第2話 婚約は、白紙に戻されました
六つ目の席の意味は、すぐに分かった。
席についてから、私たちは少し待たされた。出された茶は温度も香りも申し分なかったけれど、ガストンの指先が、ずっと膝を叩いていた。この家の格がどうとか言いながら、この人もまた、緊張していたのだ。
アデーレは背筋を伸ばして座っていた。馬車の中で握らせた石は、もう手から離れていた。手順通りに。私は娘の横顔を見て、そう思った。
遅れて入ってきたユーリス様の後ろに、若い令嬢が一人、立っていたからだ。
「紹介します。男爵家のサフィア嬢。本日の席に、同席を願いました」
応接間の空気が、目に見えて変わった。ガストンは目を剥き、私はアデーレの手を、膝の下でそっと押さえた。
上座のオズワルド様が、低い声で言った。
「……ユーリス。客人の顔ぶれは、私も事前に聞いていない」
「父上には、事後承諾をいただこうと思いまして」
悪びれもせず、ユーリス様は六つ目の席を引いた。サフィア嬢は、華やかなドレスの裾をさばいて座った。彼女の視線は一瞬、部屋の白い花に向けられた。あの花の量は、彼女のための祝いのつもりだったのかもしれない。だとしたら、趣味の悪さだけが際立つ話だった。
茶が運ばれてきた。公爵家の作法は正確で、湯気の立つ順番にも乱れがなかった。けれど、誰もその茶に手をつけなかった。
私はその様子を、どこか遠くから見るように眺めていた。手順は、崩れていた。挨拶も、確認も、印も、もうどこにもなかった。残っていたのは、私の用意した「最悪の場合」の紙だけだった。
ユーリス様は席に着くなり、言った。
「婚約の件ですが、白紙に戻していただきたい」
理由は、並べるのも疲れるものだった。アデーレは大人しすぎる。伯爵家の格が落ちた。心惹かれる方が、目の前にいる。
「サフィアは明るく、社交界に相応しい。妻にするなら、こういう女性だと分かりました」
アデーレの手が、膝の上で小さく震えていた。私はその手に、自分の手を重ねた。
ガストンの声が、横から割って入った。
「ユーリス様、お待ちを。この話は、場を改めて……」
「改めたところで、答えは変わりません」
きっぱりと遮られたガストンは、言葉を失った。その沈黙が、この人の優先順位を語っていた。娘の将来より、家の格。格を守るために、この人は場を取り繕おうとしたのだ。
「分かりました」
私がそう言うと、ユーリス様は意外そうな顔をした。部屋の誰もが、同じ顔をしていた。大泣きも、取り乱しもしない相手は、想定していなかったのだろう。
「ただし、条件があります」
私は記録帳ではなく、今日のために用意した別の紙を取り出した。この紙を用意した自分を、私は少しだけ、褒めたい気持ちになった。最悪の事態は、想定した者の勝ちだった。
「破棄の申し出は公爵家からであること、その旨を文書に残していただくこと。アデーレの亡き母の形見と、私がこの十一年で整えた娘の持参道具は、全て返還していただくこと。この二つです」
「……文書まで、必要か」
「ええ。口約束は、社交界では形を変えます。『伯爵家の娘に落度があった』という形に。文書があれば、それは防げます」
娘の名誉は、一度傷つけば戻らない。私が守りたかったのは、持参道具よりも、むしろそちらだった。
「……母上、あなたは」
「娘の将来がかかっていますので」
横で、ガストンが小さく言った。
「セレナ。余計なことを」
私は、その声を聞かなかったことにした。余計なことかどうかは、娘の将来が決める。
ユーリス様は、鼻で笑った。
「さすが商人の娘だ。場を、取引に変える」
実家が薬草問屋だったことを、この人は前から軽んじていた。けれど、その言葉でアデーレの震えが、止まった。侮辱の矛先が自分から母に移ったとき、娘は顔を上げるのだ。この子は、自分のためには泣いても、人のためには怒れる子だった。
サフィア嬢が、初めて口を開いた。
「ユーリス様、言い方が……」
彼女は言いかけて、口を閉じた。その様子に、私は少しだけ、この令嬢への見方を変えた。勝ち誇った女の顔ではなかった。男の段取りに乗せられて、この残酷な席に座らされた者の顔だった。
「取引で結構です。婚約もまた、家同士の約束でしたから」
私は声を荒らげなかった。荒らげる必要がなかった。事実は、全部こちらにあったからだ。
「お忘れかもしれませんが、破棄の理由に『先方の落度』は含まれていませんでした。文書に残すのが、怖いですか」
ユーリス様の顔が、初めて曇った。
形式だけの婚約確認の席が、一転して交渉の席になった。ユーリス様は渋い顔で、それでも最後には頷いた。自分の都合で破棄する以上、条件を呑むほかないと分かっていたのだろう。
「……分かった。文書は用意させる」
その間、部屋の上座でずっと黙っていた人がいた。公爵オズワルド様。ユーリス様の父君で、この家の当主だった。
彼は最後に、一度だけ口を開いた。
「文書は今夜のうちに届けさせる。……令嬢には、済まないことをした」
頭を下げる公爵に、私は深く辞儀を返した。この人は、息子の非礼を「なかったこと」にはしない人なのだと思った。
オズワルド様は立ち上がり、息子に向かって短く言った。
「ユーリス、後で書斎に来い。サフィア嬢は、馬車を用意して丁重にお送りしろ」
「父上、私はただ、正直に」
「正直さは、無礼の言い訳にはならん」
帰りの馬車の中で、アデーレは一度も泣かなかった。
「母様。私、泣きませんでした」
不意に、娘が言った。
「ええ。よく、がんばった」
「泣いたら、あの人の言う通りになる気がして。……大人しすぎて、つまらない娘だって」
「泣くことと、弱いことは、違うよ。でも今日は、泣かなかったあなたの勝ちだ」
代わりに、ずっと窓の外を見ていた。春の園遊会のときと同じ仕草だったけれど、その横顔は、来るときとは少しだけ違っていた。
ガストンは終始、暗い顔で黙っていた。その沈黙の向こうで、この人が何を考えているのか、私には分かっていた。
屋敷に着いたとき、ガストンが言った。
「夕食の席で、話がある」
それは、相談の言い方ではなかった。通告の言い方だった。
私は記録帳の今日の頁を、心の中で閉じた。挨拶。茶。婚約の確認。印。そのどれもが、もうなかった。




