離で見ても、その年齢を感じさせないくらい美しいお母様。実の母とはまるで違う、優雅でたおやかな女性。
「形式はどうあれ、あなたをわたくしたちは娘として受け入れたの。たった一人の娘に愛情を注がないはずが無いでしょう」
でも、それだけとは思えない。
「上手く事が運べば、お父様にもお兄様にも色々有利になりますよね。そういった……」
お母様は笑みを浮かべたまま首を横に振る。
「無粋よ。それにリスクが無いわけではないのよ。そうですわね、あなた」
いつの間にか部屋の中に入っていたお父様が、やはりお母様と同じような笑みを浮かべたまま座っている私の前に跪く。
「王宮の中のゴタゴタを気に病む事はないよ。リスクもメリットも全部承知の上で君を娘として迎え入れた。今はわたしたちの娘として、堂々と振舞えば良い」
手を差し出し、お父様が微笑む。
「ただ、これは預かっておこう。余計なゴタゴタを引き起こしかねないからね」
そう言うとお父様は私の右の親指に嵌まる指輪を外して、そっと懐にしまいこむ。
怪訝そうな顔をするお母様の様子などまるで気になさる様子も無く、にっこりと私に微笑みかける。
「屋敷に戻ったら帰すから安心しなさい。決して無くしたりもしないよ。さあ、陛下がお待ちかねだ。行こうか」
きっと何を聞いても、この笑顔の下の本心は見せて下さらないのだろう。
お母様やお父様の言うように、娘に迎え入れた事で様々なゴタゴタがあるのだろうけれど、それでもなお私を受け入れたという事実は変わりない。邪険にされているわけでもない。
預かりものだから大切にされているだけかもしれないし、お母様の言うように娘が出来た事を楽しんでいらっしゃるのかもしれない。
そのどちらだとしても、お二人の顔に泥を塗るような真似はしないようにしよう。
娘として何も出来ない私には、それくらいしかないのだから。
長い回廊をお二人と共に歩き、音楽の音が徐々に近付いてくる。
お兄様の、招かれたからにはダンスをする機会があるというのは本当のようだ。
扉の前でお父様が私の手を再度繋ぎなおす。
「胸を張って、前だけを見なさい」
「はい」
扉のところに立つ近衛の制服に身を包んだ兵士が扉を開ける。
耳に飛び込んでくる多彩な音楽、そして色とりどりのドレスとむせ返るような花の香り。
その全てが一瞬途切れ、また何も無かったかのように動き出す。
お兄様が私たちに気付いたようで、花のように美しい貴婦人たちに背を向けて歩いてくる。
「妹は自分が」
「ああ、よろしく頼んだよ」
私の手をお父様がお兄様に引き渡すと、お兄様はにっこりと私に微笑む。
「お父様は色々ご多忙だから、こちらにおいで」
こくりと頷くお父様に軽く頭を下げ、お兄様を見上げる。
「頼みましたよ。当家の大事な箱入り娘なのですからね」
お母様が釘を刺すように言うのを、お兄様が苦笑いで受け止める。
「畏まりました。お任せください」
お父様の腕にお母様が腕を絡め、何人かで話し込んでいる一際立派な装飾の施された服を着ている一団に混ざる。
ぱっと見た感じの雰囲気や衣装からすると、きっとお父様と同じような地位にいらっしゃる方たちなのだろう。
「あまりじろじろと見るのはお行儀が良くないよ」
言われて顔を上げると、普段からは想像もつかないような笑みを讃えたままのお兄様が手に力を籠める。
頷き返して前を見据えて広間を歩く。
あからさまに見てくる人、こそこそとした様子で何やら話している人。まるで見世物を見るかのような表情をする人。
あまり心地良い視線や雰囲気ではなかったけれど、気付かないふりをしてお兄様と壁際まで歩く。
お兄様だって周りの様子には気付いているのだけれど、表情を全く変えようとはしない。
ふっと視線を感じると、遠巻きにお母様がこちらを見ているのがわかる。けれど、視線が合うとすぐに目を逸らされてしまう。
恐らく心配してくださっているのだろう。色んな意味で。
「お酒は平気なほうかな」
今は完全に兄モードのお兄様で、屋敷にいる時のように敬語で話したりしない。
敬語で話していると不自然だからそうすると、屋敷を出る前に言われた。
「はい」
返事をすると、お兄様にグラスを一つ手渡される。
教えられた作法どおりに受け取って口をつけ、片手に持ったままお兄様と話をする。
「随分と主張したな。その服は母の見立てかな?」
「はい」
胸が大きく開いた青いドレス。以前に彼から贈られた巫女の時の正装に良く似た色をしている。
そのドレスの色と、石の色が対になっているかのようで、自然と視線は胸元に光る宝石へといくらしい。兄の視線も石で止まる。
「最初からこんなに大々的に公表しなくてもいいと言ったんだが。父や母は違ったようだね」
くいっとグラスの中の甘いお酒を飲み、お兄様は苦笑いのような表情をする。
「会えるといいな」
「お兄様も」
言うとふっとお兄様が笑う。
私が彼と会えない期間と同じ間、お兄様も彼に会えていない。
きっとお兄様だって彼に会いたいはずだわ。そう思って言ったんだけれど、あながち外れというわけでもないらしい。
「あまり壁の花というのも、お前をお披露目する意味が無いからね。一曲お相手いただけますか」
壁の花のままでもいいのに。やっぱり踊らないといけないんだ。
覚悟を決めてグラスを手放し、お兄様に手を取られて広間の中央へと歩く。
なるべく優雅に、背筋を伸ばして。音をちゃんと聞いて。
何度も何度も注意された事を思い出す。
「大丈夫。ちゃんと出来るよ、お前なら」
さらりと、昨日まで自分が鬼教官だった事を忘れたかのように言う。
お兄様はダンスだけじゃなく、口も上手い。
「はい」
それ以上は音楽がダンスのスタートを告げるので、リードされるままに身体を動かす。
1、2、3。1、2、3。
頭の中でリズムを取る事に集中し、ドレスで見えない足元の動きに集中する。
「顔を上げて」
言われて背筋を伸ばして見上げて、お兄様に微笑み返す。
今日だけで、今までの日数で見たお兄様の笑顔の回数を余裕で越えている気がする。笑顔の大安売りみたい。
まさに外面がいいのだろう。屋敷では仏頂面でいる事のほうが多いもの。
一曲終えると、見知らぬ男性に声を掛けられる。
「一曲お付き合いいただけますか」
お兄様の方を見ると、その手を離して声を掛けてきた人の方に私の手を差し出す。
「どうぞ」
ああ、やっぱりお兄様以外とも踊らなくてはならないのね。
溜息や失望を押し殺し、男性にリードされるままにダンスをする。
そういったことが何度も続いて、片手では数え切れなくなってきた頃、ざわめきが部屋の中に起こる。
丁度曲の切れ間で、カツンカツンと杖を突きながら男性がこちらに歩み寄ってくる。
男性は笑みを浮かべているものの、その瞳は笑っていないように見える。
今までダンスをした相手の男性たちが私に向けた、好意的な視線とは違う。
誰もその人を止めようともしないし、場が凍りついたように静まり返る。
お兄様やお父様を視界を巡らせて探したけれど、そのどちらも視線はその男性に向けられていた。
もしかしたら、この人……。
「君が公爵の新しいお嬢さんだね」
目の前で立ち止まった相手を見上げ、それから膝を折って礼をする。
「はい。どうぞお見知りおき下さいませ」
「君に話がある。こちらに来たまえ」
「畏まりました。陛下」
両方の口元を少しだけ上げ、男性が目を細める。笑っているのに、笑っていない。
ぞくりと背中に寒気が走った。