#035『透明なプリズム -Deuxième rayon-』
『透明なプリズム -Deuxième rayon-』をお送りします。
善意でやった結果、悪意を持って自分に帰ってきたら……。
そんなことを考えて、本作を書いてみました。
『透明なプリズム -Deuxième rayon-』
1
月の半ばを過ぎた頃、季節外れの冷たい秋雨が何日も鬱々と降り続いていた。
朝の満員電車は、一ヶ月前のあの夏と秋がせめぎ合うような熱気とは全く違う、ひどく重苦しい空気に満ちていた。車内に充満するのは、密集した濡れた傘から立ち上る生乾きの匂いと、ウールやポリエステルの上着が吸い込んだ冷たい湿気だ。
冷房はとうに切られ、暖房を入れるにはまだ早い時期だった。車内では、人々の体温と吐息によって窓ガラスが白く濁るほど結露している。
吉高涼佳は、いつものようにドア横の戸袋のスペースに背中を預けていた。
あの一件以来、彼女の鞄の底には白いワイヤレスイヤホンが深く仕舞い込まれたままだ。耳を塞ぐのをやめたことで、車内のノイズが容赦なく鼓膜を叩くようになった。それでも涼佳は少しだけ顔を上げ、この世界と繋がっている自分に確かな自信を感じていた。
ふと、涼佳は戸袋から背中を離し、車内へ無防備な背を向けるようにしてドアの方へと体を反転させた。
結露したガラス窓を打つ雨粒の軌跡をぼんやりと目で追いながら、今日も無事に学校へ着いて、何事もない一日が始まるのだと信じて疑っていなかった。
――ふと、首筋を微かな悪寒が撫でた。
物理的な冷気ではない。何か、得体の知れない粘着質なものが、自分のパーソナルスペースの境界線を音もなく侵食してくるような、本能的な警鐘だった。
涼佳は、ピクリと肩を強張らせた。
気のせいだと思いたかった。
しかし、後頭部に突き刺さるような明確な視線の重みは、錯覚として処理するにはあまりにも生々しかった。
ゆっくりと、本当にゆっくりと、涼佳は自分の視線を斜め前に落とし、そこから真っ白に曇った窓ガラスへと横滑りさせた。結露したガラスは不鮮明な鏡となり、車内の様子をぼんやりと映し出している。
人、人、人。うつむいてスマートフォンの画面が発する青白い光に照らされた、無表情な大人たちの顔。
その群れの中に、不自然にぽつんと、こちらに顔を向けている影があった。
黒いキャップ。
ドクン。
心臓が、肋骨の内側を直接殴りつけたかのような、ひどく暴力的な音を立てて跳ね上がった。指先から一瞬にして血の気が引き、代わりにじっとりとした冷や汗が掌に滲み出す。
嘘でしょ。
涼佳は呼吸を止め、窓ガラスの反射を凝視した。曇りの向こう側に映る輪郭。目深に被った帽子のつば。前に抱え込んだ大きな黒いリュックサック。
諸星達也だった。
一ヶ月前、駅のホームで警察に連行されていったはずのあの男が、ほんの数メートル斜め後ろの死角に立っていた。
まさか、どうして。
頭の中が真っ白に沸騰し、思考が完全にショートした。逮捕されたのではないのか。テレビのニュースで見るような犯罪者は、一度捕まれば二度とこちらの世界には戻ってこないものだと、無意識のうちに信じ込んでいたのに。
視界の端で、窓ガラスに映る男の顔の角度が、わずかに変わる。
目が合った。
直接振り向いたわけではない。ガラスの反射という一枚のフィルターを通しただけだというのに、男の双眸に宿るドロリとした悪意が、涼佳の網膜を正確に射抜いた。帽子のつばの下で、男の唇が三日月型に歪むのが見えた。
——見つけたぞ。
声は聞こえない。しかし、そのおぞましい笑みは、確かにそう告げていた。
涼佳の喉の奥で、ヒュッと短い悲鳴が形になりかけたが、声帯が恐怖で麻痺したように強張り、音にならなかった。
足の震えが止まらない。
逃げなければ。
そう思うのに、周囲はスマートフォンの世界に没頭する大人たちの壁に囲まれ、身動き一つ取れない。
男はゆっくりと一歩、涼佳の方へ歩を詰めてきた。
電車の揺れに合わせるような、極めて自然な動作。周囲の乗客は誰も気にかけていない。しかし、涼佳には男が確実に自分を標的にして、距離を縮めてきているのが分かった。
あと二メートル。
一メートル。
五十センチ。
男は、涼佳の真後ろ、手が届くか届かないかというギリギリの距離でぴたりと立ち止まった。
涼佳は青いスカートの裾を掴む。
直接触れてはこない。鞄にぶつかることすらない。しかし、後頭部にべったりと張り付くような男の視線と、雨に濡れた衣服から漂うカビのような不快な匂いが、涼佳を逃げ場のない檻の中に閉じ込めた。
「チッ……」
耳元で、微かな、しかし信じられないほど鮮明な舌打ちの音がした。
涼佳の肩がビクッと跳ねる。
振り返れない。もし振り返って男の顔を直接見てしまえば、自分が完全にターゲットとして捕捉されたことを認めてしまうことになる。
助けを呼びたい。けれど、何と言って?
『後ろの人が私を見ています』
『舌打ちをされました』
そんなことで、誰が助けてくれるというのか。男は一切、物理的な危害を加えていない。ただ「立っている」だけだ。ここで声を上げても、「気のせいだろう」「自意識過剰な女子高生だ」と冷笑されるだけだという絶望的な事実が、涼佳の口を重く塞いだ。
ガタン、ゴトン。
単調な金属音が、今は死へのカウントダウンのように聞こえる。
次の駅まで、あと三分。
普段なら一瞬で過ぎ去るその時間が、永遠のようだった。
息ができない。胸が締め付けられ、視界の端が白く明滅し始める。男の嘲笑うような低い鼻息が、首筋に触れたような気がした。それが現実のものなのか、恐怖が生み出した幻覚なのかすら、もう涼佳には判断がつかなかった。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
一ヶ月前、自分が投げかけた「正義の波紋」は、世界を輝かせる魔法などではなかった。
それは、見開かれた悪意の目を、真っ直ぐに自分へと向けさせるための、呪いのトリガーに過ぎなかったのだ。
「……次は、学園前駅——」
無機質な車内アナウンスが響いた瞬間、涼佳は半ばパニックに陥りながら、開き始めたドアから転がるようにホームへ飛び出した。
冷たい秋の空気を肺の底まで吸い込み、むせるように咳き込む。
振り返る勇気はなかった。閉ざされたドアの向こう、雨粒の滴る窓ガラスの奥に、あの黒いキャップ帽がじっとこちらを見下ろしている気配だけを背中に感じながら、涼佳は震える足を引きずるようにして、足早に階段へと逃げ込んだ。
2
駅の改札を抜け、雨の降る通学路を傘も差さずに無我夢中で走った。
水たまりを跳ね飛ばし、泥がローファーや靴下を汚すのも構わず、ただひたすらにあの息苦しい密室から距離を置きたかった。
学校の昇降口に転がり込み、激しく上下する肩で息を整える。濡れた髪から冷たい雫が頬を伝って落ちた。下駄箱の冷たい鉄の扉に手をつきながら、涼佳はゆっくりと顔を上げた。
周囲には、他愛のないおしゃべりをしながら傘を畳む同級生たちの姿があった。部活の朝練を終えた男子たちの大きな笑い声や、上履きがリノリウムの床を擦るキュッという音が、校舎内に響き渡っている。
そこには、何の変哲もない、当たり前で安全な「日常」が確かに存在していた。
「涼佳、おはよ。うわ、めっちゃ濡れてんじゃん。走ってきたの?」
教室に入ると、自分の席で単語帳を開いていた友人の片山佳奈が、目を丸くして振り返った。彼女が発した、呑気で明るい声のトーンに触れた瞬間、涼佳の強張っていた全身の筋肉からふっと力が抜けた。
「……うん。ちょっと、寝坊しちゃって」
無理やり口角を上げて笑い返すと、自分の声が思いのほか普通に出たことに少し驚いた。ハンカチで髪を拭きながら自分の席に座り、机のひんやりとした木の感触を手のひらで確かめる。
一時間目の現代文の授業が始まる頃には、涼佳の激しい動悸はすっかり治まっていた。チョークが黒板を叩くリズミカルな音と、エアコンの微かな匂い。ノートの端に落書きをしながら、涼佳の思考は徐々に、あのパニック状態から冷静な思考へと戻り始めていた。
——いくらなんでも、考えすぎだよね。
涼佳は、窓ガラスを打ち付ける雨粒を眺めながら、心の中で自分自身に語りかけた。
あの一件から、もう一ヶ月も経っているのだ。いくらすぐに釈放されたからといって、わざわざ被害者のいる同じ時間の同じ電車に乗ってくる犯罪者がどこにいるだろうか。また捕まるリスクを考えれば、絶対に避けるはずだ。
あれはきっと、たまたま背格好と黒い帽子が似ていた別人に違いない。最近、少し寝不足が続いていたせいだ。恐怖心が生み出した、ただの幻影。舌打ちだって、満員電車でイライラした別の誰かのものだったかもしれないじゃないか。
お昼休みに佳奈たちと他愛のないテレビ番組の話で笑い転げる頃には、朝の出来事は「少し質の悪い白昼夢」程度にまで薄れ去っていた。
その日の夜、実家のリビングはいつも通りに暖かかった。
テレビからはバラエティ番組の賑やかな笑い声が流れ、キッチンからは母親が作るハンバーグのデミグラスソースの甘い匂いが漂ってくる。
「涼佳、今日雨ひどかったでしょ。靴、新聞紙詰めといたからね」
「うん、ありがとう」
食卓を囲みながら交わす、家族との何気ない会話。外の冷たい秋雨から完全に隔離されたこの空間には、どんな悪意も入り込む隙はない。お風呂に浸かって芯まで冷えた体を温めると、朝の電車での出来事は、いよいよ現実味を失っていった。
自室のベッドに潜り込み、ふかふかの掛け布団を引き上げる。
やっぱり、私の気のせいだったんだ。あの男が戻ってくるわけがない。私は正しいことをしたんだし、何も怯える必要なんてない。
涼佳は深く息を吐き出し、完全に安心しきった心で、泥のように深い眠りについた。
翌朝。
雨は小降りになり、雲の隙間からはうっすらと秋の朝日が差し込んでいた。
目覚めは悪くなかった。しっかりと睡眠をとったことで頭はクリアになり、昨日の自分がいかに滑稽なほど過剰反応していたかがよくわかった。
「行ってきます!」
いつもより少し弾んだ声で玄関を出る。駅までの道のりも、足取りは軽かった。
改札を抜け、いつものホームの、いつもの乗車位置に並ぶ。
電車のドアが開き、乗り込む。昨日と同じように、戸袋から体を離し、ドアの窓ガラスの方を向いて立つ。涼佳はイヤホンを着けず、窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めようとした。
もう、何にも怯える必要はない。今日もいつも通りの、退屈で平穏な一日が始まるのだ。
そう信じて疑わなかった涼佳の耳元で。
昨日よりもずっと低く、ねっとりとした、不気味な鼻息の音が聞こえた。
「……ぅ!」
息を呑み、反射的に窓ガラスを見る。
白く結露したガラスの向こう、涼佳のすぐ背後。
昨日と全く同じ位置に、あの黒いキャップ帽の男が、じっとこちらを見下ろしていた。昨日見間違えたわけではなかった。偶然でもなかった。
男の歪んだ笑みが、ガラス越しに涼佳の視線を捕らえて離さない。
温かい日常の揺りかごから、氷点下の地獄へと突き落とされた瞬間だった。
偶然ではない。幻覚でもない。
二日連続で全く同じ位置、自分の背後の死角に「彼」が立っているという事実は、涼佳が前夜に必死で構築した「気のせいだ」という希望的観測を、木端微塵に粉砕した。
諸星達也は、明確な悪意と執念を持って、涼佳を「狩り」に来ているのだ。
その日を境に、涼佳の通学電車は、終わりの見えない無間地獄へと変貌した。
三日目も、四日目も、一週間後の朝も、諸星は必ずそこにいた。彼がどこから乗車してくるのかは分からない。しかし、涼佳がいつもの戸袋の横に立つと、気がつけば必ず背後のパーソナルスペースギリギリの位置に、あの黒いキャップ帽の影が張り付いているのだ。
諸星の嫌がらせは、日を追うごとに陰湿さを極めていった。
彼は依然として、指一本、涼佳の身体には触れてこない。だからこそタチが悪かった。
例えば、涼佳が恐怖から逃れるために英単語帳を開いて視線を落としていると、頭上のすぐ近くから、生温かい吐息が降りかかってくる。諸星は、涼佳の手元の英単語帳を覗き込むほど顔を近づけていた。あるいは、電車の揺れに合わせて、彼が前に抱え込んだ巨大な黒いリュックサックが、涼佳の背中や鞄にジワリと押し付けられる。
たまらず涼佳が顔を上げ、結露した窓ガラスに視線を逃がすと、そこにはすでに「視覚の罠」が仕掛けられていた。暗いトンネルに入った瞬間など、窓ガラスが鏡のように車内を反射するタイミングを計ったかのように、諸星はガラス越しに涼佳をじっと凝視しているのだ。目が合うと、帽子のつばの奥で、粘着質な嘲笑が三日月のように浮かび上がる。
誰かに助けを求めようにも、声の出しようがなかった。
耐えきれず、涼佳が周囲の大人たちにすがるような視線を向けた瞬間、諸星は表情をスッと消し、スマートフォンをいじる「ただの疲れた通勤客」を完璧に演じてみせた。
周囲の乗客から見れば、彼と涼佳の間には何も起きていない。ただ、一人の女子高生が、背後の男性をチラチラと振り返り、勝手に顔面を蒼白にして震えているだけなのだ。
『お前が一人で狂っているだけだ』
誰にもこの恐怖を共有してもらえないという事実が、涼佳の精神を内側からゴリゴリと削り取っていった。
駅からの通学路、激しい雨に叩かれたアスファルトの隅には、無数の小さな黄色い粒が散らばっていた。一ヶ月前にはあれほど甘く匂い立っていた金木犀の花が、冷たい雨水に濡れ、泥に塗れて黒ずんでいる。誰かの泥だらけの靴に踏みにじられたそれは、もう何の香りも放たず、ただ醜いシミのように路面にへばりついていた。
「視線の恐怖」は、やがて安全なはずの日常にまでどす黒い染みを広げ始めた。
教室にいても、背後に誰かが立つ気配に過剰に反応するようになり、涼佳は一番後ろの壁際の席でしか落ち着いていられなくなった。昼休みに佳奈が話しかけてきても、上の空で生返事をするのが精一杯だった。
「涼佳、最近なんか顔色悪いよ? 目の下、クマできてるし」
心配そうに覗き込んでくる佳奈の顔を見ても、「助けて」という言葉は喉の奥でつかえて出てこなかった。自分がストーカーに狙われているなどと言えば、佳奈まで巻き込んでしまうかもしれない。それに、どうせ誰も助けてくれないという学習性無力感が、すでに涼佳の心を支配し始めていた。
夜、自宅のリビングに漂う夕食の匂いも、今の涼佳にはただ胃を重くするだけの泥のように感じられた。
ベッドに入り、目を閉じると、明日もまたあの電車に乗らなければならないという絶望が、冷たい泥水のように胸の奥を満たしていく。
昨日もいた。今日もいた。なら、明日も確実にいる。
心臓が不規則な動悸を打ち、冷や汗でパジャマが肌に張り付く。浅い眠りの中で、黒いキャップ帽の男が窓ガラス一面に無数に映り込む悪夢を何度も見た。朝が来るのが、これほどまでに恐ろしいと思ったことはなかった。
——どうして、あんなことをしてしまったんだろう。
暗闇の中で、激しい後悔が涼佳の心を苛み始めた。
あの一ヶ月前の朝。遠藤勲という読書家の男性を救うために上げた、自分の「透明な声」。
あの時は、自分の勇気が水面に波紋を広げ、世界を少しだけ美しくしたのだと信じていた。社会には確かな温もりがあり、正しいことをすれば誰かが分かってくれるのだと。
しかし、現実はどうだ。
助けたはずの男性は、自分の日常へと戻っていった。波紋に共鳴してくれた女子中学生も、今頃は普通に学校へ通っているだろう。
残されたのは、自分だけだ。
正義感という名の安っぽい石を投げ込んだ代償として、泥底に沈んでいた醜悪な怪物を呼び覚ましてしまったのは、他の誰でもない自分自身だった。あのまま黙って俯いていれば、おじさん一人が理不尽に捕まるだけで済んだのだ。私には関係のないことだったのに。世界はやっぱり、冷酷で、無関心で、理不尽な場所だったのだ。
3
十月の終わりが近づく頃。
その日の朝も、陰鬱な雨が降っていた。
駅のホームに立ち、近づいてくる電車のライトを見た瞬間、涼佳の張り詰めていた糸が、ついにふつりと音を立てて切れた。
もう、戦えない。
これ以上、あの男の悪意に神経をすり減らして、世界と向き合い続けることはできない。
涼佳は震える手で鞄の奥深くを探り、一ヶ月間封印していた「それ」を取り出した。
白い、ワイヤレスイヤホン。
電車に乗り込み、戸袋の横に立つ。背後に、湿ったカビのようなあの男の気配が近づいてくるのを感じた。涼佳はもう、窓ガラスの反射を見ることも、周囲に助けを求めることもしなかった。
ただ静かに、両耳の奥深くにイヤホンをねじ込んだ。
ノイズキャンセリングのスイッチを入れる。
ピ、という電子音と共に、車内の喧騒も、レールのきしむ音も、そして男の微かな舌打ちも、すべてが水底に沈んだようにスッと消え去った。
涼佳は深くうつむき、自分のローファーのつま先だけをじっと見つめた。
自分の輪郭が世界から溶け出し、透明になっていくのが分かった。しかし、今はその透明さこそが、唯一の救いだった。
社会への抵抗を諦め、再び自らを密室へと閉じ込める敗北の儀式。イヤホンから流れる無機質な音楽だけが、完全に孤立した涼佳の耳元で、虚しく響き続けていた。
十月の最終週。その日の朝は、バケツをひっくり返したような暴風雨に見舞われていた。
強風による信号トラブルの影響で電車のダイヤは大幅に乱れ、車内も駅のホームも、普段とは比較にならないほど異常に混雑していた。
暖房が入ったかのように蒸し暑い車内は、濡れた雨具から立ちのぼる湿気と、何百人もの乗客の苛立ちを含んだ熱気で、息をするのも苦しいほどだった。窓ガラスは外の景色が全く見えないほど白く濁り、水滴が涙のように幾筋も流れ落ちている。
涼佳は、両耳にワイヤレスイヤホンを深く押し込み、ドア横の戸袋のスペースでひたすらに耐えていた。
ノイズキャンセリング機能が周囲の怒号や舌打ちを水底の音に変換してくれてはいるが、四方八方から押し潰されるような物理的な圧迫までは防ぎようがない。すぐ背後に「彼」がいるのかどうか、振り返って確かめる余裕すら、今の車内にはなかった。ただ、背中越しに伝わってくる他人の体温の中に、あのカビのような悪意が混じっているのではないかという強迫観念が、涼佳の胃をギリギリと絞り上げていた。
やがて、ひときわ鋭いブレーキ音と共に、電車が目的の駅のホームへ滑り込んだ。
プシューという音とともにドアが開いた瞬間、堰を切ったように人々の波がホームへと雪崩れ込んでいく。遅延を取り戻そうと必死な大人たちの殺気立った波に呑まれ、涼佳も足が床から浮き上がるような感覚のまま、外へと押し出された。
改札へ向かう階段へと続く、濁流のような人の流れ。その中に身を任せ、とにかくこの息苦しい空間から逃れようと前を向いた、その時だった。
ドンッ。
右肩に信じられないほどの強い衝撃が走った。
満員電車の不可抗力な接触ではない。明確な殺意に近い意図を持って、力任せに突き飛ばされたのだ。
「あっ……!」
涼佳はバランスを崩し、人の流れから弾き飛ばされるようにして数歩よろめいた。雨水を吸ったローファーが濡れたタイルで滑り、そのままホームを支える太いコンクリート柱の陰へと激しく背中を打ち付けた。
その衝撃で、右耳のイヤホンがポロリと外れ、足元へ転がり落ちる。
途端に、遮断されていた世界のノイズが、暴力的なまでの音量で右耳から雪崩れ込んできた。構内に響き渡る遅延を詫びるアナウンス。靴音が床を叩く不協和音。雨の轟音。
痛みと戸惑いで顔を上げた涼佳の視界が、一つの巨大な黒い影によって完全に塞がれた。
黒いキャップ帽。大きなリュックサック。
諸星だった。
彼は周囲の狂騒から完全に切り離されたこの柱の死角で、ついに涼佳の逃げ場を塞ぎ、退路を断ったのだ。
これまで「触れてこない」という一線を越えなかった男が、初めて物理的な暴力を行使した。その事実が、涼佳の全身の血液を一瞬にして凍りつかせた。
諸星は、涼佳の顔のすぐ目の前まで身を乗り出してきた。
帽子のつばの奥、爬虫類のように冷たく濁った瞳が、涼佳の恐怖にひきつった顔を舐め回すように見下ろしている。彼の口角が、ゆっくりと三日月型に吊り上がった。
「正義の味方ごっこ、楽しかった?」
ノイズに満ちた駅のホームで、その低く粘着質な声だけが、外れた右耳の鼓膜を直接舐め上げるように鮮明に響いた。
ヒュッと涼佳の喉が鳴った。
悲鳴を上げなければ。助けを呼ばなければ。
頭では分かっているのに、肺が凍りついたように空気を吸い込めず、声帯は恐怖で完全に麻痺していた。ガチガチと歯の根が合わず、膝が崩れ落ちそうになるのを、背中に感じるコンクリート柱の冷たさだけで辛うじてこらえていた。
数メートル先では、何十人、何百人という大人たちが、足早に階段へ向かって歩き去っていく。
すぐ手の届く距離に人がいるのだ。誰か一人でもこちらを振り向いてくれれば。異常事態に気づいてくれれば。涼佳は必死で視線を泳がせ、行き交う人々に無言のSOSを送った。
しかし、誰一人として、柱の陰の暗がりに目を向ける者はいなかった。
誰もが遅刻を恐れ、自分のスマートフォンと足元だけを見て、足早に通り過ぎていく。大勢の人間がひしめき合っているのに、この小さな空間だけが、まるで分厚い防音ガラスで覆われた深海のように世界から断絶されていた。
——誰も……助けてくれない。
諸星が、涼佳の絶望を味わうように、さらに一歩距離を詰める。彼が前抱えにした黒いリュックサックが、涼佳の制服の胸元に触れた。
ああ、世界はやっぱり、どうしようもなく冷たい。
私が投げた石は、何の意味もなかったんだ。ただ自分の身を滅ぼしただけだったんだ。
残された左耳のイヤホンからは、まだ陽気な音楽が微かに流れ続けている。それが酷く滑稽で、涼佳の目から大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
圧倒的な無力感と恐怖の底で、涼佳はついに抵抗を諦め、ぎゅっと両目を閉じた。
(誰か、お願い……)
届くはずのない祈りを胸の中で呟いた、その時だった。
不意に、顔の前にまとわりついていた息苦しいカビの匂いが、何かに遮断されるようにして消えた。
代わりに涼佳の鼻腔を掠めたのは、古い紙とインク、そして、かすかな雨の匂い。
「……え?」
恐る恐る薄く目を開けた涼佳の視界に、見慣れたグレーのスーツの背中が飛び込んできた。
少し丸みを帯びた、決して大きくはない背中。腕っぷしの強いヒーローのような逞しさなど微塵もない。しかしその人物は、右手で、あの使い込まれた革カバーの文庫本を、革が軋むほど強く握りしめ、涼佳を自分の後ろへと完全に隠すようにして、諸星の前に無言で立ちはだかっていた。
「……読書…家……さん……」
掠れた声が、涼佳の喉から漏れる。遠藤勲は振り返らなかった。ただ、その頑なな背中から、静かな、けれど烈火のような怒りが伝わってきた。
「この子から離れなさい」
遠藤の声は決して声を荒げたものではなかった。しかし、確かな質量を持ったその響きは、駅の喧騒を貫いて諸星の胸元へと突き刺さる。
突然の闖入者に、諸星の表情が不快げに歪んだ。一ヶ月前、自分を破滅に追い込んだ老人の顔を思い出したのだろう。諸星の目が、ぎらりと狂暴に細められた。
「……あ? なんだジジイ、またお前か。引っ込んでろよ、怪我すんぞ」
諸星が大きく肩をいからせ、遠藤を力ずくで押し退けようと一歩前へ踏み出す。遠藤の靴が、コンクリートの床をギッと踏みしめた。
一触即発の、息の詰まるような数秒間。
その歪んだ均衡を破ったのは、ホームの喧騒を切り裂いて響いた、高く透き通った声だった。
「駅員さん! この人です! 前にもここで捕まった人です! またお姉さんに嫌がらせをしてます!」
人波を掻き分けるようにしてこちらへ全速力で駆けつけてくる、紺色のセーラー服。
星野しずくだ。
一ヶ月前、座席の隅で小動物のように怯え、震えていた彼女はもうそこにはいなかった。
しずくは二人の駅員を大声で先導しながら、周囲を行き交う大人たちにも聞こえるよう、腹の底から声を張り上げていた。
「あっちです! 柱の陰です! 早く!」
しずくの必死の告発は、それまで「関わりたくない」と目を背けていた周囲の大人たちの足を止めた。
歩みを止めたサラリーマンや学生たちが一斉に振り返り、怪訝な、そして明確な非難の色を帯びた視線を諸星へと向け始める。
誰も見ないはずの死角で、涼佳を確実に追い詰めたつもりだった。しかし諸星はいま、いつの間にか自分が強固な「連帯」の中心に立たされ、完全に包囲されていることに気がついた。
「おい、きみ。ちょっと待ちなさい」
制服姿の駅員が二人、厳しい声を上げて諸星へと手を伸ばす。
「……くっ!」
分が悪いと悟った諸星は、顔を真っ赤にして特大の舌打ちをすると、目深にキャップ帽を被り直し、駅員の手を乱暴に振り払った。そして、雨の吹き込む上り階段の方へと脱兎のごとく逃げ出していった。
「あ、こら! 待て!」
駅員の一人がトランシーバーで応援を要請しながら、その後を追って階段を駆け上がっていく。
遠ざかっていく足音を呆然と見送っていた涼佳の耳から、左側のイヤホンもスルリとこぼれ落ち、足元のタイルに転がった。
男の気配が完全に消え去った。
その瞬間、涼佳の身体を辛うじて支えていた緊張の糸がプツリと切れた。
膝から完全に力が抜け、冷たいタイルの床にへたり込みそうになる。すかさず両脇から、遠藤の大きな手としずくの温かい小さな手がその身体をしっかりと支えた。
「……こわかった」
ひび割れた声が、自分でも驚くほど小さく漏れた。それを皮切りに、涼佳の目から堰を切ったように大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
「私、ずっと……自分が余計なことをしたからだって。もう関わらなきゃよかったって、自分のことばかり考えて……ずっと、逃げたくて……」
子どものようにしゃくり上げながら吐き出す言葉は、心の底に溜まっていた濁った懺悔だった。そんな涼佳の震える背中を、遠藤の大きな手がゆっくりと、規則正しいリズムで優しく叩いた。
「きみがあの朝、震えながら投げてくれた小さな石はね……」
遠藤の声は深く、静かだった。駅の喧騒の中で、そこだけが凪いだ海のように穏やかだった。
「決して、暗い底に沈んで消えてしまったわけじゃない。こうして波紋となって、きみのところへちゃんと戻ってきたんだ。きみの勇気は、なに一つ間違っていなかったんだよ」
涼佳の冷え切った指先を、しずくが両手でぎゅっと包み込んだ。彼女の小さな手は、驚くほど温かかった。
「お姉さんが、あの時……一人で立ち向かってくれたからです。お姉さんが勇気をくれたから、今度は絶対に、私が助ける番だって思ってました」
二人の手の温もりが凍てついていた涼佳の血を溶かし、ゆっくりと全身へ巡っていく。
——ああ、私だけじゃなかったんだ。
独りぼっちで、得体の知れない悪意の底に沈められていると思っていた。けれど、一ヶ月前に絞り出したあの不器用な声は、確実に他者の心に届き、見えないところで息づき、この絶望の淵で自分をすくい上げる確かな熱となって還ってきたのだ。
涼佳は二人から伝わる命の温度にすがりつくようにして、ついに声を上げて泣きじゃくった。
これまでの恐怖も、孤独も、激しい後悔も、すべてが温かい涙となって洗い流されていった。
駅の事務室で警察への事情説明を終え、駅前の広場に出る頃には、あの大雨が嘘のように上がり、空は高く晴れ渡っていた。
分厚い灰色の雲が割れ、その隙間から眩しい秋の太陽が顔を覗かせた。
雨水に洗われた街の輪郭はどこまでも鮮明だ。くぼみに溜まった水たまりは光を乱反射させている。まるで無数の小さなプリズムのように。
「お姉さん、これ」
しずくから渡されたのは、落としてしまったワイヤレスイヤホンだった。
「誰かが拾って、届けてくれたそうです」
涼佳は二つの白いワイヤレスイヤホンを手の中で見つめた。
プラスチックの冷たくて硬い感触。
「ありがとう……」
涼佳はイヤホンを見つめたまま、顔を上げて大きく息を吸い込んだ。
雨上がりの濡れたアスファルトの匂い。
遠くを走る車のエンジン音。
人々の足音。
どこかの店のスピーカーから漏れる微かな音楽。
世界はノイズに満ちている。時にどうしようもなく薄暗く、残酷で、恐ろしい。
でも、もう耳を塞ぐ必要はない。
この雑音の中には、誰かのために上がる声があり、駆けつけてくれる足音がある。不器用だけれど確かな温もりを持つ繋がりが、この世界には息づいているのだから。
涼佳はイヤホンを鞄の最も深い底へとしまい、ファスナーをしっかりと閉めた。
「それじゃあ、また明日。いつもの電車で」
遠藤が、革カバーの端が少し濡れた文庫本を大切そうに抱え直しながら微笑んだ。
「はい。また明日」
しずくが、はにかむような笑顔で手を振る。
「うん。……また明日!」
涼佳も痛いくらいに頬を緩めて手を振り返した。
それぞれが踵を返し、三つの影は秋の柔らかな陽光の中を別々の方向へと歩き出す。
吹き抜ける風は少し冷たかったが、涼佳の足取りは驚くほど軽かった。光の溢れる坂道を駆け上がっていく。
その背中を雨上がりの澄み切った空が、どこまでも静かに見守っていた。
世界は決して透明ではない。
濁っている。
そして歪んでいる。
時に恐ろしく、時に残酷だ。
でも、光が差せば、そこに色が生まれる。
人がいれば、そこに声が生まれるのだ。




