第三部:氷龍の涙と双つの王冠 侵蝕するバグ(2)
「……少し待ってくれ、蓮。今着替える」
俺は扉越しにそう声をかけ、震える手を強く握りしめた。
深呼吸を一つ。肺に空気が入ってくる感覚がある。心臓が動いている。まだ、俺はここに「在る」。
「テクノ。さっきのことは……」
「わかってる。言わないんでしょ?」
テクノが悲しげに耳を伏せる。
俺はしゃがみ込み、相棒の目を真っ直ぐに見つめた。
「ああ。ただでさえ、みんな満身創痍なんだ。それに、俺が『消去対象』だなんて知られたら、仁たちは何をしてでも俺を守ろうとするだろう」
あいつらのことだ。俺のために、国中の文献をひっくり返したり、危険な儀式に手を出したりしかねない。
それが原因で、彼らまでシステムに「バグの協力者」と認定されたら?
――それだけは、絶対に避けたかった。
「……勇三郎がそう決めたなら、僕は従うよ。でも、絶対に無理はしないで。次、あの発作が起きたら、僕のリソースじゃ支えきれないかもしれない」
「ああ、肝に銘じておくよ」
俺は冷たい水で顔を洗い、鏡の中の自分に向け、「いつも通り」の笑顔を作った。
大丈夫。まだ笑える。まだ誤魔化せる。
ガチャリ。
扉を開けると、そこには整った身なりの蓮が立っていた。
彼は俺の顔を見るなり、わずかに眉をひそめた。
「……顔色が悪いな、勇三郎。昨夜の消耗が抜けていないんじゃないか?」
「ああ、ちょっと嫌な夢を見てな。……それより、アルフォンス殿下が呼んでるんだろ? 行こうぜ」
俺は努めて明るく振る舞い、蓮の肩を叩いて歩き出した。
蓮は一瞬、何かを言いたげに口を開いたが、結局何も言わず、無言で俺の後ろについてきた。
その鋭い洞察力を誤魔化しきれたかは怪しい。だが、今は追求してこない優しさに甘えるしかなかった。
***
砦の最奥にある作戦会議室。
重厚な円卓を囲んでいたのは、アルフォンス王子、ベルク王子、そしてセリナ。
俺たちより先に到着していた仁と燈実も、すでに席についていた。
「よく来てくれた。……身体の具合はどうだ?」
アルフォンスが気遣うような視線を向けてくる。
俺は内心の動揺を押し殺し、背筋を伸ばして答えた。
「問題ありません。それで、極秘の話というのは?」
俺が席につくと、テクノが足元にぴったりと体を寄せてきた。まるで、俺のデータが再び霧散しないよう、物理的に繋ぎ止めておこうとするかのように。
アルフォンスは一つ頷くと、円卓の中央に置かれた古びた羊皮紙――地図を広げた。
そこには氷の国の全土が描かれているが、北の果て、地図の空白地帯に赤い印がつけられていた。
「昨夜の戦いで、我々は多くのものを失ったが、同時に得たものもある。……ガルムが隠し持っていた、古代の航海図だ」
アルフォンスが赤い印を指差す。
「ここだ。伝承にある**『龍の墓場』**。世界の全ての龍が、その役目を終えて還るとされる場所」
「龍の……墓場……」
セリナが息を呑む。
そこは、氷の国のさらに北。永遠の吹雪と流氷に閉ざされた、**『白き虚無の海』**の中心だった。
「ガルムの目的は、ここの封印を解き、眠れる龍の魂を兵器として利用することだった。……だが、問題はそれだけではない」
アルフォンスの表情が険しくなる。
「この座標周辺から、異常な魂力の数値が観測されている。昨夜の『黒い霧』と同じ反応だ。おそらく、調停者が言っていた通り、ここがシステムの『ゴミ捨て場』のような役割を果たしている」
――ゴミ捨て場。
その言葉に、俺の右手がピクリと反応した気がした。
失敗したデータ。不要になった魂。そして、バグと認定された存在が行き着く場所。
(……俺が還るべき場所も、そこなのか?)
恐怖と同時に、奇妙な引力を感じた。
そこにシステムの根幹に関わる「何か」があるなら。
俺の身体を蝕むこの「削除命令」を解除する手立ても、そこにあるかもしれない。
「危険な場所だ。通常の船では近づくことさえできん。……だが、放置すれば、あの黒い霧が世界中に溢れ出し、全てを飲み込むだろう」
アルフォンスが俺たちを見渡す。
「我々は調査隊を出すつもりだ。だが、あの『霧』に対抗できるのは……」
「俺たちしかいない、ってことですね」
俺が言葉を引き取ると、アルフォンスは苦渋の表情で頷いた。
「……すまない。他国の、しかも年若い君たちに、これ以上頼るのは心苦しい。だが……」
「水臭いこと言わないでくださいよ、殿下!」
ドンッ!
仁がテーブルを叩いて立ち上がった。
「乗りかかった船だ。それに、あの黒いモヤモヤ、放っといたら日の国だって危ねぇんだろ? だったら、元を断つまで付き合いますよ!」
「ああ。中途半端は性に合わん」
燈実もニヤリと笑い、蓮も静かに頷いた。
みんな、迷いがない。
その眩しさが、今の俺には少しだけ痛かった。
「……勇三郎。君は、どうする?」
セリナが不安そうに俺を見る。
俺は足元のテクノに視線を落とした。
テクノが見上げている。その瞳は「行こう、勇三郎。そこに答えがあるはずだ」と語っていた。
俺は顔を上げ、仮面を被り直した。
不敵な、いつもの参謀役の顔を。
「行きましょう。世界のゴミ捨て場だろうが何だろうが、俺たちの未来を勝手に捨てられてたまるか」
俺の言葉に、全員の士気が上がる。
だが、テーブルの下。
俺の膝の上で握りしめた拳は、またしても小刻みに震え、一瞬だけ――指先が透けて、ノイズのように明滅した。
それに気づいたのは、寄り添っていたテクノだけだった。




