魔王の娘と怠惰な勇者志望、そして王都ブランドの罠
迷宮都市リグラード再生編 完結編
ギルド会議室の空気は、いつもより少しだけ固かった。
長机の中央。
王都から届いたばかりの封書が、一通。
濃紺の封蝋には、王都ギルド本部の紋章が押されている。
受付嬢のミレイナが、緊張した顔でそれを運び込んだ。
「王都本部からです」
「……来たか」
ギルド長フォルクが低く呟く。
少し前。
リグラードでは、地下迷宮で栽培したキノコについて、新しい流通制度をまとめたばかりだった。
地下では栽培。
地上では小売。
生産区画。
採取日。
産地印。
問題が起きた場合の追跡記録。
そして。
次の目標が、王都への正式出荷だった。
「ルクさん」
アルが封書を見る。
「お願いします」
「はい」
ルク・アーベント。
表向きは王都ギルド監査局から派遣された監査官。
その正体は。
魔王ノクト・ヴァルグレイスの娘。
ルクシア・ノクト=ヴァルグレイス。
彼女は席を立った。
封蝋を確認。
紋章。
署名。
配送番号。
そこまで見てから。
封を切る。
「王都ギルド本部より」
静かな声だった。
「件名」
一拍。
「《リグラード産菌類のブランド登録について》」
ハルド・メイスンの背筋が伸びた。
「菌類ブランド!」
「先生、まだ喜ばないでください」
セリアが止める。
「最後まで読みましょう」
「む」
ルクは続けた。
「第一」
「リグラード産菌類について、《王都公認高級食材》としてのブランド登録を認める用意がある」
「おお!」
ハルドの拳が上がる。
「用意、です」
ルクが訂正する。
「まだ認定ではありません」
「むむ」
「第二」
紙をめくる。
「王都向け出荷については、原則として王都商会連合の指定流通網を利用すること」
ベックの眉間に皺が寄る。
「第三」
「衛生管理について、一般食品基準ではなく、《貴族食卓向け食品基準》を適用すること」
フォルクが腕を組む。
「第四」
「ブランド名および認証印の使用に伴い、販売額の一定割合を管理手数料として王都商会連合へ納めること」
読み終えた。
静寂。
そして。
「……はぁ?」
ベックだった。
太い指で机を叩く。
「要するに」
ばん。
「《ブランドにしてやるから、王都の商人を通せ》」
ばん。
「《名前を使わせてやるから金を払え》」
ばん。
「そういう話じゃねえか!」
「大体合っています」
ルクが答えた。
「大体じゃなく全部だろ!」
キノコ組合側もざわつく。
ハルドが立ち上がった。
「待ちたまえ!」
白衣を翻す。
「リグラード第三層」
「一定の温度!」
「一定の湿度!」
「選抜した菌床!」
「日々の空調管理!」
「我々が汗と菌糸と情熱を――」
「先生」
アルが手を上げた。
「一文で」
ハルドの顔が歪む。
「またか!」
「お願いします」
「……」
苦悩。
そして。
「我々のキノコを、王都の手柄にするな!」
「分かりやすい」
アルが頷いた。
◇
アルは王都からの書簡を覗いた。
「ルクさん」
「はい」
「これを飲んだら」
一行を指す。
「リグラードで育てたのに」
次。
「リグラードの人が売る相手を決められなくなる?」
「かなり近いです」
ルクは書簡を机へ置いた。
「正確には」
ペンを取る。
《生産》
リグラード。
《出荷窓口》
王都商会連合。
《価格交渉》
王都商会連合優位。
《ブランド管理》
王都。
「こうなります」
ベックが鼻を鳴らした。
「育てるのはこっち」
「売る権利は向こう」
「美味いところだけ王都じゃねえか」
「ただし」
ルクがすぐに続ける。
「悪いことだけではありません」
ベックが見る。
「王都商会の流通網は強い」
「大都市」
「貴族邸」
「高級料理店」
「遠方の商会」
「そこへ一気に商品を届けられます」
ミレイナが遠慮がちに聞く。
「つまり」
「王都公認になれば、売りやすくなる?」
「はい」
「価格も?」
「上げられる可能性があります」
「なら、悪い話じゃ――」
「問題は」
ルクの声が少し低くなる。
「一度、出口を一ヶ所へ預けると」
全員を見る。
「その出口を閉じられた時、こちらが何もできなくなることです」
会議室が静かになった。
「価格を下げろ」
「従わなければ買わない」
「手数料を増やす」
「嫌なら王都公認を外す」
書簡を指で叩く。
「そう言われた時の交渉手段が、ほとんどありません」
フォルクが白い眉を寄せた。
「……リグラードの喉を、王都の商人に握られるか」
「はい」
さらに。
「ここは魔域に近い」
ルクは地図へ視線を向ける。
「戦時には、食料も物流も戦略資源になります」
その言葉に。
ライネルの表情が変わる。
「一つの商会網に集中するのは危険だな」
「同意します」
ルクが答える。
魔王の娘としても。
監査官としても。
その点だけは、完全に同じ結論だった。
◇
「じゃあ」
ベックが腕を組む。
「蹴るか」
「待ってください」
アルが言った。
「何だよ」
「全部捨てるのも、もったいないです」
「王都の味方するのか?」
「違います」
アルは首を横へ振る。
「《王都公認》って看板は強いんでしょう?」
「強いです」
ルクが答える。
「なら」
アルは言った。
「看板だけ借りる方法を考えません?」
ルクがアルを見る。
「そんな都合のいい方法があれば苦労しません」
「だから今から考えるんですよ」
「……」
その答えに。
ルクは小さく息を吐いた。
「では」
監査手帳を開く。
「条件を分解しましょう」
◇
改めて。
総合会議。
出席者。
ギルド長フォルク。
地上商人代表ベック。
微生物学者ハルド。
キノコ組合代表。
セリア。
ライネル。
リュシエル。
ルク。
そして。
怠けたいのに、なぜか会議の中心へ座らされているアル。
「まず」
ルクが板へ書いた。
《問題》
一、地上と地下の負担差。
二、衛生設備費。
三、王都流通網への依存。
四、ブランド使用料。
五、王都向け出荷拡大による過労。
アルが最後を見る。
「五番、大事ですね」
ベックが呆れる。
「そこかよ」
「売れすぎて忙しくなったら嫌でしょう?」
「売れねえよりマシだ」
「最初はみんなそう言うんですよ」
アルは真面目な顔になる。
「でも」
「売れる」
「増産する」
「もっと売れる」
「もっと増産する」
「休めなくなる」
ハルドを見る。
「先生とか絶対やりますよ」
「当然だ!」
「ほら」
「何がだ!」
ライネルが額を押さえる。
◇
「まず税負担」
アルは紙へ二本の線を引く。
「地上と地下で基本税率が違うのは、火種ですよね」
「はい」
セリアが頷く。
「基本部分は統一した方が比較しやすいです」
「なら統一」
ベックが言う。
「地下は場所代が安いだろ」
「そこは」
アルが答える。
「税とは別にします」
「別?」
「地下は共用設備を使いますよね」
空調。
照明。
排水。
通路。
警備。
「その維持費を」
板へ。
《共同設備維持負担》
「別に取る」
ルクが頷いた。
「税と設備負担を混ぜない」
「その方が」
「何に金を使っているのか見えます」
「ですよね」
アルは続ける。
「あと」
「店を休んだ日まで」
「営業日と同じ固定負担を取るのはやめません?」
ベックが目を瞬く。
「どういう意味だ?」
「今まで」
セリアが説明する。
「営業場所の固定負担は、店を閉めても発生しています」
「だから休むと損」
アルが言った。
「なら」
「公認休業日は、その日の固定営業負担を軽くする」
ベックが顔を上げる。
「休んでも」
「はい」
「店賃みたいな負担が全部乗らない?」
「全部免除は難しいです」
ルクが入る。
「維持費は営業の有無に関係なく発生します」
「じゃあ半分?」
アル。
「割合は後で計算します」
ルク。
「でも」
アルは笑った。
「《休むと損するから休めない》を減らしたい」
ルクは少しだけ考え。
「それなら理解できます」
◇
「では」
ルクが言う。
「次の問題です」
「休業を認めるのであれば」
「非常時は?」
アルが首を傾げる。
「非常時?」
「火災」
「水害」
「迷宮事故」
「魔物の侵入」
「避難民の受け入れ」
「戦時」
「その日に」
ルクの目が鋭くなる。
「《今日は公認休業日なので働きません》で済ませますか」
「……困りますね」
「でしょう」
ルクは即答する。
「なので」
アルが少し考えた。
「《非常時総出日》」
ルクの眉が動く。
「名前はともかく」
「却下?」
「内容を先に」
「非常事態の時だけ」
「店も」
「ギルドも」
「地下市も」
「役割を持つ人は出る」
「その代わり」
アルは言う。
「《何でも非常時にする》は禁止」
ルクの目が変わった。
「そこです」
セリアもすぐ手帳を開く。
「発動条件を限定しましょう」
書く。
《非常時総出日・発動条件》
一、大規模火災。
二、洪水・地震等の災害。
三、迷宮内重大事故。
四、魔物または敵対勢力の大規模侵入。
五、大規模食中毒等の公衆衛生上の危機。
六、戦時避難命令発令時。
「誰が宣言します?」
セリア。
「ギルド長単独では危険です」
ルク。
フォルクが苦笑する。
「信用がないのう」
「人を信用しないから制度にします」
アルがさらりと言う。
フォルクは少し笑った。
「お前さん、本当に十五か」
「もうすぐ十六です」
「そこはもういい」
ルクが続ける。
「ギルド長」
「街側代表」
「商人側代表」
「三者のうち二者以上の承認」
「緊急時は?」
ライネルが聞く。
「火事の最中に会議してたら燃えるぞ」
アルが頷く。
「緊急時は一人で宣言していい」
「ただし」
セリアが続ける。
「事後に」
《発動理由》
《発動時刻》
《解除時刻》
《実施内容》
を白黒板へ公開。
ルクが頷いた。
「妥当です」
「非常事態を口実に」
視線が鋭くなる。
「休む権利を恒常的に奪えないようにする」
アルがにっこり笑う。
「そこ大事です」
◇
リュシエルが椅子の背へ腕をかけた。
「人間って大変ね」
「何が?」
アルが聞く。
「休むための規則を作って」
「その規則を守るために」
「非常時に働く規則まで作る」
「そういう生き物なんですよ」
「竜なら?」
「眠い日は寝る」
「敵が来たら?」
「殴る」
「簡単だ」
ライネルが呟く。
「だから制度作りには向かないんだよ」
「聞こえてるわよ」
◇
「次」
ルクが紙をめくる。
「衛生基準」
ハルドが身を乗り出す。
「ここは私の領域だ!」
「だから余計に危険です」
「なぜだ!」
「細かすぎるからです」
「何だと!」
「あなたの基準を、そのまま全店舗へ要求したら」
ルクは言う。
「半分が書類だけで潰れます」
ハルドが固まる。
「……そこまで?」
「十九種類の独自記号を使う人に言われたくないと思います」
「ぐっ」
「そこで」
ルクが新しい図を出す。
《共同洗浄設備》
「調理器具」
「運搬容器」
「一部の菌床器具」
「共通設備で洗浄」
「衛生基準はそこで一本化」
フォルクが頷く。
「一店ずつ設備を作るより安いか」
「はい」
アルが笑う。
「真面目な共同サボり場」
「その名称は却下です」
「即答」
「効率化です」
「みんなで楽をするための効率化」
「前半を取ってください」
セリアが淡々と記録した。
《共同洗浄設備》
《正式名称未定》
《兄さま案名称:真面目な共同サボり場》
《不採用》
「残すんだ」
「記録です」
◇
「ただし」
ルクが言った。
セリアが顔を上げる。
「共同設備を一ヶ所へ集約すると」
「はい」
「そこが壊れた場合」
ルクのペンが止まる。
「全店舗が止まります」
セリアも止まった。
「……確かに」
「つまり」
アルが言う。
「一ヶ所にまとめて楽になった代わりに」
「一ヶ所壊れると全員困る?」
「はい」
「じゃあ」
アルはあっさり言った。
「小さい予備を一個残しましょう」
「規模は?」
「通常の二割?」
「三割」
ライネルが言う。
「非常時は時間がかかる。余裕を見ろ」
「三割」
セリアが記録。
ルクはライネルを見る。
「現場側の意見として妥当です」
「どうも」
アルが三人を見る。
「僕、いなくても会議進みそうですね」
「逃げないでください」
三人の声が揃った。
◇
最後。
王都ブランド。
再び空気が重くなる。
ルクは王都からの書簡を前へ置いた。
「結論を申し上げます」
皆が見る。
「この条件では」
一拍。
「現地監査官として、承認を推奨できません」
ベックが眉を上げる。
「却下できるのか?」
「できません」
即答。
「私に、王都商会連合との最終契約を破棄する権限はありません」
「じゃあどうする」
「差し戻します」
「差し戻す?」
「はい」
ルクは新しい紙へ書く。
《監査上の重大懸念》
一、単一商流への依存。
二、地域側交渉権の喪失。
三、前線地域における物資調達リスク。
四、生産側利益率の不透明化。
五、王都商会連合による事実上の独占可能性。
「この意見を添え」
「対案を付けて」
「王都へ返します」
フォルクが聞く。
「その対案とは?」
ルクは紙を出した。
《リグラード輸出協同組合》
室内が静かになる。
「地上商人」
「キノコ生産組合」
「ギルド」
「三者で輸出窓口を作る」
「王都側から見れば」
「リグラードという一つの窓口と取引する」
「ですが」
指を置く。
「中の主導権はこちらに残す」
ハルドが言う。
「つまり」
「王都商会ではなく」
「我々自身が出口になる?」
「はい」
ベックの顔に笑みが浮かぶ。
「それなら」
「誰に売るか」
「いくらで売るか」
「こっちで交渉できる」
「できます」
「王都商会も?」
「買い手の一つです」
アルの目が光った。
「一つ?」
「はい」
「他の買い手も作れる?」
「当然です」
アルが嬉しそうに言う。
「それいい」
「何がです?」
「一人に頼ると」
「その人に嫌われたら終わります」
「五人に売れれば」
「一人に嫌われても四人残る」
ルクが頷く。
「理屈としては」
「非常に単純です」
「単純なのが好きです」
「知っています」
◇
セリアが協同組合案を整理した。
《販売先》
王都商会連合。
王都料理店。
宿泊業者。
地方商会。
貴族邸。
他都市市場。
「増やしすぎても管理が大変です」
セリアが言う。
「初期は三経路程度で試験運用ですね」
「賛成です」
ルク。
「一ヶ所依存を避けつつ」
「事務量も増やしすぎない」
アルは頷いた。
「サボれる範囲で」
「適正な事務量で」
ルクが即座に修正した。
「同じでしょう?」
「違います」
◇
「それで」
フォルクがアルを見る。
「お前さん」
「何かまだある顔じゃな」
「あります」
「やっぱりか」
アルは紙の最後を指した。
「輸出が成功した後の話」
「まだ始まってもいないぞ」
「始まる前に決めたいんです」
アルは言った。
「売れるようになる」
「注文が増える」
「増産する」
「もっと働く」
「もっと増産する」
「人が疲れる」
リュシエルが鼻を動かす。
「疲れた人の匂いは嫌い」
「でしょう?」
「だから」
アルは言った。
「《公認休業日》を最初から作りましょう」
ベックが笑う。
「また休む話か」
「大事ですよ」
「具体的には?」
ルクが聞く。
「組合員は」
アルが考える。
「年に一定日数」
「輸出業務を止めても」
「そのことを理由に不利益を受けない」
ルクのペンが動く。
「生産停止では?」
「キノコは待ってくれません」
ハルドが真顔で言う。
「では」
セリアが整理する。
「出荷調整日」
「販売休業日」
「担当交代日」
「そういう形ですね」
「うん」
アルは頷く。
「全員が同時に休む必要はない」
「でも」
「誰か一人がずっと働き続けないようにする」
ルクがしばらくアルを見た。
「……そこまで」
「はい?」
「成功した後の過労を」
「今考える必要がありますか」
「今決めないと」
アルは言う。
「成功した後は忙しくて決められません」
沈黙。
ハルドが腕を組む。
ベックも黙る。
フォルクが小さく笑う。
ルクは。
ゆっくり息を吐いた。
「怠惰を制度に入れるという表現は」
「はい」
「今でも嫌いです」
「はい」
「ですが」
ペンを走らせる。
《第十三条》
《組合員について、継続的な過重勤務を防ぐため、公認休業日および担当交代日を設ける》
一度止まり。
《公認休業を理由として、組合加入資格および取引順位上の不利益を与えてはならない》
「こうでしょう」
アルが目を輝かせる。
「すごくちゃんとしてる」
「規約ですので」
「僕が言ったのと同じなのに」
「違います」
◇
リュシエルが笑った。
「要するに」
「休みの日を守るために」
「みんな必死に規約書いてるのね」
ライネルが答える。
「言うな」
「変なの」
「人間だからな」
「でも」
リュシエルは地下の方を見る。
遠くから。
夕食時の匂いが流れてきている。
「悪くないわ」
「何が?」
アル。
「昔は」
リュシエルが言う。
「あの迷宮から」
「血と煙の匂いがした」
そして。
今。
「キノコ」
「パン」
「酒」
「人間の汗」
少し笑う。
「わたしは、今の方が好きよ」
ハルドが胸を張る。
「ついに菌類が平和の象徴へ!」
「そこまでは誰も言ってない」
ライネルが即座に止めた。
◇
その日の夕方。
地下市入口。
白黒板へ、新しい紙が貼られた。
《リグラード輸出協同組合・設立案》
一。
王都商会連合による独占出荷条件については、監査上の問題を付して再協議。
二。
リグラード側に輸出共同窓口を設置。
三。
複数販路による試験輸出を実施。
四。
共同洗浄設備を整備。
五。
小規模予備洗浄設備を確保。
六。
地上・地下の基本税体系を整理。
七。
公認休業制度を設置。
八。
非常時総出日の発動条件および事後公開制度を設ける。
その下。
白石。
黒石。
少しずつ投じられていく。
《黒石理由》
王都を怒らせないか心配。
設備費が高そう。
王都商会に嫌われないか。
非常時の条件が増えないか不安。
休業日に客が困りそう。
白石の方が多い。
だが。
黒石も消されない。
ベックが一つ読む。
「王都を怒らせないか」
鼻を鳴らす。
「まあ」
「怖いよな」
ハルドも頷く。
「設備費は怖い」
ライネルが見る。
「お前、急に常識的になるな」
「研究費の恐怖は、研究者を最も常識的にする」
「嫌な真理だな」
アルは板を見上げた。
「いいですね」
「何がいい」
ライネル。
「怖いことが」
アルが言う。
「ちゃんと見えてる」
「怖いものを見て喜ぶな」
「見えない怖さの方が」
一拍。
「もっと怖いですよ」
◇
ルクは。
白黒板を見ていた。
黒石。
反対。
不安。
損失。
恐怖。
全部。
残っている。
(痛みを)
魔王ノクトの声を思い出す。
《痛みを消したふりをするな》
だが。
アルは。
反対を消していない。
不安を隠していない。
王都との対立も。
設備費も。
休暇制度の危うさも。
全部。
見える場所へ出した。
(……父上)
ルクは心の中だけで呟いた。
(この人は)
(忘れさせているのではありません)
まだ。
結論ではない。
監査は続く。
だが。
少なくとも一つ。
父の見立てとは違う可能性が。
ルクの中に生まれ始めていた。
そして。
その頃。
王都ルミナリア。
金環商会本部。
最上階の執務室。
「会長」
若い商会員が、一枚の報告書を机へ置いた。
「西方のリグラードで、少し面白い動きがございます」
「面白い?」
書類から顔を上げたのは、三十代半ばほどの男だった。
金茶色の髪を後ろでひとつにまとめている。
服装は派手ではない。
だが。
机の上のペン。
革の書類鞄。
指に嵌めた指輪。
懐中時計。
仕事道具だけを見れば、どれも一級品だった。
王都を代表する大商会。
金環商会会長――ルード・ゴールドリング。
彼は報告書を手に取った。
《リグラード輸出協同組合・設立準備》
「……ほう」
地下栽培。
地上流通。
複数販路。
生産履歴の追跡。
共同設備。
売り手側による共同輸出。
そして。
《王都商会連合による独占条件について再協議》
ルードの目が、わずかに細くなる。
「これは誰が考えた?」
「リグラードのギルドと、王都から派遣された監査官が制度を整えておりますが……」
商会員が別紙へ目を落とす。
「そもそもの発端になった人物は、アルノルト・レーヴェルト」
「レーヴェルト?」
「はい。辺境領を治めるレーヴェルト家の嫡男です」
「グラウヴァルト殿の息子か」
「ご存じで?」
「名前くらいはな」
ルードは再び報告書を見る。
商会員が少し困った顔をした。
「ただ、本人は――」
「何だ」
「《努力しない勇者志望》などと呼ばれているそうです」
ルードの手が止まった。
「……努力しない?」
「はい」
「それなのに」
紙面を指先で軽く叩く。
「生産者と商人の役割を分け」
「販路を複数にし」
「共同設備で固定費を下げ」
「売れた後の過労まで防ごうとしている?」
「そのようです」
ルードは数秒、何も言わなかった。
やがて。
小さく笑う。
「なるほど」
「会長?」
「本人が働きたくないから」
もう一度、報告書へ視線を落とす。
「他人も無駄に働かなくて済む仕組みを作る」
口元の笑みが、ほんの少し深くなる。
「……これは面白いな」
「接触なさいますか?」
「いや」
ルードは首を横に振った。
「まだいい」
「よろしいので?」
「今はキノコだ」
報告書を机へ置く。
「良い制度かもしれない。だが、商会が会長自ら出向くほどの話ではない」
「はい」
「ただし」
ルードは西方の地図へ目を向けた。
王都。
リグラード。
レーヴェルト領。
そして。
その間を隔てる山地。
「この少年が」
指先が山の上で止まる。
「もし次に、もっと大きな物流の詰まりを見つけたら――」
柔和だった目が、商人の目になる。
「その時は私に報告しろ」
「承知しました」
ルードはもう一度だけ名前を見る。
《アルノルト・レーヴェルト》
「努力しない勇者志望、か」
小さく笑った。
「覚えておこう」
◇
リグラードでは。
アルは。
当然。
そんなことは知らない。
「じゃあ」
白黒板から離れる。
「今日は終わり?」
セリア。
「王都への回答書があります」
「……」
ルク。
「輸出協同組合の監査資料もあります」
「……」
ライネル。
「非常時総出日の人員表」
「……」
アルは空を見た。
地下なので。
石の天井しかなかった。
「僕の公認休業日は?」
ベックが吹き出した。
「お前が一番休めてねえじゃねえか!」
「制度設計者に休業制度が適用されないの、おかしくない!?」
「兄さま」
セリアが冷静に言う。
「制度が完成したら休んでください」
「完成する?」
セリア。
ルク。
ライネル。
三人が少し考えた。
「……」
「……」
「……」
アルの顔が引きつる。
「そこ黙らないで!」
地下市へ。
笑い声が響いた。
まだ。
王都との交渉は始まったばかり。
黒石もある。
問題もある。
設備費も足りない。
だが。
リグラードで生まれた小さな制度は。
すでに。
王都の商人の一人へ。
新しい名前を覚えさせていた。
――アルノルト・レーヴェルト。
後に。
山を貫く道を巡って。
その名前へ大金を賭けることになる男が。
初めて。
努力しない勇者志望へ興味を持った瞬間だった。




