第1話 記録帳を開く朝
その朝、私は記録帳を開くところから一日を始めた。
薬草園の見回りは朝露のあるうちに。朝食の献立は、客人の体調と季節に合わせて。前の晩に確認したはずの段取りを、もう一度、目で追う。
「公爵家、最終確認の日。随行は当主ガストン、私、アデーレ。茶は軽め、菓子は先方の好みに任せる」
書きながら、声に出して読む。声に出すと、抜けが見つかる。それが私のやり方だった。
園へ出ると、朝の空気はまだ冷たかった。熱冷ましの草は、葉の裏が白くなってきたら刈り時だ。台所用のハーブは、花が開く前に摘むと香りが強い。そういう小さな決まりを、私は十一年かけて覚えて、全部この帳面に書いた。
朝の光の中で園を一巡りすると、心が静かになった。今日がどんな日になるにせよ、草は昨日と同じ順番で育っている。それが、私の支えだった。
園の出口で、老庭番のヨハンと行き合った。
「奥様、熱冷ましの草は、明日の朝が刈り時ですな」
「ええ。今日は大事な日だから、刈るのは明日にして。……ヨハン、私がいない間、園はあんたに任せるよ」
「承知しました。帳面通りにやります」
帳面通りに。その一言が、どれだけ支えになるか。この家で私の仕事の形を分かっているのは、こういう人たちだった。
「母様、今日の茶はなんですか」
アデーレが、支度を終えて台所に顔を出した。
「熱を下げる草は入れていないよ。今日は緊張をほどく方。レモンバームと、少しだけミント」
湯気の向こうで、娘はほっとしたように笑った。今日は公爵家で、婚約の最終確認が行われる日だった。王太子の側近である公爵家の嫡男ユーリス様と、アデーレの。娘にとっては、人生が決まる日である。
台所では、朝食の支度が進んでいた。焼きたてのパンの匂い、根菜のスープの湯気。私はスープの塩加減を見て、ほんの少しだけ塩を足した。緊張で食が細くなる日は、味をわずかに濃くすると、体が受け付ける。
「アデーレ、スープだけでも飲んでおいで。空きっ腹では、馬車に酔う」
「……母様は、いつも通りですね」
「いつも通りにするのが、仕事だから」
私、セレナがこの伯爵家に嫁いだのは、二十二のときだった。先妻を亡くした伯爵エドモンは三十八で、娘のアデーレは六つだった。
「母はいらない」
最初、アデーレは私にそう言った。言えたのは、それだけだったのだろう。母を亡くしたばかりの子が、知らない女に言えることは、多くない。
泣く子を無理に抱きしめはしなかった。代わりに、毎朝、同じ時間に同じ茶を淹れた。熱のある夜は、記録帳を見ながら薬草を選び、朝まで何度も額の布を取り替えた。
「母様」と呼ばれたのは、嫁いで二年目の冬だった。熱のうわごとではなかった。朝の光の中で、娘は確かに、私をそう呼んだ。
あの日から、私はこの子の母親だった。血はつながっていなくても、それだけは、誰にも譲れない事実だった。
朝食の後、アデーレの髪を結うのは私の役目だった。櫛を入れるたび、娘の肩が少しずつ下がっていく。
「震えていないように見せなくていいよ。緊張しているのは、当たり前だから」
「……母様は、緊張しないのですか」
「するよ。だから、手順を決めるの。手順があると、手が勝手に動いてくれる」
娘は鏡の中で、小さく頷いた。今日の手順は、こうだ。挨拶。茶。婚約の確認。印。そして、笑顔で帰る。
鏡の中の娘は、十七歳になっていた。淡い色のドレスがよく似合う。亡き母の面影があるのだろう、と屋敷の年寄りたちは言う。そのたびに私は思う。この子の顔立ちは母親譲りでも、この子の朝は、私が作ってきたのだと。
夫エドモンは三年前に亡くなった。家督は義弟のガストンが継いだ。私は「先代の未亡人」となり、アデーレは「先代の娘」となった。屋敷での私たちの場所は、少しずつ、静かに狭くなっていった。
朝食の席が一つずつ減り、園の予算の相談は私を飛ばして行われるようになった。それでも婚約だけは残った。公爵家との婚約は、先代の頃からの約束だった。これさえ果たされれば、アデーレの将来は安泰のはずだった。
はず、だったのだ。
馬車に乗る前、ガストンが庭先で私を呼び止めた。
「今日の席では、余計なことを言うな。確認は形式だ。印さえ終われば、この家の格は安泰だ」
「承知しています」
「……あの子は大人しすぎるのが玉に瑕だが、まあ、公爵家も分かっているだろう」
私は答えなかった。娘の値打ちを、娘のいないところで測る言葉には、もう慣れていた。慣れることと、平気でいることは、別だったけれど。
馬車の中で、アデーレは窓の外ばかり見ていた。
「ユーリス様と、最後に会ったのはいつだったかしら」
「春の園遊会よ。そのときは、踊りの相手をしてもらったでしょう」
「……ええ。でも、あの方、私の顔より、私の後ろを見ていた気がするの」
「後ろ?」
「家の格とか、持参金とか。そういうものが並んでいる方を」
娘は冗談めかして言って、すぐに笑った。笑い方が、少しだけ無理をしていた。
私は娘の手に、温かい石を握らせた。馬車の足元で温めておいた、寒い日と緊張の日のための石だ。
「手順通りにね。困ったら、私の顔を見て」
「母様の顔を見たら、大丈夫な気がします」
馬車は昼前に、公爵家の屋敷に着いた。
門をくぐってからの段取りの良さに、私は内心で感心していた。馬車寄せの人員の配置、玄関の花、廊下の静けさ。大きな家の「回っている」感じは、こういうところに出る。
当主のオズワルド様とは、挨拶程度しか交わしたことがなかった。王太子の側近で、軍務の経験もあり、無駄口を叩かない人だという。今日の席に当主自らが出るのは、最終確認だからこそ、なのだろうと思っていた。
執事に案内されて応接間に入ったとき、私は最初に、花を見た。白い花だった。祝いの席の色では、ある。けれど、多すぎた。まるで、弔いのような白さだった。
次に、席を見た。仕事柄、席の数は最初に数える癖がついていた。
確認の席は、私たちの側が三人、先方が当主と嫡男の二人。記録帳にも、そう書いた。茶器は五人分のはずだった。
「……?」
応接間のテーブルには、席が六つ、用意されていた。
アデーレが、私の袖を小さく引いた。娘も、気づいていた。
手順には、ないはずの席が一つ、増えていた。




