努力しない勇者志望、竜に褒め言葉を投げる
「――勇者になります」
その一言で、アルノルト・レーヴェルトは実家を追い出された。
辺境領レーヴェルトの城。
王国軍の重鎮にして、いくつもの戦場を生き抜いた父グラウヴァルトは、執務机の向こうでしばらく黙っていた。
怒鳴るでもない。
笑うでもない。
ただ、目の前の息子をじっと見ていた。
息子、アルノルト。
十五歳。
柔らかい金髪には寝癖が残り、服装は上等なのにどこかくたびれている。
剣を握ればそこそこ。
魔法を使えばそこそこ。
勉学は妙にできる。
だが、努力は嫌い。
領内では陰でこう呼ばれていた。
――寝台の賢者。
――日なたぼっこの坊っちゃん。
――あれが跡継ぎなら、戦が来た時に城ごと寝る。
グラウヴァルトは低く問うた。
「もう一度言え」
「勇者になります」
「剣は」
「ほどほどです」
「魔法は」
「ほどほどです」
「体力は」
「昼寝すれば戻ります」
部屋の空気が止まった。
壁際に控えていた若き武官ライネル・ヴォルフは、思わず目を伏せた。
まずい。
非常にまずい。
この主君の息子は、悪人ではない。
むしろ人はいい。
頭も悪くない。
だが、言ってはいけない時に、言わなくていいことを、なぜか最短距離で言う。
案の定、グラウヴァルトのこめかみがぴくりと動いた。
「アルノルト。勇者とは何だ」
「人を助ける人です」
「違う。勇者とは、剣を取り、魔を討ち、民を守る者だ」
「それは戦う勇者です」
「勇者に戦わぬ者などおらん」
「でも、戦わなくて済むなら、その方がよくないですか?」
グラウヴァルトの目が細くなった。
アルは悪びれもせず続ける。
「強い人が一人で頑張る仕組みは、いつか壊れます。だったら、弱い人が弱いままでも回る仕組みを作った方がいいです」
「仕組み、だと」
「はい」
「剣の代わりに、仕組みで民を守ると言うのか」
「できれば」
「できれば、ではない」
父の声が一段低くなった。
「民を守るとは、血を流す覚悟を持つことだ」
「血を流す前に、流れない手順を考えるのも大事です」
「手順で魔物が止まるか」
「全部は止まりません」
「ならば無意味だ」
「全部止められなくても、半分減らせれば意味はあります」
ライネルは、内心でうなった。
言っていることは、おかしくない。
むしろ筋は通っている。
ただし、それを言っている本人が、朝の訓練を三回に一回は寝過ごす少年なのが問題だった。
グラウヴァルトは深く息を吐いた。
「お前は、自分の怠け癖を理屈で飾っているだけだ」
「怠けたいのは本当です」
「認めるのか」
「はい。でも、僕だけが怠けたいわけじゃありません」
アルは少しだけ真面目な顔になった。
「働きすぎている人を休ませたいんです。無理している人に、無理しなくてもいい場所を作りたいんです」
その言葉に、部屋の空気がほんのわずか揺れた。
グラウヴァルトは黙った。
ライネルも、何も言わなかった。
アルの言葉には、時々こういう瞬間がある。
寝ぼけたような理屈の奥から、妙に鋭いものが顔を出す。
だが、父はそれを認めなかった。
認めるには、アルはまだ若すぎた。
そして、あまりにも危うすぎた。
「出ていけ」
短い命令だった。
アルはきょとんとした。
「え」
「出ていけと言った」
「旅に出て試してこい、ということですか?」
「違う。反省しろと言っている」
「反省は移動中にします」
「今しろ」
「歩いている方が考えがまとまるので」
グラウヴァルトは額を押さえた。
「……ライネル」
「はっ」
ライネルは一歩前に出た。
「お前がついていけ」
「私が、でありますか」
「そうだ。名目は護衛。実態は監視だ」
ライネルの顔が一瞬だけ引きつった。
しかし、すぐに姿勢を正す。
「……承知しました」
「顔が承知しておらんぞ」
「いえ。心より拝命いたします」
「嘘が下手だな」
アルは嬉しそうにライネルを見た。
「ライネルも来てくれるんだ。よかった。旅って、誰かが見張ってくれると昼寝しやすいんだよね」
「見張るのは外敵であって、お前の睡眠時間ではない」
「でも助かるよ」
「助ける前提で寝るな」
グラウヴァルトは机の引き出しから封筒を取り出し、ライネルにだけ渡した。
「旅費と紹介状だ。アルには渡すな」
「承知しました」
「頃合いを見て戻せ。三日で根を上げるようなら、門前で一晩立たせろ」
「父上、それは寒いです」
「なら戻るな」
アルは少し笑った。
「わかりました。戻る時は、何かひとつ、ちゃんと仕組みを作ってからにします」
その言葉に、グラウヴァルトは答えなかった。
ただ、視線を窓の外へ向けた。
夏の終わりの風が、庭の木々を揺らしている。
その向こうへ、息子は行く。
剣ではなく、手順で人を守ると言い張る息子。
怠け者で、昼寝好きで、だが時々、人の痛いところを正確に見抜く息子。
グラウヴァルトは小さく呟いた。
「……愚か者め」
その声は、誰にも届かなかった。
◇
城を出て半日。
アルは草むらに寝転がっていた。
「早い」
ライネルは腕を組み、見下ろした。
「早すぎる。旅に出て半日で寝るな」
「旅は長いからね。最初に休むのが大事」
「最初から休むな」
「この本にも書いてあるよ」
アルは胸の上に置いた古書をぽんと叩いた。
革装丁は擦り切れ、角は丸くなっている。
表紙には、かすれた文字でこう書かれていた。
『努力しないで勇者になる方法』
ライネルは深く息を吸った。
「それを買ったのはどこだ」
「屋敷に来ていた行商人」
「値段は」
「金貨五枚」
「詐欺だ」
「でも古そうだった」
「古い詐欺だ」
アルは本を開き、得意げに読み上げた。
「第一章。勇者たる者、まずよく眠るべし」
「閉じろ」
「睡眠は判断力を高めるって」
「それ自体は間違っていない。だが、お前が言うと全てが怠惰の言い訳になる」
「怠惰じゃないよ。省力化だよ」
「言葉を磨いても、寝転がっている事実は変わらない」
ライネルはそう言いながらも、周囲を警戒していた。
草原。
遠くに森。
さらに向こうには、低い山並み。
空は高く、雲は薄い。
平和に見える。
だが、旅の初日ほど油断しやすい日はない。
ライネルが腰の剣に手を添えた、その時だった。
空が、陰った。
鳥が一斉に逃げる。
草が低く伏せる。
次の瞬間、黒い影が空を横切った。
「……竜」
ライネルの声が硬くなる。
山脈に棲む古き谷の守護竜。
近隣の村では、暴れ竜とも呼ばれている。
翼を広げれば家が三軒は隠れ、爪は馬車を紙のように裂く。
そんな存在が、こちらへ向かって降りてくる。
「アル、起きろ」
「むにゃ……勇者はまず寝る……」
「起きろと言っている!」
ライネルは剣を抜いた。
竜が低く唸る。
その音だけで、肺が震えた。
黒い鱗。
黄金の瞳。
風を裂く翼。
竜は地面すれすれで身をひるがえし、二人の前に降り立った。
土が跳ね、草が舞う。
ライネルは盾を構え、アルを庇う。
「下がれ」
「うわぁ」
アルはようやく上体を起こし、竜を見上げた。
そして、目を輝かせた。
「かっこいい」
ライネルの動きが止まった。
竜の動きも止まった。
「……何?」
低い声だった。
人の言葉だった。
竜の姿が、揺らいだ。
黒い鱗がほどけるように光へ変わり、巨大な影がゆっくりと人の形に収まっていく。
そこに立っていたのは、黒髪と黄金の瞳を持つ女だった。
しなやかな体。
褐色の肌。
人の姿をしているのに、人ではない。
その瞳だけが、明らかに竜だった。
「今、何と言った」
「かっこいい」
アルは同じ調子で答えた。
「翼の形がすごく綺麗だった。あと、着地が静かだった。大きいのに無駄がない。すごいね」
「……恐ろしくないのか」
「恐いよ」
アルはあっさり言った。
「でも、恐いものと綺麗なものは、両立するでしょ」
女の表情が、わずかに揺れた。
恐怖。
敵意。
討伐。
封印。
竜が人から受け取ってきたものは、だいたいそのあたりだ。
綺麗。
その言葉は、彼女の記憶のどこにも置き場所がなかった。
ライネルは剣を構えたまま、小声で言う。
「アル。相手は竜だ。言葉を選べ」
「選んだよ」
「もっと生存率の高い言葉を選べ」
女はアルをじっと見た。
「お前、名は」
「アルノルト。アルでいいよ」
「わたしはリュシエル。古き谷の守護竜」
「いい名前だね。風みたいで、光みたいだ」
リュシエルの頬が、目に見えて赤くなった。
「……なっ」
「どうしたの?」
「どうもしていない」
「照れてる?」
「照れていない」
「耳まで赤いよ」
「焼くぞ」
ライネルが間に入った。
「焼くな。こいつは確かに馬鹿だが、悪気はない」
「馬鹿って言った?」
「事実だ」
リュシエルはアルの前まで歩いてくる。
ライネルは剣を握り直すが、アルは片手で制した。
「大丈夫」
「何を根拠に」
「今、怒ってる顔じゃない」
「竜の表情を初対面で読むな」
リュシエルはアルの顔を覗き込んだ。
黄金の瞳が、すぐ近くにあった。
「お前は、わたしを討ちに来たのではないのか」
「うん。僕は勇者志望だけど、討伐はまだ早いかな。剣も魔法もほどほどだし」
「ほどほどの勇者?」
「努力しないで勇者になる予定」
リュシエルは沈黙した。
そして、少しだけ笑った。
「変な人間」
「よく言われる」
「わたしは、恐れられるのには慣れている。憎まれるのにも慣れている。だが……褒められるのは、慣れていない」
「じゃあ、慣れた方がいいよ」
「なぜ」
「褒められ慣れてない人は、たいてい無理をするから」
その一言に、リュシエルの目が細くなった。
空気が変わる。
ライネルは、今度こそ前へ出ようとした。
だが、リュシエルは怒らなかった。
むしろ、少しだけ寂しそうに笑った。
「……お前、本当に変だな」
「うん」
「自覚があるのか」
「あるよ。だから父上にも追い出された」
「追い出された?」
「勇者になるって言ったら」
リュシエルはしばらく考えるようにアルを見た。
そして、あまりにも当然のように言った。
「決めた」
「何を?」
「わたしは、お前についていく」
アルとライネルの声が重なった。
「え」
「待て」
ライネルの方が一歩早く我に返った。
「待て。竜が人間の旅についてくるなど、聞いたことがない」
「今聞いた」
「そういう意味ではない」
「退屈していた。谷を守るのも飽きた。恐れられるのも飽きた。お前たちは面白そうだ」
リュシエルはアルを指さす。
「それに、こいつはわたしを褒める」
「理由が軽すぎる!」
「重い理由で動く者ほど、面倒を起こす」
ライネルは言葉に詰まった。
妙に正論だった。
アルはにこにことリュシエルを見上げる。
「よろしく、リュシエル」
「うむ。毎日褒めろ」
「それはもちろん」
「もちろんじゃない。依存するぞ」
「もうしてる気がする」
「していない!」
リュシエルは顔を赤くしてそっぽを向いた。
ライネルは剣を納め、両手で顔を覆った。
「……初日に竜が増えた」
「仲間が増えたんだよ」
「国を滅ぼせる仲間を、初日に拾うな」
「拾ったんじゃないよ。ついてきてくれるんだよ」
「違いはない」
その時、アルの胸元の古書が、ひとりでにぱらりと開いた。
風もないのに、ページがめくれる。
余白に、黒い文字がじわりと滲んだ。
《よく褒めよ。強き者ほど、役目に疲れている》
ライネルだけが、それを見た。
背筋に、冷たいものが走る。
これは、ただの詐欺本ではない。
少なくとも、普通の本ではない。
ライネルはアルを見る。
本人は気づいていない。
リュシエルに向かって、さっそく次の褒め言葉を探している顔だ。
「リュシエル、その髪、夜空みたいだね」
「……ふん。当然だ」
「照れてる」
「焼くぞ」
「焼かないで」
ライネルは深く、深く息を吐いた。
旅はまだ始まったばかり。
勘当された勇者志望。
胃痛持ちの真面目戦士。
褒められ慣れていない竜。
この三人で、世界を救う。
そんな馬鹿げた未来を、誰が信じるだろうか。
だが、アルはもう草むらに座り込み、湯を沸かしはじめていた。
「とりあえず、お茶にしよう」
「竜を仲間にした直後に茶を淹れるな」
「落ち着くよ」
「落ち着いている場合か」
リュシエルは湯気を見つめ、不思議そうに首をかしげた。
「それは何だ」
「お茶」
「人間は、危機の後に草を煮るのか」
「だいたいそう」
「嘘を教えるな」
ライネルの声が草原に響く。
アルは笑い、リュシエルは湯飲みを受け取り、ぎこちなく一口飲んだ。
「……悪くない」
「でしょ」
「褒めてもいいぞ」
「今日のリュシエルは、竜の時も人の時も綺麗だった」
「……っ」
湯飲みを持つ指が、わずかに震えた。
黄金の瞳が、夕陽を映して揺れる。
ライネルはそれを見て、もう一度だけ胃を押さえた。
面倒な旅になる。
間違いなく。
けれど、なぜか悪い旅にはならない気がした。
アルは空を見上げ、あくびをひとつ。
「じゃあ、少し寝ようかな」
「まだ寝るのか!」
「勇者はまず眠るべし」
「その本を閉じろ!」
夕陽の下、三人の影が長く伸びる。
努力はしない。
剣も魔法も、ほどほど。
けれど、誰かの疲れに気づき、誰かの役目を少しだけ軽くする。
そんな勇者志望の旅が、今、始まった。




